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39/50

39,私は私を押し殺す

 夕刻、私は明るいうちに公爵家に戻った。小料理屋から屋敷に帰る時は、裏門を使う。表門から、この格好で堂々と入る勇気はない。誰に見られると知れない危険もあるだろう。

 使用人風を装って、部屋に戻る。貴族令嬢が着る日常着に戻り、私はほっと息をつく。


 メイドが入ってきて、私の市民姿の衣装を受け取りに来た。洗濯物として、麻袋に入れて渡す。


 公爵家の使用人は長年勤めている人が多い。母がいた頃から働いている人も少なくない。こういう休みの時は、知らない者の休みは長く、事情を知る勤続年数の長い者が休みを早く切り上げることで、我が家の秘密は守られている。


 旅行鞄をひっくり返し、片づけるもの、しまいなおすものに分けて、またクローゼットの隅に旅行鞄を戻した。

 ベッドの上には、秘密のノートが一冊。


 私はベッドの脇に座って、ノートを手に取った。


(嫌だ、嫌だ、嫌だ)


 初めて、ノートを開きたくないと思った。


 今まで、嬉々として、これで私は解放される。私に戻れると、思っていたのに……。


 ノートを両手で掴み、額に押し当て、身を屈めた。

 

(ベンはベルンハルド殿下だ。

 初めての市民生活を垣間見て驚いて、小さくなって父さんの食事を食べて、一緒に買い物に行って、肉屋に驚いて、私を守ってくれて、花火を見に行った。誰の話も真摯に耳を傾け、相手を思って助言して、約束する)


「……」


 ノートをベッドに投げ捨てる。私はぱんと頬を両手で打ち鳴らした。


(駄目だ、駄目だ。駄目だ)


 私は頭を振った。


(私は、小説の登場人物じゃない。殿下が誰と仲良くしてたって、それによって、相手を貶める真似ができるのは、物語のなかだけだ。

 現実は、そうはいかない。

 嫉妬で恋敵に意地悪して、想い人の心が手に入るわけがない。あれは物語を面白く見せるための演出だ……)


 私は両手で顔を覆った。


(虫が良すぎるでしょ。

 どれだけ、殿下を避けてきたと思っているの。あの人と離れられると喜んでいたと思うの。

 公爵家の祖父母と、小料理屋の父母と、領地と生まれ育った市民の飲食街。私が背負っているものは、殿下とは相いれないわ。

 相いれないのよ!)


 口元が歪んで、押し殺した気持ちが喉を低く鳴らした。


(一般人なんてと見下したり、隣国の文化なんてと蔑んでくれたらよかったのに。そしたら、こんなにぐるぐると嫌な感情が湧いてくることもなかったのに!)


 ゆっくりと静かに息を繰り返す。

 背中から転がるように、ベッドに仰向けになった。


 殿下は違う世界の人だ。

 私が学んでいるのは、殿下の婚約者になるためじゃなかった。

 一般市民では手が出ない教育を受ける機会を得て、公爵家が長年やってきたことを引き継ぎ、生まれた地を守り、発展させていくことだ。


(なのに、なんで、私を婚約者に選んだの)


 選んだのは、殿下ではない。王家と公爵家だ。大人の事情だ。

 王弟殿下と母の婚約がうまくいかなかった仕切り直しなのか。もっと別の事情があるのか。私たちには分からない。


(ベルンハルドはどうするの。このまま、近々の茶会か夜会で何かをしかけてくるのかしら。

 あのベルンハルドが、正規の手続きを経ないで、何かをするとは思えない。水面下での動きを私は把握するには至らない……)


 顔に当てていた手を離した。

 ベッドに腕を叩きつける。柔らかいから大きな音はしない。ぼすんと乾いた音が響くだけ。 


(流されるしかない。流されるしかないんだ)


 片腕をあげて、目元をぬぐった。


(戻ろう。二日前の私に、戻ろう)


 私はばんと立ち上がった。ぎゅっとノートを握った。力が入りすぎて、歪んでしまう。


 ずかずか歩き、机を開けた。


 深呼吸をする。

 

 びりびりに破りたい衝動。握りつぶしたい衝動。そんな感情を押し殺した。


(二日前に戻るんだ。嬉々として、メモして、机の中にしまう私を!)


 ノートの皺を両手で圧して整える。引き出しの奥深くにしまい込み、ひっそりと引き出しを元に戻した。




 学園に通う日々に戻った私は殿下の動向を追うことをやめた。

 図書室への足も遠のき、ひっそりと消えかけた蝋燭のように過ごす。

 近々の茶会と、夜会、それを乗り切った後。これからのことはそれから考ることにした。

 


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