第十四話 心配と警戒
やがて教室にやってきた切絵とも挨拶を交わし、始業のチャイムとともに教室になだれ込んできた生徒も席についた頃、全くもってスーツを着こなせていない男性が教室にやってきた。
男はこのクラスの担任だった。軽く自己紹介を終えてから生徒が全員登校しているのを確認し、席は今のままで決定と一方的に告げる。
「えー? 席替えしないんですか?」
「どうせ選べるんなら向こうのほうが良かったなぁ……」
様々上がってくる生徒の非難の声を無視した担任は、始業式を行う体育館に移動するため、廊下へ出て整列するよう指示して教室から出る。
あまりのちゃらんぽらんっぷりに生徒が呆れ半分の戸惑いを見せる教室で、瑠璃は一人顎を抱える。
「もしかして、今のうちに席を好きに移動しろって指示なのかな?」
「あの方は授業でもお手を緩めておられましたから、元々あのような性格なのでしょう。断言は出来ませんが……」
切絵は瑠璃の言葉に眉をひそめた。
新菜は既に席を立っており、廊下で行動の早い数人の生徒とともに整列に備えている。
――まあ、あの調子じゃ出てくるまで数分かかるでしょうけど。
担任はクラスに退出を促すでもなく、のんびり扉の前に立っている。
――生徒を威圧までしちゃうのもあれかもしれないけど、これじゃいつまでもまとまらないんじゃないかしら。
ほとんど生徒がいないので結局どこに立っていれば良いのかわからず手持ち無沙汰になった新菜は、小さくため息をついた。
流石に中学二年生ともなると、促されるまで動かないわけがなく、少しずつ生徒が教室から出てくる。誰とも無しに出席番号を確認し合い、整列は十分ほどで終わる。
指示から整列までの時間が矢鱈とかかっているのは事実だが、周りに比べて遥かに遅いという事もなく、前後のクラスと同じくらいには落ち着き、担任は前のクラスが動き出したのにあわせて生徒を引率する。
もっとも、周りと時間に差がでなかったのは出欠や席の確認などを全然しなかったせいで早く指示が出た結果であり、他のクラスは新菜たち二年二組の五倍は早く整列を終えたあたり、新菜の推察は見事に当たっていた。
移動中、クラスの列からは心配の声が漏れる。一様に担任の適当さに対しての言葉であり、全く無用な点でのクラスのまとまりは生まれていたのだが、それが全く無用なまとまりであるという点で担任の頼りなさを物語っていた。わずか二十分にも満たない間で、住む場所と年齢だけが基準で集まっている三十人がほとんど綺麗に一様な心配を抱くのは、ある意味奇跡的である。それだけ担任の評価が分かりやすかったのだが、それは完全な悪評である。
体育館には新二、三年生が集まり、主任教師の進行で始業式が始まる。
校長の挨拶などを殆どの生徒が聞き流す中、新菜は式の合間に体育館を見回す。体育館には切絵以外の超能力者の気配は感じられない。
体育館は新菜の気配に対する探知範囲より少し広い。しかし、生徒が並んでいるのは全面積中の約三分の二である。一年生がまだ入学していないため全体が前方に詰まった形になっており、新菜の探知範囲の外には生徒も教師もいないはずだ。新菜はだってある程度予想がついていた事だが――中学に他の超能力者がいないとようやく把握できて落ち着く。新菜は自分が周りを自然と見ているのに気づき、数日前、切絵の登場で冷や汗をかいたせいもあって、大分疑い深くなっているなと感じた。
教室に帰ってきた新菜たち二年二組一同を待っていたのは、生徒を全く把握していない担任教師という、不安を裏付ける現実だった。
一年の時に教員として全クラスで国語を教えていたというのに、殆どの生徒の顔と名前が一致していない様子だった。冗談半分でちゃんと誰が誰だかわかっているのか試した生徒を含め笑うに笑えない状態となった中、担任はどうせだからと自己紹介の時間を設け、予定を決めていなかった事と、自分が全く生徒の事をわかってないのに自己紹介もさせない気だったのだと生徒にわざわざ伝える暴挙に出た。
流石にここまでされると大抵の生徒が不安を超えて呆れを見せる中、
「大丈夫なのでしょうか……」
切絵は不安を見せつつも、呆れた素振りは全く見せていなかった。
「あたしたちが自分で頑張るしか無いわね、こりゃ」
新菜は呆れている中、瑠璃だけは相変わらず考え込んでいた。
「やっぱり作戦なのかな。ここまでダメって普通有り得ないよ」
「それが原因で舐められてちゃ世話ないわ。大体、常識は塗り替えられるものって言ったのは瑠璃じゃない」
生徒を呼んで場所を確認し、座席表を作りつつ自己紹介を始めさせた教師を見ながら新菜は瑠璃に突っ込む。事実、生徒の中には早くも緊張感を完全に切った者が多数出ており、担任は着任から一時間で、生徒からの評価を「定着した」と言えるほど低い場所へ投げ捨てていた。
自己紹介もぐずぐずになり、本来ならそれも含めたオリエンテーションの時間である二時限目を終えても数人が残った形になった。三時限目は教科書の配本を終え次第下校の予定なのだが、担任は躊躇なく予定を繰り下げ、三時限目の最初で残り数人の自己紹介を行うと言って教室を後にする。宙ぶらりんの数人が落ち着かない様子を見せる中、休み時間は進んでいった。
「自己紹介どうしよっかなぁ」
瑠璃はそんな数人に含まれている。
「去年とおんなじでいいんじゃない?」
新菜はカバンを大きく開けて机の上に置いて言った。
中学生に上がり、半分は他の小学校からの生徒という状況で行われた一年の時の自己紹介で、瑠璃は趣味として超常現象の話を出し、これ以上無くクラスに自分の事を知らしめた。不思議系のキャラなのかと思った生徒も数人いたが、その数人の考えは部活動説明会前の休み時間に振られた話にガチンコで応える瑠璃の姿にこれ以上無く砕かれた。他方、瑠璃としては当り障りのない話をしたつもりだったらしく、元々彼女の気質をかなり知っていた新菜に対してしょげかえる姿を見せたりした。
「二の舞いするのも嫌だし、今回はやめとくよ」
瑠璃にとっては苦い思い出らしく、文字通りの苦笑を見せる。
「そう」
新菜は机に頬杖をついて適当に相槌を打つ。苦笑には全く気づいていない。
彼女の意識はこの後の事に向いていた。相当すっとこどっこいらしい担任に大分気を引きつけてもらっていたが、グズグズなりに自己紹介が進むうちに平静を取り戻してからは一転、集中力を失っていた。
――大丈夫なのかしらね、本当。
彼女が心配していたのは、午後の監視の事だった。
下校して昼飯を食べた新菜は、適当にブラブラしてくると母に伝え、自転車で紬のマンションに乗り付けていた。
駐輪場に自転車を止める。泉行は坂が多いが、小さな頃から暮らしている新菜は慣れっこで、出かける時にはマウンテンバイクをよく使う。中学入学に際して立派なものを買ってもらった新菜は、盗まれないようにチェーンロックを駐輪場の柵にガッチリ回し、マンションへ入る。
ダイニングでは、四人が揃って紅茶を飲んでいた。
「お待ちしていました」
紬が新菜に椅子を明け渡し、部屋に下がっていく。
「んじゃ、手はず通りだから後は頑張れ」
弘美が激励して廊下へと歩いて行く。その後ろにセレナもついていく。
今日の午後の監視は、新菜と切絵の二人で行う事となっている。
一昨日切絵が、昨日は新菜が手順を教わった。今回の組み合わせは、今まで経験のない二人が最低限でも警戒が出来るかのチェックである。可能だと判断されれば、事件が長期化した時、仕事の割り振りがやりやすくなる。
もちろん、別に何かするわけではない。
新菜は紅茶を口に含んだ。
ほのかな苦味が美味しかった。
「さて、少し身体でも動かしませんか?」
二人がティーカップを洗い終え、リビングのソファーでのんびりしていた時、切絵が言った。
「何でまた。別に今じゃなくても良くない?」
「そうですけど、軽いトレーニング程度なら今でも問題無いでしょう」
新菜は思案する。ハイパースペース以外で活動する時のために、ジーパンとトレーナーという動きやすい格好をしてきたので、運動には差し支えない。トレーニングやストレッチならそう音も立たないし、警報を無視して熱中するほどの事もないだろう。
「ま、問題ないか。一緒に運動するのも久しぶりね」
「ええ」
新菜と切絵はニッコリと笑った。二人は度々一緒に運動、それもトレーニングのたぐいをする。二人とも武術を嗜んでいるため、そのような運動が必要であり、また好きでもあった。トレーニングに普段から付き合う人間はそうそういない。
切絵と親友なのも、そんな趣味の一致から育まれた部分が大だった。
二人は並んで準備体操をする。室内用の、ストレッチに重きを置いたものだが、新菜は身体に違和感を覚える。
――あれ? これって……
首をかしげる新菜を見た切絵は一人頷く。
新菜は二度三度身体を動かして確認してから、切絵の方を見た。
「ねえ。もしかして目的はこれ?」
「何の事でしょうか?」
新菜の疑問に疑問で返す切絵だが、彼女の顔は明らかにとぼけていた。
――言葉にさせる事も目的ってわけね。
「負荷がかからないのよ。ハイパースペースで戦ってる時みたいに、身体が簡単に動いちゃう感じ」
切絵は今一度頷く。
「的確な把握だと思います。さきおとといは折が悪く、お伝えする事が出来ませんでしたが、超能力による変化の一つです」
切絵の説明を聞き、新菜は更に感覚を確かめるため、構えを取って突きを繰り出す。
違和感はより如実になった。
――しっかり動かないと気づけないわね、これ。
更に二つ、拳を出して把握した新菜。
「結構、影響大きくない?」
「日常生活では別ですが、わたくしたちの場合には問題化しますね」
切絵は新菜の前に回る。
「体感していただけたのであれば、少し説明をさせていただきますわ」
凛と背筋を伸ばしながら、切絵の講釈が始まった。
超能力者は超能力の使用に、パワーというものを使用する。昨日、セレナが新菜に燃料と説明したものだ。基本的に超能力を発揮する際重要になり、意識するのも超能力を発揮する時ぐらいのものなのだが、実際には常に利用していると考えて差し支えないほど頻繁に使用される。
超能力に目覚めると、普段からパワーを用いて身体を制御するようになるのだ。
この影響は、大きく動く際、新菜の言うとおり、負荷が小さく感じられる形で現れる。通常との負荷の差が、パワーによって制御が賄われている部分となる。
「でも、それだけだと感覚と完全に合致しないかな。もっとこう……負荷が減ってる部分は筋肉に関係なく身体が勝手に動いちゃってる感じ。パワーが負荷を補ってくれてるって話なら筋肉が普通に動くんじゃないかなと思うんだけど、身体が半分操り人形になってる印象が強いわ」
「その通りです。パワーラインは大抵、筋肉に沿う形ではありません。パワーラインに乗ったパワーが身体を物理的に動かすので、運動と感覚が変わります」
「パワーライン?」
「パワーを大きく発揮する際、身体から放出するために利用する部位の事です。一昨日の戦闘、最後はわたくしが一人で動いていたのは覚えていらっしゃいますか? その時、新菜はわたくしの方を見ていたと思うのですが」
「見てたわよ。剣閃を追うのがやっとだったわ」
新菜の頷きに、切絵は一瞬言葉に詰まる。
「……もしかして、他の部分は全く認識していないのでは?」
「そうなのかも。少なくとも今なんの話をしてるのかわからないわ」
返答を受け、切絵は目を瞑って眉根を寄せる。切絵が考え事をする時の動きだ。
「一瞬で集中するべき点を絞れるのは素晴らしいと思いますが……困りましたね。その際にパワーラインが見えていたはずだったのですが、今までの話からすると、ここでお気づきになられていない時点で見えていない可能性が高そうですわね」
目を開いた切絵の言葉に、今度は新菜が目を瞑り、その時の事を回想する。全くもって見えた覚えが無い。
「確かに見えてないわね。気づいてなかったわ」
それを聞いて、切絵は再び目を瞑り、しばし思案する。
「でしたら、とりあえずそういうものが身体に、内側から皮膚の表面まで伸びる形で存在するとだけ把握してください。あるのが把握できているか否かだけが問題でしたから」
「なるほど。で、そのパワーラインっていうのを使って、超能力があたしの身体を勝手に動かしちゃう。そのせいで、あたしは変な身体の動かし方になってると」
頷く切絵は、潜めていた眉を緩める。
「はい、そういう事です」
「うーん、それって結構困るわ」
「ですね。型が崩れます」
切絵は一度正座し、膝を開いて太ももに手を当て、再び立ち上がる。
「居合の所作ですが、これ一つをとっても、超能力の影響を抑えるには慣れが必要でした。父には急に腕が落ちたと心配もされました。ですが、今では問題なくこなせます。パワーの影響を完全に無くす事はできませんが、減らし、ごまかし、鍛錬の意味も生む事が出来る程度には弱化が可能です」
新菜は視線を下げて頭を掻く。
「今日、七時半から稽古があるのよね……」
「ですので、丁度今のうちに指導をさせていただこうと思っていました」
切絵はリビングの中央にあるソファーテーブルをひょいと持ち上げる。豪奢なきらいのあるそれは十キロはあり、いかに鍛錬を積んでいると言っても、普通は労なく動かすのは難しい代物なのだが。
「少し実戦的に対処を学びましょう。問題は先送りという形になりますが、全く手を打たないよりは遥かに見た目をカバーできますし、慣れるための下地にもなります」
新菜は、勝手に動かして良いのかなと思いつつ、対処法を学ぶ事にした。
「もう少し、腹筋を締めてください」
「こう?」
新菜は切絵に足を抑えてもらい、腹筋運動をしていた。
しかし、彼女の身体は軽々と上に下に動いているが、筋肉はほとんど動いていなかった。
パワーは、身体の外側を沿うように現れ、操り人形の如く身体を動かしてしまう。
紐に引っ張られるだけでは、筋肉は大きく動かない。腹筋であれば、締まるように縮みこむ事によってようやく身体が持ち上がるところを、体が持ち上がる事によって少し縮みこむだけで終わってしまう。これでは見た目が異質なものとなり、違和感を周りに覚えさせる。
その対処法として、意図的に腹筋を使う事を通常よりもしっかりと徹底する必要がある。これによって、超能力は不要だと身体に教え、無用なパワーの利用を抑えられるようにしていく。
時間を掛けられるのなら、新菜の抱いた違和感を一つの指標にして、自分の中でのすり合わせをじっくり進めればいいのだが、現在時刻は午後一時半。
その道のプロに動きを見てもらう稽古まで、あと六時間しかない。
これだけ考えても、かなり急がないといけない事がわかる。
更に、新菜は普段の生活で筋肉をちゃんと使ってみせなければならない場面が存在するのに加え、超能力を用いた戦闘に参加する可能性もあり、その際には、超能力の扱いやすいハイパースペースで超能力を用いた戦闘を行う都合上、筋肉よりもパワーを優先するべき状況になってしまう。
早々とすり合わせを済ませていかなければならない。
まずは目の前に迫った日常生活での筋肉の使用が優先だ。
何度も腹筋を繰り返す。新菜はパワーが身体を持ち上げる感覚を覚えられてはいるが、肝心要なパワーの影響を抑えて腹筋をしっかり使うというところが上手く行かない。
「普段から使う筋肉は意識してるんだけどなぁ」
「通常の運動では、あくまで意識でしかありませんから」
新菜の愚痴に、アドバイスを含めた注意をする切絵。
――ま、全身の筋肉くまなく意識してたら逆に動けないわよね。
新菜はより意識を腹筋に絞っていく。
人間は一つの動作で非常に多くの筋肉を使う。それらの中には意識すると動作が楽になる、適切になる筋肉が存在する。どれかの筋肉に意識を向けるという事は、単にその筋肉を動かすのではなく、その意識を利用して動きのバランスを取り、一つの動作をより洗練させていく意味合いのほうが強い。
自然と、普通に腹筋に意識を向ける事と、腹筋を実際に動かす事には若干の乖離が生まれるのだ。
なので、新菜は腹筋を強く意識して腹筋運動を続ける。普段行うよりも注意を集中させる事一時間、ようやくパワーの影響が抜けてくる。
「いいですわ、その調子です」
切絵は褒めるが、新菜は別の問題に気付く。
「これ、結構足腰に負担がかかると思うけど」
腹筋運動は、単に腹筋を縮めるだけでは成立しない。抑えがないと、腹筋を縮めると同時に足が浮いてしまう。抑えはこれを許さない事で胴体の方を持ち上げさせ、自重トレーニングを成立させるが、この際力の入れどころを間違えると、腹筋はあまり使えず、抑えの下で足を強く使う状態になったりする。腹筋を使えない形はなんとか避けられているが、足の方は通常推奨され、新菜も問題なく出来る腹筋よりも強く使ってしまっている。
しかし、それは少なくとも今の目標においては問題とならない。
「負担程度であれば、すぐにバイタルで補われますわ」
「そっか。故障の心配はだいぶ減るのね」
超能力者の身体はバイタルで保護されており、ケガやある種の病気に対して、即座に回復、あるいは抵抗する事で安全を保っている。これはハイパースペースだけではなく、現実世界でもある程度の効果を発揮している。
睡眠を少しだけ、あるいは取らずに過ごしても問題ないのも、このバイタルによる保護の恩恵である。
かくして、腹筋を無理やり使えるように変化させていく事に新菜は成功し、繰り返し身体に教え込んでいく。
更に一時間。新菜はようやく、集中すれば普段通りの見た目の腹筋運動が出来るようになった。
「……ふぅ」
「他の運動も是正のしかたは代わりません。新菜、今日の空手の稽古のメニューは分かりますか?」
「とりあえず、単純な筋トレはしないわね」
新菜は玉の汗を切絵から借りたタオルで拭きながら言った。
次回は2/17金曜日更新予定です。