38,秘密のノート
疲れてこてんと寝てしまったシェスティンの寝顔を私はじっと見つめた。
眼鏡をとって、髪を流せば、別人のふりなんてできないのに、無防備な彼女は、シエルと名乗ったまま寝てしまった。
君はシェスティンだろ、と詰め寄ってもいいのかもしれない。けれど、今はそんなことをしたくなかった。
ぽろぽろと語らる言葉一つひとつが、彼女の本心ならば、今この話を聞けるのは、私ではなく私の役回りなのだ。
(これだけ素顔を晒しているのだ。愚かでない彼女なら、私がすでにベルンハルドであると気づいていると念頭に置く方が妥当だったな)
私だとて、彼女以上に、いつもの顔と髪と声で接している。
気づいていながら、あえて何も言わない。初めて会ったふりをするから、見せれる一面もあるのだろう。
寝息を立てている彼女の前髪をちょっともたげ上げた。閉じた目に、長いまつげが揺れる。化粧っ気もない。ただの可愛らしい女の子だ。
(私が知っているシェスティンがなぜ、あんなに印象深い目をしていたのか。やっとわかったよ)
私は横を向く。寝入る彼女の顔を見つめながら、ゆっくりと眠りについた。
「わああ、どうしよう。寝過ごしちゃった!」
シェスティンの大声が響き、まどろみから現実へと引っ張り上げられる。私は目を瞬かせながら身を起こした。
彼女が慌てながら、布団という寝具をたたんでいる。
「あっ、おはよう。でっ……、ベン」
「おはよう。どうした、そんなに急いで」
「ごめん、朝の手伝いでもっと早く起きる予定だったのに寝ちゃったの」
「昨日、私のために時間を割いてもらったせいかな……」
「違うわ。寝過ごしたのは私のせいよ」
「何か、私も手伝おうか」
「えっ、じゃあ。布団を同じようにたたんでおいて、あと、押し入れに突っ込んでくれたら、助かるけど、そこまではいいわ。たたんでくれたら、いいから。ちょっと下行ってくる」
そう言うと、シェスティンは寝ぐせもそのままに、「母さん、父さん、ごめんなさい」と、階下にばたばたと降りて行った。
彼女の慌てっぷりに呆気にとられ、一呼吸置けば、笑いがこみあげてきた。拳を口によせ、くっくっと声を殺す。
笑いが収まり、立ち上がる。
残された私は、隣に畳まれた布団を参考に、寝ていた布団を畳んでみることにした。シェスティンよりは歪だが、なんとかそれなりに畳むことができた。
(押し入れに入れてか……)
横に引く二枚重ねの扉というのは、初めて見る。四角い取っ手らしきものに手をかけて、横に引いた。
上下二段に分かれている。開いた扉の反対側が大きく空いていた。
(布団をしまうのは、こちら側か)
私は、一度扉を閉めようとしたところで、上段の奥に、この家には似つかわしくない旅行鞄を見つけてしまった。普段の私なら、気づきもしなかっただろう。小さな旅行鞄が大きく目に入ったのは、それが貴族がよく利用するブランド品だったからだ。
(地味な型だから、見る人が見ないと分からない品だな。シエルがシェスティンであることが、こんなところで確定するとはね)
かばんの口がぱっくりと空いている様子から、慌てて隠したことが伺えた。
ボロも出さないような、凛とした彼女のほころびを見つけるとくすぐったくなる。再び自然と笑みが漏れる。
その鞄の横にノートが落ちていた。しかも開いている。射した日により、開かれたノートに彼女の筆記で私の名が浮かび上がる。吸い寄せられるように手が伸びた。
ノートを引き寄せ、文面を読んでしまう。そこには、学園での私の動向が書かれていた。
中庭での私。図書室で会った私。
(なんということだ)
私は瞠目し、口元を抑えた。
(こんなにもシェスティンは私を見てくれていたのか。私が彼女を想っているように。言い出せないなかで、彼女もまた私を見ていてくれたのか)
震えた。
(彼女もまた、私への気持ちを上手く伝えきれずにいたのか。確かに、それは考えうる。それはそうだろう、両親は小料理屋を営む平民の娘なのだと、言い出せるわけがない。昨日から、別人のふりをして接しているのも、もしかすると私に嫌われないためか……)
脳天に雷が落ちる。
(そんなに気にしなくていいのに……。私が、シェスティンを嫌うことはないのだから……)
シェスティンのいじらしさに胸がじんわりと胸が暖かくなってきたところに、階下からどかどかと階段を駆け上がる音が響いた。
私は慌てて、ノートを鞄に押し込み、押し入れの扉を閉める。
さすがに、こんな秘密のノートを見たとあっては彼女に立つ瀬がない。これは見なかったことにしなくてはいけない案件だ。
ばんと部屋の扉が背後で開く。
「ベン! 押し入れ開けた!!」
私は何食わぬ顔で振り向く。髪を振り乱すシェスティンが目を丸くして、息を切らして、立っていた。
「まだ、開けてないよ」
「よかった、よかったわ。あのね、父さんと母さんが、今日は手伝いいいからって、言ってくれて。布団は私が片づけるから、こっちで先に着替えてちょうだい。それから、下からご飯もらってきたから、一緒に、食べよう」
大慌てのシェスティンに言われるまま、私は部屋を出て、着替えた。入れ違いで入室した彼女は布団を片づけ、着替えて出てきた。昨日と同じ一般市民の恰好に、髪を後ろでまとめている。テーブルに置きっぱなしにしていた眼鏡をかけた。
私たちは、他愛無い会話を交わしながら、食事をする。
食べ終わる頃に、叔父が迎えに来てくれ、私は帰路についた。