家鳴り
「でさー! アイツが――」
真一が木造二階建てアパートの友人の部屋に上がってから、およそ二十分が経過した。
手に持っているビールから泡が消え去り、もう飲む気がないにもかかわらず
お守りのように大事に握っている。
その真一が違和感を抱いたのはいつ頃からか。
コンビニでビールとつまみを買い
夜道を二人、ご機嫌に歩いてこのアパートの前に来た時か。
ここが我が家だ! とやたら嬉しそうにしていた友人がその後ドアを開け
誰もいない真っ暗な部屋の奥に向かって「ただいま」と言った時か。
どちらも違う。妙だとは思ったがそういう習慣の奴なのかと思った程度。
一階の角部屋。上も隣もその隣も入居者はいない。
だからちょっとうるさくしても平気。そう言った直後「なあ!」と斜め後ろを見上げ
友人が見えない何かに同意を求めたあの瞬間こそが
自身が抱いていた違和感に気づいた時であった。
そう、真一は結論付けた。が、それが何になるというのか。
不信、不安、畏怖の芽はもはや花を咲かそうとしている。
しかし訊けない。お前、霊が見えるのか? などと。
『霊? ははは! 何言っているんだよ。ちゃんといるだろ?
お前の隣に。そんなに頬すり合わせてさ』
と返されかねない。
そう想像してしまうほど、ごく自然と見えない何かを交え、三人で会話をしている。
いや、真一はもはや相槌を打つのみ。友人の独壇場だ。
思えば、お喋り好きで寂しがり屋なやつだ。
もしかしたらイマジナリーフレンドを作り出したのかもしれない。
と、なれば霊ではない。一安心。
いや、それはそれでこいつの精神状態が心配だが……いや、待てよ。
何でこの可能性に気が付かなかったのだろう。
ただのドッキリだ。
そうだ、そうとも。陽気な性格の奴だ、仕掛けてきていたのだ。
ここまで触れずにいて悪い事をした。うん、きっとそうだ。
真一はそう考え、腑抜けたビールをグイッと飲み、言った。
「なあ、もういいよ。そのドッキリは。降参だ降参。怖かったよ」
「ドッキリ?」
真一はキョトンとした顔の友人に苛立ちと不安を抱いたが
こうなっては、もう言うしかなかった。
「その……霊が見えるってやつ」
「は? 霊?」
「いや、さっきから俺以外の誰かに話しかけているだろ……?」
「あー、家鳴りね!」
イエナリ……家鳴り? 真一は一瞬誰かの名字かと思った。
家鳴り。質問の受け答えの最中、冷たい沼に沈んでいくような感覚がしていた真一は
突然、車の助手席から見知らぬ土地へ放り出された気持ちになった。
まったく訳が分からない。
そんな顔をしていたのだろう。友人は説明し始めた。
と、言ってもほんの数十秒で済んだ。それも実演で。
「と、まあいつからか忘れたけど返事ができるようになったんだよ。な!」
――ミシッ
「ほら、まだ信じてないみたいだから三回鳴らしてよ」
――ミシッ、ミシッ、ミシッ
家鳴りは湿度の変化で起きるだけで怪奇現象ではない。
……などと言い出せる雰囲気ではなかった。
友人がほら、いつものアレやってよと言うと
天井、床、四方の壁がミシッ、ピシッと鳴り始めたのだ。
もし仮に、上と横の部屋に住人はいないというあの言葉が嘘であっても
到底、不可能なことだ。
ハクビシンか何かの野生動物が住みこんでいるのではとも考えたが
それも無理だ。それは友人の指示通りに、そしてリズミカルに行われているのだ。
「ほらぁ、サイコーに楽しい奴だろう?」
真一は何も返せなかった。何なら、脳が混乱し自分に話しかけたのかさえ
わからなかった。
真一はサッと立ち上がると「じゃ、じゃあな」と友人に別れを告げ
逃げるようにアパートから飛び出した。
呆気にとられ手をついていた床のその真下で音が鳴ったからだ。
その指から伝わる僅かな振動が怖気となり全身に走ったのだ。
舐めるような、もしくは刺すような音だった。
真一はそれきり二度と、友人のアパートに行くことはなかった。
が、疎遠になったわけではない。
気のいいやつではあったし、アパートに行きさえしなければ害はない。そう考えた。
こうして夜道を肩を組んで歩く程、二人は変わらず仲が良かった。
無論、時々あの件が頭を掠めはするが。
「でさー、聞いてるか?」
「ん、おお。なんだ?」
「聞いてないんかい! まあいいやあのさ。
今度引っ越しすることになったから手伝ってくれよぉ」
「おー。……え、引っ越し!? へー! いいじゃん!」
「お? へへへっ、だろ? 実はさぁー」
アパートが取り壊しになる。
真一は友人に告げられる前からそう思った。
そして、あの家鳴りがどうなったか訊こうとは思わなかった。
――ミシッ
――パキッ
――ピキッ
訊かずとも友人の体から鳴るその音が告げていた。
すでに良い引っ越し先を見つけた、と。