修学旅行前夜
『葵、もう準備は終わったの?』
『うん、確認も終わったし大丈夫だよ』
心配そうに聞いてくる母親に、葵は確認のために出していた荷物をしまいながら答える。あれから少しの時間が経ち、班員や行動予定も決まって修学旅行もとうとう明日になっていた。
『班員の子達とはもう仲良くできてるのかしら?』
『う〜ん、流奈ちゃんとケンはいつも通りでいいんだけど…他の3人とはちゃんと関わったことないんだよねぇ』
『あら、新しい子と仲良くなれるチャンスじゃない』
不安そうな様子を見せる葵に、母親は静かに笑ってそう返す。母親の言うことには間違いない。それでも葵は班が決まってから今までの話し合いで、流奈ちゃんとケンの他の3人とうまくコミュニケーションを取れていないと思っていて不安を拭えない様子だった。
…まぁ実際は葵やケンを前にして相手が過剰に緊張してしまっているせいなんだけど。
『…そうだよね、みんなが修学旅行を楽しめるように頑張らなきゃ!』
『ふふふ、葵?みんなが楽しめるのも大事だけど、葵自身も楽しんで行ってくるのよ?』
『うん!』
そうして葵と母親が会話していると、眠そうな目をこすりながら凛月が部屋から出てくる。葵はまとめ終わった荷物を明日の朝に持って行きやすい場所においてから凛月に声をかける。
『どうしたの凛月?起きちゃった?』
『…にーさん、あしたからいないの?』
笑顔を見せながら聞いた葵に、凛月は寂しそうな表情で答える。そんな凛月を葵は両手を広げて迎え入れる。おずおずと葵によってくる凛月を、葵は両手でしっかり抱き上げて微笑みかける。
『お兄ちゃん、明日から修学旅行なんだ。二日は帰ってこないから、今日は一緒に寝ようか?』
『…うん』
凛月は寂しそうにしつつも、やはり眠気を堪えられない様子でだんだん瞼が落ちてきている。そんな凛月に葵と母親は顔を見合わせて笑い、そのまま凛月を抱き上げたままベッドに向かう。
葵はベッドに優しく凛月を寝かせて自分も隣で横になる。優しい表情で凛月の頭を撫でながら、片手で明日起きる時間に目覚ましをかける。もちろん凛月を起こさないように自分だけに聞こえる設定で。
『おやすみ凛月、お土産いっぱい買ってくるからね』
『にーさん…おやすみ…』
葵は凛月が寝息を立て始めるまで頭を撫で続け、凛月が寝入ったことを確認してからしっかり凛月に布団をかけて自分も目を閉じた。
…さて、僕も一応やることやっとかないとな。
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気がつくと、知らない場所に立っていた。水面の上に本棚がはるか先まで置いてあって、目線を上に上げれば満点の星空が広がっている。
そんな現実味のない場所に、一度も見たことがないはずのこの場所に、僕はなぜか言いようのない懐かしさを感じていた。
「あれ?もしかして覚えてるの?」
鈴の音のような女性の声が後ろから聞こえて振り返ると、そこには天使がいた。王冠のような光の輪を頭上に浮かべて、背中には三対六枚の翼を広げた作り物のように美しい女性が僕の方を不思議そうな表情で見つめていた。
「えっと…ここは…?」
「あぁ、やっぱりちゃんと覚えてるわけじゃないんだね」
「…?」
アンティーク調の机と椅子のそばで立っていた天使さんは、僕の返答に納得したように頷いて椅子を僕の方に向けてから腰掛ける。天使さんは僕の方に手のひらを向けながら口を開く。
「まぁ葵も座ったら?」
「え、でも椅子が…」
天使さんの言葉に振り返ると、さっき景色を眺めていた時にはなかった天使さんが腰掛けている椅子と同じものがいつの間にか置かれていた。…夢、なのかな?
「夢だと思ってくれて構わないよ。実際葵の体は、今凛月と一緒に眠っているところだしね」
「え…?僕、今口に出しましたか?」
驚きながら言った僕の言葉に、天使さんは小さく笑いながら首を振る。
「ここは夢なんだ、思っていることが口に出さなくても伝わるなんて別に不思議じゃないでしょ?」
「そう、なんですかね?」
そうさ、と天使さんは短く答えてから僕の後ろに目を向けると、手招きするように手を振る。すると僕の後ろから一つの本棚が音もなく天使さんの隣に移動してくる。天使さんは本棚を見ないで一冊の本を手に取りながら僕に向かって話だす。
「そんなことはどうでもよくてね、葵をここに呼んだのはちょっと話をしておきたかったからなんだ」
「…僕に話、ですか?」
「うん。まぁここで話したことを葵が覚えていられるかはわからないけど、葵が損する話じゃないから安心してよ」
「はぁ…えっと、それで話っていうのは?」
天使さんはさっき手に取った本を開いてページをペラペラとめくりながら答える。
「うん、葵に思い出してもらいたいものがあるんだ」
「思い出してもらいたいもの…?」
そんなことを言われても…自分で言うのもなんだけど、記憶力には自信があるし…夢で見るほど大事なことで忘れていることなんてあっただろうか?
修学旅行のこと、双葉家のこと、対仮想のこと、師匠のこと、家族のこと、あの黒装束の犯罪者のこと…大事そうなことを思い返してみても、忘れていそうなことなんて思い当たらない。
「思い出してもらうって言っても、別に大事な予定をすっぽかしていたりするわけじゃないよ?」
「そうなんですか?それなら一体何を…」
「力の使い方だよ」
天使さんの言葉を聞いて、思わずキョトンとしてしまう。力の使い方なんて、物心ついて強くなりたいと思ってから一瞬たりとも忘れたことなんてないはずだけど。
「そんなことは知ってるよ。葵がどれだけ強くなりたいと思っているかなんてのはね」
「…じゃあ、僕は一体何を忘れているって言うんですか?」
「簡単だよ。物心ついてから忘れたものがないって言うなら、忘れているものは物心つく前に覚えていたものでしょ?」
「…」
そんなの覚えてるわけないじゃないか。僕の不満が伝わったのか、天使さんは愉快そうに笑って続ける。
「ハハハ!そんな顔をしないでよ。僕としてはあの頃は呼吸するようにできていたことを、今できなくなっている方が不思議で仕方ないんだけどね」
「…???」
「とにかく、葵にこれをあげる。これがあれば明日から起きることも、なんとか対処できるはずだよ」
天使さんはそう言いながら開いていた本を閉じて立ち上がり、僕の方に渡してくる。天使さんから受け取った本のタイトルを確認しようとすると、突然本が光の粒子になって僕の体に吸い込まれていってしまう。
「え!?なんですかこれ!」
「大丈夫、害のあるものじゃないから」
天使さんの言葉を聞いたあたりで、突然僕の意識にもやがかかったように曖昧になっていく。天使さんが何か言っているような気がするけど、曖昧な意識では正確に聞き取れない。
「……で、彼を…けて………」
彼…?彼って一体誰の…
そんな思考を最後に、僕の意識は水面に溶けるように闇の中に落ちていった。
久々の会話ですね。
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作者プロフィールにあるTwitterから次話投稿したタイミングでツイートしているので気が向いたらどうぞ…




