30. 人の恋路より柿
翠は壁を塗り直していた。やろうかなとやろうかなと思いながら、ちょっと忘れていたのだ。よくあることだ。一人でやるには骨が折れると判断した翠はいっぺんにやるのでなく、特にボロボロのところだけやることにした。外壁を綺麗に洗って、破損しているところを補修する。そして、下塗り、中塗り、上塗りを丁寧に行う。素人のわりに上手くできたようで、その部分だけは綺麗な赤い色になっていた。他の箇所は徐々にでいこう。壁直す要員は一人のみ、長期スパンでやろうと計画を立てた。翠はひとまず今日のところは疲れたし、食欲の秋ということで厨房から柿をとってこようかなと頭を巡らしていた。
「あら、翠さん!」
すると、後ろから透明感溢れる可憐な声に呼びかけられた。
「優華様……」
落ち着いた橙色の裳に色とりどりの花の模様があしらわれている。秋っぽい格好だなと翠は思った。優華と顔を合わせるのは月見の時以来だが、特に変わった様子はない。隣にはそっと美登が控えている。やーいお前の服花緑青事件があったからか、ちょっと翠を警戒しているようだ。
「何をなさっているの?」
「壁の塗り直しです」
「そうなの!」
優華はにこにこしたまま話を続ける風である。どっか行かないかな、柿食べたいんだけどと翠はげんなりした。あっ、そうだ、べらべら捲し立てたら鬱陶しく思って避けてくれないかなと翠は思い付いた。
「ここの壁が特にボロボロだったので試しに塗り直しをしてみたんです最初に妥協を許さずに汚れを落としてどんなに細かいヒビや欠けも見逃さずに補修を行いましたそして赤い塗料が上手く壁となじむために下塗り用の塗料をスーッと丁寧に塗りましてそしてついに外壁用の赤い塗料を塗るわけですが琴音様の特にお好きな緋色にするためにいろいろ入れて工夫したんですどうやったかは企業秘密で(笑)そしてより長くより美しく壁が保てるように中塗りと上塗りといって二回に分けて塗りました少しでも気を抜くと色むらが出てしまうので大変で……」
この調子でべらべらべらべらうんぬんかんぬんと翠は一本調子で話しを続けた。美登は話が長いと眉をキュッと寄せた。優華はどうだろうかと様子を注視すると、わあと頬を紅潮させている。
「そんなところまでこだわっていらっしゃるなんて素晴らしいわ!」
優華はにこにこ満面の笑顔で翠を讃えた。だめだ、かなわんと翠は白旗を上げた。慣れない長台詞で疲れたし、天然キャラには太刀打ちできない。
「長々とお話しをし過ぎました。失礼をお許しください」
「いいのよ、楽しかったわ」
なぜ謝っているのかわからないようだが、翠を安心させるために優華はにっこり笑った。そこに嘘はなく、裏表もないような笑みである。
「私に何か御用でしょうか?」
翠は優華の要求に耳を貸そうと腹を括った。ここは琴音の宮の外れ付近である。優華の宮からは遠いはずだ。わざわざ来たからには翠に用があるのだろう。ただの散歩かもしれないがと翠は首をひねった。
「翠さん、陛下が何をお好きかご存知なくて?」
「さあ……、私にはわかりません」
あの夏の日以来、琴音の元に陛下のお渡りはない。その質問は寵妃の槙子か付き合いの長そうな晶に聞いたほうがいいだろう。なぜ、私に聞くのかと翠は疑問に感じた。
「紫苑様や元晴様から何か聞いていない?」
なるほど、寵臣達から仕入れた情報はないかということねと翠は合点がいった。その二人と話したことのある女官はそういないだろうから、翠の元に聞きに来ることも頷ける。
「ええ、恐れ多いので陛下の話はしたことがありません」
まあ、合点がいっても知らないものは知らないと翠はにこりと笑った。
「そう……」
優華は残念そうに目尻を下げた。美登は本当に?と翠を探るような目つきである。
「優華様の元に陛下がいらしたら、直接お尋ねになったらどうでしょう?」
噂によると、優華のところには陛下はちょくちょく訪れているらしい。
「陛下の居心地が良いように、さりげなくやりたいのよ」
幼子のようにむうと優華は頬を膨らませた。
「そうですか」
向上心の高い妃だと翠は感心した。
「翠さんはどうすれば陛下のお気に召すと思って?」
「私にはわかりません」
王様とはあまり顔を合わせたことはないし、知らんよと翠は思った。
「でも、琴音様の宮で出された冷たい果物を陛下はとても気に入ったようだったわ」
「はあ」
そういえば、王様が冷えた果物を食べて気に入った的なことを言っていたなと翠は思い出した。王様御用達ってわけであんなに流行っていたのかと翠は腑に落ちた。夏の終わりの方は冷えた果物が手に入りづらい状況になって地味に大変だったのだ。
「あれは翠さんのはからいでしょう?」
「厨房の方の勧めに従ったまでですよ」
冷えた果物は美味!ただし食べ過ぎには注意!というお勧めに素直に乗っかっただけである。本当だ。それにしても、優華はなぜ今になって聞くのだろうかと不思議に思った。もしや、何か焦りでもあるのだろうか。
「優華様は陛下のお力になりたいのですね」
「ええ、そうなの!わたくし、陛下に一目あった時から……、その……」
優華はぶわっと頬を染めた。恋する乙女のようだ。であるのならば、何か役に立つ風のことを言わねば帰るまい。無邪気に恋する乙女の強引さや周囲への気遣いのなさは目を見張るものがある。
「陛下がどのようなものをお好みか、私は存じ上げませんが、過ごしやすい環境をお作りになればよいと思いますよ」
「環境?」
優華は首をこてっと傾けた。
「ええ、暑ければ涼やかに、寒ければ暖かに。快適な環境を構築すれば居心地の良さにつながります」
陛下の好みがわからないならば、温度・湿度関係で居心地が良いことを目指す方が確実だろう。それに、好きな物を探られて、あまり良い気持ちをしない人もいるだろうしと翠は考えた。あとはもうお手上げである。特に閨とかについては聞かないでねと優華の様子を窺った。
「ありがとう、翠さん!わたくし、頑張ってみるわ」
優華は去って行った。どうやらご満足いただけたらしい。健闘を祈ると翠はテキトーに見送った。何にせよ、琴音とは違ってやる気満々のお妃様のようだ。だが、翠にはどうでもいいことである。そんなことより、柿をもらいに行こうと厨房に向かった。もらった柿はとても甘かった。




