44,二人きりになって
「シェスティン、疲れているようだよ。なかで休んだ方がいい」
そう言った殿下は、私の前にいる令嬢に顔を向け、微笑する。
「私の婚約者は体調が優れないようなのだ。お話しの途中で申し訳ないが、休ませてもらうよ」
侯爵家のご令嬢は深々と礼をし、一歩引いた。
「立てる。シェスティン」
「はい」
殿下が立ち上がろうとする私に手を差し出す。私は彼の手をとって、立ち上がった。
呆気にとられて見上げると、殿下はほんのりと笑みを浮かべた。ベンと名乗り、一緒にいた時と同じ笑顔だ。
すとんと安心感が落ちる。
「ありがとうございます」
言葉が、あまりにも自然にするりと零れた。
殿下が寄りそって歩む。声をかける人は誰もいない。私の手をとる殿下は私だけを見て、前へ進む。
進行方向に中庭や図書室で一緒にいた愛らしいご令嬢が立っていた。
彼女の横には、殿下の護衛役が立っている。
「カール知らせてくれてありがとう。メルタ嬢、シェスティンの機微に気づいてくれてありがとう。あなたの助言は本当に的を得て助かるよ」
「お役にたち何よりでございます」
(助言? この愛らしいご令嬢がいったいなんの助言を殿下に?)
私は関係性が分からず、両目を瞬く。
メルタ嬢と殿下に呼ばれたご令嬢が、片手でスカートをあげ、もう片方の手を腹に添えて、膝を折り深々と礼をする。愛らしくとも、所作は美しかった。
顔をあげた彼女は、凛とした意志の強いモスグリーンの瞳を輝かせる。口角をあげ、不敵ともいえる笑みを浮かべた。
「公爵令嬢シェスティン・エールソン様。私は、サンドベリ伯爵家のメルタと申します。以後、お見知りおきを」
「はっ、はい」
名乗る彼女の前を通り過ぎる。私は、殿下に連れられ、中庭から王城内へと導かれた。
殿下が場を離れても、何事もなく茶会は続く。
私は、殿下に手を引かれ、広々とした応接室に通された。
高い天井、壁一面には絵画が飾られている。壁の片面には大きな暖炉があり、その横にはグランドピアノが置かれている。細長い天井に届きそうな窓が等間隔で並び、窓ガラスの向こうに中庭の茶会が見えた。
「ここは?」
私はきょろきょろする。王城は広い、私の知らない部屋がたくさんある。
「ここは、音楽室だよ。プライベートな音楽会を開くときに使うことが多いね。他国の要人を迎賓する際にも使う場合があるね」
「そんな部屋に……」
「近場で休めそうな部屋、ここしか思いつかなかったんだ。奥に、待合用のソファー席があるから、行こう」
私の手を乗せた手を掲げた殿下が歩き出す。
無音の部屋なのに、どくどくと低い音が耳から離れない。
でも、もっと驚くのは、目の前の殿下から、もっと大きな空気をゆらさんばかりの振動が手を通じて伝わってくることだった。
(緊張している?)
私はソファーの長椅子に座った。見上げると、殿下がはにかんで、「隣に座ってもいい」と訊ねられる。私は頷いた。
殿下が座る。体が強張る。膝を寄せて、拳を握って乗せた。
ちょっとだけ肩が触れ合って、弾かれるように横を向くと、殿下と目が合った。
目が合って、跳ねるように殿下はちょっと体を引く。
「待って」
手が伸びて、殿下の袖を掴んだ。
黒髪に朱の瞳を凝視する。
「待って」
殿下が恥ずかしそうに、視線を逸らし、もう一度私に戻した。
そして、笑った。
「なんだい、シエル」
シエルと呼ばれ、瞬いてから、手を離してしまった。
反射的に、体を後方に引いてしまったところで、殿下の方が前のめりになる。
「シエルは、シェスティンだったんだよね」
分かっていて聞いている。
私もベンがベルンハルドだと分かっている。
ううん。最初から、お互いにお互いだって、分かっていたはずだ。
どんなに鈍感な人だって、髪を降ろして、眼鏡をはずせば、分かるはずだ。
殿下なんて、髪も瞳もあけっぴろげ、その顔立ちも隠していない。
「殿下だって、ベルンハルドという名を隠していましたよね」
「うん、隠していた……」
「ベンは、殿下ですよね」
迫る殿下の鎖骨にあたりに私は手を添えた。押し返すように、肘を曲げて、体を乗り出す。
私の力では、暴漢を退ける殿下を押しのける力はない。
私は覗き込むように殿下の顔を見上げた。
さっきより、空気の振動が深くなる。
「……花火、綺麗だったよね」
「はい、とても綺麗でした」
誰もいない部屋で、二人きり。
ちょっとだけ首をかしぐと、殿下の腕が首周りに添えられた。
肩に彼の額が落ちる。
「つかまえた」
耳元で囁かれては、私はもうどうしていいかわからない。