45,あなたのすべてが愛おしい
「つかまえた」
シェスティンの首周りに片腕をまわして、彼女の肩に顔を寄せた。
秒針より早く、時計塔の鐘よりも高らかに鳴り続ける心音が耳に痛い。
シェスティンも緊張しているようだ。触れる彼女からも、私と同じぐらい早い鼓動が聞こえてくる。
(緊張しているのは、同じ……)
臆病なのも一緒なのかもしれない。きっとそうだろう。人知れず、小料理屋を営む両親や庶民である自分をひた隠し、一人で背負っているのだ。それを知られてはいけない貴族の世界で、おいそれと信用したり、惚れたりなんてできるわけがない。負い目や弱みを握られまいとするなら、肩肘張るだけで精一杯であってもうなずける。
(私が踏み出さないと、始まらないんだ)
大きく息を吸った。髪と皮膚よりもたらされる、香水よりかぐわしい、甘ったるい匂いで、肺がいっぱいになる。
「殿下」
「ベンでいい」
「……」
「シエル。ベンでいいよ」
「ベン……」
寄せていた頭部にシエルの手が触れて、私の髪を撫でた。頭部に彼女の頬も触れる。甘ったるい、ぬくぬくとした感触を堪能する。
もぞもぞとシエルが動き出す。名残惜しいところだが、頭部をもたげた。彼女の首周りに添えた腕は離さない。背もたれに背面をあずけ、もう片方の腕をかけた。
はにかんだシエルが見つめてくる。照れくさくて、くすぐったくて、目をそらしたくなる衝動を我慢していると、彼女は私の頭部に添えていた腕を降ろした。
余裕なんてない。怖くて、恥ずかしくて、照れくさい。でも、それは、きっと、彼女も一緒。
「久しぶり」
「……お久しぶり、です」
「シエルをほって置いてごめんね」
「ほって置くって……。こういう場では、殿下はご挨拶でお忙しいでしょ。いつも、ひっきりなしに誰かに話しかけられています」
「そうだね。昔からそれが当たり前だったから、ついつい婚約者ができても、その調子を崩せなくて……」
「それだけ、人望がおありともいえません?」
「そう? そう言ってもらえるのは嬉しいな。嬉しいけど、けどそれが、シエルを一人にしておいていいことにはならないよね」
「私は一人でも構わないわ。やっぱり、ここは気疲れするもの。ちょっとお茶を飲んで、ゆっくりする時間が途中でほしくなるのよ」
「息が詰まる?」
「そりゃあね。だって、見ているでしょ。素の私」
「うん。元気だったよね。慌てているところも可愛かった」
「慌ててって……」
「朝、すっごい勢いで、降りてって、戻ってきたじゃないか」
私が喉を押し殺して笑うと、思い出したシエルの首筋が赤くなった。
「あっ、あれは。お客さんに布団を押し入れにあげておいてっていうのがですね。勝手がわからないだろうと、思いまして……」
「うん、あれは見慣れないよね。隣国の家に見られる様式なんだろ」
「そう、そうよ」
「なんでも、押し込んでしまいそうだよね」
「そうそう、なんでもとりあえず、押し込んでおけば……、ってなんで知っているんですか。もしかして、やっぱり開けました」
「ちらっと見ただけだよ」
「本当に、ちらっですか?」
「ちらっだよ。四角い取っ手をちょっとだけ横に引いて、戻しただけかな」
「本当ですか」
「本当、本当」
慌てるシエルが可愛くて、ちょっとじらしてしまった。
「ねえ、シエル」
肩に回していた腕を外し、指を曲げて、彼女の頬をさわさわと撫でる。
「私の婚約者は、あなたです」
「あっ、あのね。素の私は、でっ……」
私は指先を立てて、口元に寄せた。
何かを口走ろうとしたシエルがしぼむ。
「シエル。私の婚約者はあなたしかいない。素のあなたも含めて、公爵家が紡いできたことと、小料理屋の両親と、領地と王都の端っこの港町。それらすべてと繋がっているあなたがいい」
「私、本当はあんなんなのよ」
「あんなんて……」
小料理屋で働いたり、買い出しに行く姿が浮かぶ。小気味よく動き、元気で、はっきりしていて、意志があって、いいじゃないか。
「貴族令嬢っぽくないでしょ」
「そう? 私はずっとあなたが貴族のご令嬢だと騙されてきたよ」
「騙されたって……」
「小料理屋の娘のあなたも、ここで貴族令嬢として周囲を気遣うあなたも、すべてシエルだよ」
奥深く宿す毛色の違い。
一見、それは別々のような存在であって、彼女のなかではしっかりと繋がっている。
貴族令嬢として、私の見つめた時の瞳に宿す意志。
明けすけな小料理屋の娘でありながら、気遣いや優しさを示す姿。
すべて分断されているものではなく、彼女のなかでは融合する彼女自身。
「私は、あなたのすべてが愛おしいです」