4.始まりの朝②
吉田さんが僕の手を握ってくれた時の柔らかな感触。
吉田さんが言ってくれた「よろしく」の言葉。
この二つが脳内でリフレインし、間に発せられていた言葉がすっぽりと記憶から抜け落ちていた。
(じゃあちょっとの間、よろしくね)
記憶違いだったらどんなに良いだろう。
というか、なぜこんな事を疑問にも思わずに今まで能天気でいられたのか。自分のアホさ加減に嫌気がさす。
「顔色が悪いぞ」
その声音は僕を心配しているふうでもなく、ただ事実を指摘しているだけの言い方だ。
そんなおっさんの言葉に答える余裕すらない。
今さら気付いてしまった事実に頭が追いつかず、僕は考えをまとめられないでいた。
「そんなお前に朗報だ。お前をその時に戻してやる。だから告白をやり直してこい」
「は?」
おっさんが変なことを言い出したぞ。
いや、おっさんが言っていることはずっと変か。
「お前は人の話を最後まで聞かない傾向がある。というか単にコミュケーション能力が低いだけか」
「な……!」
「特定の友人とだけつるんで会話している気になっているかもしれんが、お前は他人の言葉を借りてテンプレートの投げ合いをしているに過ぎない。だからいざ告白するとなっても段階を踏まず、自分の勝手な段取りで気持ちをぶつける事になる。相手の気持ちも考慮せずにな」
言い過ぎだろ! と反論したかったが、返すべき具体的な言葉が浮かばない。
「……どうしてそんなに僕の事、詳しいんですか」
気付けば、やり場のないイラ立ちに任せて根本的な疑問が口をついて出ていた。
「お察しの通りだよ」
「?」
帽子を被り直して、薄くなり始めた白髪混じりの頭髪をなでつけながら、おっさんは言った。
もちろん僕は何も察してはいない。
これまでのやり取りで、何かわかりやすい手がかりがあったのだろうか。
ベタなところではこのおっさんが未来の自分、とか?うーん、こんなおっさんにはなりたくない。
あとは僕の子孫の誰か、とか。吉田さんへの対応によって、未来の僕や子供たちの運命が大きく変わる大事な局面だったり? それはそうかもしれない。
血縁や友人でもない全く無関係のおっさんだとしたら、それはそれで気持ち悪いし。
考えたところで、僕とおっさんの繋がりは見えない。
「そんなことより、いいか。お前はもっと吉田琴音の話を聞け。そして、人の話を聞け」
僕の事をどれだけ人の話を聞かないヤツだと思ってるんだこのおっさんは。そんなに話を聞いてない自覚はないんだが。
「おい、聞いてるのか? 理解したなら返事をしろ」
「わ、わかりましたよ。話を聞けばいいんですね」
「そうだ。それだけでいい」
「というか僕、元の世界に帰りたいんですけど」
そう。ちょっとやらかしたのかもしれないが、一応僕の告白は成功しているのだ。疑問があれば直接吉田さんに聞けばいいだけ。わざわざ告白をやり直す必要はない。というかあんなのをもう一度なんて、できる気がしない。
「悪いがそれはできない。諦めろ」
「ど、どうして?」
「ついさっき人の話を聞け、と言ったのがわからなかったか? もう一度言うぞ。元の世界には帰れん。告白をやり直せ。これ以上お前に言うことは無い」
「そ、そんな」
「あの朝の事を思い浮かべろ。吉田琴音はどんな顔をしていた?」
僕の言葉は一切聞く気がないと言わんばかりに、話を被せてくるおっさん。
吉田さんの名前を出されると、否が応でもあの優しく元気な笑顔が思い浮かぶ。
口角が上がって目尻は下がり、人懐っこさと上品さを兼ね備えた完全無欠の輝かしい笑顔。
目の前にいるおっさんはそっちのけで、頭の中が吉田さんのイメージでいっぱいになる。
その時、ふいにおっさんがポケットの中から何かを取り出し、僕に向けた。
あまりに素早いその動作に反応する事ができず、もろにそれを見てしまった。
一瞬ピストルを向けられたのかと思ったが、そうではなかった。
それは平べったい真四角の長方形で、リモコンのようにも見える。
僕の視線は無意識にその物体に引き付けられていた。
次の瞬間、リモコン状のそれが先端からまばゆい光を放つ。
「うお!?」
見た事のない光量をモロに両眼に喰らい、完全に視界が奪われた。
絶対直接見たらダメな類いのヤツだ。目を開けているハズなのに、何も見えない。上下左右、前後不覚に陥った僕はよろめいた。
◇
両膝に手をつき、なんとか倒れずに済んだ。
身体的ダメージは感じないが、唐突な現象に焦ってしまい、ドッと疲労感が押し寄せる。
ちょうど馬跳びの馬のような姿勢で、呼吸を整える。
白飛びしていた世界が、少しずつ元の色に見えてきた。
しかし、視界に入ったのは教室の床ではなかった。
「大丈夫? 詩音くん」
ふいに聞こえた天使の声。
あれ? 違う、これは吉田さんの声!?
慌てて顔を上げた僕の視線の先に居たのは、吉田琴音その人だった。
「え!?」
「え?」
驚いて声を出してしまった僕の声で吉田さんを驚かせてしまい、二人の声が公園に響いた。
「そ、それでその、さっきのは本当なの?」
赤面した吉田さんが、おずおずと上目遣いで僕に問う。
さっきの、って?
そりゃ告白の事だろう。
きっとそうだ。おっさんが言っていた通り、あの朝に時間が巻き戻ったに違いない。
上下黒のジャージ姿の僕と、制服姿の吉田さん。時折スズメの鳴き声が聞こえる朝の公園。
理屈は全くわからないが、今が告白のシーンなのだと考えればこのシチュエーションの辻褄が合う。
だったらもう一度やるしかない!
「本当です! ずっと前から好きでした!」
大声を出しながら、僕は勢いよく頭を下げてお辞儀する。
まだ気持ちが追いついていないが、なんとか自分の置かれている状況は理解した。
とにかく告白を成功させるんだ!
「アハハ。そ、そうなんだ〜……」
照れたように、けれど困ったような顔で彼女は笑った。
「始めて僕を助けてくれたのは吉田さんだった!」
「……」
「デブでノロマで、皆からのけ者にされて。それでも皆と遊びたくて……」
あれ、待てよ。同じでいいんだっけ。
何年間も大切に育んだ彼女への溢れる想いは、いくらでも語れる気がする。
でもそれで、何かを見落としていたんじゃなかったか?
「知ってるよ。あの頃から詩音くん、一生懸命だったもんね」
急に言葉を止めた僕に対して、その先を引き取るように彼女が言った。
あの頃から吉田さんは僕のことを見てくれていたのか。
でも僕は、一生懸命なんて言葉で飾れる程きれいな努力をしていたわけではなかった。ただ皆と遊びたかっただけで、距離感もわきまえずに無理矢理しつこく輪に入ろうとしていただけだ。
挙げ句にいじめられてしまった僕を、彼女が助けてくれたのだ。
「でもどうして、その……、私のこと、そんな風に思ってくれたの?」
どうしてって、そんなの決まってる!
「いじめられていた僕のことを助けてくれた時は、ただの憧れというか、尊敬だったと思う。そんな吉田さんに認められたいと思って目で追う内に、好きになっていたんだ」
それから、と話し続けようとしてしまった僕は、ぐっと堪えた。
『吉田琴音の話を聞け。そして、人の話を聞け。』という、あのおっさんの言葉を思い出したからだ。
「そうだったんだね。……ありがとう。そんな風に思ってくれて」
僕は生唾を呑み込んだ。
この空気で、僕はなんと発言するのが正解なのかわからない。だけど悪くない雰囲気なのでは?
最初の告白にはなかった空気感で、手応えを感じる。言葉を交わして、想いを確かめ合えている感触がある。
前回は勢いで押しに押し、力技で勝利をもぎ取った感覚だった。だが今は、一歩一歩サクセスロードを歩んでいるような気がする。
あのおっさん、やるじゃないか!
どうなる事かと思っていたけど、人の話は聞いてみるもんだね!
「じゃあ」
「でも」
二人の声が重なる。
一瞬の間を置いて、彼女は言葉を続けた。
「ごめんなさい」
あ、あれ?
日本語はわかるのに、彼女が発した音声の意味が理解できずに、僕はフリーズしたのだった。