34,花火を見る
私はずるい。ベンをベルンハルドと知りながら誘っている。婚約が無かったことになればいいと思っていたのに、こんな風に、花火に行こうって誘っている。私はバカだ。本当にバカだ。
階段を降りながら、背後からついてくるベン。彼が王太子殿下だと気づいていることに、彼は気づいていなだろう。
階下に降りると、店を開く直前だった。
母さんが暖簾を表に出そうという作業中だった。手を止め、振り向き、入り口を開けるように横へずれた。
「あら、行くの。もうそんな時間なのね。そうよね、もう店を開ける時間ですものね」
「うん」
「ベンさん。シエルのことよろしくね」
「はっ、はい」
緊張しているみたいで、ベルンハルドは時々、声が上ずる。平民のあっけらかんとした話しぶりに驚いているのかもしれない。
それはそうよね。あんな綺麗で建前を重要視する貴族界隈と、ざっくばらんな平民では、驚くことばかりに違いない。
「いってきまあす」
私は、気づかないふりをする。
「行ってらっしゃい」
母はにこにこしている。父は、たぶんわざと、厨房で忙しくして、見ないようにしている。
私は母の前をつんと通り抜けた。数歩入り口から離れて、振り向く。ベルンハルドは、丁寧に母に会釈し、店の入り口をくぐった。
こわごわと平民の世界を眺める王太子殿下。私を見て、はにかんだ。
(おっきいくせに。妙に可愛いのは反則だ)
すでに外は暗くなっていた。晴れており、星も月も瞬いている。
「海はこっちだよ。メイン通りを下って行くの。花火はね、海に船を出して、その船上から打ち上げるんだよ」
「花火かあ。隣国の文化でも、本でしか読んだことがないものがこの国でも見られるなんて知らなかったよ」
「隣国から流れてきた人のなかに、花火師がいたのよ。始まりは定期的に技術を絶やさないためだったの。今も、そんなに規模が大きいわけじゃないから、有名ではないけど……」
「けど?」
「数年したら、ここの名物になると思うの。少しづつだけど、聞きつけた貴族も見に来ているのよ。徒歩の市民しか見物客がいなかったのに、最近馬車が港の脇にとまっていて、こっそり小窓から見ている人たちがいるって父が言ってたわ」
「そんな話、聞いたことなかったよ」
「平民のやることが気になるなんて、誇り高い貴族からしたら表立って言えないでしょ」
「確かに……」
「だから、今はまだ、忍んで見に来ているのよ」
もとは小さな港しかなかった地域。本流に作られた港から外れた、注目されない市民の漁港だった。隣国から近く、大国と小国の争いのとばっちりを受けた唯一地域。荒れ果て、争いから逃れてきた人々が居つき、さらに荒れた。
そこに公爵家が物資を横流しし、立て直されて今がある。
隣国から逃れていついた人と公爵家の血が混ざって私は生まれた。
私は、純粋なこの国の人でも、貴族でもない。
これが私だ。
ベルンハルド王太子殿下。
これが私なんだ。
あなたが見ているのは、飾られた私。そんな私は私であって、私ではない。学園にいる数年間は演じられても、人生を通して演じられるものじゃない。
ベルンハルドは別の女の子に気持ちが傾いている。
本当に良かった。
婚約解消ばんざい。
公式の場でしか接点がない私と違い、ベルンハルドは彼女といつも一緒にいた。私にはプライベートで訪ねてくるようなまねをしない人が、人目をはばからず、一人の令嬢と時間を共にする。
私のために用意された逃げ道に歓喜した。
なのに、今。
ベルンハルドはベンと偽名を使って隣にいる。
ベンは、市民の生活を嫌悪しない。興味深く眺めている。
嫌だ。本当に嫌だ。市民なんてと、毛嫌いして、嫌悪を示してくれないところが。
私は私がもっと嫌だ。
ここを嫌いにならないで欲しい、なんて嘘だ。
嫌いになって嫌悪してほしい。そうしたら、心置きなく、あなたと私は生きる世界がちがうのよ、と離れられるのに。
つんと肩を張って、さようなら、と振り返らずに、立ち去れたのに。
包み隠さない私さえ、この人は見てくれるのではないかと、思っている私が一番、嫌だ。
黙って、二人並んで、メイン通りを下り、港に着いた。
着くと同時に、花火が上がる。夜空に白い菊の花が咲いた。きらきらと月明かりを反射するクリスタルのような飛沫が海に落ちる。
明日から、朝7時投稿のみになります。