3.追想
「おい、お前なんでここにいるんだ!」
「え、誰?」
突如として教室内に現れたおっさん。
嘘だ。物音ひとつしなかったのに、いつの間に現れたんだ?
紺色の作業着のようなものを着ており、同じく紺色の帽子を目深にかぶっている。痩せても太ってもいない中肉中背、年齢は50代くらいか、もっと上?
額のシワ、白髪混じりの眉、疲れの見える目尻、深く刻まれたほうれい線。
どこかで見た気もする顔だが、平凡などこにでもいるただのおっさんではないかと言われればそうでしかない。
表情からは読み取れないものの、口調からして何かに怒っているのかもしれない。
「どうやってここへ来た?」
こっちの問いかけには答えず、横柄な態度のおっさん。いちいち声が大きく威圧的で不快だ。
「いや、その、普通にドアから」
我ながら間抜けな返答だとは思うが、そうとしか言えない。いつもの教室に入っただけなのだから。
それよりも、よくよく考えたら高校の教室にこんなおっさんが居る方がおかしいんじゃないか?
こんな顔の先生はいないし、用務員の人だとしてもこの時間に教室へ来て「どうしてここにいるのか」なんて言われる筋合いはない。
不審者にしては堂々たる態度で、教室の前方にある黒板前の教卓に陣取るおっさん。そこは教師が立つところであって、得体の知れない作業着のおっさんが居ていい場所ではないのだが。
「そんな事を聞いたんじゃないが、まあいい」
いや、そんな事を聞かれたんじゃないだろうとは思ったけど、それ以外思いつかなかったんだよ!と言い返したかったが、正直このおっさんがちょっと恐いので言えなかった。
「それで、何をしようとしていたんだ?」
「あ、その、家に帰ろうかと」
「そうじゃない、その前だ。誰かと一緒に帰ろうとしていたんじゃないか?」
「……」
なんでそんな事を知ってるんだ?このおっさん、僕のストーカーか!? いや、それはないな。
まさか吉田さんのストーカー?
「吉田琴音と帰るつもりだったんじゃないのか?」
「!」
やっぱりバレている!
このおっさんは何者なんだ? マジでヤバい奴っぽいぞ。
でもそれ以前に、この世界ごとヤバくなってしまっているような気もする。空がおかしくなって声も音もなくなって。
あれ、もしかしてこの世界におっさんと2人っきり?
「まぁそう警戒しなくてもいい。話せばすぐに帰してやる。元の世界とは違うところになるが、な」
「そんな! 元に戻らないんですか!?」
「お前が知覚できるレベルで言えば元通りと変わらんから安心しろ。厳密には少し違う世界というだけだ」
「……」
いや、『だけ』じゃないよ。大問題だ。
そんな不満は、得体の知れないこのおっさんが恐くて口にできなかった。そもそも元通りとかなんとか、このおっさんに出来る事なのだろうか。
「さて、手短に確認だ。お前は早朝ランニング中に、たまたま見かけた吉田琴音に告白した。そうだな?」
「……はい」
なんでそんなことまで知ってるんだ。絶対おかしい。
「それでお前は舞い上がり、付き合った気でいる、と」
「僕たちは付き合ってます!」
そこは曲げられない。
吉田さんにはOKをもらい、長かった片想いは成就した。告白した僕が言うんだから、間違いない事実だ。
「よ〜く思い出せ。その時、吉田琴音は何と言っていた? あるいは何を言おうとしていた?」
「なに、って」
僕はそこで気付いた。
正直、告白した時点でいっぱいいっぱいだった。頭が沸騰しそうで気が気じゃなかった。だから、あの時は勢いに任せて喋っていたのだ。
でも、小学校低学年の頃から募らせていた想いは伊達じゃない。抜き打ちテストされたとしても、あらゆる角度から吉田琴音の魅力を語る自信がある。
だからあの時はそんなあれこれを並べて想いをぶつけた。
その結果、彼女はこう言ったのだ。
「これからよろしく、って。吉田さんは確かにそう言ってくれましたよ!」
これが事実だ。
この言葉を聞いた瞬間、脳がフリーズした。少し遅れて、全身の血液が炭酸水に変化して全身を駆け巡ったかのような爽快感が駆け抜け、全てがポジティブな世界に切り替わるのを感じたのだ。
「まあいい。とにかく最初からよく思い出してみるんだな」
まるで僕が嘘をついているような物言いをするおっさん。
何を思い出す必要があるって言うんだ。どちらにせよ告白が成功したという結果は変わらない。
だからひとまず、おっさんの言う通りにしてみる。
僕はおっさんから視線を外し、公園で歓喜したあの朝の記憶を探り始めた。
◇
「僕は……僕は、ずっと君が好きだったんだ!」
「へ?」
吉田さんが、僕を見たまま固まっている。
唐突すぎたのはわかっている。けれど幾度となくこのシーンを思い浮かべていたんだ。今さら後には退けない!
「小学生の頃から、あなたの事が大好きでした! 僕と付き合ってください!」
僕は腰を深く曲げ、頭を下げた。
これが正しい告白の仕方かどうかはわからないが、誠意を伝える方法といえば古来よりお辞儀と決まっている。
「や、え? そん、え? ほ、ホントに?」
わかりやすくうろたえているリアクション。僕は顔を上げ、彼女をしっかりと視界に捉えた。
みるみる彼女の頬は紅く染まり、こっちを見たりあっちを見たりと目を泳がせている。
「本気も本気の大マジメです!」
「アハハ。そ、そうなんだ〜……」
「始めて僕を助けてくれたのは吉田さんだった!」
「……」
「デブでノロマで、皆からのけ者にされて。それでも皆と遊びたかった僕は、しつこいからって嫌われていた」
彼女は黙って、真面目な顔で僕の話を聞いてくれている。
「でもそんな風に扱われていた僕を、吉田さんが、この公園で助けてくれた。僕より身体の小さな女の子だったけど、その場にいた誰よりも強く見えた!」
「それは憶えてる。でも」
「嬉しかった。それと同時に情けなくて、強くならないと、って思ったんだ!」
「……うん」
「だから僕は」
口をついて出る言葉が止まらない。自分でも何を言っているのか分からなくなっていたけど、とにかく一度溢れ出した感情は抑えられなかった。
とにかく、好きだ。
それだけを伝える為に、いろんな言葉を尽くした。
彼女は引いていたかもしれない。
でもここまで来たら、もう言い切るしかなかった。
「だから、吉田さんの事が大好きなんです」
「……そうだったんだね。ありがとう」
彼女は、少し困ったような笑顔でそう言った。
勢い任せで喋っていたとはいえ、かなり恥ずかしい事をたくさん言ってしまった気がする。
あれ、この後ってどうしたらいいんだ?
告白すれば結果が出ると勝手に思い込んでいたけど、それきり彼女は黙ってしまった。
返事を催促するのも違う気がするけど、かといって何の進展もないのもどうなんだ? これ以上僕に手札は残されていない。
これでダメなら、終わり。
そう思うと、一気に焦燥感が込み上げてきた。
自分の人生の半分ほどを費やして育んできた想いを、勢いだけでぶちまけて本当によかったのか?
ランニングでかいていた汗が乾き始め、体温を奪っていく。急に肌寒さを覚えると同時に、頭が冷えていくのを感じる。
朝焼けを過ぎて登り続ける太陽が、僕たちと公園を温めていく。
近く遠く、スズメの鳴き声が響いている。
「ダメ、かな」
沈黙に耐えきれず、僕の口から言葉が漏れる。
自分が発したワードの情けなさに、言ってから気付いた。返事を催促しないんじゃなかったのか、僕。
「ダメじゃ、ないけど……」
「じゃ、いいの!?」
脈ナシ、じゃない!
いける、これはイけるぞ!!
「や、えぇと」
「僕が一生、吉田さんを幸せにします!」
「え!?」
「絶対絶対悲しい思いはさせません!」
「う、うん」
「だから、よろしくお願いします!」
ここで再び渾身のお辞儀!
僕はビシッと腰を曲げると共に右手を差し出した。
以前バラエティ番組で見た告白の場面をくだらないと思っていたのに、気付けば自分も彼らと同じような姿勢で想いをぶつけていた。
これは本能に刻まれた告白の作法なのかもしれない。
ほぼ直角に腰を曲げている僕の視線の先には、公園の土。彼女の表情は見えない。
この数分で早朝ランニングよりもエネルギーを使ったであろう僕の身体は、再び発熱している。なのに真っ直ぐに突き出した手は、力が入りすぎているせいか指先から体温を失っていた。
激しく上下する体温と、人生をかけた緊張の連続で脳内はてんやわんやだ。
尋常ではない量のアドレナリンやらドーパミンやらが放出されて時間の感覚がわからなくなってくる。
こんな瞬間が訪れるのは、今を除けば死ぬ時くらいのものだろう。
すると、ふいに。
差し出していた僕の手が、温かい何かに触れられた。
驚いて顔を上げると、僕の右手は彼女の両手に包まれている。
いつの間にか目の前に立っていた彼女はそっぽを向き、耳まで真っ赤にした横顔を僕の方に向けていた。
「じゃあちょっとの間、よろしくね」
◇
おっさんは黙って、僕の方をじっと見ている。
赤黒い空に覆われた世界、おっさんと2人きりの教室。
あの朝の、一連の流れをなんとか思い出す事ができた。
「理解したか? お前がやらかした失敗を」
言わんこっちゃない、とでも言いたげな呆れた表情。おっさんは顎を突き出し、わざとらしく煽るように僕を見下ろす。
何かとんでもないミスをしてしまったのだろうか?
生まれて初めての告白で、テンパっていたのは事実だ。
けれど世の中結果が全て。「好きだ」と伝えた相手にOKをもらえた。それが何より大切な事ではないか。
あれ、いや……。待てよ。
「ちょっとの間、ってどういう意味だ?」
僕は思わず、見つけてしまった疑問点を声に出して呟いていた。
ふううう、というおっさんのため息が聞こえてくる。
いやに静かな教室で、ふいに鼓動が早まった。
重大な何かを見落としているのかもしれない。
そう考え始めると、幸せだったはずの一日が急速に色を失っていくのだった。