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アンド・ワールド  作者: 憂国万歳
2/3

「酔ってるんですか?」

「何かねぇここに来てから体が重いんだぁ」

「食い過ぎですよ」

 ここに来た理由が、今まさに目の前へ現れようとしているのに呑気なものだ。寄りかかる様にすがりついてくる腕が、ボンレスハムみたいな感触を伝えてきて非常に気持ち悪い。ソッチ系の趣味は無いはずなのだが、もしかしてこいつ……。振り払うのはさすがに気が引けたがちゃんと一人で立つよう促して距離を置いた。

 そんなやり取りとは無縁といった風に綾さんは襖を開ける。二室続きの和室は、開けた襖以外はぴったりと閉じられている。

 最初に通された奥の間よりも少し狭くはあるがそれでも普通の家を考えると十分に広い和室の真ん中に、大きな木製の箱が置かれている。

「こちらです」箱の横に座った綾さんの後ろに私と芹沢が立つ。「開けて見てください」

 森屋君開けてよぉ、と言われる前に畳へ膝を突いて箱の蓋に触れる。桐でできている。意匠も何もないが、これまた経年が風格を滲ませている。棺桶みたいだ。ここに来てから常に感じていた潮の香りが、改めて鼻についた。

 横にずらして箱に立てかける形で蓋を開けた。

「おお! 凄い凄い!」

「人魚のミイラです」

 やっぱりな。二つの意味で予想が当ったことに私は嘆息する。

 箱の中に入っていたのは一メートル三十センチぐらいのミイラだった。江戸時代頃、人魚のミイラと称して猿と鯉をくっつけて売りさばいていたらしいが、これも大方そういうものだろう。

 ただ、それにしては少々大きいような気もするが……。

「これは江戸時代頃、若狭で取れた人魚なんですよ。現存している人魚のミイラの中では一番大きく、形もしっかりしていると思います」

 何度も同じセリフを言ってきたのだろうか。噛むことなく感情の起伏を付けて綾さんは流麗に語る。

「江戸時代と言えば人魚のミイラを出荷していたりしますが、これはそれにしても大きいですね」

 色々な角度からミイラを見るのに夢中な芹沢に変わって質問する。

「本物ですから」

 こともなげに綾さんは答えた。

 出荷されていた人魚の大きさといえば一番大きくても五十センチぐらいだったはず。それと比べても二・六倍ぐらいの大きさがある。注意深く眺めてみても上半身と下半身に不自然な接合部分は見あたらない。手のひらにはちゃんと水かきもある。両腕の肘ぐらいまでが胴にぴったりとくっついているせいもあって、なんとはなしに海で泳いでいる姿が想像しやすい。見開かれた目は海にいる生物よりも陸上の生物を思い起こさせた。ただ、自分の家に古くから伝わっていれば、半分ぐらいは伝承を信じてしまいそうになる姿形ではある。

 写真を撮る了承を得てデジカメで写し、芹沢にも欲しい構図を聞いて撮ってやる。締めに一眼レフで数枚撮ったのを見計らってか綾さんが、

「もっと面白いものがあります」

 閉じられていた襖の一方を開けると、そこは土間になっていた。岩盤を削って作られたような足場である。屋敷の中とは別種の、洞窟のような冷気が立ちこめている。土間は庭にあった黒い岩のように光の微妙な辺り具合で濡れているように見えた。そしてそこに大きな水槽が存在することによって、よりいっそう不気味な雰囲気を放っている。

 水槽の中に何かが見えるが、表面が曇っておりはっきりとは見えない。影は大きい。揺らめいている。

 サンダルも履かずに芹沢は突進するかのごとく水槽へ駆け寄り、鼻をくっつけんばかりに覗き込む。目を凝らして覗き込んでいるあたり、霜が降りて水槽の表面が曇っているわけではないらしい。不意に覗き込んでいた芹沢が大声を上げる。

「見た! 見た見た見た?」

「見えてませんって」

「見てよ!」

 いつになく興奮した様子で呼び続ける小男にある種嫌な予感とでも呼ぶべき何かが背筋を駆け抜け、サンダルを急いで履くと水槽に駆け寄った。

 確かにこれは鼻をくっつけなければ見えない。水槽に顔を押し当て芹沢が「あれ! あそこ!」などとがなり立てる方を見た瞬間、

 目が合った。

 頭髪は無く、落ちくぼんだ目は虚に濁る。さきほど見たミイラと同じように肘あたりまで胴にくっついいる。緩慢に水を押す下半身は鱗で覆われていた。

 ……人魚?

 再びソレは曇った水槽の奥へと姿を消してしまい、明確に姿を見ることができたのは一瞬だけだった。

「今のは――」

「人魚です。正真正銘の、人魚です」子どもをあやすように繰り返す。「芹沢先生にお手紙を差し上げる前日に捕まえたのです」

 深呼吸を繰り返しているうちに段々と平静を取り戻す。馬鹿な。そんな物いるわけがない。海で暮らす上で人の形を取る利点など何も無いのだ。きっと誰かが人魚の振りをしているだけだ。こんなに広い家に住んでいるのだ。金に飽かせて作らせた偽物だ。本物のはずがない。

 本物ではない、とさも本物がいるかのような思考に陥っている己に気づき苦笑する。その程度冷静になることができた。芹沢はというと未だ顔をへばりつけて目を凝らしていたが、諦めたのか肩を落として戻ってきた。

「弱っているのだと思います。捕まえた時から元気が無くて……」

 私たち二人を率いて綾さんは和室へと戻る。板の間にある置き時計が午後六時を示していた。屋敷に来てから随分と時間が経っている。

 奥の間へと再び連れられると、ドッと疲労感が全身を満たした。

「夕食は七時頃お持ちいたします」

 閉じられた襖をぼんやりと見つめる頭の中に、さきほど見た光景が渦巻いていた。本物にしろ偽物にしろ、金に飽かせた人間の仕業にしろ狂人の狂態にしろ、私としては記事にすることになんら支障はない。なにせ三流の王たるゴシップ誌なのだ。何を書き立てようと暇人の手元に届き、暇人の心の隙間を埋めるだけだ。綾さんの了承さえあれば何があろうと記事にするし、するべきだと思う。

 ただ。

 あれは何なのか、と個人的に思う。一瞬しか見えなかったが、あれは確かに人魚――少なくとも見た目的にはそう呼んで差し支えのない物だった。上半身と下半身の継ぎ目などなく、鱗は魚の尾と人の胴を自然に繋いでいた。それに水は水槽の上部、ほとんどいっぱいまで溜められていたのだ。背中にタンクを背負っていた訳でもない。息を吸おうにも空気の層は狭く、到底息など出来そうになかった。思い返せば首に当る部分にエラがあったように思える。

 人魚といえば人と魚の合いの子みたいなものではなく、人面魚のような物もいたとされている。これまた江戸時代だった思うが、大阪で全長九十センチほどで人の顔のような物を持った魚が釣り上げられたと残っているのだ。何も九十センチが成体時の全長とは限らないのだ。その可能性も否定できないだろう、と夢見がちではあるが思う。いや、思わせる何かがあった。

「ここって天井低いよね」

 考えに耽っている私の耳に芹沢の声が届いた。ケヤキのテーブルの下に下半身を入れて、ボーッと天井を見つめている。

 それに倣って寝転がり天井を見るが、確かに普通の家よりも低く見える。木目もかなりはっきりと見える。何となく背の低い芹沢と共にいたせいか、天井の高さなど気にも留めていなかった。そういえば玄関口で屋根がかなり前に迫り出しているように感じた。圧迫感はそのためだったのか。立ち上がって手を伸ばすと楽々と天井に触れることができた。

「確かに」

「ね。だからそのせいかなーって」

「酔っている理由、ですか?」

「うん」

 それっきり会話が途絶え、次に芹沢が口を開いたのは夕食が七時きっかりに届いた時だった。

「うわー海鮮料理だぁ!」

 体が重いだのなんだの言っていたのはどこへやら。運ばれてきた料理に目を輝かせている。

 サザエのお造りからアワビの壺焼き、エビの天麩羅……。恐らく台所から奥の間へ何往復かの後、夕食の全てが出そろった。

 いただきますも言わずにさっそく薄造りの皿から刺身を大量に奪取しようとする芹沢から大きな皿を奪い取り、手をピシリと打つ。

「おあずけです」

「そんなー」

 ここで「原稿を上げないよ」などと脅迫しない所が芹沢のいいところではある。しかし短所あっての長所とは情けない。

 私は反省させる意を込めて薄造りを彼の目の前で食べてやる。しかも、奴が先にしようとしたように、一気にごっそりと。小皿に入れておいたポン酢に浸して次々と食う。いつも食ってばかりの芹沢には最高の罰といえる。

「……ゴメンナサイユルシテ」

 許さなかった。

 結局全ての薄造りは私の腹の中へと収まり、流石に可哀想に思った私は芹沢に壺焼きを上げた。だがそれで落ち込んだ気分は直るはずもなく。未だかつて無いほどのしんみりとした食卓を囲んだのは言うまでもない。

 庭に面した窓をふと見ると、中秋の名月にはまだ少し早い月が昇っていた。いつの間にか晴れていたらしい。曇天の下で聞く潮騒とは比較にならないほどの美しいしらべが聞こえる。波の模様が描かれた庭と突き出た岩のせいか、ここが海であるかのように思える。

 芹沢もそれには同感のようで、いつもの呆けたような調子とは別の惚けた顔を見せている。

「森屋君」

「はい」

「僕、次の小説の構想が出来上がったよ」

「はい」

「人魚の肉を食べた人って八百比丘尼って言うんでしょう?」

「はい」

「恋愛物もいいかなって」

 どうせこれも思いつきなのだろう。だが、雰囲気が雰囲気だけに私は何も言えないし言いたくなかった。

 芹沢はごろりと横になって「テロメアテロメア」となにやら繰り返し始めた。

「風呂入らなくてもいいんですか?」

「いい」

 服ぐらい着替えればいいのにと思うが、取り敢えず押し入れから布団を出して掛けてやった。時計を確認すると午後八時。寝るには少し早い時間だ。

「お下げしますね」

 音もなく部屋へ入ってきた綾さんは慣れた手つきで皿を重ねて運び出していく。

「あの、お手洗いってどこにありますか?」

「お手洗いでしたら浴場のすぐ横ですよ。ついていらしてください」

 音もなくすり足で歩いていく背中を追って、私は着替えと洗面用具を小脇に抱えながら和室を出た。

「そういえば、この家って天井が低いですね」

「そうですね……確かに低いです。でもそれで不便なことはありませんから」

「広く見えるのは柱が少ないからで?」

「ええ、実際よりもかなり広く見えると思いますよ」

 この家の設計者が中村青司だったら笑うに笑えない。角を曲がり、進み、曲がる。ここでばったり芹沢の死体とご対面、どうやって先回りして死体を置いたのでしょうか? といった悪趣味。

 ここです、と指し示された先にはトイレというより厠と言った方が良い趣のあるお手洗いがあった。手早く用を足しトイレから出ると、またあの不気味な静けさが辺りに降りていた。台所は離れた所にあるのか綾さんの気配は全く感じられず、さっさと風呂に入ってしまおうと考えた矢先、

 ぽちゃん、と。

 何かが跳ねる音が聞こえた。嫌が応にも水槽の中の何かを思い出してしまう。

 再び何かが跳ねる音が聞こえた。跳ねる、跳ねる、這いずる。

 耳を澄まさずとも風呂の正面にある部屋から音は聞こえる。

 きっちりと閉じられている襖。それに描かれているおどろおどろしい日本の人魚。跳ねる音。

 部屋の前へ進むと不意に這いずる音が一際大きくなった。ビチビチと何かが畳の上で、襖一枚挟んだ向こう側で跳ね這いずっている。

 全身から汗が滲み出てシャツを湿らせる。風はない。秋の夜が蒸し暑い。

 水槽を挟んで目があった瞬間に似ている、と思う。感じる。

 私は襖を開けた。必要以上に力を込めて引いたため襖は高い音を立てる。

 しずくが。宙を舞った。畳に落ちてしずくは砕け、広がり、無数の水滴へと変わる。その一瞬がやけにはっきりと見えた。

 何もいない。いない。和室に一歩踏み込むと、足の裏が滑った。水だけではない。何かもっと粘性の高い物がここにいた証拠だ。月明かりは室内で何かがはいずり回った後を克明に浮かび上がらせていた。円を描くように部屋を一周している。庭へと開く雨戸は開いている。そこにも何かが這った後が見て取れた。

「何かございましたか?」

「い、いえ」

 振り返ると当然のように綾さんが立っていた。

「物音がしましたので来てみたのですが……」

「いえ、何ともありませんでした」

 平静を装って答えたが、声は震えていた。少なくとも隠しおおせたとは思わない。

 だが彼女は「そうですか」とだけ言って部屋を出た。

「奥の間への戻り方は分かりますね?」

「ええ」

 風呂に入る気にはなれなかった。逃げるようにその場を立ち去ると、奥の間へと駆け戻った。途中、前を通った部屋の中全てから何かが這いずり回る音が聞こえた。

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