下
体の奥から滲み出る暑さで目をさましたのか、芹沢が体を揺すったので目をさましたのか定かではない。たぶん両方同時に起こったのだろう。
辺りを見渡しても目が慣れていないせいで何も見えない。月明かりが徐々に目に染みこんでいくにつれて、物の輪郭がはっきりとしてきた。置き時計の時間を確認すると、午前二時だった。
「何か聞こえない?」
「何か?」
「歌みたいなんだけど」
耳を澄ますと確かに何かが聞こえる。目と同じで聞くにつれて歌の輪郭が鮮明になっていく。トレモロ。何か心を掻き乱すような歌声が聞こえる。
芹沢は立ち上がり襖を開けた。廊下の奥から歌声は響いてくる。一本の長い直線廊下に反響した声は四方から取り囲んでくるようだ。
「なんて歌ってるのかな?」
確かに。耳を澄まして聞いても、何語で喋っているのか分からない。世界中のどの言語でも、耳にすれば大体どの地域の物かは分かる。しかしこれは確かに言語だということは分かるのだが、どの国の言語の文法にも当て嵌まらない気がする。わざと文法を崩しているのかと聞き紛うばかりだ。日本語に似た言葉のような物も現れるが、波間に浮き沈みするクラゲのごとくはっきりとはしない。
声に釣られて芹沢が走り出す。続いて私も。大人二人の体重が疾走しているにもかかわらず、床は全く音を立てない。スポンジで音を吸い取ったかのようだ。しかし、歌声は聞こえる。着実に大きくなっている。
曲がり、進み、進み、曲がる。襖の奥から聞こえる這いずる音。跳ねる音。歌声の間隙を縫って聞こえる。だが、跳ね這いずる音は決して襖に触れようとはしない。襖から内側が己の領域だと主張しているようだ。
柱と襖と低い天井だけで構成される迷路のような屋敷を進むにつれて、見覚えのある風景が見えてきた。屋敷の外周に黒々と屹立する岩が見える。廊下を折れる。
奥へ進み音源たる襖の前に到着する頃には息が切れかけていた。襖越しにくぐもった声で歌が聞こえる。人魚のミイラを見た部屋だ。
臆することなく襖を開けてもそこには何もいなかった。声は、歌は、その奥。水槽のあった場所から聞こえる。また、襖を開けた。
光量の激減で視界が暗転しかける。だがじきに目は慣れて、土間の中に立ちすくむ水槽の中に一見して何も入っていないのが見えた。影も形も見えない。水槽の蓋が横にずれているのが見えた。土間に裸足で降りた瞬間、足の裏に滑る物を感じた。
「森屋君、あれ」
芹沢が指さす方向には小さなドアがあり、屋敷は純和風な作りなだけにそこだけ場違いな雰囲気が醸し出されている。最初来たときは水槽だけを見ていたため気がつかなかったのだ。私は逡巡してノブに手を掛ける。
回転。抵抗もなくノブは回った。鋼鉄のドアは重く、肩を当てて押し開けると同時に強い潮の臭いが鼻についた。
岸壁だった。足場は二メートルほど先で途切れ、横には明らかに人工物と思われる階段が付いている。ギリギリまで体を乗り出すと、五メートルほど下は海だった。足下には亀の手が群生している。岸壁の上の方までびっしりとフジツボがへばりついていた。月明かりを受けてなお黒々とした水を湛えている海と、岩にぶつかっては消える波頭の白。自然の一大パノラマが広がっている。
歌は海から聞こえてくる。遊泳禁止の場所なのだろうか。テトラポットの無い海のただ中に揺れる銀色の影が見えた。
遠く、波間に。揺れている。
熱に浮かされたようにふらふらとした足取りで外に出ようとしている芹沢を押しとどめ、私は屋敷の中へと戻った。場違いにも一眼レフを持ってきていなかったことを、とても残念に思う。
私の表情から何かを読み取った芹沢は、渋々といった様子で引き下がったが、未練たらしくドアを見つめていた。
背中に聞こえる歌は奥の間へと戻るにつれて段々と小さくなっていった。閉じられた襖の奥から聞こえる跳ねる音もしない。変わりに足下を何かが泳いでゆく気配だけが、やけにはっきりと感じられた。
家では無いのかもしれない。八百比丘尼が消えた岩窟。そこは海中洞と繋がっていたのかも知れない。所々に空いた穴を覆うように家は建てられた。だから家の本質は住まうための物ではなく、本質が床下に隠れているため天井が……。
あの時。岸壁から身を乗り出した時。はっきりと歌の一節が聞こえたのだ。波間に揺れる朧気な言葉ではなく、はっきりと。
結局、奥の間に無事戻ることができた私たちではあったが、当然のことながら眠れなかった。微かに響くあの歌声が消えたのは、朝日が昇ろうかとしている頃になってからだった。
朝風呂を浴びに行った私たちが終始無言だったのは言うまでもない。きっと帰りの車内ではあれやこれやと芹沢に聞かれることとなるだろう。
朝食はごはんと味噌汁といった極めてオーソドックスなメニューだった。ただ、出てきた刺身には手を付けるな、と芹沢に固く言い聞かせた。
屋敷を辞去する際、私は振り返って言った。
「刺身、美味しかったです」
綾さんは答えず微笑した。
建築基準法? なんですかそれは。
ともあれキャラ萌え小説(!?)に仕上がったと自負していたりしていなかったり。
女性だけがヒロインじゃないッ!