16、混乱したはずみで
席を立った私は、すたすたと進む叔父の後を追う。
仲の良いカールとメルタ嬢を見ていると私まで微笑ましくなる。やはり、メルタ嬢もカールに見せる顔は愛らしい。カールが彼女を大事にしていることがとてもよく分かる。
ほくそ笑んでしまうではないか。
それに比べて、私とシェスティンは余所余所しい。メルタ嬢の言うように、私がシェスティンに対して、遠慮しすぎなのだろう。
『突撃しましょう』
『もう少し、押さないと気づいてももらえませんよ』
『殿下、好きと示さないで、立場だけで相手を縛れるとお思いならそれは甘いというものです』
あのようなセリフが言えるのも、カールが彼女に注いでいる愛情が本物だからだ。彼女のカールを見る目は、私の時とはまったく違う。婚約者の頼みだから、こんな身分も高く、本当ならはっきりと言えない相手でも、真摯に向き合ってくれている。メルタ嬢はとてもまっすぐな芯の強い女性なのだろう。
真に私が学ぶべきは、カールの彼女への姿勢だったのかもしれない。
カールが彼女とどのように接しているのかということを観察する方が現実的だった。
いや、ここまで気づいていなかった私が、この域まで気づくに至ったことを進歩と思うべきか。
そう思うと、今日、公爵家の屋敷まで行って、シェスティンに会うことも叶わなかったことが、とても残念に思えてきた。
これも、ある種の進歩か。少しは、前に進んでいるのだろうか。
いや、それも、まだ私のなかでの一歩に過ぎない。シェスティンには近づけていないのだ。
精神的な距離も、物理的な距離も、縮まっていない。縮まっていないと気づいただけの進歩。道はなんと遠いことか。
私はため息をついた。
「ベルンハルド、どうした」
叔父に声をかけられ、私ははっと顔をあげた。
「いえ、叔父上。なんでもございません。ところで、向かう飲食店の」
「ああ、そうだ。俺、ここでは普通にシーグルで通しているけど、ベルンハルドと名乗らない方がいいなら、偽名考えておけよ」
「はっ。なんで、名前を?」
「俺の古い友人夫婦が一人娘と一緒に切り盛りしている店だからな。甥っ子なら、名前を聞かれるかもしれないだろ。そのまま答えてもいいが、目立つのが嫌なら偽名、いるだろ。まさに王子様って名前なんだから、お前」
「はい、わかりました」
その時、がらっと店の扉が開いた。なかから二人連れが出てきて、すれ違う。入れ替わるように叔父が入店する。
「シーグル、どうした」
「ちょっとそこで、甥っ子と会ってな」
「甥っ子!」
「ああ、偶然だな。ここに遊びに来たみたいなんだ。折角だから、美味いものでも奢ってやろうと連れてきた」
叔父が振り向く。
「はいれよ」
誘われた私は入り口にかけられていた紺色の布を払い、入店する。
「シーグルおじさんに甥っ子なんていたの」
「ああ、俺の兄の長男だ」
「ちょうど、カウンターが二席空いたから、ここに座ってね」
私の心臓がばんと跳ねた。
カウンターと呼ぶ台を拭く少女。下を向く彼女の顔は見えない。しかし、この声は、何度も聞いたことがある声とそっくりだ。
拭き終えた彼女がこちらを向く。
「シーグルおじさん。どうぞ、こちらへ」
「ありがとう、シエル」
シエル!
違う。その声は、シェスティンの声だ。
少女は三角巾をつけている。髪はそのなかに隠れている。三角巾の際から見える髪色はシェスティンと同色。
すべての動きがゆっくりに見える。
少女が顔をあげた。
眼鏡をかけている。
大きな目をぱちぱちと瞬かせた。
私を見ても、きょとんとしているのか、なんなのか。釣り上げたばかりのまん丸い魚の目のようにじっと見つめてくる。瞳から、彼女の思考が読めない。
私を見て、驚いているのか。へー、シーグルおじさんの甥っ子さんてこんな人なんだ、そんな軽い感想なのか。まったく、分からない。
あたふたする私も、背中に汗をふかすばかりで、顔色は変わっていないだろう。なにせ、硬直し何も言えない状態だ。
少女がニコッと笑った。
「初めまして、シーグルおじさんの甥っ子さん。私は、シエル。シエル・ノイマンと申します」
差し出される手。シェスティンが自ら、握手を! そんな場面私は一度も経験がない。
そっと手を取りエスコートすることはある。しかしだ、ちゃんと握ったことなど記憶にない。
なんだ、これは。私は試されているようではないか。
出された手を握らないのも不自然。私は意を決し、その手を握り返す。
小首をかしげる彼女に、心音が痛いぐらい早くなる。
平静を装い、名乗った。
「初めまして、ベンと申します」
言ってしまった! 偽名!!
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