カリマンタン
早朝からジメジメとした、夏休みのある日。
いつものように小西橋まで散歩したあと、マンちゃんにブラシをかけていた。毛の薄くなった腹をなでたら指にコブのような硬いものが当たり、首をかしげる。
マンちゃんはキュウンと一鳴きして、耳をたれた。
「お祖母ちゃん! マンちゃんのお腹、なんか変」
「どれどれ……、あれ? ほんとだねぇ、お乳のところが硬いね。何だろかねぇ」
お祖母ちゃんは薄い体毛をかき分け、目を凝らす。
「今行けば、すいてるよ」
植木鉢を避難させていたお父さんが口を開いた。
「動物病院かい? 大雨だよ、明日にしないかね」
「カリマンタンの一大事だ。お父さん一人でも連れて行くよ」
「むりだし」
私が突っ込みをいれても、お父さんは首を縦に振らない。雨戸を立て終えたお祖母ちゃんは、いつものことかとため息をついた。
そもそも、『カリマンタン』なんてダサい名前を付けたのはお父さんだ。お腹にあるぶちの模様がカリマンタン島に似ているからつけたんだって。全くセンスがない。空気読まないし。
「マンちゃん。ほんっと、しかたないけど病院行きますよー」
「この天気の中出て行くなんて、近所の人に笑われるよ」
お祖母ちゃんもぷりぷりしている。
わたしは左手で洋傘をさして、右手でリードを引っ張った。駐車場まで引っ張っていくものの、なかなか言うことを聞いてくれない。セントバーナードもどきのマンちゃんは、わりに体重があるのだ。お祖母ちゃんと二人で後部座席に乗せようとした時、マンちゃんが身を低くして逃げの姿勢をとった。
「こらっ、マン!」
「マンちゃん、あばれないでよ!」
お祖母ちゃんのもめんのシャツに泥のついた足形、わたしの手一面にぬれた白い毛がべったりとつく。
「やれやれ、元気だねぇ、マンは」
「車に乗るのが、よっぽどいやなんだよ」
指に残った毛はざらざらとしていて、敷かれたビニールシートでそれをぬぐった。ハンドルを握るお父さんは、くしゅんっ、くしゅんっと季節外れのくしゃみをひびかせる。
ほんと、やんなっちゃう。
※※※※※
ガラガラの駐車場には、来た時よりも激しい横なぶりの雨が降っていた。先生が老眼鏡の下から、わたしたちをうかがう。
「乳腺腫瘍です」
お父さんが息を呑み、お祖母ちゃんは『あれ、まぁ』と言ったきり口をおおった。先生は張りつめた空気をほぐすように、言葉をえらぶ。
「今日の天気では、ほかの患者さんも来ないでしょう。肺のレントゲンと血液検査で問題がなければ、すぐにカリマンタンちゃんの手術が出来ますが、どうしますか?」
「先生、お願いします」
二人が頭を下げたので、私も慌ててそれにならった。受付でお金の説明を受けるお祖母ちゃんの曲がった背中を見ながら、お父さんに話し掛ける。
「にゅうせんしゅようって何?」
「胸の腺にガンが出来るんだよ。カリマンタンは小さいときに避妊手術していなかったから、かかる確率がどうしても高くなるんだ。あの時、ためらわずに手術すればよかった」
お父さんは悔やむように顔を覆った。
ガラス越しの手術台の上で、マンちゃんはプルプルとふるえている。白いブラインドが目の前で降ろされ、お父さんはがっくりと肩を落とした。
「カリマンタンは、小さい時からおくびょうなんだよ。避妊手術のときも、すごくおびえていたんだよ」
まるで今から自分のお腹を斬られるかのようだ。
「夏祭りの花火の音にも、そりゃあ、おどろいていたねぇ」
お祖母ちゃんが当たり障りない言葉を掛ける。お祖母ちゃんはもう、お父さん相手にぷりぷりしていなかった。
※※※※※
わたしたちは夕方五時の引き取りよりかなり早く病院に着き、マンちゃんが麻酔から目覚めるのを待っていた。英語の単語帳を意味もなくぺらぺらとめくるわたしに、お祖母ちゃんが酢昆布をくれた。お父さんは油すましみたいな顔で、テレビのトーク番組をながめている。
手術室から出てきたマンちゃんはぐったりして元気がなく、お腹を斬った後の全身をおおう包帯が痛々しい。首の周りに透明な衿が付けられ、わたしはいつかテレビで観たエリマキトカゲを思い出した。
「抜糸は二週間後に来てください。その間、傷口をなめさせないようにして下さいね」
「先生、本当にありがとうございました」
わたしはマンちゃんの隣にしゃがみ込み、頭をなでた。骨の形が手に伝わって、歳をとったことで新しくなったマンちゃんの感触が、どうしてか気持ち良い。
小さな顔を手でなぞると、マンちゃんがぺろぺろと私の指をなめる。力を入れて抱きしめるとキュンッと一声もれた。
※※※※※
その二日後の夕方、散歩に付いてきたお父さんが溜息を落とす。
振り返ると洋傘の水玉模様がくるくる回っていた。その子供っぽい動作にやけに腹がたって、私はマンちゃんのいわゆる土産袋を押し付ける。
「エリザベスカラー、カリマンタンはきらいなんだよ」
マンちゃんが地面の匂いをかごうとする先に、透明のプラスチックの先が土の上にささった。
「なんで、『エリザベスカラー』っていうの?」
「もともとは十六世紀から十七世紀前半に流行った襞襟が由来なんだ。当時はあんまり洗濯の習慣がなかったから、服の襟だけ毎日交換していたんだよ。レースと洗剤が発展することにより、貴族の富を表す象徴となっていったんだ。襟を鮮明に描ける画家ほどもてはやされ、イギリスのエリザベス一世の肖像画はそれを実にうまく再現してい」
「長っ! マンちゃん、もう行こうよ」
話を振るんじゃなかった。しばらくして、わたしは洋傘を斜めに傾げて、後ろをうかがった。お父さんは嬉しいような、困ったような、何とも言えない顏をしている。
家に帰ってパソコンを立ちあげ、『エリザベスカラー 犬 嫌い』と入力する。必要なものは、トレーシングペーパーとマジックテープとバイアステープと。
マンちゃんの口に好物の芋けんぴを運んでいたお祖母ちゃんに、声を掛けた。
「洋服作った時のあまりの布あったよね。それから、ミシン貸して」
「絹が自分から珍しいねぇ。何を始めるんだい?」
「マンちゃんの服作る。エリザベスカラー外してやりたいってお父さんが言うから」
お祖母ちゃんは、しわくちゃの手で私の髪の毛をかきまぜる。
「絹は優しいねぇ。お父さんにそっくりだ」
「やだよ! あんなのに似たくない。犬好きの犬アレルギーなんて最悪じゃん」
マンちゃんがキュンッと鳴く。雨は上がり、空には大きな虹が掛かっていた。