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魔術の都の半天半魔  作者: 田神遊斬
一巻 物語の始まり、少年の覚醒
5/6

第四章 決戦

アルフレッドは森の中をひた走った。

悲壮に満ちた顔を涙で濡らす幼い少女を追って。

「待てよリタ! っくそ!」

走りながら先を逃げる少女を呼び止めるが、どうやら錯乱しているのかそれとも本当に聞こえていないのか、返事もなければ足を止めることもせずにリタは森の奥へ奥へと走って行く。

木々の海を駆けていたアルフレッド達だがいつの間にか周りの樹木の数が減って、少し開けた空間になっていた。これまで無数の枝葉によって遮られた月光が直に降り注ぎ、辺り一面を煌々と照らす。今まで暗闇に居た分明る過ぎると思ってしまうくらいである。

と、しばらく逃走劇を続けていた二人だったが、前を行く少女が足をもつれさせて前のめりに激しく転倒する。

「おい、大丈夫か!」

慌ててうつ伏せに倒れる少女に駆け寄ろうとするアルフレッドだったが、

「来ないで!」

拒絶の言葉を投げかけられアルフレッドの足が止まる。

リタは起き上がろうとするが、その動きはとても弱々しい。加えて胸を押さえて呻き声を上げる少女にアルフレッドはただならぬものを感じる。

「もう・・・・・・リタのことは・・・・・・放っておいて」

痛みに呻きながら途切れ途切れにリタはそう言った。

「どうして、リタばかりがこんな目に・・・・・・合うの。リタは・・・・・・パパとママが居れば、それだけで良かったのに。それだけで幸せだったのに・・・・・・ただそれだけしかいらないのに」

胸の内にあったものを吐き出すようにリタは言葉を紡ぐ。

アルフレッドは静かに少女の心の叫びを聞いていた。

「リタから何もかも奪うこんな世界なんて、壊れてしまえば・・・・・・いいんだ」

ゆっくりと立ち上がり、少女が振り返る。

それまで背中しか見えずにいたリタの表情が露わになる。

そしてアルフレッドは言葉を失った。涙で濡れたリタの瞳は深紅に染まり、鎖骨辺りに埋め込まれた拳大の黒い塊が邪悪な光を放っている。

「リタ・・・・・・お前」

「このままじゃ、リタも殺される。何にも悪い事してないのにっ、・・・・・・死に、たくない。・・・・・・死にたくない死にたくない死にたくない死にたくないっ!!」

叫ぶと同時、リタの周囲の地面が突如陥没する。

ただならぬ気を肌に感じてアルフレッドは息を呑む。

突如として起こる異常事態に呆然として立ち尽くすアルフレッドなど気にもせず、新たな異常が起こる。リタの胸に埋め込まれた漆黒の結晶が僅かに放っていた光の輝きを増したかと思うと、結晶の前に黒い球体が現れた。

そこではたと気付く。

アルフレッドの記憶の引き出しが開かれ、昼間の映像が脳内に映し出される。

路地裏で、不良達を蹂躙していた男子生徒。よくよく思い出してみるとあの学生もリタと同じように瞳を赤く染め、胸に黒い塊が埋め込まれていた。そして現れたあの黒い球体、あれは・・・・・・っ!

「まずっ」

アルフレッドは慌てて横に飛ぶ。

さっきまで自分が居た場所に目を向けると、リタの前に浮かぶ黒い球体から目にも止まらぬ速度で放たれた黒い光線が地面を抉っていた。しかし攻撃はそれだけで終わらず、続けざまに二射目がアルフレッドを狙う。

二射目も何とか紙一重のタイミングでかわし、すぐさま次の攻撃に備えて態勢を整える。だがこれまで避けれているのはあくまで自分の居た場所から逃げているに過ぎない。早すぎる黒い矢をアルフレッドの目は捉えることができておらず、もしあの攻撃が精度増すか、あるいは複数の矢が来れば避けきれずに当たってしまうだろう。

「やめろリタ! 一体どうしちまったんだよ。あいつに何をされた!」

必死の呼びかけをするアルフレッドだが、その声がリタには届かない。

彼女は大粒の涙を流しながらぶつぶつと何かを呟いている。

「リタは殺される、リタは殺される。・・・・・・死にたくない死にたくない・・・・・・うっうう、ママぁ・・・・・・死にたくないよぉ」

その間にも黒い球体から第三射、四射と続けざまに黒い光線を放れ、アルフレッドを襲っている。すんでのところでかわし続けながらアルフレッドは歯噛みする。

(くそっどうすれば・・・・・・)

もう何射目か分からぬ攻撃を回避しながら思考を巡らせる。

だが当然正体不明のリタの症状と謎の攻撃に対策など浮かぶ筈もなく、アルフレッドはただ逃げることしかできない。

焦燥が募る。何もできない無力な自分に苛立ちを覚える。

(やっとここまで来れたのに。目の前にリタはいるのに。俺は何もできないのかよ)

リタと出会い、彼女の境遇を知り、救いたいと思った。

こんな幼い少女に残酷な仕打ちを与え続けるこの世界から救ってやりたかった。

彼女の為に、何より自分の信念を貫く為、母との約束を守る為に少女を救いたかった。

(ちくしょうっ)

悔しさにアルフレッドは内心で舌打ちした。

目の前の少女は焦点の合わない虚ろな瞳を地面へと落としている。

対抗策を必死に考えるアルフレッドだが、その間にも黒い光が彼を撃ち貫かんと迫る

(このリタの状況は明らかに昼間の学生と同じだ。てことはあの学生もあの紫野郎に何かされたのか?)

昼間不良にからまれていた男子生徒、彼も今のリタと同じ状態だった。

そして、男子生徒と同じということは、エストラシルで起こる謎の連続通り魔事件の被害者達とも同じ状態と言える。これは偶然ではない筈だ。

(あの紫野郎が犯人ってことか)

 アルフレッドの内にあった怒りがより激しく渦巻いていく。

 少女だけでなく、エストラシルの人々まで、あの男は苦しめていたのだ。

しかし、昼間の男子生徒と同じということは、今少女の目の前にある黒い球体は彼女が出していることになる筈だ。そして黒い球体から放たれる漆黒の矢は絶大な力を誇っていた。だがこれでは連続通り魔事件の被害者達は“強大な力”を手にしただけで、被害に遭ったという訳ではないのではないか。

――ちょっと待てよ

持っている情報を整理していたアルフレッドは、ふと思い出す。

あの男子生徒が辿った末路を。体中からどす黒く鉄臭漂う液体が溢れだし、自らが作った深紅の海に倒れこむ男子生徒の映像が再生される。

(まさか、リタもあんな風に。・・・・・・いや待てよ、あいつは完成体が出来たって確か言ってやがったな)

完成体。その言葉から様々な可能性を考える。

もしあの紫頭の男の言葉を信じるのであれば、リタは完成体であり昼間の学生はそうでないということになる。不完全が故に学生は血を流したのだとすれば、リタがそうなる可能性は少ない筈だ。

その可能性にアルフレッドは少しだけ安堵する。

安堵して気が緩み、回避行動が少し遅れたアルフレッドの頬を黒い矢が僅かにかすめる。かすめた頬から血が逃れ落ちた。背中がひやりとする。もう少しで顔面に風穴が開くところだった。

(まずい、このまま逃げ続けりゃ俺の体力がもたない。それに)

アルフレッドはあの男の言葉をもう一度思い出す。

『ふ、ふふふふ。はははははははははっ! やったぞ、遂に完成だ。どいつもこいつも半端もんにしかならなかったが、ようやくだ。ようやく俺の目的は遂げられた。後はこのガキが覚醒するのをゆるりと待つだけだ』

覚醒を待つ。その言葉の意味をアルフレッドは考える。

今の状態から更に変化するのだろうか。何にせよ嫌な予感しかしない。今よりも悪い展開しか想像できない。

(どっちにしろタイムリミットがあるのかよくそっ)

制限の分からない限界時間が刻々と過ぎていく。アルフレッドの体力が尽きるのが先か、覚醒とやらが起きるのが先か、とにかくそれまでに策を打たねば取り返しのつかない事になる。

思考を巡らせる程加速する焦りに潰れそうになっていたアルフレッドだったが、ふと現実に意識を向けると異変に気付く。

(攻撃が、止んだ? 一体何が)

いつ間にか避け続けていた黒い光線が止んでいた。

変化した状況にポカンとしていたアルフレッドだが、一つの嫌な可能性が頭をよぎる。そう、二つあるタイムリミットの一つ、覚醒だ。

まさかもう時間切れか、と焦るアルフレッドの視界に、宙に浮き続け黒い矢を放ち続けていた球体が映る。

その瞬間、怪しげに浮かぶ黒い球体が動きを見せた。

綺麗な球を形作っていた黒色がぶよぶよと蠢く。その光景はまるで球体の中に閉じ込められた生き物が逃げ出そうと暴れているようだ。

が、少しの時間蠢くとまたすぐに元の美しい程の精密な球体に形を戻す。予測不可能な動きを取る謎の球体に、アルフレッドは困惑しながらも警戒に気を引き締める。

しかし、事は瞬きの内に動いた。

「え」

間抜けな声が出る。

何が起こったのか理解するのに数秒。

右肩、左足の太もも、右脇腹から血が出ているのに気付くのに更に数秒かかってしまう。

そう、黒い矢が再びアルフレッドに向けて放たれたのだ。それも今までの単発射ではなく、複数の黒い光線が同時に。

不意打ちに反応出来ずに、アルフレッドの体のいたる所を漆黒の矢がかすめる。かすっただけで済んだのは単に運が良かったからなのか、それとも使役するリタが錯乱状態にあるから精度が無くなっているからなのか。

とにかく、あんなのが続けば体力が持つ持たないの話ではない。精度が悪いとはいえ一発一発が致命傷になりえるのだ。それが何発も同時に放たれれば回避に必要な体力は今までの比ではない。

キリキリと傷口が痛む。痛みが全身に伝わるのを感じる。

絶望的な状況にアルフレッドの額に嫌な汗が滲んだ。

そんなアルフレッドをあざ笑うかのように、黒い球体から次撃が放たれる。

今度こそ彼の体をハチの巣にする為に。


                   *


闇に沈んだ巨大樹の立ち並ぶ森の中に、月光とは違う別の光が明滅を繰り返していた。

新たな光源は魔術陣。

金髪の少女――エメリルファ=アーデライトが魔術を使役しているのだ。目の前の黒一色の服に身を固めた男を倒す為に。

今もまた、彼女は魔術陣を一つ展開させ、男に向かって氷の槍を放つ。

「おらおらどうしたっ! 全然効かねえぞこらぁ!」

対する黒ずくめの男は襲い来る氷の魔術をことごとく打ち砕いていく。

男は魔術も何も使わずにただ己の拳のみを使って、セフィライアで最上級の等級を持つエメリルファの魔術攻撃を防いでいた。

(信じられませんわ。ただの拳でこうまでわたくしの魔術に対抗できるなんて)

しかし、気になる事が一点。

男は拳だけを使っているとはいえ、その体からは膨大な魔力の流れを感じる。だが魔術陣が展開されていないことから魔術の使用は行われていない。

(そういえば・・・・・・)

この男と同じように、魔術陣を展開させずに謎の力を使役していた人物が居た事を思い出す。そしてそれを思い出したのをきっかけに、洪水のように頭の中で沢山の情報が飛び交う。

「あなたが行った儀式とやらにかけられていたあの少女、あの子と同じような状態になっていた方を昼間見かけたのですけれど。あれもあなたの仕業なのかしら」

右手を敵である男にかざして、魔術陣を展開させながらエメリルファは疑問をぶつける。

それにもしかすると、近頃セフィライアで騒ぎになっている連続通り魔事件もこの男の仕業なのかもしれない。被害者達の共通点の一つ、胸に埋め込まれた黒い結晶。それと類似する結晶をあの少女も胸に埋め込まれていた。そして、先程の光景から察するにこの紫髪の男が何らかの干渉を行っていたとしか思えない。明らかに通り魔事件に関係している。

展開された魔術陣は今か今かと息をひそめて光り続けている。

問いを投げられた男はつまらなそうに鼻を鳴らすと、

「はっ、だから何でテメエらみてぇな腐れ下等種族に教えなきゃなんねぇんだこら。・・・・・・とは言うもののお前はこれから想像を絶する苦痛に悶えて死ぬのだから、それくらい教えてやるよ。よく言うだろ? 冥土の土産ってやつだ」

エメリルファは男の声に耳を傾ける。しかし、魔術陣は展開したままでいつでもこの男を攻撃できるように気を張っている。

「まず、テメえらと俺が同じ種族だと思ってんなら、間違いはそこからだ」

エメリルファは眉をひそめる。

そういえばこの男は『下等種族』という言葉を先程も、アルフレッドが問い詰めようとした時も言っていた。てっきり侮蔑の言葉だと思って特に気にしてはいなかったが、まさかその言葉に何らかの意味があるのだろうか。

エメリルファの疑問を余所に、男は続ける。

「てめえらみたいな人間は考えた事もねえだろ。もしくは存在を知ってても認めたくなかったのかは知らねえが。この世界にはなぁ、悪魔ってのがちゃんと存在するんだよ」

それを聞いた瞬間、整った美しい顔をした金髪少女の表情が驚きに引き攣る。

「悪魔・・・・・・ですって」

信じられない、といった様に目を白黒させて見つめてくるエメリルファに、男は愉快そうな笑みを張り付けて言葉を続ける。

「魔将六鬼が一人、バラキエル。その名を忘れるなよ、生きてる間は覚えておく権利をやる」

「そんな・・・・・・まさか」

エメリルファは硬直する。体だけでなく、その脳に至るまで。

信じられないという思いと、しかしそうだとしたらあの男の力の異常さも納得できてしまうという思いが、彼女の内に入り乱れる。

確かに、このセフィライアには悪魔の血を己が内に取り入れ、魔力量を普通の魔術師の二倍以上にまで増加させる事に成功した一族が居た。

ヴォルドダンタリアン。

彼らの存在が、少なからず悪魔の存在をほのめかしていたのは事実だ。現にエメリルファも居るかもしれないとは思っていた。

だがこうして目の前にいるこの男が、自分は悪魔だと言ってもエメリルファは信じることができない。なぜなら、彼女が想像していた悪魔というのはもっとおぞましい姿をしたものだったからだ。角を生やし、獰猛な牙が不気味に笑う口から見え隠れして、コウモリのような黒い翼を持っている、そんな姿を想像していたのに。

視界に映るその男は想像とは全く違う。

これではまるで、自分たちと同じ人間ではないか。

「なんだその目は、信じられねえってか? まあ無理もねえだろうなぁ。今のこの姿じゃ悪魔って言われても疑うわなぁそりゃ」

エメリルファの胸の内の疑念に答えるように、悪魔と自らを称する男は言葉を紡ぐ。

「んで、この悪魔である俺が何をしてたかって話だったなぁ」

そこで悪魔――バラキエルは言葉を一度区切り、

「なぁに、大したことじゃねぇ。ただの余興だ。まだ生きている・・・・・・つまり、生前の人間を悪魔へと転生させる。いわば、俺のやってた事は眷属造りってやつさ」

説明するバラキエルは何が面白いのか、口角を釣り上げて笑っている。

「魔界は暇で暇でよぉ。本来俺達悪魔ってのは下界には降りられない、厳密には降りられなくさせられた。それが何故か急に降りてこれるようになってな。こうして暇つぶしに興じてるわけだ」

「・・・・・・暇つぶしで被害に遭った人達には心底同情しますわ」

「ふん、まぁそう言うな。眷属造りって言っても要はギブアンドテイクだ。俺は奴らに、強大な力をくれてやろうとしてんだからよ。俺の様な上級悪魔には“ダークマター”と呼ばれる固有の能力がある。その力の一部を“この島の人間”に植え付ければ眷属が造れるって話を聞いてなぁ。植え付けには魔界の特殊な石を使う。“ダークマター”の媒介みてぇなもんだ。あの石を使って“ダークマター”の力を流し込むのが儀式だ。そんなわけでこうして折角降り立った下界を余すことなく楽しんでる訳よ」

「造れるかもしれない、とはまた曖昧なことですわね。できるかどうかも分からないなんて」

エメリルファは尚も魔術陣を展開させながら、吐き捨てるように告げた。

だがそのことにバラキエルは特に気分を悪くしたようでもなく、むしろ得意げになっているようにも見える。

「ああ問題はそこだ。あくまで可能性があるってだけだったからよぉ。それに“ダークマター”を取り込むとなると器としての素質も重要になってくる。強烈なまでの負の感情が無ければ悪魔になんざなれはしない。まったく苦労したぜ、あのガキ見つけるまでに試したやつらはどいつもこいつも半端な憎悪しか抱いちゃいねえ。おかげで失敗作が何体も出来上がった」

やはりエメリルファの推理は当たっていた。

一連のエストラシルの住人を狙った事件はこの悪魔の仕業だったのだ。

悪魔はより一層笑みを深くして、心底嬉しそうに尚も語る。

「それにしてもあのガキは完璧だ。器として完璧すぎる素体だった。まさかあれほどまでに“ダークマター”が体に馴染む人間がいるとはなぁ。さすがは魔界の神と言われたハデスの血が混じった一族ってだけはあるな」

「あの少女は・・・・・・どうなりますの?」

静かに問い掛ける。

返ってくる答えが最悪のものだと分かっていても、エメリルファは聞かずにはいられなかった。

「今はまだ“ダークマター”があのガキの生命エネルギーを喰い潰している段階だろうが。それが終われば、生命エネルギーを全て喰い尽くせば、晴れて俺らの仲間入りだぁ。お前の連れはあのガキを追ったみたいだが、何もできはしないさ。何もできずに目の前でガキが悪魔に変わる瞬間を眺めることしかできねえんだよ」

悪魔は目を細めて笑う。自分の望む展開を想像して堪え切れずに笑みが零れるとばかりに。

薄々そうだとは思っていたが改めて宣告されると嫌な気分になる。

エメリルファは逃げる少女を必死に追いかけて行った少年の顔を思い出す。

何が何でも少女を救って見せるという決意に満ちたあの顔。あの顔が絶望に染まる所など、エメリルファは想像もしたくなかった。

だが彼に何もできなくても、自分になら何かできることがあるかもしれない。

となればまずは、立ちはだかるあの悪魔を倒さなければならない。

「そういやよぉ」

魔術による攻撃を再開させようとしていたエメリルファに、バラキエルが唐突に声をかける。

「俺ら悪魔はどうやって人間の負の感情を感じ取ると思う?」

質問されるが、普通の人間であるエメリルファにそんなことが分かるはずがない。

訝しむような視線をバラキエルに向けていると、彼の瞳が突然深紅に染まるのが見えた。その目が真っ直ぐエメリルファの瞳を見つめている。じっと見つめてくるその瞳に、心の中まで見透かされている錯覚を覚える。

図らずもその錯覚は現実のものとなることになってしまう。

「強い負の感情ってのは俺らには自然と見えちまうんだよ。見えるぜぇお前の負の感情が。なあ、エメリルファ=アーデライト・・・・・・可哀想だなぁお前の母親は」

刹那、エメリルファの頭に煮えたぎった血が昇る。

展開だけさせていた魔術陣を起動させ、先程から何度も出している氷の槍を放つ。魔術陣から物凄い勢いで、悪魔に向かって一直線に槍が伸びる。

しかし、相変わらずバラキエルは動じることなく右腕を槍に向かってかざしてその一撃を受け止める。

が、攻撃はまだ終わらない。

バラキエルが氷の槍を受け止めた瞬間、今度は彼の足元に大きな魔術陣が展開される。一手目の氷の槍は足元からの攻撃から意識を逸らす為のフェイクだったのだ。

足元の魔術陣が輝きを放ったかと思うと、そこから氷の棘が無数に生まれ悪魔を串刺しにしようと襲い掛かる。棘同士がぶつかり合った衝撃で、氷が砕けて冷気による煙ができる。

煙に隠れて悪魔が見えない。さすがに四方八方からの攻撃は対処できない筈だ。

煙が晴れればそこには串刺しにされた悪魔の姿が現れる、その筈だったが、そこにそんな光景は広がっていなかった。

お互いを突き刺し合い、無残にも砕け散った氷の塊だけが並んでいる。

「な、一体どこへ?!」

慌てて辺りを見渡すエメリルファだったが、どこにもバラキエルの姿を見つけられない。

(そんなバカな・・・・・・)

一瞬で人が消えるなど500万の魔術師を抱えるこのセフィライアでも、空間転移魔術を使えるのは指で数える程しかいない。

だがそれが自分たち魔術師の、人間の常識とエメリルファは気付く。

そう、今相手にしているのは他ならぬ悪魔なのだ。空間を渡る術を持っていてもおかしくはない。

どこからか突然現れるかもしれない悪魔に、エメリルファが警戒をしていると、

「惜しかったなぁ。良い手ではあったが、いかんせん詰めが甘かったな」

声は天上から聞こえた。

ゆっくりと顔を上げると、綺麗な月を背に浮かぶ悪魔の姿を視界が捉える。それは何故か悪魔だというのに神々しく、幻想的な光景であった。

真っ赤な瞳をしたままのバラキエルがエメリルファを見下している。まるで自らが優れた種族であり、人間を下等な生き物と蔑むかのように。

エメリルファは天を仰ぎ見ながら舌打ちする。あの悪魔は足元から迫る氷棘を前後左右に避けるのではなくまさかの上へと回避したのだ。その事にエメリルファは己の甘さを悔いた。

(空間移動よりもまず、第一に考えるべきでしたわ)

悪魔とは飛べるものであると。

天使と悪魔が描かれた様々な文献では、彼らのほとんどが背中に翼を生やしている。ならば悪魔である頭上に浮かぶあの男が、空に浮いていても何ら不思議はない。翼も無しに飛んでいる事に僅かな違和感を感じるが。

「それにしても、お前も中々の逸材だぁ。強烈な負の感情にその膨大な魔力。お前ならあのガキと同じ完成体として俺ら悪魔の仲間入りできるかもなぁ」

「・・・・・・冗談じゃありませんわ」

文字通りの悪魔の誘いに、金髪の少女は更なる怒りが胸に湧き上がるのを感じていた。しかし先程と違い、怒りは飽和点を超え、逆に彼女の思考をクリアにさせる。全身に巡っていた熱い血が急速に冷めていくのが分かる。

エメリルファは完全に冷静さを取り戻していた。

自らの操る氷の魔術のような冷徹さ秘めた瞳が悪魔を射抜く。

「よくも人の心を盗み見てくれましたわね。物凄く不快ですわ」

魔力を体内で練り上げる。

これまで放ってきたのとは比べ物にならない程の膨大な魔力を。

膨大な魔力にエメリルファの周りの空気が軋む。

「あなたが悪魔なのはよくわかりましたわ。悪魔であるのならわたくしは全力であなたを葬れますわ。人間を殺すのでないのなら・・・・・・罪悪感なんて、感じませんもの」

バラキエルは眼下に居る金髪の少女から物凄い量の魔力が流れ出ている事に目を細める。明らかに『今の状態』の自分を上回る魔力量である。

バラキエルが身構え、さっきまでの余裕な態度を改めようと考えた時には既に遅かった。

彼の周囲、前後左右にそれぞれ巨大な魔術陣が展開される。

「なんだ、これは」

バラキエルの顔に初めて焦りの色が浮かぶ。

魔術は主に魔術陣を起点として発動される。その魔術陣がでかければそれだけ強大な魔術が発動される。しかし、巨大な魔術陣は大きければその分多くの魔力が必要となる。

そんな巨大な魔術陣を複数展開できるのもエメリルファが膨大な魔力を持つアインスであり、その中でも優秀な魔術師であるからなのだ。

「祈りなさい。もっとも悪魔に祈る神なんているのかしら」

エメリルファは腕を組んで冷ややかに笑う。

魔術陣は青白い光を放ち、太陽のいなくなった黒い夜空を明るくする。

状況の不利を悟ったバラキエルはひとまず魔術陣の包囲から逃れようと考えるが、彼が行動するよりも早く、エメリルファの渾身の魔力が発動された。

空間が丸ごと凍る。

包囲された内側の空間、その場所が丸ごと氷結させられたのだ。

当然、魔術に囲まれていたバラキエルの姿は、完全に巨大な氷の塊の中で制止している。

(・・・・・・終わりましたわね)

エメリルファの肩から力が抜ける。

その顔には確かな疲労が見て取れる。当然だろう。魔力は生命エネルギーと密接に関わり合っている。どちらかを大きく消費すれば、肉体にはそれだけの負荷が掛かる。あれだけの大魔術を使ったのだ。いくらセフィライア最上級の魔術等級を持つ彼女とて、消耗は大きい。そもそも魔術陣は自らの周囲以外、つまり離れた所に展開しようとすると流せる魔力も少なくなり、発動する魔術も弱まってしまう。

にも関わらずあの様な大がかりな魔術を扱えるのは上級“アインス”の魔術師でもそうはいないだろう。さすがは名門アーデライト家の令嬢といったところだろうか。

(さて、これでわたくしも加勢に行けますわね)

宙に浮かぶ巨大な氷の塊、それはもうすぐ魔力の干渉から解放されてただの氷塊となり、重力に従って落下するだろう。

あの高さから落ちれば塊は砕けてしまう筈だ。そうなればあの中で時が止まった様に動かないバラキエルの体もまた粉々に砕けることになる。

普通の人間であれば確実に死ぬだろう。

しかし、エメリルファはその現実に一切の感情を抱かない。

これは人殺しではない。なぜなら敵は、普通の人間ではないのだから。そう自分を納得させてあんな大魔術を使用したのだから。

エメリルファは背を向けて歩き出した。

恐らくは、対策も何も浮かばず、己の無力さを実感させられているであろう少年の元へ。彼と共に少女を救う術を見出す為に。

が、背を向けて二歩三歩歩いた所で、エメリルファの背後から木々を震わす爆音が聞こえる。

何事かとエメリルファが振り返ると、空中にできた氷の塊が四方に飛び散っているのが見えた。内側から爆弾でも使って爆発させたかのように砕ける氷。そして何らかの力によるものなのか、黒い煙が氷の塊があった場所を覆っている。

と、その中から一つの影が現れる。

(っ! なんですのこの魔力量は・・・・・・っ!!)

先程のエメリルファを遥かに超える魔力が空気を振るわせる。

「今のは効いたぞ糞女ぁ。まさか、この俺が人間ごときにこの姿をさらす事になるとはなあぁ。誇って良いぞお前、人間としてはテメェは上等だ」

黒煙の中から現れた一つの影。

それが膨大すぎる魔力を放っているのは明白だ。

しかし、エメリルファは目を疑う。

現れたその姿は、先刻まで相手をしていた悪魔とは姿が違っていた。人間だと言われても何ら不思議の無い容姿から打って変わって、姿形は間違いなく悪魔的なものに変貌している。肌色をしていた皮膚は薄黒い色をしており、頭には鋭利な角が生え、手や足の爪は獣の様に鋭く尖っている。

その全身の出で立ちは、完全に人の姿からかけ離れた獰猛さを醸し出している。

「この姿をさらけ出したからには、お前は絶対殺す。お前も同胞に引き込もうと思ったがそれはやめだ。最早肉片一つも残さずにあの世に送ってやるよ」

そう言うと、空に浮かんだままのバラキエルの前に、黒い球体が出現する。

(あれは)

見覚えのあり過ぎるその球体に、エメリルファは反射的に魔術陣を展開させて自分を守るように氷の壁を形成させる。

エメリルファの危惧した通り、黒い球体からはその黒さと同じ光線が放たれた。

それも一つではない。

複数の漆黒の矢がエメリルファに向けて降りかかる。氷の壁に全弾がぶつかる。一瞬の氷が削れる音がしたのと同時に、氷の壁がはじけ飛ぶ。

「く・・・・・・がっ」

目の前の氷壁が爆散する衝撃でエメリルファの体が吹き飛んだ。

吹き飛ばされたエメリルファは後ろにそびえていた巨大樹に打ちつけられる。肺から空気が一気に吐き出され、激しく咳込んでしまう。全身に痛みが伝達されていく。

(くっ・・・・・・これほどの力を、まだ隠し持っていたなんて)

痛みに悲鳴を上げる体を、金髪の少女が無理やりに叩き起こす。

何とか立ち上がる事ができたが、状況は芳しくない。今の攻撃が全力ならばまだ何とかなるかもしれないが、あれ以上のものが来れば捌けるかどうかは分からない。

額から頬を伝って汗が滴り落ちる。

「これが俺の“ダークマター”――『暗黒物質』の力ってやつだ。これでも俺はまだ全力を出し切っていないぞ。さあて人間風情、その自慢の魔術とやらで何処まで耐えきれる?」

バラキエルの周りに浮遊する黒い球体の数が増えた。

一つ、また一つとその数を増加させていき、合計五つとなった黒い球体が悪魔の前に横一列に並べられる。

「そんな、一つでもあの威力ですのに」

五感の全てが危険を訴えているが、足は動かない。

恐怖からではない。

逃げ切れることはできないと理解してしまったからだ。

けれど、まだやれる事はある。エメリルファは魔術陣を展開して次にまた放たれるだろう黒い閃光から身を守る為に、より強固な壁を作ろうと魔力を込める。

「手始めに、これを防いでみろ・・・・・・人間」

バラキエルが不敵に笑い、そう告げる。

変貌した彼の笑った顔はまさしく畏怖すべきものであった。

五つの黒の球から、それぞれ黒い矢の雨が今まさにエメリルファに降り注ごうとする瞬間――突如、森が赤く染まり、暗闇の森は一瞬にして昼間の如き明るさを取り戻す。

「あぁ?」

バラキエルが異変に視線を光源の方へと動かすと、真っ赤な炎の渦が彼の眼前まで迫ってきていた。彼はすかさず片腕を一閃して迫る炎をなぎ払う。

獣の如く荒れ狂い、狙った獲物を必ず燃やし尽くそうとするような火炎は、ゴォという音と共に消えていく。

「ほぉ、私の炎を容易くかき消すか。中々やるじゃないか」

森の奥。

悪魔から見て西の方角から一人の女性の声がする。

それは炎の渦が現れた方角だ。巨大な木々の隙間を縫うように、暗闇から歩み出た深紅の髪をした女性の姿が月光に照らされて露わになる。

その姿を見て、エメリルファは絶句する。

「まったく、貴様らが森に向かうのを見かけて指導してやろうと追い掛けてきてみれば。膨大な魔力の流れを感じるわ、森全体に響く程の爆音が聞こえるわ・・・いったいこれは」

現れた女性はそこで言葉を止めて、空に舞う悪魔をしかめ面で見上げ、

「どういう状況だ、エメリルファ」

金髪の少女に説明を要求する女性の名はレイア=ベル。

エメリルファが通うアスガルド学園の優れた教師であり、セフィライアで上から二つ目にあたる中級“ツヴァイア”の等級を持っており、そしてアルフレッドの担任でもある女性だ。

「気を付けてください先生。信じられないかもしれませんが、あの者は悪魔だそうですわ。そして、最近セフィライアで起きている連続通り魔事件の犯人ですわ」

その言葉に、レイア=ベルのバラキエルを睨む瞳が鋭くなる。

いつになく不機嫌そうな表情をしたレイア=ベルはかすかに吐息を漏らす。

「・・・・・・と、ウチの生徒が証言しているが。その事に反論は?」

レイアは星や月、夜の主役である星達がひしめき合う天蓋に浮かぶ異形の、けれども人型を残した者へと問いかける。

異形の者はつまらなさそうに鼻を鳴らすと、

「そんなものねえよ」

「そうか、ならば私も市民の義務を果たさせてもらうとしよう」

直後、レイアの前に三つの魔術陣が現れる。

三角形を模るように配置されたその陣は青白い光を用いて森を照らす。

「ぼさっとするなエメリルファ。私が前に出る。貴様は私があいつの元まで辿り着けるよう道を作れ」

次々と巻き起こる予測不能な事態に、思考が止まっていたエメリルファはその呼びかけに再度意識を研ぎ澄ます。頷きだけで答えて、エメリルファも己の体内を駆け巡る血に宿りし術式から魔術陣を展開させる。

これで二対一だ。底知れぬ力を持った悪魔相手ではあるが、一人で挑むよりは二人の方が作戦の幅も拡がるし、そして何よりも心強い。

だが、そんな状況に陥って尚、バラキエルは余裕の態度を崩すことはしなかった。まるで地を這う虫を見るような冷たい眼差しでエメリルファ達を眺めている。

「はっ、人間如きが一匹から二匹に増えた所で無駄だ。“ダークマター”ってのはそんな生易しい力じゃねえんだよ」

勝利を確信して疑わぬ不遜な態度を取るバラキエルに、赤髪の女教師は別段気にすることもなく、逆に何故か面白そうに唇を歪ませている。

「そうかい。だがまあ戦ってもないのに相手の技量を決めつけるのは高慢を通り越して滑稽だな」

レイアの嘲るような挑発に、バラキエルの眉間に皺が寄る。

「下等生物が、舐めた口きいてんじゃねえぞ」

エメリルファの方に並べられた黒い球体が、変わってレイアの方へと照準を向けさせられる。

そして再び、この暗黒の森を様々な力の影響によって生まれた光が照らしていく。

突然の乱入者によって止まっていた戦いの火ぶたが、今また切って落とされた。


                 *


長い年月をかけて出来上がった巨大樹の森。

その森の、明らかに人工的に木々が消し飛ばされたであろう開けた空間で、アルフレッドは走りまわっていた。彼の体には浅いが多くの傷ができている。

(くっそ・・・・・・またくるっ!)

アルフレッドは全速力で不自然にえぐり取られた地面を駆ける。そしてそのままの勢いを殺さず前方に飛びこんだ。前のめりの体勢から飛んだ為、衣服に守られない露出した皮膚が自然擦り切れてしまう。

目の前の少女、呆然自失しているリタ=ヴォルドダンタリアンの手前に浮かぶ謎の球体。リタの頭部と同じか一回り小さいくらいのサイズのその球体から無数の黒い矢が、アルフレッドを狙って降り注いだのだ。

一矢であった漆黒の矢がその数を増やした事により、回避は困難を極めてしまう。

傷だらけの体に鞭を打ち、四肢に力を込めてアルフレッドは立ちあがった。

次なる攻撃を避ける為に。

「はぁ、はぁ・・・・・・やばい、もう体力が」

限界に来ていた。

炎天下の中で街中を駆けまわり、森への長い坂を疾走し、あまつさえこうして紙一重の回避劇を繰り返しているのだ。むしろここまでよく持ったと賞賛に値する程である。

だがそれでも、迫りくる黒い光線を避ける間もアルフレッドは思考する事をやめなかった。どうすれば少女を、リタを救えるか。そのことだけを大した出来の良さでもない脳をフル回転させて考えていた。

そして彼は一つの推測に思い当たる。

(あの黒い球体が現れたのはリタが苦しみだしてからだ。そんでもって、リタが苦しみだしたのはあの胸に埋め込まれた黒い石みてえなもんが光りだしてから。てことは・・・・・・)

石。

黒い石。

拳大程のその黒い塊が今も輝きを放ち続けている。

あの得体のしれない男に埋め込まれたであろうその石。きっとその石が何らかの力によってリタを蝕んでいるのだ、とアルフレッドは自分の中で結論付けた。あの石を何とかリタから引きはがす、もしくは破壊する事ができたら、彼女を助けられるのでは。

そう考えたアルフレッドはすぐに行動に出た。

引きはがすにしろ壊すにしろ、まずは近づかなければ何もできない。だが近づこうにも少女の前には守護者の様に佇み、行く手を阻む黒い球体がある。そこでアルフレッドが考えたのは、あの球体の死角になるリタの真後ろ。そこから彼女に近づこうとして、背後に回るべく弧を描くようにして駆け抜けた。

迫る無数の閃光がアルフレッドの体をときたまかすめたりしたが、それでも彼は走る。

そして少女の真後ろに来たところで、自分が浅はかだったということに気付かされた。

そもそも相手は正体不明の力なのだ。己の常識は通用しない相手なのだ。

リタの真後ろ、球体の死角に入った瞬間。黒い球体はまるで安い考えだとあざ笑うかのように、リタを中心軸としてちょうど太陽の周りを公転する惑星みたいに彼女の真後ろに半周してやってきたのだ。

球体は射程圏内に入ったアルフレッドに容赦なく黒い矢の雨を注ぐ。

予想できなかったその攻撃に何とか反応することが出来たが、半歩ほど遅れた回避の為右足を僅かにかすめてしまっていた。軽傷だが、疲れ切った体にはやけに痛く感じてしまう。痛みに呻く暇もなく、次がやってくる。

アルフレッドはまた勢いよく走りだした。

(くっそあの石だ。あれさえ何とかできりゃあ・・・・・・畜生っ)

可能性があるのにそれを試すことすらできない。

自分の無力さを再認識させられ、アルフレッドは奥歯を噛んだ。

もう打つ手がない。

あの黒い球体の攻撃を防ぐ手段が無い以上どうすることもできない。

(俺は、救えないのか。たった一人の女の子すら、俺には救えないのか)

あらゆる状況が少女を救えないと訴えている。

もうお前には少女は救えない、と。

だが、アルフレッドは諦めたくはなかった。ここで諦めてしまえば少女を救えないばかりか、自分はあの黒い光線に貫かれて間違いなく死ぬだろう。それは絶対に嫌だ、とアルフレッドは思う。少女を救えなかった悔しさを残して、母との約束を守れずに死ぬ事など絶対に嫌だ。

視界が霞む。

体のあちこちが悲鳴を上げている。

息は荒く、思考は止まり、ただ迫る脅威を避け続ける。

と、次の攻撃を回避しようと一歩を踏み出したアルフレッドの足が、恐らく黒い光線によって抉られた地面に引っかかった。

「なっ」

体勢が崩れる。

視界が意図せず傾く。

何とか倒れずに踏ん張ったものの、完全に避けるタイミングを狂わされた。既に視界には発射された無数の漆黒の矢が映っている。今からではもう避けきれない。

(ここで・・・・・・終わっちまうのか。俺の人生は・・・・・・っ!)

結局少女を救うこともできず、自分の信念を通す事もできず、母との約束も守れずに。そんな絶望を背負って死んでいくのか。

(・・・・・・母さん・・・・・)

迫りくる死を前にして、アルフレッドは母の言葉を思い出す。

『あんたは色んな人から望まれない子として生まれた。でもねアルフレッド、あんたは母さんと、それから父さんの誇りだ。あんたを生んで本当に良かった。約束してほしい。苦しんでいる人が居たら、助けてと手を差し伸べる人が居たら、絶対に救ってやるんだ。これは私の信念でもある。あんたに受け継いで欲しい信念だ。約束できる?』

あの時、そう言われてアルフレッドは泣きながら頷いた。

だからこれまでも、例えどんなに困難があっても、困っている人を見たら絶対に何が何でも手を差し伸べてきた。今回だってそれは変わらない。

悲しい運命に翻弄される少女が、目の前で泣いているのだ。

ならば助ける。

救ってみせる。

どんなに状況がよくなかろうと、どれだけ自分が傷つこうと、

(絶対に助けてやる! あいつを、リタを。この狂った運命から。絶対に救ってやるっ!)

石よりも、鋼よりも硬い意思をもってアルフレッドは己に誓う。

少女を、リタ=ヴォルドダンタリアンを救うと。

そして、もう数メートルの距離まできている黒い閃光に向かって右腕をかざす。

(頼む母さん。俺に・・・・・・あの子を救う力をくれ!)

瞬間――アルフレッドの中で何かが壊れた。

それが何かは解らない。ただ、アルフレッドが感じたのは、抑圧から解き放たれたかのような解放感だった。

そして、まさに黒い光線の雨がアルフレッドに沢山の風穴を開けるという時に。

アルフレッドのかざした右腕の前に光輝く“何か”が現れる。

突如現れた謎の光に防がれて、黒い光線はアルフレッドをそれる形で後ろへ流れていく。

「これは」

アルフレッドは助かったというのに、安堵するよりも驚きに唖然としていた。

かざした右腕を見てみれば、そこには光り輝く輪が、手首と肘の間くらいに出現していた。右腕を囲んでいるその輪っかの外側には、これまた光輝くひし形状の物体が等間隔に輪っかの外周を沿うように並んで浮いている。

アルフレッドは困惑する。

彼に魔術は使えない。だとすればこの現象は一体何だ、と考えた所でアルフレッドには思い当たる節があった。

「まさか・・・・・・母さんの力、なのか?」

先程、神にすがる思いで母に救いを求めたアルフレッドに、彼の母親は本当に力を授けたのだ。

その事実にアルフレッドは何故だか嬉しくなって思わずその顔に笑みが浮かんでしまう。

希望が見えた。

この力を使えばあの黒い球体の攻撃を防げる。この力を使えば少女を救えるかもしれない。絶望していた心が湧き上がる熱い思いで満たされていく。

(母さん、本当にありがとう)

胸の内だけで母に礼を言うと、救うべき少女に真っ直ぐに瞳を向け、大きく息を吸い込むと、

「リタっ!!」

森中に轟き渡るような声で少女の名を叫んだ。

呼びかけられた少女は俯いた視線をゆっくりとアルフレッドに向ける。その目は赤く染まり、涙を流していた。

「よく聞けリタ! 今からお前を、お前を苦しめるこの世界から必ず救ってやる!」

それはもう何度も心の中で叫び続けた言葉だ。

それを。その言葉を。硬い決意を胸に、声に出して改めて誓う。

「・・・・・・リタはもう一人ぼっち・・・・・・。パパも、ママも・・・・・・一族のみんなだってもう、いない。今ここで助けてもらっても、リタに帰る場所なんか」

「一人なんかじゃねえよ」

絞り出すように、掠れた声を出す少女の言葉を遮るようにアルフレッドの声が重なる。

「お前はもう一人じゃねえ。確かに、今のお前は孤独かもしれない。・・・・・・俺にだって解る。家族が、大切な人が居ない苦痛は耐えれるもんじゃねぇよな」

 決して目を逸らさず、決して諦めず、少女の心にアルフレッドは語りかける。

「何度だって言うぞ、お前は一人じゃねぇ。お前には、俺がいる。俺が一生傍に居てやる。どんなに苦しい時でも、どんなに辛い事があっても、お前の傍に居て・・・・・・お前を守ってやる! 何度だって救ってやる!」

それが、アルフレッドの出した答えだった。

困っている人が居たら助ける。助けを求めて手を差し伸べる人を救う。助けが必要ならずっと手を差し伸べる。

それは理想論なのかもしれない。この世界の全ての苦しんでいる人を救うなんてことはできる筈がない。

それでも、自分の掌で救えるだけの人は救いたい。

だから、リタがずっと救いを求めるなら。一生をかけてでもこの少女を救い続ける。

それが母との約束でもあり、母から受け継いだ信念を貫くということだ。

アルフレッドの言葉に、リタは一瞬ハッとしたように驚きに目を見開くが、すぐにまた俯いてしまう。

「そんなの、そんなのできる訳・・・・・・ないよ。リタは、この体に、この顔に刻まれた刻印がある限り、みんなから嫌われるんだよ? 皆から憎まれるんだよ? 一緒にいれば・・・・・・あなただって」

「そんなもん関係ねえ! いいから黙って俺に助けられろ!!」

アルフレッドは叫ぶ。

少女の心配など気にせず、ただがむしゃらに少女を救いたいという思いをぶちまけるように。

アルフレッドの叫びに、リタは再び瞳を彼に向ける。

その瞳から大粒の涙を流しながら、

「・・・・・・うんっ」

少女の言葉を聞いて、アルフレッドは任せろ、と小さく笑う。

そしてアルフレッドは走り出した。今度こそ少女を救えると信じて。

アルフレッドが走りだすと同時に、何故か動きを止めていた黒い球体から再度黒い光線が放たれる。

しかし今度はアルフレッドは回避行動は考えずに、ただリタの元を目指す。黒い光線がアルフレッドを貫く、という直前で。アルフレッドは右腕をかざす。すると右腕に通った光の輪が目まぐるしく回転を始めたかと思うと、右腕の前にまた光り輝く膜のような物が生まれる。それはアルフレッドを守る壁のように、黒い光線を弾く。

少しだが、押し返されるような衝撃がアルフレッドを襲う。

だが、アルフレッドはその衝撃に耐え、疾走する足を止めない。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

雄たけびと共に走り続ける。助けを求める少女を救う為に。絶望の中に生まれた希望の光を取りこぼさない為に。

アルフレッドを近づかせまいと、何度も発射される黒い光線を弾き続けながら駆け、ようやく少女の前に浮かぶ黒い球体の所まで来た。

アルフレッドは右腕を振りかぶり、これでもかと力を込めて拳を握る。

「さっきからばかすか撃ちまくりやがって。この糞野郎っ!!」

言うのと同時に、右腕を中心として展開されている光の壁ごと黒い球体を殴りつけた。物凄い強力な力がぶつかり合ったような轟音が響く。

しかし、黒い球体は壊れることなくその形を保っていた。アルフレッドは奥歯に力を込めながら、拳を黒い球体に押し付け続ける。

ぶつかり合い続ける力が奏でる衝撃音が響き続け、力の余波で風が吹き荒れる。

しかし、その拮抗が不意に途切れた。

アルフレッドが拳を引いたのだ。

「まだまだああああああああああああああああああああっ!!!」

アルフレッドはもう一度右腕を振りかぶり、拳を叩きつけた。

先程よりも大きな音が森に轟く。すると、その一撃を受けた黒い球体は遂に耐えきれなくなったかのようにバラバラに砕け散った。まるで結晶が砕けるような音と共に消滅していく黒い球体。

それに目もくれずにアルフレッドはリタの前まで歩み寄る。やっとの思いで彼女の元まで辿りつけた事にアルフレッドの胸が熱くなるのを感じた。さっきまでの回避劇がとても長い時間に感じる。

だが、これで終わりではない。アルフレッドにはまだやるべきことがある。

「リタ、今からその石をぶっ壊す。ちょっと痛いかもしれないけど我慢してくれよな」

リタは無言で首を縦に振った。

良い子だ、とアルフレッドはリタの頭を優しく撫でてから、拳を振りかぶる。右腕の光の輪が回転を開始し、呼応するように光の壁が展開される。黒い球体を粉々に砕いた時と同じように、全力の力でアルフレッドは拳を打ちこんだ。

少女の胸に埋め込まれ、今も黒い光を放ち続ける不気味な漆黒の結晶。それを壊す事で少女を救えるかもしれない。試すことすらできなかったその可能性にようやく手が届いた。これで救えると絶対には断定はできないが、今は僅かな希望にすがるしかない。

拳が結晶に当たりキン、という甲高い音がした。

少しの間を置いて結晶は粉々の粒になって散り、煙のように音もなく消えていった。

すると、少女は糸が切れたように、アルフレッドの胸に倒れこむ。

「お、おいリタ! 大丈夫かよおい・・・・・・ってあれ?」

まさか自分の予想が外れ、埋め込まれた結晶を破壊することで逆に症状が悪化したのか。と、倒れる少女を抱きかかえながらあたふたしていたアルフレッドだが。

そんな彼の耳に、スー、スーという小さな寝息が聞こえる。

「な、なんだよ脅かしやがって。ふー、マジで焦った」

額に噴きだした汗を拭って安堵の息を零す。

可愛らしい寝息を立てて眠るリタの鎖骨の下あたり、黒い結晶が埋め込まれていた場所は特に傷跡等も残っておらず、陥没していた肉も綺麗に再生されていた。

これでようやく、リタ=ヴォルドダンタリアンという、世界に絶望を与えられ続けていた少女を、アルフレッド=グレイスという、どんな時でも助けを求めている人を助けることを信念とする少年は救う事ができたのだ。

「ありがとうリタ、俺に助けられてくれて。俺もお前に救われたよ」

目じりに残った少女の涙を拭いながら、アルフレッドは眠っている少女に語りかける。それから、と言ってアルフレッドは自分の右腕を見た。

「母さんも、ありがとう。リタを救えたのは母さんがくれたこの力のおかげだ」

拳に力を込める。

自分には何の力も無いと思っていた。魔術は使えないし、喧嘩が強い訳でもない。こんな非力な自分で、果たして救える人は居るのかと、困っている人の全てを救えるのかとずっと考えていた。

だが、自分には力があった。

母が残してくれたであろうこの力で、人を救う事ができた。

ならば、この力でずっと人を救おう。救えない人などいないと胸を張って言えるように。そう自分に、母に、静かに胸の内で誓う。

固く握りしめた拳をゆっくりと開く。

早速この力で助けに行かなければいけない人が居る。まったく関係ない筈なのに一緒にリタを探してくれて、更には自分を少女の元に行かせる為に戦ってくれている金髪の少女。

さっきまでリタを救う事で頭がいっぱいで他に意識が無かったから気付かなかったが、離れた所から青白い輝きが何度も見えたり何かがぶつかり合う轟音が森に響いていた。

「あいつ、まだ戦ってんのか。やっぱそんくらい相手はつえーってことなのか」

音のする方角をアルフレッドは見つめる。

助けに行くべき、なのだが。もしかしたら自分が行った所で邪魔なだけかもしれない、とつい後ろ向きに考えてしまう。

「って何考えてんだ俺。さっき誓ったばっかじゃねえか」

どんな状況であれ人を助ける。

だったらここで行くか行かないかなど考える意味など無い。それに今はもう無力だった頃の自分ではない。

右腕から現れる守護の楯。これを使えば何かしら援護くらいはできる筈だ。そうと決まれば行動を起こさねば。

アルフレッドは眠る少女を抱える。お姫様抱っこの要領でリタをしっかりと抱きながら騒音がする方角へとアルフレッドは走り出した。

暗過ぎて先が見えない広大な森を、時折見える戦いの光を頼りにして。


                   *


不利だと思っていた状況が傾きつつある事をエメリルファは何となく感じていた。

そう感じる程、加勢してくれたレイア=ベルの戦闘能力は高いものだった。

レイアは遠距離魔法が相手に有効ではないと判断したらしく、直接あいつをぶん殴りたいから足場を作れ、とエメリルファに指示を出していた。言われた通りエメリルファは氷の魔術で、空に浮く悪魔――バラキエルまで続く階段を作り上げ、それを昇ってレイアはバラキエルの元へと駆ける。

しかし、バラキエルも黙ってみすみす殴られるような真似はしない。階段を一直線に、無防備とも思うような疾走をする深紅の女教師に向かって、バラキエルは黒い球体から放たれるこれまた黒い光線でハチの巣にしようとする。

がその前に、レイアが腰のベルトに取り付けられているポーチから何かを取り出す。そしてそのままそれをバラキエルに向かって投擲する。

バラキエルは投げられた小石かそれよりも小さいかもしれない物体を避けることはしなかった。軽視したのだ。どうせそんな攻撃かどうかも分からないものでは自分は傷つかない、と。

しかし、投げられたそれはただの物体ではなかった。

バラキエルの目前まできたそれはいきなり爆発するかの勢いで燃えあがり、彼の視界を覆い尽くす。予想だにしない攻撃にひるんだバラキエルだが、視界の遮られた状態のまま黒い光線を放つ。

放たれた黒い光線はレイアの方へ向ってくるが、何も見えていない状態での攻撃なのだ。正確さに欠けた攻撃を軽々とレイアは避けた。放たれた光線は一つではなく無数にあったが、その全てを赤髪の魔術師は避けながら階段を駆け上がる。いくら視界がふさがれ正確ではないといえ、雨のように放たれた黒い光線を全て避けるレイアの動体視力は脅威的なものだ。

レイアは一気に階段を駆ける。

バラキエルが視界を塞ぐ炎を振り払い、視界が良好になる頃にはすでにレイアはバラキエルに残り3歩程の距離まで詰めていた。

バラキエルが慌てて反撃すべく、右拳を握ってレイアに叩きつけようとするが、

「遅い!」

その前にレイアは駆け上がってきた勢いを殺さずに跳躍した。

そして、レイアはその勢いでもって威力の上がった蹴りをバラキエルの側頭部へと放った。その一撃をもろに喰らったバラキエルは横へと吹き飛ぶ。

まるで空中に床でもあるかのように、バラキエルはゴロゴロと宙を転がり吹き飛ばされていく。倒れたまま、何が起きたか分からないといった顔をする悪魔。今までの余裕に満ちた表情はどこにもない。焦りと驚愕、そういった感情が彼の中で渦巻く。

「くっ、な、ぜだ。人間如きの蹴りで、この俺が、ふき・・・・・・飛んだ、だと」

蹴られた側頭部を押えながら、よろよろ立ち上がる。

彼ら悪魔はそれ自体が魔力の塊だ。魔力の扱いには長けている。空中に漂う魔力の残滓を固めて足場にすることもできるし、体表面に魔力の薄い防御膜を常時張り、あらゆる物理攻撃から身を守ることも可能だ。

にも関わらず、吹き飛ばされた。それも、自らが下等と罵る人間の蹴りによって。

「なんだその呆けた面は。さっきまでの余裕の表情はどこへいった?」

愉快そうに、挑発するように嘲りの言葉をレイアは投げかける。

無様に倒れ伏す、人ならざる存在である悪魔に向けて。

「わからないか? ただの蹴りで、何故それほど吹き飛んでしまったのか。先に言っておくが、私は別に怪力を持ったスーパー超人などでは無い。普通の、何処にでもいる美人教師だ」

さらりと自分が美人だと言ったレイアに、エメリルファは呆れたように、ハハハ、と笑う。

それに気付いた自称美人教師はポーチから一つの小石ほどの物体を取り出して、エメリルファに投擲する。

エメリルファの真横をその石は通り抜けて、ボオッと彼女の後ろで燃え上がる。

体から冷や汗が吹き出すのを、金髪の少女は確かに感じた。

(れ、レイア先生を怒らせると、こ、怖いですわね・・・・・・)

人知れず、この女教師を今後絶対に怒らせる事はやめようと誓うエメリルファであった。

そんな彼女を余所に、レイアが再びポーチから発火する物体を取り出す。

あれは『魔装』だ。

エメリルファはレイアが取り出した物体を分析する。本来魔術は魔術陣を介してこの世界に具現化される。しかし、その中でも例外はある。

その一つが、『補助術式を介しての魔術の具現化』だ。

補助術式というのは元々セフィライアの魔術師達の体内にある術式に、ルーンと呼ばれる魔術言語を用いて、魔術の補強をする為のものだ。例えば、氷の術式を体内に持つがその魔術を上手く制御できない者が居るとする。そこで補助術式を使って、『氷の球体を作り出す』という指示を付与すれば、今まで制御が不得意だった魔術師でも扱う事ができるのだ。

ならば、『補助術式から魔術を具現化させる』という指示を補助術式として組み立てれば、魔術陣を介さずとも魔術を使役出来る、というわけだ。そうして、補助術式を“物体”に書き記し、その“だがそれが意外に困難を極めている。補助術式を構築するのに使うルーンは個人によって適合できる文字も式も変わってくる。1000文字以上もあるルーンの文字から自分の術式に適合できる補助術式を組上げ、更に『補助術式から魔術を具現化させる』といった指示を作るとなると、莫大な時間と労力が必要となる。とてもではないが、誰もができる技ではない。

(流石は、セフィライアでも屈指の魔術言語研究家ですわね)

 エメリルファは改めてレイア=ベルの、魔術等級など関係ない純粋な魔術師としての格の差を思い知らされる。レイア=ベルは『万能術式』と呼ばれる五大元素魔術なら全てに適合できる補助術式を作った天才だ。自然、『魔装』を作ることなど容易いという事だろう。

(確か“万能術式”には単なる魔術制御向上の指示しか含まれていなかった筈。魔装すらも作ってしまうなんて・・・・・・)

 自分が超級“アインス”魔術師や五大元素使い“エレメントマスター”など言われていることが酷く恥ずかしくなってくる。同時に、一種の憧れがエメリルファに生まれる。

レイアのあまりの技術の高さに、尊敬の念を抱いていると、

「エメリルファ。またヤツの元までの道を作ってくれ」

「わ、わかりましたわ!」

考えにふけっていたエメリルファだったが、すかさず右腕をかざして、魔術陣をレイアの近くに展開させる。

展開された魔術陣から、悪魔の元まで続く水平な道が形成されていく。

そして、赤髪の魔術師は倒れる悪魔に追撃を与えるべく、エメリルファの作った氷の道に飛び乗った。


(それにしても、さすがと言うべきだろうか)

氷の道に飛び乗ったレイアはもう一度悪魔に一撃を与えるべく走り出しながら、チラリと眼下にいる金髪の女生徒に視線を向ける。

(こんな離れた距離に、これほどの精巧さとこれほど質量のものを作り上げるとは)

セフィライアでの魔術等級。

レイアは上級“ツヴァイア”という上から二番目の実力者だ。エメリルファとは一つしか等級は違わない筈だが、一等級の壁がこれほど高いものだとは。と、自称美人女教師は超級“アインス”のエメリルファと自分との間にある差を思い知らされる。

だが、上級“ツヴァイア”のレイアは、超級“アインス”のエメリルファが手こずっていた相手に対して優位に立っている。魔術の差を埋め尽くすほど、レイアの魔術師としての戦闘力は高いものなのだ。

レイアは一直線に走る。

痛みに顔を歪ませる悪魔の元へと。

悪魔――バラキエルはまたしても無防備に迫りくるレイアを葬るため、ダークマター“暗黒物質”に魔力を込める。バラキエルの前に浮かぶ五つの黒い球体が漆黒の輝きを放ち始める。そして黒い光線をレイアに撃ちこもうとするが、それよりも早く彼女は取り出した小さな物体を悪魔に投げつける。

バラキエルの目の前まで来た物体は先程よりも激しい炎を生み出す。

「二度も同じ手が通用するとか、思ってんじゃねええぞコラあぁあああああああっ」

炎に包まれた悪魔はそんなことなど気にもせずに黒い光線を撃つ。

狙いはレイアではない。

彼女が足場にしている氷でできた道に向かって全ての光線を放ったのだ。

バラキエルの攻撃を受けた氷の道は、ガラガラと音を立てて崩れていく。当然、足場を失ったレイアは宙に投げ出されてしまう。

が、落下する中でも彼女は取り乱す事はなく、

「エメリルファっ!!」

金髪の少女の名前を叫ぶ。

突然名を叫ばれたエメリルファはビクッと驚いていたが、すぐにレイアの意図に気付き右腕を掲げる。魔術陣が落下するレイアの下に展開される。そのまま展開された魔術陣から氷の足場が出現し、レイアは空中で器用に体勢を立て直すとそこに着地した。

だがそれで動きは終わらない。エメリルファは再度氷の魔術を駆使して、怒りに顔を歪めた悪魔までの階段を作り上げる。今度は直線ではない。螺旋階段を思わせるような、カーブを描く階段だ。

出来上がった精巧な道に飛び乗り、深紅の女教師が駆ける。

「舐めてんじゃねえぞ!」

獰猛に歪んだ顔で吠えるバラキエルは、黒い光線でまた階段を破壊しようとするが、

「悪いが、こちらも同じ手を二度喰らうほど馬鹿ではないぞ」

バラキエルが攻撃を開始するよりも早く、無数の青白い光が周囲を照らす。

魔術陣が悪魔の周囲を取り囲むように展開される。

「足場が壊されるなら、壊されても良いように替えを作るまでだ」

展開された無数の魔術陣から、これまた無数の階段が出現する。その全てが悪魔へと向かっている。

今、レイアが走っている氷の階段から出来上がった他の階段までは1メートルと少し。普通に飛び移る事が可能だ。駆けながらレイアは例の発火する魔装を投げる。悪魔の近くまで投げられたその石は燃え上がる。

傷を負わせる為ではなく、視界を封じる為のその一撃に、悪魔はレイアの姿を捉えれずにいる。

「この・・・・・糞ったれがあああああああああああ!」

バラキエルが見えない視界で技を放つ。

半ばやけくそ気味のその攻撃は明確な照準をしておらず、あちこちへと黒い光線が撒き散らされる。いくつか氷の階段に着弾した黒い光線は、粉々に着弾物を砕いていく。

しかし、そのどれもは深紅の髪の魔術師には届かない。

レイアは次から次へと道を変えて、悪魔の元まで駆け抜ける。

もう互いの距離は5メートルあるかないかまで迫っている。

そして、

「確か貴様は悪魔だったな」

彼女が声を発するのと跳躍したのは同時。

声のした方向にバラキエルは顔を向けるが、その行動はレイアからしてみれば遅すぎる。

いきなり炎の渦の中躍り出たレイアに、バラキエルは迎撃しようと構えるが、その前に彼女の蹴りが悪魔の腹部へとねじ込まれる。ねじ込まれた足に更に力を入れて、悪魔の体を押し飛ばす。下方向へと力を入れて足を薙いだせいで悪魔の体は地上へと吹き飛んだ。

森にそびえる巨大樹の一本。遥かな時を生きてきたその太すぎる年輪に悪魔の体が激突する。ドォン、という轟音と共に、巨大樹の枝葉が衝撃でちぎれてひらひらと舞う。

蹴りを放つ為に足場から飛んだ女教師は、ただの一般教職員にあるまじき身体能力で別の足場に着地する。

冷めた瞳が地上に落ちた悪魔を見下ろしている。

「悪魔ってのは地に落ちたものを言うんだろう? ならば今のお前はまさしく悪魔だな」

明らかな嘲りの言葉を投げかける。

「一つ種明かしをしてやろう」

巨大樹に背を預ける形で倒れて項垂れている悪魔に女教師は語りかける。

「まず。何故人間の、それも私の様な女の蹴りが貴様を吹き飛ばしたのかだが。それは別に脚力が強いからではない。単に私が魔術を使っているからだ」

そこで一呼吸おいて、赤髪の女教師は楽しそうに口を歪ませる。

「要はもう一つの魔術ということだ。二重詠唱“セカンドスペル”、と言っても貴様は分からんか。私のもう一つの魔術は衝撃操作。あらゆる衝撃を強くしたり弱くしたりできるのさ。もっとも、魔術陣介してだと効果範囲が限定されて使い勝手が悪いんだが」

私にはこれがある、とレイアは自らのズボンの裾を少しめくる。

そこから見えたのは、裾の内側に記されたルーン補助術式の一部であった。恐らく衣服も彼女の『魔装』なのだろう。

二重詠唱“セカンドスペル”。

魔術師を分類する時に魔術等級とは別にもう一つ分け方がある。それは自身の体内にうけつがれ、記された術式の数だ。多くの魔術師は一種類の魔術しか扱う事ができない。しかし、セフィライアには二種類、三種類の術式を持つ者もいる。二種類、三種類を扱う者はそれぞれ、二重詠唱“セカンドスペル”、魔群詠唱“サードスペル”と呼ばれている。

要するにレイアはもう一つの“衝撃操作の魔術”で威力を高めた拳で、バラキエルが作った魔力の装甲を打ち破る事ができたのだ。

「と、まあ種明かしは以上だが。何か質問は?」

倒れる悪魔は沈黙している。女教師の種明かしにも何の反応も示さない。

が、不意に悪魔の口から乾いた笑いがこぼれ出す。

「は、はは、はははは。・・・・・・殺す。茶番は終わりだ。てめえらクズ生物をぶち殺すのに本気出すのもバカらしいと思って手を抜いたらつけあがりやがって」

ゆらり、とバラキエルが立ちあがる。

そして、彼は頭上から見下す深紅の魔術師を睨みつけ、

「行け」

その言葉は黒い球体に向けられたものだ。

美しい程の整った球体は意思でもあるかのようにその命令に従う。

今までバラキエルの周りをフワフワ浮いていた五つの球体が一斉に動き出す。

目指す先はもちろん頭上の赤髪の魔術師だ。

「・・・・・・っ!?」

先に近づいてきた球体の一つからいくつもの光線が放たれる。

レイアは持ち前の反射神経でこれを何とか回避する。しかし、肩に少しかすったのか僅かな痛みが走る。

(私の『魔装』である衣服を貫通しているか。これはまずいな)

レイアの衣服にもルーンの補助術式は記されており、衝撃操作の魔術は反映されるはずだ。だが黒い光線は彼女の衣服を貫通させた。衝撃を最小まで減少させているのに貫通する程の威力ということだ。直撃すれば間違いなく致命傷である。それに足場も限られている。不規則な動きで近づく球体から逃れるには適した状況とは言えない。

そうこうする間にも黒い球体は迫る。

今度は二つの球体が同時に攻撃を仕掛けてくる。

レイアはこれも何とか致命傷を避けて回避する。だが彼女が逃げた先には別の球体が回り込んでおり、

(これは、避けれん・・・・・・っ!)

地上でバラキエルが不敵な笑いを顔面に張り付けて成り行きを眺めている。

嬉しそうに眺める悪魔の視界で、黒い光線が赤髪の魔術師の体を串刺しにした。


                    *


状況は一変した。正確には元に戻ったと言ったところだろう。

悪魔――バラキエルの圧倒的力の前に、不利に立たされたエメリルファの元に偶然レイアが現れ状況は有利になったと思っていた。レイアの戦いを下から眺めていたエメリルファは正直勝てると思っていた。

しかし、望んだように事は進まなかった。

エメリルファが見守る中、レイア=ベルは黒い光線に貫かれてその髪の色に負けず劣らずの真っ赤な血しぶきを撒き散らした。

「れ、レイア先生!」

金髪の少女の叫びにも答えず、力無く赤髪の女教師は地上へと落ちていく。あの高さから落ちれば間違いなく即死だろう。もっとも、今もレイアが生きていればだが。

エメリルファは慌てて宙を落ちるレイアの下に極薄の氷の板作りだす。一枚ではなくその板を等間隔に何枚も、下方向へと作っていく。落ちていくレイアの落下の衝撃を緩和させるためだ。

パリン、パリン、と板を割りながら血にまみれた魔術師が落ちる。エメリルファは一番下の氷の板まで走って落ちてきたレイアを受け止めた。いくら衝撃を緩和させたと言っても、大人一人が落下してきたのだ。受け止めたといっても自らの体を緩衝材にしただけの為、エメリルファは地面に押しつぶされて短い悲鳴を上げる。

何とかすぐに体勢を直したエメリルファは横たわり、至るところから流血する女教師の名を必死に呼ぶ。

「先生! レイア先生! しっかりしてください先生っ!」

涙目で叫ぶ少女の声に女教師は答えない。だがその口から荒いが息をする音が聞こえてエメリルファの中に僅かな安堵が生まれる。とりあえず彼女はまだ生きている。運よく頭や心臓へは攻撃が当たらなかったのだろう。けれど、それでも瀕死の重傷である事に変わりはない。腕や腹、足、体のいたる所から血が噴き出している。このままでは遠からず絶命してしまう。

エメリルファは急いで氷で血が溢れる傷口を塞ぐ。単なる応急措置でしかないが何もしないよりはマシだ。

しかし、そんな状況を嘲笑うかのように。

悪魔がゆっくりと歩き出す。

「は、良いざまだな。安心しろ。その女を誰だかわかんねえくらいの肉片にしてやったら次はお前だ。余計な邪魔が入ったがお前もちゃんとぶち殺してやるからよぉ」

不気味な笑いでバラキエルの口が横に裂けている。

その表情が、彼が“悪魔”なんだという事を再認識させてくる。

徐々に近づいてくるバラキエルからレイアを守ろうと彼女の体を抱き寄せる。絶対に目の前の悪魔には、赤髪の女教師を傷つかせないとばかりに。

そして、効かないと分かっているがエメリルファは魔術陣を展開させる。腕の中で死にかけている女性を守る為に。自分の氷の魔術はこの悪魔には効かないと分かっていながら、エメリルファは魔力を練る。

そして、魔術陣に魔力が注ぎ込まれるというところで。

森の奥から誰かが駆ける足音が聞こえる。

耳を澄ませて足音のする方向に目を向けたエメリルファの瞳に映ったのは、

「エメリルファ!」

見知った顔。

つい数時間前からずっと行動を共にしていた顔。

泥だらけで、両腕で幼女を抱きかかえた、本日二人目の闖入者であった。


                *


アルフレッドはあまりの状況の変化に戸惑っていた。

自分が離れてから一体何があったのか、紫の頭をしていた男は肌が薄黒くなっており、体つきも人間離れした獰猛なものに変わっていた。そして、先程名を呼んだエメリルファも何だか小さな傷が沢山あるし、何よりアルフレッドが驚いたのは血まみれで横たわる担任教師の姿だった。

「何でレイア先生がここに・・・・・・それにその傷。一体何がどうなってんだよ!?」

説明を求めて金髪の少女を見るが、彼女は俯いてしまう。よく見ると彼女が唇を噛んで震えている事に、アルフレッドは気付く。

アルフレッドは追及してはいけない空気を感じ取って押し黙った。

そんな中、アルフレッドとは別に、驚愕に顔を引き攣らせている者が居た。

「・・・・・・てめえ、一体何をしやがった。何でそのガキに埋め込んだダークマターが無くなってやがる」

「ああ、あの石っころか。ワリぃが粉々に砕かせてもらったぜ」

何だと、と悪魔の中に理解できない、納得できないといった思いが広がる。

「あの結晶はいわば魔力の高密度体だ。それをたかだか人間風情に破壊することなどできない、筈だぞ。・・・・・・お前は何だ? 本当にただの・・・・・・」

疑念に支配された悪魔をさておき、アルフレッドはエメリルファの元まで歩み寄ると、

「リタを頼む」

そう言って腕の中の少女を預けるとアルフレッドは悪魔へと向き直る。

その表情は怒りを隠し切れていなかった。

「てめえ、よくも俺の大事な人達に手を出しやがったな。ぜってぇぶん殴る。何が何でもぶん殴る!」

アルフレッドが怒りのままに吠える。全ての元凶はあの男なのだ。

セフィライアに住む魔術師達や、リタ=ヴォルドダンタリアンに得体の知れない結晶を埋め込ませて苦しめたのも、レイア=ベルに瀕死の傷を負わせたのも。全てはあの男のせいなのだ。

ならば。

この怒りは、あの悪魔の様な形をした男にぶつけるしかない。それにこの男を逃がせばまたリタが狙われるかもしれない。リタをずっと守ると誓いを立てた身としてはその危険を放ってはおけない。

アルフレッドの足に力が込められる。

いつでもあの男を殴り飛ばす為に動き出せるように。

「く、ひゃはははははははははっ! お前面白いこと言うな。いいぜぇ。下等種族の人間如きが悪魔を束ねる魔将六鬼のこの俺を、ぶん殴れるもんならやってみろ」

「言われなくてもな!」

地面を蹴る。

浅いが傷の多いアルフレッドは軋む体に鞭を打ち、全速力で駆ける。

魔将六鬼――バラキエルは走ってくる少年がどのようにしてダークマターを破壊したのか、という疑念を胸に残しているが、それを引いてもお釣りがくるほど少年からは脅威を感じない。金髪の少女とレ赤髪の魔術師のように高い魔力ではなく、感じ取れるのは微弱な魔力だけ。

バラキエルは黒い球体の一つを自らの傍に呼び戻す。

「じゃあな糞野郎。あの世で無力な自分を嘆いてこい」

黒い球体が漆黒の光線を放つ。無防備に駆け寄ってくる少年に向かって。

アルフレッドの視界にはつい先刻までずっと相手をしていたものと全く同じ黒い球体がいる。その球体から何が放たれるかもアルフレッドはよく知っている。後ろからエメリルファが何かを叫んでいるがアルフレッドの耳には入らない。

集中している。まだ使えるようになって間もない力をもう一度本当に使えるのか。それだけを考える。

しかし、この力を使わなければあの悪魔と渡り合う事すらできない。なら今はその力を使えると信じるしかない。

アルフレッドが右腕を黒い球体に向かってかざす。するとアルフレッドの不安など顧みず、右腕には光の輪が現れる。そして回転を始めた光の輪に呼応するように右腕の前に光の壁が広がる。

「なんだてめぇそれは・・・・・・」

毛ほども脅威に思っていなかった少年に対しての認識が変わる。

なぜなら、魔力も何も全く感じない少年の光の力に、正確にはそれと似た力持つ連中に悪魔であるバラキエルには覚えがあったからだ。

今はまだどこまでこの少年が自分の力を理解しているかは分からないし、バラキエルも少年の力を推し量れずにいる。

ともすれば小さな脅威とはいえ、葬るしかない。もしバラキエルの予想通りであれば、少年の力は確実に脅威となる。

バラキエルはダークマターを使う。

無数の黒い光線がアルフレッドへと集中する。

しかし、放たれた黒い矢が彼を血まみれの肉片にする事はなかった。アルフレッドの作りだした光の壁が、黒い光線を正面から受け止める。黒い矢と光の壁が衝突し、辺りに轟音が響く。

そして、二つの衝突する力、生き残ったのは光の楯であった。

(よし! いける! あいつの攻撃は俺の力で防げる。だったら)

アルフレッドは大地を蹴った。

全力で駆ける彼はあっという間にバラキエルとの距離を詰める。

両者の間には必殺の矢を放つ高密度魔力体である黒い球体が浮かんでいる。

再び光線を放とうとする黒い球体。

アルフレッドは右腕に力を込めて振りかぶる。

「邪魔だぁ!!」

攻撃を防げたと言う事は、リタの時と同じようにあの球体を破壊する事も可能な筈だ。アルフレッドは右腕に力を込める。自分がどうやって光の壁を生み出しているのかいまいち理解が追い付いていないが、それでも仕組みは解らなくとも力を込めれば右腕はそれに応じてくれる。

アルフレッドの右腕に通る光の輪が回転する。

同時に生まれた光の壁ごと、右拳を黒い球体に叩き付けた。またしても衝撃が拡散する。それは空気を伝い、その場にいる全ての者達の肌を震わし、森の木々すらも揺らす。

そして身を震わす轟音の後にはパリンッという乾いた音がした。黒い球体が無残にも砕け散る音だ。

「なっ」

驚きとともに悪魔はようやく確信した。

黒い球体は高密度の魔力結晶体であり、上級悪魔達が持つ固有の能力。

ダークマターと呼ばれるその力は悪魔によって名前も違えば個体差もあるが、どれも強大なものだ。人間如きの力では絶対に破壊できない。できるとすれば、同じダークマターの力を持った悪魔か、あるいはもう一つ。

それを可能とする存在がいる。

それは、

「天使・・・・・・だと。だが、あの野郎からは天使の“気配”を感じない。糞が、訳わかんねえぞ」

 バラキエルの疑念が、呟きとして口から漏れる。

天使。

それは悪魔と相反し、敵対する存在だ。

相反すると言う事は当然使用する力も異なってくる。悪魔は自分達の力はもちろん、敵対する天使の力がどんなものかを良く知っている。だからこそ戸惑っていた。今戦っている少年の力は明らかに天使の力であるのに、彼からは天使の気配を全く感じないのだ。

謎の状況にバラキエルは歯噛みして、フワフワと散らばっていた残り4つのダークマターを自分の元へ戻そうとするが。

それよりもアルフレッドの動きは速かった。

すぐさまバラキエルの懐まで潜り込んだ黒髪の少年は、光の楯を展開したまま拳を握る。

「歯ぁ食いしばれゲス野郎! 手加減なんか期待すんじゃねえぞぉっ!!」

放たれた渾身の一撃が悪魔の顔面に突き刺さる。

光の楯ごと放った拳は、悪魔が作る魔力による薄い防護膜をも貫通して確かなダメージを与えていた。拳を受けたバラキエルの体は後方に滑るように飛ばされる。何とか踏ん張ったのか膝を崩す事はなかったが、その顔は痛みと怒りで歪みきっていた。

「もうお前の攻撃は俺にはきかねえ。諦めてとっと魔界だか地獄だかに帰るんだな」

「・・・・・・ひ、ひはは、ひはははははひゃははははははははははひゃははっはあはははははははっ!! ・・・・・・ああ、言わなくても帰るさ」

狂ったような悪魔の笑いにアルフレッドは言いようのない寒気を感じていた。

何か危険な、嫌な予感がした。

アルフレッドは解っていなかった。嫌な予感とはそれが起こるとほぼ確信しているからするもの。いわば予感ではなく予言に近いのだと言う事を。

バラキエルの口が獰猛に裂ける。

その目は完全に見開かれ、悪魔特有の深紅の瞳がアルフレッドを確実に捉える。

そして叫ぶ。

「てめえら糞野郎どもをぶち殺してからなあああああああああああああああっ!!」

咆哮するバラキエルは空へ飛んだ。

眼下に居るアルフレッド達を見下ろす。

「糞が糞が糞がぁ! てめえら殺しただけじゃ気が済まねえ。さっさとてめえらを無様な肉の塊に変えたら、この街の人間全てを皆殺しにしてやるぞコラぁああああああああ!」

悪魔の元に4つのダークマターが集まる。

その内の3つの黒い球体がブヨブヨと蠢いたかと思うと、その黒い3つの球体は溶け合うように混ざっていく。混ざった球体達はしばらくドロドロと蠢いていたが、やがて形を為していく。出来上がったのは黒い球体だ。混ざりあう前の一つの球体と同じ形だが大きさが違う。頭一つ分くらいの大きさであったのに、出来上がったそれは人一人分を軽く包み込める程の大きさだった。

「なんて大きさだよありゃ」

小さいものでも絶大な威力をもった攻撃を放っていたのだ。あのサイズから撃たれる攻撃がどんなものなのかは想像したくない。

けれど、想像せずともそれは現実としてアルフレッドに襲い掛かる。

小さい時よりも強い輝きを放ち始めた巨大な黒の塊を見上げて、アルフレッドは右腕を上に掲げる。放たれるだろう強大な一撃を防ぐために。

だが、そこでアルフレッドは気付いた。

バラキエルが自分を見ていない事に。

その視線が、血にまみれる赤髪の担任教師と、意識を失って眠る栗色の髪の少女を守るように抱きよせている金髪の少女を見ている事に。

(あんの野郎っ!!)

慌てて彼女達の元へ駆け寄る。

その間にも巨大な塊にバラキエルが魔力を注ぎ込む。

アルフレッドが傷ついたエメリルファ達の元に辿り着くのと、巨大な黒い球体がその大きさに比例した極太の黒い光線を放ったのは同時だった。

咄嗟にアルフレッドは右腕を空に掲げる。

展開された光の楯に極大の黒い矢がぶつかる。

照射され続ける黒い光線を必死に受け止め続けるアルフレッド。強大過ぎる力に、彼の守護の楯は何とか防げてはいるが、ジリジリと体が押されていく。

(く、耐えきれるか。頼む! 耐えきってくれよ!)

何が何でもこの攻撃を後ろのエメリルファ達に当てさせない。

絶対に防ぎきってみせる。

アルフレッドは力を込めた。

彼の意思に答えるように光の楯がその輝きを増していく。

押されていた体が止まる。

(いける、防げる!)

そう思ったアルフレッドだったが、視界の端に何かが映った。

それは黒い球体だ。

アルフレッドは思い出す。

あの巨大な球体を作る時、使われたのは3つの黒い球体だった。

ならば、残りの1つは?

「ぎゃははははははははっ、馬鹿野郎が! こんな安い手に引っ掛かってんじゃねえええぞぎゃははははははははは!」

悪魔の笑いがゆっくり聞こえる。

いや、全ての時間が引き延ばされているような錯覚を覚える。

視界の端にある黒い球体は黒く輝きだす。

その輝きはようやく黒髪の少年をハチの巣にできると歓喜しているように見えた。

「避けなさい! アルフレッド!」

金髪の少女が切迫した悲鳴のような叫びが聞こえる。

が、それも上手く聞き取れない。

そして無情にもアルフレッドに向けて視界の端の球体が光線を放つ。

黒い矢がアルフレッドの体を貫く。あまりの激痛に意識が朦朧とする。

そのせいか、弱まった光の楯を食い破り、極大の光線がアルフレッドに直撃した。


                    *

一面に広がるのは視界を遮る煙だ。

それは高密度の魔力が衝突した事による余波なのか。それとも単に衝撃で地面がめくられて舞いあがった砂埃か。恐らくはその二つのどちらもこの煙を巻き起こした原因なのだろうが、それはどうでもいい。

バラキエルは快楽に満ちていた。

折角準備した悪魔転生の儀式を台無しに破壊され、下等な人間風情に何度も拳を叩きこまれ、そして散々舐めた口を利かれ、悪魔はこれまでにない怒りを覚えていた。

だがようやく、その怒りを少し発散する事ができた。

「ざまぁねえなあ。どうだ、木端微塵にされた感想は。つっても木端微塵にされちゃぁもう舐めた口も利けはしないだろうがなぁひゃははははははは」

先程まで森を支配していた轟音はいつしか静寂へとすり替えられていた。

煙が晴れればそこにあるのは無残に無様に粉々になった人間だった何か、だろう。それを考えるとまた笑いが込み上げてくる。

バラキエルは腹を抱えて笑っていたが、不意にその笑いが止まる。

「まだだ。まだ足りねえ。俺をコケにしたお前ら下等生物を一匹殺した程度じゃこの怒りは鎮まらねえ。・・・・・・つーわけでよ」

バラキエルが深紅の瞳でギロリと眼下を睨む。

その瞳に映るのは金髪の少女と、瀕死の赤髪の女性と、意識なく眠る幼女。

「とりあえずそこの死にぞこないの女とお前を殺すが、文句はねえよなあ!」

バラキエルの前で指示を待っていた巨大な球体が黒の輝きを始める。

膨大な魔力が球体に流れ込んでいく。


「くっ・・・・・・」

エメリルファは唇を噛む。

その目にはほんの少し、涙が浮かんでいる。

(そんな、こんなこと・・・・・・)

自分の目の前で、黒髪の少年が死んだ。

この事実をエメリルファは認めたくはなかった。

認めたくはない、という事は彼の死を肯定しているのと何ら変わりがないことを、金髪の少女はきちんと理解している。理解した上で、認めたくないのだ。

誰だって解る。あの一撃を受けて生きているとは思えない。死んだと解っているからこそ認めたくない。矛盾だというのは解っているつもりだ。だが、解ってはいても納得できない事はある。

少年は助けたいと言っていた。

世界に絶望ばかりを押しつけられた少女を。

この世界には絶望をひっくり返せるだけの希望がある。そんな青臭い理想論を少女に教えてやりたいと言っていた。

けれど、少年は死んでしまった。

そしてこのままでは彼が救いたかった少女は殺される。

あの悪魔にとって、リタ=ヴォルドダンタリアンというのは悪魔転生とやらに最適な人材の筈だが、怒りで目的を忘れているのかリタもろともエメリルファ達を吹き飛ばす気だろう。

「させ・・・・・・ませんわ」

「あ? 何か言ったか下等生物」

「させませんと言いましたわ」

優しく抱き抱えていたリタとレイアをそっと地面に寝かせ、エメリルファは立ち上がる。

瞳にうっすら涙を浮かべながらも、強い眼差しで頭上の悪魔を見る。

「あの人が守ろうとしたものはわたくしが守って見せます。あの人の願いはわたくしが叶えてみせますわ!」

随分と魔術を行使して疲労しているが、そんな事は関係ない。

例え命をかけてでも、やり遂げなければいけない。

自分が守ろうとしている少女の事などエメリルファはよく知らない。話をしたこともない。

けど、少女を守ろうと、救いたいと思う人がいる。

エメリルファにはそれで理由は十分だった。

(案外あなたの影響かもしれませんわね。・・・・・・アルフレッド)

瞳から滴が頬を伝う。

エメリルファは残り少ない力を振り絞り魔力を練り上げる。

魔術陣が現れる。あの一撃を防ぐために、展開させた魔術陣は巨大なものだ。恐らくはこれが彼女の本気の全力。これで防げなければ全ては終わる。彼女達は殺され、もしかしたら悪魔は街に行ってもっと多くの人達をストレス解消なんていうふざけた理由で殺すかもしれない。

魔術陣が青い輝きを放つ。全力の魔力を注ぐ。

「てめえじゃ俺のダークマターは防げるわけねえええだろうが!」

怒声と共に輝きを増す巨大な球体。

エメリルファも更に魔力を込める。

黒と青、二つの輝きが闇に覆われた森を照らす。

――そして今まさに、二つの力が衝突するというところで、

「ま・・・・・・て、よ」

煙の中から声がした。

弱々しく、途切れ切れの声がした。

そしてその声のすぐ後に、何処から吹いたか解らない突風が煙を吹き飛ばした。煙が消え、衝撃でちょっとしたクレーターができあがったその場所にあったものが露わになる。

それを見たエメリルファ驚愕し、瞳にはまたしても少しの涙が浮かぶ。

それを見た悪魔は驚愕し、顔はこれまで見せた事の無い様な表情で、

「お前、まさか・・・・・・」

ころころと変わる状況は、またしても一変した。


                  *


煙の中に居たのはアルフレッドだ。

そして彼の体は粉々にも、バラバラにもなっていない。きちんと人の形を保っていた。

だが、人の形は保っていても彼は鮮血にまみれていた。体のいたる所から真っ赤な血が噴き出している。意識が飛んでいたのか横たわっているアルフレッドは苦しそうに、しかし精一杯の力を込めて立ち上がる。

時折口から血の塊を吐き出しながらも、アルフレッドは倒れない。

「生きて・・・・・・いましたのね」

目もとの涙を拭いながら、エメリルファは微笑む。

喜び、その感情が今は勝っているが、エメリルファは喜びと同時に驚きもしていた。

アルフレッドがあの一撃を受けて生きていた事にも驚いたが、それとは別に原因はある。そしてその原因によって驚かされたのはエメリルファだけではないようだ。

「・・・・・・てめえ、背中のそれはなんだ? それじゃまるで」

悪魔じゃねえか、と言いかけて悪魔は気付いた。

そして完全に理解した。

目の前の死にぞこないの少年が、アルフレッド=グレイスという生き物が何者なのかを。

金髪の少女と悪魔、二人が驚いているのは、少年の背中だ。

その背中に、黒い翼が生えているからだ。

自分はとんでも無いものを呼び起こしてしまったのか、とバラキエルは思わず小さく舌打ちをしていた。

(天使の力に堕天の翼、間違いないあの野郎は)

悪魔の目が忌々しいものでも見るようになる。

それは当たり前だ。なんせ目の前にいるのは、自分達悪魔にとっては天敵と言っても過言ではないようなヤツの血が流れているのだから。恐らくその力も引き継がれている筈だ。もしそうなら、少年が血まみれなものの五体満足で生き残ったのかも納得にたる理由を付けられる。

「天罪の子。まさか本当に存在したとはな。いや、驚くべきはどうしてテメェが生かされているのかってことだな」

天罪の子、とは文字通りの意味だ。

天が犯した罪、それがアルフレッド=グレイスという生き物の正体だ。正確には天が犯した罪――天使が悪魔と交わった為に生まれたのがアルフレッドだ。

天使と悪魔が交わったこと自体十分に異端な行いだが、更なる問題は交わった天使と悪魔がどちらも天界では名の知れた大物過ぎたことだ。

その、二人の交わった天使と悪魔というのは、

(大天使ミカエルの一族と、魔王サタンの子供。くっそが、何故生かされている。あの一件で戦争すら起きたってのに、どうしてガキが殺されていない?)

バラキエルの脳裏を疑問が埋める。

10年前、天界では“天罪の子”誕生を引き金とした戦争が起きた。

天使と悪魔。以前から衝突はあったものの戦争などといった大規模な戦闘はこれが初めてであった。双方多大な犠牲を払い多くの兵が命を落とした。結末は悪魔軍の敗退ということで幕を閉じ、魔王サタンは戦いで死に、交わったミカエルの一族の女性は処刑された。当然、産まれおちた天罪の子も殺されたとばかり思っていた。多分ほとんどの天界に住む者がそう思っていたに違いない。

しかしどうしてか、今現実として目の前に天罪の子は存在している。

いつの間にか、バラキエルは怒り心頭から一転冷静さを取り戻していた。いや、戻されたというのが正しいかもしれない。これはまずい事態だ。天罪の子の力、つまりは父である魔王サタンの力は今の悪魔にとっても、これからの魔界全体にとっても脅威だ。

ならばやる事は決まっている。

「折角生き残ったとこ悪りいんだけどよ。お前を何としても生かしておくわけにはいかねえくなった。だからよ、もう一回死んでくれ」

今しかない。

完全に力を覚醒できていない今がチャンスなのだ。完全に覚醒し、魔王サタンの力を得られてしまってはもうバラキエルではこの少年には勝てない。

「・・・・・・」

黒髪の少年は何も言わずに、ただ空に飛ぶバラキエルを見ている。何故生きているかも解らない体の筈なのに、バラキエルを見るその目は強く輝いていた。

その様子が、悪魔を無性に苛つかせる。

「テメェは何者でもねえ。天使でも悪魔でも、ましてや人間ですらねえ。そんな半端もんが生きる場所なんざねえんだよ。今お前が人間として生きていけてるのはお前の正体がばれてねえからだ。知ったらどいつもこいつも掌返してくんぞ。なんたってお前は人間ですらその名を知る悪魔の王、魔王サタンの子供なんだからなぁ」

「・・・・・・だま・・・・・・れ・・・」

「そこのガキとおんなじだ。魔神ハデスの血が流れてんだぞ? そのガキだって人間と分類して良いのか怪しいもんだ。人間ってのはそういった悪魔みたいな、存在の不確かなものは気味悪く思ってんだよ。そんなやつらを近くに居させたくないって思っちまうのさ。化け物だとか思われちまうのさ! だからてめらには居場所なんてねえんだよ。半端もんは大人しく殺されるか、道具として強者に使い潰されりゃいいんだよ!」

「・・・・・・黙れ・・・・・・っ!」

瀕死の体でアルフレッドが叫ぶ。

叫んだ声は身体の中で反響し、それだけで激痛が走る。

そんな痛みを感じたとしても、アルフレッドは黙ってはいられなかった。

「確かに、お前の、言う通り・・・・・・俺とリタは、正体が知ら、れたら・・・・・・皆怖がったり気味悪がって、拒絶されるかも、しれない」

喋るたびに、激痛が体を蝕む。口元からは赤い滴が流れている。

にも拘わらず、アルフレッドは言葉を止めない。

「・・・・・・けどな、居場所がないなんて、のは間違い、だ・・・・・・っ。人は、お前が思ってるほど、冷たい奴らばかりじゃ、ない。あったかい心を、持った人も、沢山いるんだ。そういう奴らが、俺とリタみたいな、化け物って思われ、るような奴にだって、居場所を、くれる・・・・・・。受け入れて、くれる・・・・・・っ!」

それは願望なのかもしれない。もしかしたら正体を知ったらレイア=ベルも、エメリルファ=アーデライトも拒絶してくるかもしれない。

でも、彼女達ならきっと受け入れてくれると信じたい。

なんたって、彼女達は命がけで共に戦ってくれた心の温かい人間なのだから。

気に入らない、とばかりにバラキエルは舌をうつ。

「はっ、そんな都合のいい事があるかよ。居場所を作ってくれる、だぁ? 寝言言ってんじゃねえぞ。じゃあてめえが言うあったかい心とやらを持った奴に出会えなかったらどうなる?」

「決まってん、だろ、ばか野郎」

アルフレッドはニヤリと笑う。

そんな簡単な事も解らない悪魔に心底笑えてくる。

「居場所を、作ってもらえなかったら、作れば、良い・・・・・・俺が、居場所を作ってやる。人からうとまれ、蔑まれ、る奴、そいつら全部を、救う居場所を、俺が作ってやる。ガキの、考える理想論かも、知れない。何でもかんでも、救えねえ、のは解ってる」

そこまで言って、アルフレッドは後ろで眠っている幼い少女を見た。

ずっと不幸を背負い込んできた少女。

これまでずっと、誰にも救いの手を差し伸べられなかった少女。

「けどな、困ってる人を、救うって、のは理屈じゃ、ねえんだよ、できるできないじゃ、ねえんだよ。誰かが、やんなきゃ、いけねえんだ、よ。・・・・・・でねえと、救えるもんも、救え、ねえ・・・・・・っ!」

それが、アルフレッドが貫かんとする信念だ。

母と約束し、誓った生き方だ。

理想論だというのは解っている。自分でもできないかもしれないと思っている。困っている人、苦しんでいる人全員を救うなど、自分一人には荷が重いにも程がある。

けど、できないと解っているからやらないのであれば、実現できる可能性を自ら消してしまうことになる。0%と1%は近い様で物凄く遠いのだ。だから、アルフレッドは折れない。救える可能性があるのなら、彼が抱いた信念は絶対に折れない。

僅かな希望は必ず摘み取ってみせる!

「だから、俺はお前を・・・・・・ぶん殴って、魔界に、帰らせる。この街に、このセフィライアに、住む人達を、苦しませる様な、事は・・・・・・もうさせねえ。それになにより」

真っ直ぐに、天に舞う悪の権化すら怯みそうな、そんな強い意思の籠った瞳で、悪魔を射抜く。

「俺の居場所を壊すことはだけは、絶対にさせねえ!!」

叫びと共に、アルフレッドの背中の黒い羽が羽ばたいた。

翼を羽ばたかせるなど、どこの筋肉を使っているのか全く考えもつかないが、彼は翼を操る。体が宙を舞う。言いようの無い、初めての感覚が体を支配する。これが、飛行する、という事なのだろう。

未知の感覚に囚われながら、アルフレッドは悪魔に向かって一直線に空を駆けた。

もう二度と、誰も傷つかせない。苦しませない。

全てを守る為の最期の闘いが始まった。


                    *


「ちっ・・・」

バラキエルは小さく舌打ちした。自分を討つべく迫りくる少年を見ながら。

ボロボロの体だというのに少年は立ち上がり、あまつさえ空を駆けている。

「死にぞこないがぁ、かっこつけてんじゃねぇぞぉおぉぉおおおおおぉおお!」

黒い巨大な球体が、主の怒りを体現してか極大の光線を放った。必殺の黒い光線は真っ直ぐアルフレッドに向かう。

そして、自らを殺す光線にアルフレッドもまた真っ直ぐに突っ込んでいく。

「おおおおおぉおおおぉおっ!!」

雄たけびを上げながら、アルフレッドは拳を握る。

拳を握る右腕には光の輪が通っている。輪は回り、光の楯が現れる。あらゆる暴力を防ぐ楯を、防御ではなく攻撃の為に使う。あらゆるものを防ぐと言う事は、逆にいえば、楯とぶつかったあらゆるものは壊れてしまう。

皮肉なものだ。この力は楯であり矛でもあるというのは。

アルフレッドは右腕を、正しくは拳の前に展開された光の楯『矛』を、全力で光線に叩きつける。音が炸裂する。力と力がぶつかりあった事でできる衝撃が空気を伝って森に広がる。

「何がぶん殴るだ、何が魔界に帰らせるだぁ、半端もんの死にぞこないが舐めたことぬかしてんじゃねえぇ!」

漆黒の光線と、光り輝く楯がぶつかり合う中、アルフレッドの左の方に黒い拳大程の球体が現れる。それは、つい数分前と全く同じ状況だ。このままでは横からの攻撃に貫かれ、弱った光の楯を食い破って正面から極大の光線がアルフレッドを呑みこむだろう。

「く、・・・・・・っ!」

何とかして避けなければならない。解ってはいるがアルフレッドの体はもう限界だ。今もこうして空を飛び、拳を振るっているのが奇跡なくらいなのだ。奇跡はそう何度も起きてくれないのが世の常だ。

回避にまで力を割けないアルフレッドに、漆黒の矢の群れが襲い掛かる、と思われたが。

奇跡は起きてくれた。

黒い球体の周りを青白く輝く魔術陣が囲む。そして次の瞬間、魔術陣に囲まれた黒い球体はその綺麗な球を氷で完全に呑みこまれ、氷漬けにされる。

まだ魔術は終わらない。

もう一つ現れた魔術陣から氷の杭が伸び、黒い球体を呑みこむ氷塊ごと貫く。高密度魔力結晶体、ダークマターである黒い球体をこの程度で破壊する事はできないが、氷の杭で僅かに吹き飛ばされたダークマターから放たれた光線は照準がずれ、明後日の方向へ無数の矢を放つ。

「やり遂げなさいアルフレッド!」

先程の魔術はエメリルファによるものだ。

残り少ない体力を振り絞って魔術を使ったせいか、息を切らしながら彼女は叫ぶ。

「この街の人達を、この少女を救うのが、あなたの信念なのでしょう!!」

リタ=ヴォルドダンタリアン。

この少女を絶望の未来から救い出せと、セフィライアの住人を苦しめた悪魔を倒せと、彼女は叫ぶ。

光と闇の強大な力が衝突し、轟音に場が満たされていても、その言葉はしっかりとアルフレッドの耳に届いていた。

その言葉はしっかりと、アルフレッドを奮い立たせた。

「あっっっったりまえだああああああああああああああああああ!」

アルフレッドは限界の体を更なる限界に追いこみながらも、全身に力を込める。

黒い漆黒の翼がバサリ、と力強く羽ばたかれる。拮抗していた力が傾きを始める。黒い翼がアルフレッドを加速させ、光の楯は黒い光線を押し返していく。

やがて、傾き始めた拮抗は完全に傾いた。

黒い極大の矢を、光の楯を携えたアルフレッドが貫いていく。翼をはためかせ、風を裂きながら突き進むアルフレッドの拳はみるみる巨大な球体との距離を縮める。

その距離20メートル、10メートル、5メートル。

そして、もう拳は巨大な球体の目の前まで来ていた。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

光の楯を纏った拳を球体に押しつけながら、アルフレッドは吠える。

拳が球体にぶつかった際、今までのどの衝突よりも強い衝撃が巨大樹の森を駆け抜ける。下に居るエメリルファなどは自分と横たわるレイアとリタを衝撃波に吹き飛ばされないように、氷の壁を作り上げている。所狭しと生え渡る巨大樹の群れがギシギシと音を立てている。長い年月をかけて成ったその太い幹が衝撃で軋んでいるのだ。それほどの衝撃が周囲一体に広がっている。

光の楯を押しつけられる巨大な球体は何とかその形を崩さずに、衝撃を耐えしのんでいたが。ついに球体は耐えきれなくなり、吹き飛ばされる。物凄い勢いで吹き飛んだ球体は空中で虚しく、バラバラに爆散した。

それでも尚、アルフレッドの加速は止まらない。

再び、黒色に埋め尽くされた翼を羽ばたかせてより加速する。

この一連の騒動の元凶である悪魔の元へ。

「なっ!?」

バラキエルは愕然として動きを止める。

無理もない。自分の全力のダークマターの力を完膚なきまでに砕かれたのだ。

それも、悪魔が脅威だと思っていた魔王サタンの力が目覚めていないにも関わらず。天使もどきの不完全な力によって。

言葉も出ず、動きすらも止まっている悪魔に、黒髪の少年は拳を握る。

「よくもリタを、レイア先生を、この街の人達を傷つけやがったな」

アルフレッドの右腕に通る光の輪が物凄い勢いで回転する。

拳に纏っている光が輝きを増していく。

「人の苦しみや悲しみを食いものにするテメェは、正真正銘の糞悪魔だ。大人しく魔界に帰って反省して来い!!」

全身全霊のアルフレッドの拳はバラキエルの顔面に突き刺さった。

脳を揺さぶられたバラキエルは吹き飛ぶ。そして意識を削がれた彼は、静かに地へと堕ちて行った。

(くそっ、たれ・・・・・・が)

完全に意識が無くなる前に、悪魔は心の中でそう吐き捨てる。

そして、地に堕ちた衝撃にも目を覚まさない程、彼の意識は混沌へ呑みこまれていった。

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