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泣けない少年と猫  作者: 蟻月一二三
1/10

日常

 「ちょっと待ちなさい」


 厳格な西郷に、飼鳥歩は怯まなかった。


「飼鳥!」


「ガチャガチャうるせえんだよ!話しかけるな」


 歩は玄関扉を蹴破るように乱暴に開け、夕焼けに赤く燃える校舎を後にした。

 歩の背中を見つめながら、西郷は大きなため息をついた。吐き出されたのは怒りではなく、ただただ空しい想いだった。

 職員室へ戻ろうと歩き出した瞬間、真後ろから突然大きな濁声が聞こえ、勢いよく振り返った。


「ああ!また飼鳥ですか。まったく、子どもの考えることなんていうのは浅はかですからね。あれがかっこいいとでも思っているんでしょう。今回はとうとう暴力沙汰まで起こしましたか。奴が来てからどれほど我が校の評判が落ちたことか。勘弁してほしいものです。」


 濁声の主は有田といい、本校の教頭を務めている。今回のように、音もたてず背後に立ちいきなり大声で話し出すという非常に迷惑かつ不快な悪癖を持っている。

 有田は続けて言った。


「ところで、彼の担任であるあなたは何をしているんです?まさか、あれだけのことをしでかした人間を優しく諭そうとしただけなんてことはありませんよね?厳しい指導を行い、今後二度とこのようなことが起こらないよう解決策を見出せたんですよね?そうでなければ流石に、こんなところでボーっと突っ立ってませんよねえ」


 この男の発する言葉は全てチクチクと嫌味ったらしく、回りくどい。


「これから時間をかけて話し合っていきます」


 この発言を聞いた有田はその特徴的な濁声で怒鳴った。


「これから?何度同じことを言わせれば気が済む?遅いんですよ行動が!奴が問題を起こすたびに、あなたはそうやって逃げるんだ。保護者や地域の住民からのクレーム、誰が対応していると思っているんです?あなたの教育不行き届きでとばっちりを食らうのは私なんですよ。こちらの気持ちも少しは考えたらどうなんです。こんなところで突っ立っている暇があったら、早急に解決策を提示しなさい」


 廊下に声が反響して、不快な音に全身が包まれていく。黒板を爪で引っ搔いた時に感じる、身体の内側からザワザワと虫が這い出てくるかのような不快感に襲われる。当然そのような場所に留まっていられるはずもなく、適当な返事だけを残してその場から逃げるように職員室へ戻った。

 しばらくしてから有田が自分のデスクに戻ってきたが、冷ややかな視線を西郷に送り続けている。そのせいで職員室内の空気は悪くなる一方だった。ああなっては、何をやっていてもまた文句を言いに来るのが目に見えているが、一応対策を練っているふりを続けた。

 西郷は神妙な面持ちでデスクに向かいながら、飼鳥と昔の自分を重ね合わせていた。



 歩は学校を出た後、自宅と学校のちょうど中間地点にある公園のブランコに腰を下ろした。そこは歩が生まれる前からある地元住民にはなじみが深い公園だが、近頃は不審者がよく出るとかでこの時間帯は子供がほとんどいない。誰にも邪魔されない自分だけの時間。歩は、ずっとこのままでいたいと思った。それと同時に、帰れば長い説教が待っていることに嫌気がさし、初秋風に吹かれながらうな垂れた。

 うな垂れた頭を上げるとあたりは暗くなっていた。眠ってしまったらしい。焦って飛び上がった歩は勢いよく走りだしたが、家に入ってからのことを思うと途端に体が重くなり、走るのをやめた。そこからは足を引きずるようにゆっくりと歩いた。

 玄関の扉には鍵がかかっていた。インターホンを鳴らしても出てこない。途方に暮れていると、中からドタドタと激しい足音がして勢いよく扉が開いた。


「何時だと思ってるんだ!」


 大きな怒鳴り声が団地に響き渡る。斜め向かいの家の玄関から老夫婦が出てきてこちらを怪しそうに見ている。視線に気付きその老夫婦を一瞥した瞬間、歩は家の中に引きずり込まれた。


「いい加減にしろ!お前のせいで俺がどれだけ肩身の狭い思いをしているかも知らないで」


 怒鳴り声の主は正孝といい、歩の叔父にあたる人物である。出会った頃はそれなりに優しかったような気もするが、歩の成長に伴って衝突が増え、こんな日でなくてもよく口論になる。


「こんな姿を見たら、お前の父さんも、母さんも、姉さんも、どう思うだろうな。いや、もう見てるか。さぞかし残念だろうな。中学二年生にもなった息子がこのありさまじゃあな」


 正孝は最近何かあるたびに歩の家族を話に登場させるようになった。歩は、父さん、母さん、姉さんと言われるたびに締め付けられるような苦しさを感じ、鼻の奥がツンとして目頭が熱くなった。だが中学生の歩には、その悔しさを伝えつつ叔父と渡り合えるような話力はなかった。


「うるせえんだよ!馬鹿が!」

 

 歩はそう吐き捨てると、自室のある二階へ駆けあがった。下で叔父が何やら叫んでいるが、聞こえなかった。

 部屋戻り、中学の指定かばんを床に叩きつけ、乱雑に敷かれた布団に包まった。怒りで今にも暴れだしそうな身体を抑え込むのに必死だった。それと同時に、稚拙な言葉でしか会話ができない自分自身にも激しい憤りを覚えた。

 時計を見ると〇時を回っていた。また眠っていたらしい。お腹がグルグルと大きな音を立てて、何か食い物が欲しいと叫んでいる。先程の衝突のせいで空気の澱んだ一階へ降りるのは気が引けるが、丸一日何も食べていないせいで、次眠ったら二度と起き上がれないような気がして渋々階段を下った。台所にある食器棚の一番下は、叔父が買いためたパンを貯蔵するスペースになっている。そこから少し乱暴に菓子パンを引っ張り上げると早足で自室へ駆けあがった。

 これが歩の日常だった。夕方遅くまで教師の説教を聞き流すことに努め、自宅へ帰るのが億劫になり、重い足を引きずって玄関に入ろうとすると説教が始まり、怒りと悔しさでいっぱいの身体を抑え込むように眠りにつき、暴れる腹に叩き起こされ、夜中にパンをかじる。

 歩は暗闇の中、乱雑にちぎった袋の隙間から頭を覗かせた菓子パンをちびちびと食べながらうずくまり、大きく鼻をすすった。初秋にしてはよく冷える夜だった。

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