7.覚悟
校庭に面する三階の図書室。
陸上部はもちろん、校庭全体をも一望できる窓際に陣取って勉強道具を広げる。
自慢じゃないが、勉強をやる気満々な訳ではない。ついでなので予習復習っぽい事はしてみるものの、メインは部活が終わるタイミングを見計らう事だ。
しばらく宿題をして時間を潰す。
まだ明るい七月の18時。バラつきはあるものの、運動部が少しずつ解散し始めた。
陸上部も練習メニューを終えたようで、部室に戻っていく部員が見える。
僕は筆記用具を片付けて職員室へ向かった。
僕の狙いは、吉田さんが先生と話している場面を見つけて盗み聞きする事。
とはいえ、今日も先生や顧問と積もる話があるのかどうかはわからない。だから連日になったとしても張り込み続けるつもりだった。
職員室前の廊下、その突き当り。道なりに進めば中庭へと出られるが、ここは職員室側から死角となっている。中庭を背にする形になるが、この時間にはほとんど誰も通らないだろう。
生徒が職員室へ向かう場合でも普通は反対側の廊下から現れる形になる為、誰かとここではち合わせになる可能性は低い。
ここが僕の張り込みポイントという訳だ。
「吉田、辞めるらしいじゃないですか。」
「え!? そうなんですか!」
複数人の教師らの声が聞こえる。
おいおい、そんな音量でイチ生徒の事を話すんじゃないよ。誰かに聞かれたらどうするんだ。
「吉田さんは次の大会もエントリーする予定だったんですよね? 急じゃないですか」
「だったら吉田さん、ウチにくださいよ! 女バス、興味無いですかね?」
この様子だと顧問の堀田も居るのか?
男女二人の教員に、堀田が尋問されている図が想像できた。彼らはたぶん運動部顧問繋がりだな? 運動部どころか部活動に接点のない僕は彼らの名前すら覚えてないけど。
ひとまずこのおしゃべり教師たちに任せておけば何らかの情報が出てきそうだ。
(やっぱり吉田さんは教師からも人気なんだな。)
吉田さんの能力が評価されているのを感じて、なんだか自分の事のように誇らしい。
何をやらせたって上手くできてしまう吉田さんは、どこであっても引く手あまたなのだ。
「吉田はウチを辞めたら、部活には入りませんよ」
やっと堀田の声が聞こえてきた。なるほど、吉田さんは別の部に入りたいというわけではないんだな。となると怪我や病気の可能性もあるのか? そんな風には見えなかったけど、心配になってきたな。
とにかく、このコワモテ陸上部顧問が何かしらの事情を知っていると見ていいだろう。さぁ、話せ!
「もう受験に専念ですか」
「吉田さんの実力だともったいない気もしますねぇ」
確かに少し早いかもしれないが、僕らはもう高二の夏を迎えるのだから、受験勉強を始めるという線もあるか。吉田さんなら良い大学に行けるだろうし。
「いや、違いますよ。吉田は、転校するんです」
「「「え!?」」」
しまった、教師達と同時に声が出てしまった。
「ずいぶん突然な話じゃないですか」
「ご家庭の事情ですか?」
教師らはこの話題に夢中で、職員室の外すぐの廊下で聞き耳を立てる僕の存在はバレなかったようだ。
「そうですね、そのあたりはこの後話してくれるそうですから」
「そうでしたか」
「仕方ないとはいえ、残念ですね」
その後も彼らは何か話していたが、吉田さんの話題からは離れていったようだった。
(吉田さんが、転校する……。)
唐突に突き付けられた事実に、思考が追いつかない。
家庭の事情って言ったって、いくらなんでも急じゃないか。何があったんだ?
驚きと焦りでパニック状態の頭の中で、あらゆるシーンの吉田琴音という人物の姿が浮かんでは消える。
しかしそこには、まともに僕と会話するシーンはない。記憶にある会話はどれも小学生の頃のものだ。
僕と吉田さんの、あまりに希薄な関係値に寒気がする。
……このまま離れ離れになっていいのだろうか。
この世界で、確かに僕はフラれてしまったかもしれない。けれどそれはたった一回、唐突に告白した場合の話ではないか。
世の中には、押しに弱い女性も多いと聞く。
実際、最初の告白では押しに押して、結果OKを貰えたじゃないか。
そうだ。まだチャンスはある。
諦めるのは、もう一度告白してからでも遅くない。
吉田さんはまだ下校していないだろう。
僕は覚悟を決め、吉田さんを待ち伏せすべく校門へ向かった。
◇
少し遅い夕暮れ。
本格的な夏を前にして、既に少し蒸し暑さを感じる。しかし、背中を伝う汗は暑さのせいだけではない。
先程まで居た図書室のある校舎が、グラウンドに長い影を伸ばしている。
ほどなくして、吉田さんが現れた。
隣にはひとみさんの姿もある。一人じゃなかったのは想定外だったが、今更なりふり構っていられない。
「吉田さん!」
ひとみさんとお喋りしていた彼女は僕に気付くと一瞬驚いた表情をしたが、すぐにニコッと微笑んでくれた。大丈夫、僕は嫌われてはいない。
「詩音くん、まだ帰ってなかったの?」
「図書室で宿題やってて」
嘘はついてない。
「そうなんだ、偉いね。」
なんの疑いもなく褒めてくれる吉田さん。
「転校するって本当?」
「! え、っと……。」
僕の唐突な問いかけに、吉田さんは答えに詰まった。
当たり障りのない会話を続けたり、遠回しに話題を振るなんて芸当は僕にはできない。
「どうして君がそれを知ってるの?」
次に発言したのはひとみさんだった。その顔には、いつか見た怒りの色がわずかに滲み出ている。
「それは、先生に聞いたんだ」
「嘘。先生方には、まだ発表しないように琴音から言ってるハズよ。トーマだって知らない事だわ」
「……」
「桐島くん、さっき職員室の近くにいたわよね? そこで盗み聞きしたんでしょ」
「いや、その……」
見られていたのか。
しくじった、ひとみさんが居ないタイミングを狙うべきだった。
「桐島くんはそれを知ってどうしたいの?」
「僕は、ただ」
「ただ、なに?」
ひとみさんが怒っている。
いつもトーマにしてみせているような、冗談混じりのものではない。感情を抑えながらも隠しきれない、そんな怒りが見える。
「いいよひとみ。もう知っちゃったんだから」
百パーセント僕が悪いのに、彼女はひとみさんをなだめてくれた。
僕が吉田さんの事を嗅ぎ回っていた理由なんて、ひとつしかない。
「僕は、吉田さんが好きなんです!」
二人は僕の方を見て固まった。
「だから転校するって聞いて、いても立ってもいられなくって」
「り、理由になってないでしょ!」
動揺しながらも硬直を解いたひとみさんは、僕への追及を止めない。訳知り顔で批判的な態度を取ってくるひとみさんに苛立ちを覚える。
「ひとみさんには関係ないだろ……」
「あるわよ! 琴音は大事な友達なんだから!」
「うるさいな! 僕は吉田さんと話がしたいんだ!」
さも自分の方が正しいと言わんばかりの物言いに、いい加減我慢できなくなった。吉田さんが転校してしまうというのが事実なら、一刻も早くなんとかしなければならないのに。
「やめて二人とも!」
吉田さんが僕らの間に割って入った。
「怖いよ、詩音くん。……それに私、この間断ったよね」
改めてハッキリ「断った」と言われると、キツい。
けれどもう、このままにはしておけない。言いたくなかったけど、言うしかない。
「違うんだ。僕たち本当は、付き合ってたんだよ」
「え……?」
二人は、僕の言っている意味が分からないとでも言いたげな顔をして、小さく距離を取った。僕がどんな気持ちでこんな事を言っているのか理解できないだろう。
追い詰められてでまかせを言ってるんじゃない。これから彼女らに語るのは事実で、真実だ。
ここまで来たら後には退けない。
僕は今日二回目の覚悟を決めた。