9. 古の事も立ちかへり恋しう思ひ出でらるる
翠は近頃、琴音に言いつけられる仕事の種類が増えたような気がすると感じていた。こなさなければならない仕事が多くなって大変である。
「翠、髪とかして」
「はい」
これもその一つである。元々、利子がやっていた気がするが……、あの人何かやらかしたのかなと翠は穿った見方をした。だが、私にはカンケーない、言われたことをやろうと翠は手慣れたように髪をとかした。佐知子の髪をさんざんとかしたり、結んだりしていたため、髪の手入れには一応慣れているのだ。
「ちゃんとやるのよ」
「それはもう、綺麗な髪ですもんね~」
お世辞ではなく真実美しい髪だと翠は驚いていた。触り心地がなめらかかつトゥルトゥルだ。枝毛や傷んでパサパサになった部分が存在しない。
「……わたくし、赤が好きだけれど、この髪の色が一番好きなのよ」
「大切なんですね」
まさに自慢の髪ってことか、もしかして、髪が赤いから赤が好きなのかなと翠は感じた。ならば、尚更丁寧にやらないといけないと翠は手先に集中した。
「そういえば、これ、何の匂いですか?」
琴音の傍に近づくと、爽やかで甘く、何とも言えない良い匂いがするのだ。
「梅のような香りでしょう?」
「……いい匂いです」
翠には梅の匂いはわからない。意識して嗅いだことがないためだ。花の匂いには気にも留めず、生きてきたのだ。
「……あ、当たり前でしょう?」
琴音は頬をやや紅潮させた。結構気に入っている匂いを褒められて嬉しいのかなと翠は感じた。
「ええ……」
それにしても、この匂いはどこかで嗅いだことがあるような、懐かしいものがあると翠が思った。馴染みのあるような、身近にあったような、けれども全く違うような……、不思議な匂いである。
「もういいわ」
どうやら琴音の気が済んだらしい。やっと解放された、ならば壁掃除を再開しようかなと翠は思った。
「晶さんにあれ届けといて」
「はい……」
違う仕事が出現しただけかと翠は気落ちした。しかし、誰だアキラって、フセ、ナカオ、いや100%かと翠は疑問符が次々と頭の中に浮かんできた。
「利子さん、今いいですか」
「何かしら?」
ややトゲトゲしい感じが翠に伝わってきた。翠に非はないはずだが、それにもかかわらず嫌味な態度は不服であると少し苛立った。
「アキラさまってどなたですか?」
「あなた、ここに来て随分経つけれど、そんなことも知らないの?」
「すみません」
不服はなかった、大方その通りであると認識していたと翠はぐうの音も出なかった。
「では、紫苑様に教わりますねー」
「なっ!」
しかし、知らないものは知らないのだ!何とかして教えてもらわないといけない。こいつは紫苑親衛隊で紫苑様に近寄る虫は追い払いたいに違いない。ならば、紫苑様に聞いちゃおうかな~攻撃は効くはずだと翠は決めつけた。別に、翠は違う人に聞いてもいいのだが、この女から聞き出してやると半ば意地になっていた。
「そんなくだらないことで紫苑様の手を煩わさないで!たださえ、弓のお稽古でご迷惑かけているんでしょう?」
「ええ。ですから、利子さん。あなたが、アキラ様のこと教えてくださいよ」
「……葵家の妃よ!」
捨て台詞のように利子はいろいろ教えてくれた。ありがとう、利子さん、にっこり。翠は気が晴れたとご満悦である。
なんやかんやありながらも、翠は晶の宮に無事到着した。贈り物の中身はまたまた仏像である。翠は仏像に関して、興味なし、知識なしだが、優華のものよりムキムキになっていないか?と思った。
「琴音様からです」
「ありがとう。よろしくお伝えしてね」
晶は妖艶な魅力のある妃だった。水色の髪と藍色の裳がよく似合っている方で、目のやり場に困るほどのグラマラスボディの持ち主である。あんなに大きいと自分のものと本当に同じ部位なのだろうかと不思議な感じがする。八重とは比べ物にならない胸囲だなと翠は大変失礼なことを思った。四時間跪かされたことで帳消しにしてもらおうと翠は勝手に差し引きをした。そして、どんなに頭の中でどうでもいいことを考えても、白く輝いている谷間が視界に入って気まずいため、翠は少し視線をずらした。
すると、なにか黒いものが翠の目の端に映った。八本の足を蠢かせている。
「失礼」
あっぶなーい!と思った翠はスッと腰の刀を抜いて、黒いもの、拳大の蜘蛛を真っ二つにした。
「きゃっ!」
晶は細く、高い悲鳴をあげた。そりゃあげるだろ、驚かせて悪いねと翠は心の中で謝った。事前に毒のある蜘蛛がいますよーと伝えればよかったのだろう。しかし、それは、余計な混乱・騒ぎを引き起こすと翠は自己判断したのだ。だから、事後報告で許してほしいと翠は思った。
「ご無礼お許しください。毒のある蜘蛛がいたものですから……」
「……なんですって!」
「どうなさいましたか!」
晶の声に武官が駆けつけてきた。この宮の護衛だろう。翠は事の次第を伝えた。
「毒蜘蛛がいたので斬りました。まだ他にもいるかも知れません」
「そ、そうですか……、わかりました。晶様は安全なところへ」
護衛が護衛らしい仕事していると翠は感動した。雑草抜き、水やり、餌やり、建物の修理、見回り、掃除、髪とかす、弓の練習……、護衛という概念が翠の中でゲシュタルト崩壊していたのだ。
「手伝いますか?」
「ありがとうございます。ですが、お気持ちだけで結構です」
だろうなと翠は思った。部外者にしゃしゃり出られたくないだろうし、人手も足りているようにみえる。もしかして、琴音の宮は少数精鋭で回しているのかなと感じた。
「そうですか。……そういえば、あの蜘蛛、タランチュラはこの辺であまり見ない種ですよね」
「……え、ええ、たしかに」
翠は相手が知っているかもしれないが、一応言っておこうと思い、自分の知っている情報を投げつけた。こういうことは知っていて言わない方が面倒、損になるのだ。
「では、私はこれで」
「あなた、名は?」
晶が芯のある声で呼びかけてきた。さっきまであんなに蜘蛛に怯えていたのにもう持ち直したのか、すごいなぁと翠は驚いた。ちょっと見くびっていたと反省した。
「翠と申します」
「そう。翠、あなたには礼をしなければなりませんね」
「恐れ多いことです。私は大したことはしておりませんので」
琴音の断りを得ずに勝手に褒美を貰ったら面倒事になる気がすると考え、翠は風のようにその場を去った。
「あの子に借りができましたね」
晶はフッと爽やかに笑った。彼女には大変義理堅い一面がある。
「それにしても、誰が蜘蛛を入れたのかしら、見つけ出しなさい!」
険しい表情で晶は言い放った。彼女はやられたままでは気が済まない性格でもある。
穿った見方はどちらの意味でも通るはず。