783. ましろとひなこの絆
783. ましろとひなこの絆
無事に撮影も終わり、あとは旅館に泊まって明日帰るだけとなった。長かったような、あっという間だったような撮影期間が終わり、体の緊張がじんわりと解けていくのを感じていた。
お風呂も済ませ、浴衣に着替えて、あとはこのまま布団に潜り込んで寝るだけ。部屋に用意された煎餅でも齧りながら、今日の出来事をぼんやり反芻していた時だった。桃姉さんが、部屋の片隅で荷物を片付けていた手を止め、ふいにオレに声をかけた。
「ねえ、颯太。もしよかったらちょっと飲まない?」
「え?」
桃姉さんと2人で、差し向かいでお酒を飲む?そんなこと考えたこともなかった。もちろん、家族として一緒に過ごす時間は多少はあったし、リビングでくつろいだりご飯を一緒に食べるけど、こうして改めて「2人で飲む」という機会は、文字通り1度もない。
なんだか、普段の姉弟としての距離感とは違う、妙に改まった少し気恥ずかしいような空気が流れた気がした。
「たまにはいいじゃない。確か、旅館に日本酒があったわね。それでいい?」
桃姉さんは、オレの戸惑いを気にする様子もなく、冷蔵庫から小瓶の日本酒を取り出した。オレは言われるがまま、部屋に用意されていた小さなグラスと、おつまみ用の煎餅の袋を広げる。なんとも場末感が漂う宴の準備が整った。
ぎこちなくグラスにお酒を注ぎ合い、静かに飲み始める。特に気の利いた話題があるわけでもなく、ぽつり、ぽつりと他愛のない会話が始まった。今日の撮影のこと、この旅館の古いけれど落ち着く雰囲気のこと、窓の外に見える京都の夜景のこと。普段の仕事の打ち合わせとはまるで違う、どこか緩やかな、そしてほんの少しだけ気まずいような時間が流れる。
一杯、二杯とグラスが進むにつれて、体の中にじんわりと温かいものが広がっていくのを感じた。まるで、張り詰めていた細い糸が一本ずつ緩んでいくみたいだ。さっきまでの気まずさは薄れ、桃姉さんも最初よりリラックスした様子で口元が少し緩んでいるのが分かった。
「ねぇ、覚えてる?小さい頃、家族で京都に来たこと」
「んー……なんとなくは覚えてるけど……」
正直、鮮明な記憶があるわけじゃない。オレが12歳、桃姉さんが20歳の時に両親は亡くなった。それまでの家族旅行なんて、指で数えるほどしか行けなかったと思う。
京都に来たのも、おそらくそれが最初で最後だった。その時の思い出は楽しいものだったはずなのに、今は両親が突然いなくなってしまったというあまりに大きな衝撃と、目の前で声も上げずに泣き崩れていた桃姉さんの姿だけが、記憶の断片として、鋭利な破片のように胸に突き刺さっている。
オレが中学に上がる、ほんの少し前だった。両親は事故で突然オレたちの日常から姿を消した。まだ大学生だった桃姉さんはそんなオレのために、自分の大学生活をあっさり諦めて、がむしゃらに働き始めた。あの頃のことを思い出すと今でも胸が締め付けられる。
「正直さ、両親が亡くなって、あの頃どうなるんだろうって思ってたんだ……」
ぽつりと、心の中で燻っていた言葉が漏れ出た。まだ幼かったオレには、両親を失ったという現実も、これからこの世界でどうやって生きていけばいいのかも全く分かっていなかった。ただ、いつも明るかった桃姉さんが、見たこともないくらい深刻な顔をして、親戚や大人たちの話を聞いているのを見て、漠然とした底の見えない不安だけが幼い胸の中にあった。
「私もよ。どうすればいいのか分からなくて、ただ、あんたを守らなきゃって、それだけだったの」
「初めてさ、桃姉さんがオレのために料理作ってくれた日のこと……覚えてる?」
「えぇ?なんかあったっけ?」
「卵焼き。形はぐちゃぐちゃで、ちょっと焦げ付いてたりもしたけど、すごく甘くて。あの頃、桃姉さんが料理なんか作ったところ一度も見たことなかったし、あれを食べた時、子どもながらに、あぁ桃姉さんはすごく無理をしてるんだって感じたんだ。でも、当時のオレには何か手伝えるわけでもなく、ただ、桃姉さんが一生懸命作ってくれた卵焼きを『美味しい美味しい』って言って全部食べるのが精一杯だった」
「そんなこと……よく覚えてるわね。本当に料理くらいやっておけば良かったわよねw」
「大学辞めてすぐに働き始めた時、桃姉さん、あんまり寝てなかっただろ。夜遅くにクタクタになって帰ってきて、電気もつけずに、リビングでそのまま寝ちゃってたりしたし」
あの頃の桃姉さんの姿が目に浮かぶようだ。無理をしているのが痛いほど分かったのに、幼いオレにはそっと布団をかけてあげるくらいしかできなかった。
「あんたが布団かけてくれたわね。懐かしいわ」
桃姉さんが、何も言わずにただオレを見つめている。その瞳にはあの頃の疲労と、それでも必死だった自分が映っているのだろうか。静かにグラスの日本酒を啜る音が部屋に響いた。
「オレに心配かけまいとして、いつも平気なふりしてたけど、本当はすごく大変だったんだと思う」
「……大変、じゃなかったと言えば嘘になるわね。でも、後悔なんてしてないわ。あんたがいたから頑張れたんだもの。毎日ちゃんと学校に行って、友達と笑って、ご飯を美味しそうに食べてるのを見るのが私にとって一番の支えだった」
桃姉さんの声が、じんわりと、でも確かにオレの胸に染み渡る。感謝の気持ちで胸がいっぱいになり、またしても言葉に詰まってしまった。この溢れる想いを、どう表現すれば良いのか分からない。
「桃姉さん……ありがとう」
「……私もよ。ありがとう颯太」
今まで感謝を口にしたことはなかった。でも心から感謝の言葉が自然と口から溢れ出た。その言葉を聞いて桃姉さんはふわりと微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、胸の奥に長年溜まっていた何かがスッと溶けていくのを感じた。
お酒の力もあってか、普段は決して触れることのない心の奥深い場所にある感情をお互いにさらけ出すことができた。両親を突然失った悲しみ、残された者同士が必死に手を取り合って生きてきた日々、そして、桃姉さんがオレのために払ってくれた想像もつかないほどの犠牲。それらが、この静かな旅館の部屋で、お酒と共にゆっくりと溶け合っていくようだった。
お酒が進み、過去の話で少し感傷的になっていた空気が少しだけ、ほんの少しだけ緩んだ。オレはふと、Fmすたーらいぶの、そして『姫宮ましろ』の始まりを思い出した。
「まさか『姫宮ましろ』をここまで続けるなんてな……あの時、桃姉さんが、もう本当に困り果てた顔してオレに頭下げてきた時はさすがに焦ったっていうか、なんていうか……」
「ごめんね。あの時は、他に頼める人がいなかったし」
「いや、それはいいんだけどさ。あの時桃姉さんがオレを頼ってくれたことが少し嬉しかったんだ。ずっと何か恩返しをしたいって思っていたから。オレで力になれるなら……って。でもまさか『姫宮ましろ』の代わりが、よりによって実の弟で、しかも男だなんて、笑い話にもならないよな、普通w」
「言われてみればそうね。普通はありえないわよねw」
「だろ?いや、もちろんやるからには全力でやろうとは思ったけどさ。でも、内心では『いやいや、これで上手くいくわけないって!性別違うし、素人だし!』って、正直思ってた」
当時の不安や、状況の異常さを思い出して、オレもつられて笑った。配信も初めてだし、ボイスチェンジャーを使って違う声を出す。紛れもないオレなのに、画面の中には全く知らない『お姫様』がいる。これからこの姿で、この声で、人前に出るのかと思うと、なんとも言えない現実感のない気分になったものだ。
「それがさ……まさか、ここまで名前が知られる存在になるなんて、本当に人生って面白いよな」
自嘲にも似た笑いが込み上げる。姉を助けたい、その一心で飛び込んだ、無謀とも思える、素人にはあまりに未知な世界。それが、まさか自分の居場所になるなんて。一番びっくりしてるのは、多分オレ自身だ。
「でもさ……結果的に桃姉さんを少しは楽させてあげられたかな?」
「ええ。恩返ししてもらったわよ。そしてこれからも頑張ってもらわないと」
「ああ。『姫宮ましろ』はオレにしか出来ないからな」
昔は、ただの姉と弟という関係だったが、今はチーフマネージャーとタレントという仕事上のパートナーでもある。その関係性があるからこそ、よりフラットに、そして踏み込んで話せる部分もあるのかもしれない。そして、今日みたいに仕事という大義名分があって、二人きりで旅行に来たり、こうしてお酒を飲んだりすることもできた。
「まさか、就職活動に失敗した結果、Vtuberになって、しかも実の姉さんとこんな形で一緒に仕事することになるなんて、人生の筋書きって滅茶苦茶だよな」
「ふふふ。本当にね」
二人で顔を見合わせて笑い合った。それは、あの頃の苦労や、不条理な運命に対する、少しだけ自嘲を含んだ、でもどこか清々しい諦めにも似た笑いだった。
そんな予測不能な出来事が積み重なって、今のオレたちがある。そして、その全ての根底には、オレと桃姉さんを繋ぐ強い絆がある。血の繋がりだけではない、共に苦難を乗り越え、支え合ってきた者同士にしか分からない確固たる信頼がある。
過去を共有し、今を共にし、そしてこれからもお互いを支え合って生きていく。その絆の深さを改めて感じていた。
「まぁ……何はともあれ、なんとかなったってことで」
「ええ。なんとかなったわね」
オレたちは、再びグラスを手に取り静かに飲み干した。人生という名の先の読めない、まるで台本のないドラマ。まさか自分が『姫宮ましろ』になるなんて、誰が想像しただろうか。
それは、オレたち姉弟にとって誰にも話すことの出来ない1番の「ぶっちゃけ話」なのかもしれない。
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