二
初日――クリスティ・キーツ少尉の場合――
「なんなんだよ、これ……」
デイジーの最終試験、その内容が書かれているという指令書に目を通したクリスティは、思わず絶句した。
指令書の内容は以下のとおりだ。
『クリスティ・キーツ少尉は、試験が行われる一週間の間、同封した文書をデイジー・ロックウェル准尉の手から守り通さねばならない。ロックウェル准尉にこれを奪われた場合は貴公の負けとなる。なお、ロックウェル准尉がそれとわかるよう、この指令書が入っていた封筒に入れて保管すること。文書の破棄、および破損はこれを固く禁ずる。指令を受けた者同士、指令の内容を漏らすことも禁止とする。ただし、すでに勝敗が決した者同士の場合はその限りではない。奪取に関して、通常なら法に触れるような手段が用いられたとしてもロックウェル准尉は罪に問われないものとする』
要するに、デイジーは手段を選ばずその文書を奪いに来る。逆にクリスティは、デイジーがあらゆる手段を用いることを想定して文書を守らなければならない。そういうことだ。ライオネルが「ゲーム」と称しただけあって、これは一種の泥棒ごっこだ。
クリスティとしても、なかなかに面白い趣向だと思う。ではなぜ、彼女は血の気の引いた真っ青な顔で立ち尽くしているというのだろうか。問題は、クリスティが守らなければならないという文書だ。
それは、何の取り得もない町娘が、お忍びで街を訪れた王子様に見初められ恋に落ちるという筋書きを、甘ったるい修辞をふんだんに用いて描き出した――一種の詩のような文章。その写しであった。
ちなみに、文中に出てくる町娘の名前はクリスティという。クリスティ・キーツ十二歳、恋に恋するお年頃だった彼女が、町娘に自己を投影して綴ったものである。
「あの人、いったいどこでこんなものを……」
クリスティの全身はわなわなと震えていた。それは、記憶の底に封印したはずの過去だったはずだ。と、クリスティは指令書には二枚目がある事に気付いた。
『追伸。同封した文書は、ご実家のお母上の協力により手に入れたものだ。これによって、貴公がより真剣にこの試験に取り組むだろうという判断からである。お母上の几帳面さには多大な感謝をせねばならない。なお、原本はこちらで保管しているということをお忘れなきよう』
とある。
クリスティの母は何につけてもマメな性質で、商売人としてはどこか抜けたところのある父を上手くフォローしていた。店の帳簿や書類なども、実に細かく整理整頓していたものだが、まさか自分が戯れに書いたこの文章まできちんと保存しているとは。母親を恨まずにはいられない。
クリスティの真剣さが増すだろう、というライオネルの予想はまさしく的中している。こんなものを部隊の皆、特にフランシスなどに見られようものなら――想像しただけで、クリスティの頬が羞恥に赤く染まる。
「っ、悪趣味なことを考えるオッサンだな!」
憤るクリスティだが、原本を握られている以上立、階級を抜きにしても立場は向こうが上である。ならば、どうするか。
「……とにかくデイジーに奪われないようにすればいいってことだよね」
ライオネルも、みだりにクリスティの恥ずかしい過去を暴露するような男ではない。試験期間の一週間が過ぎれば、原本を返還することだろう。
細かいことを考えるのが苦手なクリスティであるけれども、ここは自身の名誉がかかった大勝負だ。必死に頭を働かす。
前提としては、デイジーにはクリスティと逆の指令がなされているだろうということ。つまり、手段を問わず文書を奪取すべしということだ。
まず、肌身離さず持ち歩き続けるのはどうだろう。
いや、駄目だ。何かの拍子に落としたりしたら洒落にならないし、格闘訓練などの際に掏り取られる危険性もある。それに、文書を破損させることは禁止されている。訓練をするとき身につけていたら、汗に濡れたり破れたりする可能性が高い。
「そうだ、デイジーの明日の予定は――」
クリスティは、訓練の予定が記された表を見る。幸いなことに、翌日クリスティとデイジーの予定はほとんど被っていた。
「うん、とりあえずこれなら大丈夫だね」
唯一被っていないのは、デイジーが外国語の講習を受ける時間だ。しかし、その間クリスティは空き時間となっている。つまり、クリスティはデイジーの行動をほぼ把握できるということだ。
デイジーが怪しい動きをすれば、すぐに警戒することができる。これならば、とりあえず明日は大丈夫なはず。翌々日以降のことはまた考えればいい。
そう結論付けたクリスティは、一安心して就寝するのだった。
翌日。部隊の起床時間をもって、正式にデイジーの試験が始まった。
起床ラッパに目を覚ましたクリスティは、まずれいの文書が机の引き出しにあるのを確認した。さすがにこの時点で封筒を奪うことは不可能だが、それでも確認せずにはいられなかったのである。
「よし……」
ぴしゃりと頬を叩き、気合を入れる。これから一日間、わずかな油断も許されない。作戦前に匹敵する緊張感である。
クリスティはデイジーが先に兵舎を出るのを見ると、机の引き出しの一番下に封筒を仕舞いこむ。普段は部屋に鍵などかけないクリスティだが、この日は念入りに施錠して兵舎を出た。
午前中、クリスティはデイジーからぴったり離れず行動した。訓練スケジュールは全く同じだったので、それは難しいことではない。困ったのは、手洗いに行くタイミングを合わせることくらいであった。
「今日はなんだかずっと一緒だな」
昼飯時。食堂にて、デイジーは含み笑いを浮かべながらそう言った。そらとぼけてはいいるが、無論クリスティの警戒には気付いているのだろう。
「まあ、偶然じゃない?」
クリスティも負けじとそ知らぬ顔を作ってみせる。
「ふう、二人ともお疲れさま」
と、フランシスがクリスティの隣に腰掛けた。フランシスも、午前中はこの二人と同じ訓練を受けていた。
「どうしたの、クリス。なんかいつもより疲れてように見えるけど」
「なんでもないよ、大丈夫」
「そう? ならいいけど」
それ以上は追求しようとせず、フランシスも食事に手を付け始める。
なにしろ、何かしらの指令を受けた「敵」同士である。独特の緊張感に包まれる中、三人は食事を取った。
「ふう、ここの飯は美味いねぇ。給料が出る上に飯も食べ放題なんだからありがたい話だ」
アマディアスの貧民街育ちであるデイジーの感想は、貧しい孤児院で育ったフランシスとしても多いに共感できるものだ。
「そのうえ、勉強も教えてもらえるんだから贅沢だよ」
「いやぁ、あたいとしては勉強は勘弁してもらいたいんだけど……午後も初っ端から外国語の講義だから気が重いよ」
一瞬、クリスティの眼が鋭く光る。この日唯一デイジーとは別行動となる、一番気をつけなければいけない時間だ。
「外国語、ってのも面白そうだけどね。ほかの国の人と喋れるようになるって素敵なことだよ」
「フランシスは本当に殊勝だねぇ。ときに――フランシスが守らなきゃならないものってなんだい?」
「守る――って昨日の指令のこと? さすがに言えないよ」
「ちぇっ。フランシスのことだから、何気なく尋ねてみたらポロっと言っちまうんじゃないかと思ったんだけど」
互いに秘密は厳守しなければならないので、その内容を尋ねることはできない。しかしクリスティが察するに、フランシスもまた、何かをデイジーに盗まれないよう守るという指令を受けているようだ。
「酷いな。僕はそんなに単純じゃないよ」
「ごめんごめん、堪忍してくれよ」
そう言うと、デイジーは空の食器を手に立ち上がる。
「さて、あたしもお先」
デイジーを見失うわけにはいかない。クリスティもデイジーを追うようにテーブルを後にした。
デイジーが向かったのは、基地の教練棟にある講義室である。外国語の講義とは無関係のクリスティがそこまでついて行くのは不自然だ。数十メートル距離を取り、遠巻きにデイジーの後を尾ける。なにせデイジーは、怪盗として暗躍しながら一度たりとも捕まらなかったのだ。油断のならない相手である。少し目を放した隙に逃げられることも考えられる。
「そうだ、念のため――」
クリスティは『切り替え』を行う。さしものデイジーとて、感覚器官が強化された竜人から逃れるのは容易なことではない。アマディアスでの追跡劇では土地勘のあるデイジーにしてやられたが、ここは勝手知ったるシラーズ基地だ。
クリスティに尾行されていることに気付いているのか、それとも気付いていないのか――デイジーは実に悠然とした足取りで基地内を歩く。
教練棟に入り、講義室へ――ここまで、おかしなところはない。講義室の窓は開閉ができない、いわゆるはめ殺しである。しかも、ひとつひとつが小さく、ガラスを割ったり外したりしても人が通り抜けることはできない。廊下側には窓がないため、外から中の様子は見えない。しかし、入り口のドアを見張ってさえいれば、デイジーが抜け出すことは不可能なはずだ。
デイジーが確かに講義室に入ったのを見届けると、クリスティは廊下に腰を下ろした。あとは、一時間半ほどの間その場で張り込むだけだ。退屈ではあるが、背に腹は代えられない。ちょうど昼食後の眠くなる時間帯である。クリスティは必死に眠気をこらえつつ、講義室のドアを見守るのだった。
そして、一時間半が経過。基地の鐘が打ち鳴らされ、講義時間の終了を告げる。クリスティは身を翻し、廊下の角に身を潜めた。
講義室からはまず外国語の教官が姿を見せ、それにデイジーが続く。
「うん、大丈夫みたいだね」
あとは残りの訓練の間、デイジーから離れなければいいだけだ。
夕食を終えたクリスティは、胸をなでおろしながら自室に戻った。午後の訓練中も、そのあとの夕食中も、片時もデイジーから目は離さなかった。不審な動きもなかったはずだ。
「あとは、寝てる間だなぁ。枕の下にでも敷いておけば、デイジーも手が出ないかな――」
などと独り言を漏らしながら、護るべき文書を仕舞っておいた引き出しを開く。
そこで、クリスティは愕然とする。
「――どうして――たしかにここに入れたはずなのに!?」
どこにもないのだ。封筒は、煙のようにそこから掻き消えていた。万一の可能性にかけて、引き出しのほかの段を探してみる。しかし、結果は変わらなかった。
「探し物はこいつかい?」
クリスティが気付かぬうちに、デイジーが部屋の戸口に立っていた。手には、見覚えのある封筒――
「ええっ!? どうしてそれを――」
自分の文章を奪われたことに対する羞恥心よりも、疑問が先に立つ。
あれだけ気をつけていたのにどうして――
「さて、種明かしは試験が全部終わってからだね。まずはあたいの一勝、ってところかな」
クリスティは、去り行くデイジーの背中を呆然と見つめることしかできなかった。




