上
え、青狸? 出てきませんよ。
「いいなぁ凄いなぁSFだなぁ」
いい加減これ以外のセリフを言えないのか、と私は思いながらステアリングを切る。緩く曲がる道路の左手には海が見えるが、シーズンを過ぎて秋に入りかけているこの季節人が泳いでいるはずもない。曇り空の下、寄せては返す白波の向こうには何もない。テトラポッドがもの悲しく波頭を作り出しているだけだ。棄てられたパラソル、人気の無くなった海の家。夏の残滓が洗い流されていく季節はどうしてこんなに悲しいのだろうか。理由は『たぶん』なんて言葉を使うまでもなく、助手席に座りジャンクフードをむさぼり食う小男のせいで、わざと感傷的になろうと試みているからなのだが……。
よく胃袋が破けないなと横目で助手席を窺うと、なんたらバーガーだかいうやたら肉が入っているジャンクフードに食らいつく男が目に入った。パンの隙間から肉やらレタスやら汁やらがはみ出しこぼれ落ちそうになっているにもかかわらず、器用な手つきでそれらが落下する前に口へ詰め込んでいる。突けば破裂してしまいそうな肥満体型。卵形の顔にへばり付くように生える髪の毛。ボールみたいでコロコロしていて可愛い、なんてファンは言うらしいが、私にはその心理が理解できない。一度、一回、一日、一晩、一緒に過ごせばいいのだ。これだけ見苦しい物を隣で数時間見せつけられているにもかかわらず、怒りもせずにステアリングを握り続ける己に惜しみない拍手を送りたい。知らずアクセルを強く踏み込んでいる自分に気づき、いっそこのまま小男と共に小浜の海で入水自殺を遂げた方が世のため人のためではないかと思う。だが、これが死ぬと新作を楽しみにしている読者が悲しむため、すんでの所で凶行は思いとどまっているのだが。
「東京強襲で生き残った人は数あれどタイムスリップで生き残った人は二人しかいないよ。いいなぁ凄いなlぁSFだなぁ」
これはもしや口癖なのか? この小男は何度も何度も同じセリフを口にする。壊れたレコードですらたまには違ったノイズが入るというのに。
「……それで芹沢センセイ、道は合ってるんでしょうね」
「いやだなァ。森屋君、道順が違ってたら君の車のカーナビが馬鹿だったということじゃないか」
目的地をあの世へ変更してやろうか。後続の車はいないし対向車線にも車は見えない。道路は急カーブを描いている。
アクセルを踏み込んで加速。助手席の芹沢が息を呑む。アクセルから足を離しコーナーに突入してステアリングを左へ。芹沢は涙目だ。テールが横滑りして外側へ引っ張られる。芹沢が何か叫んでいる。アクセルを踏み込んで再び加速。芹沢は白目を剥いていた。
隣の小男が失禁していないことに安堵すると共に、今のは会心のドリフトだったと一人思う。漫画でしか見たことが無かった割にはそれっぽく決まったではないか。
「大丈夫ですか、芹沢センセイ」
「……ゴメンナサイユルシテ」
「分かればよろしい」
私は前を見つめたまま言う。ああ、小浜の松林が綺麗だ。
今この瞬間、芹沢は伸びてはいるが、これで数分経つと元の調子に戻るのだから始末に負えない。怪奇SF作家というのは皆こうなのだろうか。いや、『パラサイト・ボブ』なる原作者に申し訳が立たない物を書いて文壇にあらゆる意味で衝撃のデビューを果たしたこいつ以外、ここまで鬱陶しい人間はいない。無意味に反語を使いたくなった。デビュー十五年目の今に連綿と続く作品も『トング修理者』『六番目の左翼』『屁の眼』とこいつは何か小説を舐めている。そんな人間に懐かれた私もどこか捻子が緩んでいるのだろう、と最近になって思うようになってきた。毒され始めている。
次の信号を右へ曲がれ、とカーナビが律儀に指示を出す。心なしか優しげな声だ。それほどまで私は安らぎを欲しているのだろうか。
どう見ても漁港への入り口にしか見えない道を折れ、事実掲げられた横断幕に思いっきり『漁港』と書いてあることに不安感を煽られる。芹沢を見るとジャンクフードの袋に手を伸ばし、包みを開けようとしている所だった。
「本当に道、合ってるんですか?」
「いやだなぁ森屋君。道順が間違っていたら君の車のカーナビが馬鹿だったということじゃな――」
眼前に迫る塗装の剥げ落ちたガードレールと緑色に濁った海。海面が高いのか海抜が低いのか、目の前に見える。係留された四台の漁船の船底はフジツボがびっしりと張り付いている。私たちの到着を待ちわびるように視界の端で魚が跳ねたように見えた。南無三。メロス的後悔とはまた別種の無念を抱きながら小男と心中しようかという寸前、芹沢が横から手を伸ばしハンドルを切り、ガードレールに横付けされる形で止まる。芹沢が、もう次からは要らぬことは言いません、と目で訴えかけてくるがいつまで持つのやら。
生死を賭した方向転換により、ナビが指し示す先へと車体が向いた。先ほどまではガードレールに釘付けだったせいもあって、今ようやくフロントガラス越しに立派な純和風の屋敷が――なだらかな屋根だけではあるが――見えた。目的地まで後十メートル、などとナビはいたって律儀に誘導している。
砂利の敷かれた車寄せに止め外に出ると潮の香りが鼻に届いた。潮騒が曇天の下もの悲しく聞こえる。手にした二人分の着替えと洗面用具がもの悲しさをさらに一段階上昇させた。
助手席から出た芹沢は胸一杯に潮の香りを吸い込む。「夜は海鮮料理かな?」
さっそく調子を取り戻した小男はさておき、私は建仁寺垣に挟まれた門を見上げる。建仁寺垣と両袖が竹で編まれた数寄屋門は風格のある焦げ茶色。一朝一夕では付かぬ風格が漂っている。かなり前の方まで迫り出している門の屋根は最近葺き替えられたのか真新しく、そこだけ他とは浮いて見えた。
「ねえねえ森屋君。僕、こういうところあまり来ないからさ、君が開けてよ」威厳に気圧されたのかジャンクフードの袋を助手席に戻しながら芹沢が言う。「ほら、取材する感じで行けばどうとでも無いでしょ?」
根も葉もない三流の中の三流ゴシップを扱う雑誌のライターたる私が、こんな場に慣れているなどこの男は本当に考えているのだろうか。いや、何の取材か聞かされていないので、こんな立派ななりをした屋敷でも、いかにもオカルトめいた『何か』を持っているのだろうと私は思い直す。世の中研究好きが高じてタイムマシンを作ってしまった阿呆もいるのだ。事実は小説よりも奇なり。何が起きるのか分からない。何が起きるか分からないのなら、そう気負う必要もないだろう、と努めて楽観的に考え、私は数寄屋門を開けた。
見かけは古い割には立て付けは悪くなく、音もなく開いた。背の高い建仁寺垣に守られ庭の様子を窺い知ることができなかっただけに、玉砂利の敷かれた広大な庭に飛石が玄関へと続いている様は圧巻の一言だった。屋敷全面の両翼に広がる庭には松が植えられ、玉砂利には波の模様が入っている。その中に屹立する黒々とした大きな岩が天を衝くように生え、光の加減で濡れたように光る様は一種異様な雰囲気を醸し出している。
そんな私の感動を知らぬ素振りで芹沢は飛石を軽快に跳ねている。アンコウが跳ねるな、などとは口が裂けたら喋れない。罵倒ではなく自分が悪かったと自覚を持たせたなければ、一瞬とはいえ御すことができないのだ。
感動を振り払って跳ねアンコウをよそに玄関へと達する。門と同じで屋根がかなり前の方に迫り出している上に、平屋のためやけに屋根が低く感じられ、巨大な手のひらで頭を押さえつけられているように感じる。木枠に磨りガラスが嵌った戸の横、ちょうど表札――八尾と書いてあった――が付いている壁に、そこだけ別の時間軸から引っ張ってきたようなインターホンが設置されている。
どう挨拶しようか逡巡していると横から手が伸びインターホンが押された。振り返った時には再び跳ねアンコウと化した芹沢が、不格好なダンスを飛石の上で披露しているだけであった。
「……はい」
インターホンから一度電子に還元された女声が聞こえ、私は咄嗟に答える。
「取材を予定しておりました芹沢です」
「ああ、はい。少しお待ちください」
しばらく待つと薄い戸ごしに衣擦れが聞こえた。木枠で区切られた磨りガラスに人影が映りこみ、からからと乾いた音を立て戸が開いた。
「お待ちしておりました」
深々と腰を折って礼をしたのは妙齢の美女だった。年の頃は二十一、二だろうか。象牙色の地に梅の花をあしらった和服とおしろいをまぶしたように白い肌が、年齢にそぐわぬゾッとするほどの気品と風格を身に纏わせている。長い髪を後ろでまとめ上げているため、深々とした礼はうなじを強調しているようで、全ては計算ずくなのではないだろうかと疑ってしまう。
いつの間にか私の隣に立っていた芹沢が、顔を上げた女性に握手を求める。
「作家の芹沢です」
「この度はどうもこんな辺鄙な所までお越しくださいまして、誠にありがとうございます」
いざなうように玄関口へと招き入れられた私たちは、挨拶もそこそこに奥の間へと通された。途中数度廊下を折れる際、ぴったりと閉じられた無数の襖がどことなく異界に来たような雰囲気を醸し出している。喩えがあまり浮かばないが筒井康隆の『家』のような雰囲気だ。
入って正面は庭に面しており、飛石の途中で見た岩とは別の岩が見えた。大きさや形はこちらの方が多少小振りにも関わらず、むしろ不要な部分をそぎ落として威厳を凝縮させたような感じだ。建仁寺垣で外界の様子は見ることができず、廊下を折れる途中で感じた異界の雰囲気が肌に迫って感じられるようだ。無機質と静謐で満たされているにもかかわらず巨大生物の胃袋を進むような感じがする。夢枕貘の『柔らかい家』を思い起こさせた。
「ねーねー、この和菓子食べてもいいかなあ」
部屋の中央で存在感を放っているケヤキのテーブルを見ながら芹沢が言う。松の意匠が彫り込まれた盆の上に盛られている茶菓子は、この小男に到底似つかわしくない。さっきまで散々ジャンクフードを食っていただろうよ、とは言わず、もう少し待てと目で合図する。こいつの代謝はいったいどうなっているんだ。己を題材にして一編の小説でも書けばいいだろうに。
おあずけをくらった犬みたいに大人しくなり正座までしている芹沢と、何をするでもなく畳に腰を下ろしている私。そのうちどこかから鹿威しの音が聞こえてきそうなぐらいの静寂だ。音が全て消え、そのうち何もかもが静かになっていきそうで身震いする。深海へ行くと光量が激減するため物体は色を無くしモノクロになるというが、ここも終いにはそうなってしまうかもしれない。
今日、取材に行くということだけ聞いていた私は、芹沢が何について調べようとしているのか知らされていない。彼はいつも行き先を告げず唐突に取材なり旅行なりを企画する。そしていつも――私の知る限りでは我が社の救世主とだけあって、上司が有無を言わせず付いていけと言う。実際あまりすることがない私は、嫌と言いつつも付いていくのだ。母性本能もとい父性本能がくすぐられる、とは思わないことにしている。それを認めてしまっては大事な何かが音を立てて崩れ去るような気がするからだ。
静寂の中に、玄関口と同じくして衣擦れが襖越しに聞こえた。足音が襖の前で止まり、一呼吸置いてから襖が開いた。
「お茶をお持ちしました」湯気の立つ緑茶が盆に乗っている。「芹沢さんとは日頃から親しくさせていただいております、八尾綾です」
三つ指を突いて座礼されるほど私は偉くない。慌てて綾さんと同じく私も三つ指を突いて座礼する。
私が顔を上げた瞬間綾さんも顔を上げたようで、見つめ合う形となって顔が熱くなるのが分かった。先ほどまでの形式張った礼とは打って変わって小首を傾げる彼女の顔――泣きぼくろが目について鼓動が早くなる。
「綾さんはねえ、僕がデビューした時から手紙をくれてたんだよ」
いちいち語尾を伸ばすな。私は振り返り小男を見る。盆に盛られた和菓子は姿を消していた。
「それでねえ、今日は面白いものを見せてくれるっていうから来たんだあ」
「面白いと申しましてもお眼鏡に適うかどうか……」
恐縮したといった感じで綾さんは肩をすくめた。どんなちんけな物を見せたところで芹沢は喜ぶだろう、と私は思う。
いつだったか殺生石は実は四つに割れており世に出ていない一つを所有しているという、なんとも胡散臭い老人を訪ねたことがあったのだが、どう見ても漬け物石のそれを見たときも「凄い凄い」と連呼していたような男だ。真実世に出ている文献は信じようとせず、いかにも怪しげな物を信用するふしがあるのだ。そしてそれを中途半端な科学知識で味付けした読むに耐えない小説を世に生み出すのだ……。
たとえ綾さんが玉藻前である、などと告白したとして、「凄い凄い」と連呼するだろう。傾国の美女も芹沢に掛かれば「凄い」だけなのだ。
綾さんは緑茶をケヤキのテーブルに乗せると「用意をしてくる」と言い残しもう一度座礼をして出て行った。再び私たち二人だけになると、なんとも言えない静寂が戻った。
「ねえねえ」沈黙に耐えきれないのか芹沢が口を開いた。「何を見せてくれるのかなあ」
「さあ。それでもセンセイのお眼鏡に適うような物じゃありませんかね」
「だよねだよね。僕、取材に行ってからこのかた外れ無しだもん」
緑茶を音を立てて啜る阿呆はさておき、恐らく綾さんが見せてくれるのは人魚のミイラだろうと私は当たりを付ける。福井県は小浜市、オカルトとくれば八百比丘尼の伝承がまず真っ先に思い浮かぶ。八百比丘尼の伝承は日本各地に見られるが、それらは大筋が同じだ。
伝説は人魚の肉を漁村の庄屋が浜で拾うことに端を発する。庄屋は村の皆に食えば不老長寿になると知られる人魚の肉を振る舞うが、聞いて知っている物とはいえ得体の知れない肉である。村人は全員で示し合わせて人魚の肉を食べないようにして持ち帰り、途中で捨ててしまう。しかしこれがまた酷い話で、一人だけ連絡ミスだか聞いていなかったのかは定かではないが、捨てずに家へ持って帰った男がいた。そしてまたまた間の悪いことに、男の娘が持って帰ってきた人魚の肉を食べてしまう。娘は若さを保ったまま何百年も生き続けることになるのだが、夫や家族は先に死んでしまう訳だ。当然村人は気味悪がり、娘はそんな村に留まれるはずもなく尼になって貧しい人々を救うべく全国を歩き回るが、お終いには世を儚んで岩窟へと姿を消したのであった……。
なんともやり切れない話だ。これは明らかに親父の過失だろう、と伝説に文句を言っても始まらない。
それに加え京都府は綾部市と福井県は大飯郡おおい町の県境には、八百比丘尼が尼来峠を越えて福井県小浜市に至ったという伝承もあるそうだ。ゆえにオカルトめいた品といえば人魚のミイラぐらいしか無い訳で。
「嫌だな、怖いなぁー。うふふふふ……痛てッ!」
肉鞠のごとくい草香る畳の上を転がる芹沢がテーブルの脚に頭を強かに打ち付けたところで音も立てずに襖が開いた。
「準備ができましたのでお越しください」
後頭部を押さえて悶絶する肉鞠=跳ねアンコウ=小男=芹沢を無視して私は立ち上がり、さっさと廊下に出てしまった綾さんを追う。
「すいませんね、あんなので……」先を行く綾さんのうなじを見ながら私は言う。「いつもあんな感じなんですよ」
「お手紙のお返事でもああいう感じでしたから、驚きはしません」
彼女はふふ、と笑い廊下の角を曲がった。もしかして言動に似合わずノリが良いのだろうか? 私は急に親近感の様な物を抱いた。
続いて廊下を曲がり、また進み、また曲がり……。奥の間へ通された時よりも数段複雑な経路を通って、とある部屋の前まで案内された。ここもまたぴったりと襖が閉じられており、廊下と中を厳然と区切っているような雰囲気に満ちている。
「森屋さん」急の問いかけに私は一瞬面食らう。「森屋さんは世の中に不思議なことは無いとおっしゃいますか?」
「それって京極ですか。さあ、としか。世の中の全てを知っている訳ではありませんし何とも言えません。ただ、タイムマシンを作る程度に不思議な奴なら一人知っています」
命の恩人です、と心の中で付け足した。
「八百比丘尼は人魚の肉を食べて永遠の若さを手に入れましたが、人の科学ではあとどれぐらいで永遠の若さを手に入れることができるのでしょうか?」
「そう、ですね。私もよく分からないのですが、細胞分裂の回数を決めるテロメアという物を増やせばあるいはできるかもしれません。癌なんかはそうして生き続ける訳ですから」
「生き続けるだけでは駄目なのです」
「若くなければ、ということですか?」
「はい」
アンチエイジングなどと益体のない言葉が頭を巡ったが、私の引き出しの中に老化防止についての小咄は一つも無かった。遺伝子異常によって老化が著しく早まる病もあるが、それとは逆に老化が遅くなる病もあるかもしれない。だがそれ以前に脳の一部では老化云々の前に産まれてからは分裂しない物まであると聞く。体は長生きできたとしても脳にガタが来て結局は不老不死は無理だろうと思う。
よく分からないと答えると、そうですかありがとうございます、と彼女は言って元来た廊下を引き返し始めた。「芹沢さんを迎えに行って参ります。もうしばらくそこでお待ちいただければと」
待つ以外術のない私は深海のような静謐に沈む。
空気すら微動することを恐れるように固着しているようだ。肌に静けさが張り付いてくる。木造建築特有の床板が軋む音すらしない。
呼吸を忘れる一歩前、綾さんに連れられ芹沢がやって来た。ふらふらと酔ったような足取りで私の隣まで歩いてくる。「お待たせぇ」