蚊帳の灯 ~繰り返す悪夢~
すべてを飲み込む闇は、ゆっくりと進む。誰も逃れることなどできない。
そんな闇にまた一人飲み込まれていく。
隣にいる彼の柔らかいくせ毛を撫でる。こうすれば、彼はゆっくりと瞳を開く。そうして私にかすれた耳心地の良い声で囁くのだ『愛してる』と。
しかし、今日は違った。彼は鋭く光る瞳を私に向けて、こう言ったのだ。
「お前は誰だ」
その言葉は私の心を抉った。ぎこちない笑みで固まった私を見て、彼は冷たい声で拒絶する言葉を吐くが私が理解することは出来なかった。
呆然とする私を彼は乱暴に家から出し、私のカバンを投げつけた。
「待って…」
無様な言葉は彼に届くはずもなくただ空に溶けた。
固く私を拒む扉は私の身長の倍あるような気がした。
スベテのモノが灰色に見える。
「なんで… 彼は…」
虚ろな瞳には何も映らない。私は重い身体を引きずるようにして唯一の安息の地である、こじんまりとしたアパートに帰った。
ガチャと扉を開け、奥の部屋にあるベットに倒れこむ。もう何も考えたくなかった。
しかし、目を瞑れば彼の私を拒否する冷たい瞳を思い出してしまう。
「イヤ… どうして…」
彼に突き放された身体は冷えていて、いくら毛布を被っても温まることは無かった。
どうしろというのだ。私から何もかも取り上げた彼は、無情にも心さえも壊した。
私は体を小さくまるめ、ぎゅっと自分を抱きしめる。
もう外に出ることも嫌だ。彼はきっと私じゃない女と腕を組んで歩いているだろう。
「ああ、私が何かしたの?」
この状況がまるで悪夢のようだった。いや、夢なのだろうか?
しかし、頬を流れる冷たい涙が、これが現実なのだということを表していた。
嗚咽すらせず、はらはらと流れる涙は苦くて、そのことが余計に辛くて、頬を流れるものはボロボロとこぼれる様になった。
もう、時間の感覚すらわからない。
ずっと泣いているか、泥に飲まれるような眠りにつくだけになった。
虚ろな心は次第に闇からの手に逆らわなくなった。その手に身を委ねる方が、早くこの苦痛から逃れることが出来ることを知っていた。
もう、体を動かすことすらできなくなっていた。
虚ろに天井を眺めていた私はもうすべてを諦めていた。
その時、ふいにガチャっという音が静かな部屋に響いた。
「?」
この部屋のカギは私しか…
そのことに気がついたとき、ぞわっとした鳥肌がたった。
虚ろだった瞳に光が戻った。
「イヤだ」
死にたくない。
すべてを諦めてしまったはずなのに、その気持ちがあふれた。
ぎし… ぎし…
それはゆっくりと近づいてくる。
そして、その足音は私のいる部屋の前で止まった。
「ヒッ」
喉から引きつった音が漏れる。
しかし、扉は無情にもゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは――――彼だった。
「どうして…」
「ああ、やっと見つけた」
最後に見た時の冷たい面影は見る影もなかった。
瞳は甘く蕩けているし、柔らかい笑みを浮かべている。
「さあ、帰ろう」
男らしい手を私に向けてさわやかに笑う彼に私は――――
あれから、私はいつもの生活を取り戻した。彼は優しく私を真綿にくるむように大切にしてくれている。
今日も隣の熱を感じながら瞳を開いた。
隣には柔らかそうな髪を持つ男がいる。彼は薄目を開けて私の頭を撫でた。私は問う。
「あなたは誰?」




