33,浴衣を着る、彼女を知る
浴衣を着ることを、着つけというらしい。隣国ならではの衣装と単語に戸惑いつつ、仕込みの合間に二階に来てくれた義父に着つけてもらった。義父の母が隣国の出身者で、義父はその母から手ほどきを受けたと聞かせてくれた。
親切な義父が昔着ていた衣装だと言う。浴衣は紺色の無地。帯という、腰回りを閉める細長い布は、グレーに黒の横線が走っている。帯で締められた、腹回りはなかなかきつい。
(不思議な衣装だ)
黒髪なので、この衣装の色合いにはなじむ。髪色や瞳の色によっては、色を選ぶ衣装かもしれない。袖が長いのが特徴的だが、こういうものなのだろうな。
窓の外を見れば、すでに薄暮の時間帯。夜がだんだんと近づいてきていた。
先に着替えを終えた私は、テーブル席で待っている。
シェスティンは小部屋で、着替えて出てきた。異国の衣装でも一人で着れるとは、さすがである。
私の浴衣より淡い瑠璃色に、白い花模様が散りばめられている。帯は赤。結いあげてた髪には、箸のような棒、かんざしという隣国特有の髪飾りをつけている。さっきは木の棒だったが、今は艶やかな黒塗りの端に赤い飾りが垂れている。
異国の雰囲気が薫り、生唾を飲み込んだ。
「お待たせ」
「いや……」
いつもなら、お似合いですねや素敵な髪飾りですね、と言えるのに、言葉がでない。なんで肝心な時に喉がつまったように声が出ないのだ。
「ベン、似合っているね」
ベン、と呼ばれたことに衝撃を受ける。ここにいるのは、私ではないと思うと、胸が苦しくなる。
「……そうかな」
同意してても、顔が引きつるようだ。変な顔になっていないか、心配になる。
「うん、とっても似合っている。かっこいいよ」
私には向けてくれたことがないような笑顔。シェスティンの気持ちが私から遠のき、私に傾いている。
むくむくと、黒々しい感情が湧いてきそうになる。
私という婚約者がいながら、見知らぬ貴族令息の私と仲良くするのかと責めたくなる。
しかし、市民の娘なら、このぐらい愛想が良くて普通なのかもしれない。私の方が過敏になっているのだろうか。
分からない。
貴族や王族として生きてきた常識と、ここで見てきた世界が違いすぎる。
シェスティンも貴族のなかで生きていた時と比べて、とても明るく、生き生きしている。
生き生きしている?
私はまじまじとシェスティンを見た。
見上げる彼女ははにかみ、恥じらっているように見えた。初々しい愛らしさを感じて、胸がきゅっと締まる。
シェスティンが、茶会に現れたのは数年前。王妃主催の茶会に初めて、公爵家の夫人に連れられてきた時だ。その頃から、毛色が違う子ではあった。
初めての茶会で緊張した彼女と今の私はきっと似ている。
そして、今、目の前にいる、この子が、本当のシェスティン。料理屋をしている夫婦の間に生まれた娘。途中で、祖父母に引き取られ、彼らを養父母として生きてきたわけだ。
茶会や夜会でも、シェスティンは、養父母のことを、「お父様」「お母様」と呼ぶ。養父母とはすなわち、彼女にとっての祖父母。本来なら、「おじい様」「おばあ様」と呼ぶところを、貴族社会に合わせてきたわけだ。
公爵家の次女、つまり、実母の妹、という、捻じれた関係を受けいれていたのか。
「……」
私に、心を開かないわけだ。
彼女が見据えているのは、公爵家、父母、育った街、自領とこの街の関係性。この街の歴史さえ、実際を伴い、とても詳しかった。もしかしたら貴族として学園で学ぶのも、彼女なりに将来を見据えてのことなのかもしれない。
シェスティンの見ている世界、生きている世界を何も知らなかった。
平民であるシエルを知らずして、彼女の何を知っているといえようか。
「シエル……」
「どうしたの」
「いや……」
「行こうか」
「行こう。一緒に……」
シエルとしての彼女を知らずしては、きっとなにも始まらなかったのだ。