序. そうだ!王宮に行こう!!!
翠はあー暇だなぁ、やることないなぁと虚無感に襲われていた。冷たい墓石に寄りかかり、生来の死んだ目で澱んだ空をぼんやりと見上げた。
これは彼女の悪い癖の一つである。今までやっていたことが途切れ、次にやることが考えられないほどのショックを受けると、そのまま独りでボーっと浸り続け、動かなくなってしまう。
翠に何があったのか。早い話、彼女にとって大事な人が亡くなってしまったのだ。ナンタラカンタラという病の結果らしい。大丈夫、大丈夫と言っていたら適切な治療が遅れ、血を吐いてどんどん痩せて苦しんだ果ての死だった。
大事な人、佐知子は翠にとって近所のお姉さん的な立ち位置というのだろう。妹のように可愛がってくれた。翠に文字の読み書きからなぜか琴・三味線の弾き方まで教えて、翠の旺盛な好奇心を満たしてくれた人だ。母や父と死に別れた翠にとっては一番近しい人だった。佐知子はいつだって口角を上げて薄く笑っていた。目を閉じればその顔が目に浮かぶ。翠と柔らかい声で呼んでくれた。耳をすませばその声がまだ耳に残っている。
翠は佐知子が死んでから、そのそばをなかなか離れられずにいる。亡骸のそばにずっと座り込み、ちっぽけな葬儀が終わった後でも、佐知子の墓そばにのっそり座っていた。翠にはそこに佐知子がいないことは十分承知していた。しかし、他にやることもなく、また墓から離れる理由がなかったのだ。
「雨が降りそうだよ。風邪ひくから早く戻んなさい」
面倒見の良いくじらが声をかけてくれた。きりきり飲み屋を切り盛りしているやり手で、そこで働いていた佐知子の医者の手配や墓やら何まで面倒を見てくれた人だ。一匹狼の気がある翠のこともよく気にかけている。
「あの子だってあんたがそんなに腑抜けてると心配で化けて出てきちまうよ」
それはない死んだらそれで仕舞いだと翠は乾いた目で墓石を見遣った。だが、いつまでもここにいるわけにはいかない。頭では理解していたが、じゃあ、何のために動けばいいのか、翠にはわからなかった。
ぼんやりと生気なく座っていた翠であったが、何かを思いついたようにすくっと立ち上がった。
「大丈夫かい?」
くじらは佐知子が死んでから置物か石像かのようだった翠がいきなり動き出したため、驚きと心配まじりの目を向けた。
戸惑っているくじらを無視して、翠は佐知子の家に向かった。オンボロな家の中には生活必需品の他に、分不相応に琴と三味線があるくらいの殺風景な部屋だ。佐知子は特に琴が好きだったなと翠はぼんやりと思い出した。そして、薄汚れた引き出しをごそごそと漁り始めた。
「あった」
翠の口から掠れた声が絞り出た。先ほどそうだと思い出したのはこの指輪の存在である。佐知子がとても大事にしていたもので、所々汚れてはいるが、翠にはよくわからない模様があしらわれており、何やら高そうな品だ。琴や三味線もそうだが、なぜこんなものを佐知子が持っていたのだろうか。疑問に思った翠は一度佐知子に軽~く聞いてみると、琴も三味線もそしてこの指輪もあの方にいただいたのと恍惚そうに話してくれた。あの方とは、髪から何まで誰よりも美しくて、何をしても許されるような方、そして佐知子にとって唯一の人らしい。
翠には唯一なんぞわからない。ピンとこない。佐知子があの方について話している時は見たことのないくらい幸福そうで、夢に浮かされた顔をしており、翠はそれに少々ギョッとしていた。そして、佐知子に唯一とはそんなにいいものかと聞いたこともあったが、まだあなたには難しいわねと頭をわしゃわしゃと撫で回された。
唯一とは何か、指輪の人に会えばわかるだろうかと翠は思った。たとえわからなかったとしても、佐知子の唯一の人には興味があった。うん、この興味とやらのために動くことはできそうだと翠は感じた。たしか、高貴な方で私には手の届かぬところに行ってしまったと話していたな、あの人は7、8年前くらいにはこの街にいたから……と翠は手の中で指輪を転がしながら考えをまとめた。
「くじらさん」
「……なんだい?」
面倒見の良いくじらはだいぶ様子のおかしかった翠を気にして、佐知子の家の前まで来ていた。
「高貴な方がたくさんいるとこってどこ?」
「そりゃあ……、王様がいるとこ、王宮だろうね」
くじらは何をする気だろうと翠の様子を伺いながら答えた。
「そっか。どうやったら行けるかな」
「はぁ?」
「ツテとかない?行きたいんだけど」
翠はニコッと笑いかけた。老若男女誰しも何かしてあげなければならないと思わせるような愛嬌、もとい圧を感じる笑顔をくじらに繰り出した。
「え?」
くじらはそれは無茶だとか、なぜ?といろいろ聞きたいことがあった。しかし、翠の有無を言わせない笑顔に押されてしまった。加えて、佐知子が死んでから、やっと元通りの翠が戻ってきたような気がして、くじらはやるしかないなと思った。
「……ああ、もう。わかったよ」
くじらは仕方ないとため息交じりに言った。
「ありがとう」
翠は条件は問わないからと言って、鼻歌を歌いながら佐知子の家を出て行った。
「お腹空いたなぁ」
時雨の中でも街並みはいつもと変わらないようで、お馴染みのラーメン屋さんの匂いがする。久しぶりに食べようかなぁと、翠はポツポツと冬の冷たい雨を頬に感じながら、ゆらりゆらりと歩いて行った。
とりあえず、佐知子の唯一を見つけることで暇をつぶそうと翠は決意した。