にゅうにゅう
仕事帰り、飲食品を買うためスーパーに立ち寄った。諸々を買い物かごに納めた末、牛乳を求めて飲料の並ぶ最奥、鈍い音で唸る冷蔵ケースの前に立つ。最下段にもっとも安価なものがまばらに立ち並んでいるが、それには構わず少し値が張る――北海道産で飲み口が濃厚、更には鼻に抜ける香りも良いと個人的に評している――物が平時配置されている2段目に目を向けた。そこには1000mlパックが1本だけ横倒しで、通行客の目につく最前列に置かれている。段の奥側には陳列を待つ、印刷された牛の顔の並びがチラリと映る。この事から最前列で1頭だけ寂しく寝転がるそれは、おそらく消費期限が短い商品と推察した。しかし、どの道すぐ飲み切ってしまうから。と私は構わず手を伸ばした。
頭の中では、帰宅後の算段や自宅冷蔵庫の内容物の確認の考えが巡っていた。その為目に入る情報を考慮するのが少しだけ疎かだったかも知れない。パックを手に掴み、腕を引いて自らの買い物かごに入れたのと同時くらいに
「にゅうにゅう」
そう舌足らずに呟く声が聞こえた。声がした方を見ると、近くに小さな男の子が立っている。おかっぱ頭で、背丈は私の腰くらいしかない。薄緑の長袖シャツに、肌色のショートパンツを履いている。靴は白色で、横側に何やらキャラクターがあしらってある。見る限りは就学前の、まだ親の影無く辺りを歩かせるのは危うい事が分かる容貌だ。
「にゅうにゅう」
男の子は再度呟いた。両手を私の買い物かご、いや、本当のお目当てであるカゴの中の牛乳に向けて精いっぱいに伸ばしている。私は、彼が取ろうとしていた牛乳パックを自分が先んじて取り上げてしまった――そんなつもりはなかったのだが、少なくとも男の子にはそう映っただろう――事をその時理解した。
「にゅうにゅう」
3度目のつぶやきは、少し涙交じりの声色だった。私は気まずくなって、身を固くした。牛乳を渡した方が良いだろうか? と悩む心持ちが生じるが、突然の事で体は動かず、ただ男の子相手に複雑な表情を突き返す。すると男の子は激しく泣き出してしまった。
「こら」
近くで声がして、顔を向けると親と思しき女性がいつの間にやら立っている。女性は男の子の隣へ歩み寄り腰を落とした。私の方からは横向きで表情は分からないが、肩上で綺麗にまとまった黒髪から、整った目鼻立ちをかろうじて見て取ることができた。光沢のあるグレーのステンカラーコートに、ブラウンのパンツ、黒のパンプスという出で立ちで、纏う服にはシワ一つ無い。恐らく仕事帰りなのだろうが、今この姿のまま家を出てきたと言われても違和感が無かった。
女性は右手に買い物かごを持ち、開いた左手で軽く男の子の頭を撫でた。次いで冷蔵ケースの奥側、暗所でひっそりと並ぶ牛乳パックの一つを手に取ると、宙に浮いた男の子の手に持たせた。男の子は今一度「にゅうにゅう」と声を上げた。ーー男の子の目線にはその並びが見えないので、自分の目に映っていないものが、母親の手から突然生み出されたようで驚いたーー少なくとも私にはそんなやり取りに思えた。
一応これで彼の目的は達成された訳だが、本人は納得いかないのか、こちらを指して「にゅうにゅう」とまたしても呟いた。今度は買い物かごの中では無く私自身を向いていた。まるで“あいつが僕の牛乳を奪い取ったのです”とでも告発している様に。母親は気にする様子もなく、私の方に軽く会釈を送って、「ほら」と男の子に声をかける。再度二人は目を合わせると「にゅうにゅう」「あっちも牛乳、こっちも牛乳」母親はこちらのカゴと男の子の手の内を順に指差す。
「にゅうにゅう」
「ぎゅ、う、にゅ、う」
「にゅ、う、にゅ、う」
奇妙なやり取りだった。さっきから男の子は”にゅうにゅう”としか言わない。まるで他の単語を知らないのか、それともそれほどまでに”にゅうにゅう”が欲しいのか。男の子はなにかかんしゃくを起こしたように「ううう」と甲高い唸り声を上げると、地団駄を踏んで下を向いた。横側から見ていると、まだ童子らしくまんまるで肉付きのある大きな顔が、下を向く事で蛇口端に溜まって落ちかけの水滴みたいに不均衡な形を取っていた。
私はそんな様を突っ立って眺めている事が急に恥ずかしくなって、そそくさとその場から離れた。陳列棚の角を曲がって再度様子を伺うと、2、3言のやり取りがあったであろう後、親に手を引かれて、男の子はその場を去っていった。男の子が歩き始めると、靴から児童靴特有の少し間抜けな足音が聞こえた。特徴的な音なのに、なぜ自分は彼が近づいてくるのに気付かなかったのか不思議で仕方がなかった。
二人がいなくなってから、買い物かごの中の牛乳をジッと見つめた。別に特段変わったところはない。消費期限が短く、にも関わらず値引きもされていない。ちょうど私のような、期限など見ずに手に取るうつけ者がいるだろうと見透かされているようだった。
パックに印刷された牛も「はて」とキツネにつままれた様な表情をしている。一人取り残されて、今の事についてじっくり考え込みたい気持ちに駆られたが、そもそもは買い出しのためにスーパーに寄ったに過ぎないと思い返して、レジの方に足早に歩き出した。
自宅に帰ると冷蔵庫の扉を開いて、納豆やら豆腐やら、諸々の購入品を仕舞っていく。最後に牛乳パックを手に取り、冷蔵庫の扉裏面にある飲み物の並びに納めようとした。しかし、先ほどのスーパーでの一幕が頭の中をぐるぐると回って、私はそのままの姿勢でしばらく身動きが取れなくなっていた。仕事の疲れが、今になって全身に重くのしかかってくる気がした。
「そういえば、綿棒を買っていなかった」
「友人から来ていた遊びの連絡に応じていなかった」
「燃えるゴミの袋を口を縛って玄関近くに置いていたのに、持っていかずそのままにしてしまった」
頭の中では、今日自分が取りこぼした事柄が次々去来していた。私はケチのついた気分を振り払おうと勢い良く立ち上がってみたが、長くしゃがみ込んで考えていたせいか、途端に立ちくらみに襲われた。なんだかついていない。別に特段悪い事は起こっていないのだが、何だかそんな気分にさせられた。
「にゅうにゅう」
ダイニングテーブルに手を置き、ふらつく体を支えながら訳もなくそう呟いた。すると不意に自分自身があの男の子になり替わるような、倒錯した気分に襲われた。私は好奇心から、目を固く閉じて、彼の視点に成り切ろうと頭の中で想像を張り巡らせた。スーパーでの一コマを再考しようという試みだ。
牛乳は、目線よりわずかに高い位置にあったように思う。つまり、彼にとっては横倒しの1本だけが在庫として映ったはずだ。となれば是が非でも欲しい。しかし、それが手に入ろうというすんでの所で、自分より大きく長い大人の腕が横から通ってきて、自らの望みの品を先に奪っていく。改めて彼の視点から考えてみると、私が突然現れた略奪者の様にすら思えてきた。私は私のした事なのに、いささかショックを受けている自分に気が付いた。
「にゅうにゅう」
再度呟いた。そして冷蔵庫の扉を開くと、やにわに牛乳パックを手に取り、忙しなく開いて、そのまま直に飲み始めた。口の中を、そしてのどを通って、胃の方へ牛乳の脂肪分が薄ら覆っていく感じがする。パック内の残量がドンドン減って、手の中で斜めに倒した縦長の紙パックの平衡感覚が徐々に変わっていく。あと半分くらいの所で、流石に苦しくなって飲むのを止めたくなる。しかし“にゅうにゅう”と心の中でそう唱える。頭の中が、牛乳でいっぱいになる想像をした。頭も体も、なんだかこの“にゅうにゅう”の真っ白さで染め上げてしまいたかった。男の子に対する申し訳なさや、仕事のままならなさや、体の疲れや、ありとあらゆる考えが、”にゅうにゅう”に浸かって見えなくなって欲しかった。そんな事は有り得ない等という考えすら振り払いたくて、”にゅうにゅう”とまた心の中で唱えた。
私は牛乳を全て飲み終えた。がらんどうになってテーブルの上に打ち捨てられた紙パックに目を向けると、飲む前とあとで何も変わりはないはずなのに、印刷が薄く褪せたように思えた。少しでも動くと胃の中の牛乳がチャプチャプと波音を立てる。飲んだというより、自分自身が容器の代替になっただけの様な気がした。
「にゅうにゅう」
「とってしまって」
「ごめんなさい」
一気飲みした気持ち悪さをこらえながら、腰に手をあて、仁王立ちの体勢で謝りの言葉を述べる。言い終わると空気がせりあがってきて、私はゲップをした。牛のゲップが地球温暖化の一因だとされているニュースを少し前に見たが、ならばこんな私はどんな罪に問われてしまうのだろう。なんておかしなことを考えながら夜が更けていった。