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魔術の都の半天半魔  作者: 田神遊斬
一巻 物語の始まり、少年の覚醒
3/6

第二章 悪魔の一族”ヴォルドダンタリアン”の少女

 7月30日。楽しい楽しい夏休み開始から2日目の朝。

 相変わらずの猛暑で寝苦しかったが、黒髪の少年は眠りの深淵に落ちていた。深い深い眠りだ。当然と言えば当然である。一日の内におよそ一週間分くらいのイベントを一気に体験したのだから、少年がジリジリと鳴っている目覚ましなど聞こえないくらいの深い睡眠に落ちてしまうことは仕方の無い事だ。

 が、その深い眠りに、ともすれば一日中眠っていそうなくらいに寝腐っている黒髪の少年の耳に、甲高い殆ど叫び声のような音が飛び込んできた。

強制的に夢の世界から引きずり出される。億劫に目を開けると、真夏の熱を帯びた眩い光に網膜を焼かれて、瞳を何度も瞬かせる。

そして、黒髪の少年を気持のよい朝の眠りから叩き起こした元凶はというと、彼の体に馬乗りになる形で未だにキーキーと何かを喚いていた。

「朝だよっ! 起きて起きてっ!! ていうかこのジリリリリリぃって音うるさい止めて!」

 パチパチと瞬きして朝の陽ざしに目を慣らすと、ようやく視界が鮮明になった。

 まず、黒髪の少年アルフレッド=グレイスの視界にでかでかと映ったのは物凄く顔を近づけてきている見た目10歳くらいの幼女の顔だった。その幼い顔の左半分には規則性なく描かれた“黒い紋様”があり、それは堂々と少女の素性を証明している。

 寝ぼけて回らない頭だったが、少女の顔に描かれた紋様を見て昨夜の出来事を思い出す。

(あー、そういやこいつにしばらくこの部屋で生活してけって言ったんだっけか)

 少女の――リタ=ヴォルドダンタリアンの事情を知って、アルフレッドは彼女にとって安心して暮らせる居場所が見つかるまでこの部屋で暮らしていけと、少女に言っていた。だから決して攫ってきたとか、無理やり監禁しているとか、そういう物騒なことでは断じてない。ちゃんとお互いの話し合いの元、少女はここに居るのだ。

「んー・・・夏休みなんだから寝かせてくれよぉ・・・」

「寝てもいいけどあれ止めてあれ! あの時計!」

 もう一度眠りの中に沈みこもうと瞳を閉じるアルフレッドだったが、彼の体の上に跨る少女に激しく揺すられてそれは妨害される。鬱陶しそうに再び瞳を開けると、馬乗りになっている少女リタが、二度寝対策の為ベッドから少し離れた小さな棚に置いてある目覚まし時計をビシビシっと指さしている。

「・・・それくらい自分で止めれるだろーが」

「えーわかんないよ?」

「・・・・・・」

 真剣な表情で首を傾げている少女の姿に、アルフレッドは口から吐かれる溜息を止めることができなかった。

 しかしまぁ半分覚醒してしまっているアルフレッドにとっても、あの甲高い機械音が鳴ったままでは再度眠りにつくのは難しい。仕方ないと思い、渋々騒音の元を断ち切ろうと、音の主である目覚まし時計に視線を向ける。

 とそこで、彼は気付いてしまった。直後にアルフレッドの表情が露わしたのは驚愕。

 目覚まし時計の長針と短針が示しているのは紛れもない8時10分という時刻だ。

「やっっべえええええ!! 今日も補習があったの忘れてたあああああああああ!」

 アルフレッドは完全に覚醒してソファから飛び起きた。その拍子に彼の体の上に乗っていたリタがドタバタと派手な音を立てて転げ落ちたが、そんな事は気にしていられない。

 急いで寝まきから学校指定の白いワイシャツと黒のスラックスに履き替える。

こうしている間にも着々と時が刻まれていく。昨日は遅刻して教室の後ろまで投げ飛ばされたのだ。今度遅刻したら一体どのような制裁を受けることになるのか、今から想像するだけでも身震いしてしまう。そう考えると、時計の秒針が時を刻んでいる様がまるで死へのカウントダウンのように思えてアルフレッドは一層慌てて支度をする。

 と、いきなりアルフレッドが飛び起きたせいで転げ落ちたリタは、落ちた時に床におでこでもぶつけたのか瞳に僅かな涙を溜めている。

 そんな少女がアルフレッドの叫びに含まれたある単語に疑問符を浮かべる。

「補習って何? そんな大事なことなの?」

「大事って訳でもねーけど何ていうか行かないと命の危機に瀕するというか。まぁぶっちゃけると俺って魔術がまったく使えないんだよ。だから補習ってのは俺が魔術を使えるようになる為のお勉強ってな感じだ」

「ふーん。じゃあどうして魔術が使えないの?」

「・・・・・・さぁな。どうしてだろうな」

 幼女のなぜなぜ攻撃を適当に受け流しつつも準備をするアルフレッド。本当なら朝食も食べていきたいところだが、そんな時間はこれっぽっちも残されていない。昨日みたく朝食抜きで補習を受けなければならないことに若干の悔しさを感じるものの、鬼の担任教師から恐ろしい制裁を喰らう事と天秤にかければ優先事項は決まっているも同然だ。

「冷蔵庫に少しなら食うもんが残ってた筈だから腹減ったらそれ食べて良いからな」

「うん分かった!」

「それから、絶対に部屋から出ない事。興味があるからって寮内を探検しよーなんて考えるなよ。あと俺の部屋の物は勝手にいじるなよ。散らかしたら承知しねーからな」

「・・・・・・えー」

「えー、じゃねぇよ! 良いか、絶対にさっき言った事は守れよ」

 自分がいない間に寮内をうろついて誰かに見られでもしたら色々とまずい。そもそもこの寮は女子禁制だ。幼女とはいえ女子は女子。もし寮監にバレでもしたら規則違反ということでどんな『お仕置き』を受ける事か・・・。

 それにもし、万に一つも少女が例のヴォルドダンタリアンの生き残りと誰かに知られてしまったら、生き残りである少女も、それを匿う状況にあるアルフレッドも面倒なことになるのは明らかだ。

 リタもそれを何となく理解しているのだろう。むー、とむくれているがアルフレッドの警告に素直に首を縦に振った。

 彼女の態度にまだ少し心配が残るが、そうこうしている内にも時間は進んでいる。ここで悩んでいては優先事項を疎かにしてしまうだけである。

 アルフレッドは一先ず少女の事を信じる事にして部屋のドアに向かう。そしてドアノブに手をかけて扉を開こうとしたところで振りかえり、

「あとそうだ。くれぐれも寮監の肖像画だけには何もするなよ。そんな事したら『お仕置き』で俺のアイデンティティが――」

「分かったから早く行きなよ!」

 最後の警告を口にしてアルフレッドは扉を開け放った。

 腕時計を見ると、現在時刻は午前8時18分。走っても間に合うかどうかは五分五分といったところか。一刻の猶予もないとはまさしく今の状況である。

 アルフレッドは急いで部屋を飛び出したが、不意に何かを思い出したように部屋のドアを開けて、

「なるべく早く帰ってくるからな。それまでちゃんと大人しくしてろよ」

「はーい。いってらっしゃーい!」

 今度こそ黒髪の少年は振り返る事もせずに部屋を後にした。

 また今日も、無意味で無駄で、何の成果も生まないと解りきった『特別補習』を真剣に受けているふりをする為に。


                  *


 リタ=ヴォルドダンタリアンは黒髪の少年が出て行った部屋の扉をしばらくの間ボーっと見つめていた。その顔は何かを惜しむような、決心したような、様々な感情が込められた表情をしている。

 どれくらいそうして、艶のある高質な木製の扉を眺めていただろうか。今頃もうこの部屋の主である少年は寮を出て、あの無駄に過酷な長い坂を必死に上っている事だろう。この30など軽く超える猛暑の中、全速力で上り坂を駆けて行かねばならないとは、思わず同情してしまう。

 しばらく扉を見つめていたリタだったが、ようやく視線を動かした。特に何かを見るという訳でもなく、何気ない感じで部屋の全体を見回す。テレビ、冷蔵庫、クーラーといった、リタにとっては物珍しく感じる近代機器が部屋の要所要所に置かれている。アンティークな感じのこの部屋ではそれら近代機器はとても浮いて見えてしまっている。まるで近代化が遅れているこのエストラシルの縮図のようである。

 とそこで、部屋全体を見回していたリタはある品物に注意が止まった。正しく言えば、注意を向けさせられた。

 彼女の視界の先にあったのは壁に掛けられている一枚の肖像画だ。そこに描かれた一見して化粧をした貴婦人だが口元に威厳あるひげがあるために性別を隠せていない男性の目がジーっとこちらを見ている。もちろん絵画なのだから認識的にはリタが“肖像画の絵を見ている”のだが、どうにも目が合っているようで不気味に感じてしまう。

(うー・・・何か、夜に見たら気が狂っちゃいそう・・・)

 ブルっと身体が震えるのを抑えながら、リタは肖像画から視線を外す。動かされた視線は意図せず、いつの間にかまた木製の質の良い扉の方へ戻されていた。

「・・・・・・・・・」

ふと、リタの頭に浮かぶのは昨夜の記憶。黒髪の少年との会話。

『一晩泊まってこれからどうするべきか考えようかと思ってたけど、やっぱそれは無しだ』

 それは、少女にとって思いもしない反応で、思いもしない言葉だった。

『しばらくここで生活していけよ。知り合い、っつーか身内なんだけど結構頼れるやつがいてさ。そいつならきっと何とかしてくれると思うんだ。だから何とかなるまでここに居ろよ』

 少年はリタ=ヴォルドダンタリアンが悪魔の血が流れる一族の出生だと知っても、変わらずに、出会った時と同じように接してくれた。その彼の優しさは、リタが随分味わってこなかった優しさだ。できることならば甘えたい。ここに居ろと、どこにも居場所の無かった少女に、居場所をくれた少年の優しさにすがりたい。

 だが、それは駄目だ。

 ここに居ては少年が悪魔の一族を匿っているという噂が出るかもしれない。そうなってしまっては折角自分に優しくしてくれた少年は、リタと同じく、この街から居場所を失くしてしまう。それだけは絶対にあってはならない。

 他人の人生を台無しにしてまで、幸せを手に入れたくはない。幼いながらにリタはそう思っていた。だから、これから自分が取るべき行動はもう決まっている。

 リタは部屋のベランダに向かった。そこには昨日少年が洗濯して、干してくれていた真っ黒なローブがあった。心地よい日の光を一身に浴びていたその布切れは、手に取ると気持ちの良い暖かさが掌に伝わってきた。長い間洗わずにき続けていたせいで汚れきっていたローブは、息を吹き返したように良い匂いを漂わせている。

 手に取った漆黒のローブを着る。ローブに溜まった日光の暖かさが全身に伝わる。外は30度越える猛暑なのだが、不思議とその暖かさは嫌に思わない。

「・・・・・・行かなきゃ」

 ポツリと呟いたリタは、部屋の出口へと向かう。

 昨日の夜には既に決心を固めていた。ここで生活していけと言われたが、やはり迷惑はかけられない。あの少年は優しい。だから面と向かって出て行くなんて言ったらきっと、それこそ強引にでも引き止めてくるかもしれない。ならばこうして、彼がいない間にひっそりと姿を消そう。こうすることが一番ベストな選択なのだ。

 リタは木製の扉に手をかける。そして、

「短い時間だったけど、ありがと。リタに・・・優しくしてくれて」

 振り返って、リタはここにはいない部屋の主に感謝の言葉を口にする。当然、その言葉に答える者などいる訳もなく、彼女の思いは誰もいない部屋が生む静寂に呑みこまれた。

 リタは手に力を込めて、ドアノブを回した。キィ、という木製の扉が擦れたような音を鳴らす。それから少女は一歩を踏み出し、一晩世話になった201号室の部屋から出た。今も擦れた音を立てながら閉まっていく扉の先に広がる室内を、少女は閉まりきる最後の時までずっと眺めていた。短い間だった筈なのに、物凄い名残惜しさがリタの胸に広がる。

 完全に扉が閉まるのを見届けると、リタは一階のエントランスホールに降りる為の階段まで続く長い廊下をトボトボと歩き始めた。もちろん一族の紋様を隠すために漆黒のローブで全身を覆い、フードを眼深に被って。

 しかしだからこそだろう。リタは気付かなかった。フードを眼深にして視界が遮られた状況では目の前を誰かが歩いていても気づかないのは無理もない事だ。

 結論から言うと、リタは誰かにぶつかった。

 トン、という軽い衝撃にリタの体がよろめくが、彼女の体をぶつかった相手が支える。

「あら、大丈夫ぅ? ごめんなさいね、ちょっと考え事してたわぁん」

 頭の上から聞こえたのは野太い声だった。しかし、口調は何故か女性的である。

 恐る恐る見上げると、そこにあったのは化粧をしているのかほんのり赤い頬と真っ赤な唇。そしてそれら貴婦人のような外見を打ち消すように口元に生えた威厳のある手入れされた髭。何故だろうか、リタはこんなお世辞にも普通に見えない人物に知り合いなどいない筈なのに、その顔は初めて会ったとは思えない見覚えのあるものだった。

「・・・あなた、ウチの生徒ちゃんじゃないわねぇ? 見た事無い顔だわぁ何処から来たのぉ?」

「え・・・あ・・・」

 見上げたリタの顔を凝視して、眼前のオカマっぽい人物は問いかける。

 フードを深く被っているから顔は見えていない筈なのに、リタは間近で凝視される事で自分の正体がばれてしまうのではないかと心配になっていた。

 そして不意に、リタはこの人物に何故会ったことも無いのに見覚えがあると思ったのか、その原因を思い出した。それはかかっていた霧が晴れていくような、見えなかったものが見えたような感覚。何の事は無い。目の前の人物は全く同じではないか。部屋に飾ってあった不気味な肖像画に描かれた顔と。

(こ、この人が寮監さん!? じ、実物の方がまだマシかも・・・)

 記憶にある肖像画に描かれた顔と、今も首を傾げて質問の答えが返ってくるのを待っている目の前の男(?)の顔を見比べてそんな感想を抱いたリタ。

 今もニコニコと頬笑みながらリタの言葉を待つ寮監と違って、質問された当の本人は明らかな焦燥を顔に浮かべていた。

(ど、どうしよぉ。変なこと言って怪しまれたら、あの人に迷惑が・・・)

 あたふたと可笑しな挙動を取りながら、どう答えれば怪しまれないかを必死に模索する。といっても、もうその挙動不審な態度が既に寮監の中に警戒心を抱かせているのだが。

「リタは、その・・・あれ! アルフレッドの、親戚なの!」

「まぁ、アルフレッドちゃんの。なぁんだぁ、それならそうと早く言ってくれたら良かったのにぃ。でもあの子、確か今日は補習じゃなかったかしらぁ」

「へ、へーそっかぁホシュウなんだー」

 勿論その事は朝本人から聞いた事だから知っている。だがここは口裏を合わせるのに徹底することにリタは意識を集中させる。

 寮監はんーっと唸りながら顎に手を当てて何かを考える。

 そこで、何かを思いついたのか、パンと音を鳴らして両手を合わせると、

「良かったら寮監室であの子が帰ってくるまで待つぅ? 補習って言っても昼過ぎには帰ってくるでしょ。あ、でもレイア先生のことだからちょぉっと長引いちゃうかもねぇん」

「・・・そ、それは」

 できない。何故なら少女はアルフレッド=グレイスの元を離れる為に、彼に迷惑をかけない為に、言いつけを破って部屋から抜けだしたのだ。ここであの少年が帰ってくるのを待っては何のために決断したのか分からなくなってしまう。

 リタは申し訳なそうに、詰まる言葉を無理に吐きだそうと口を開く。

「それは・・・できないの。すぐに帰らなきゃいけないから。だから、また来るから大丈夫! ありがと、えーっと・・・おじ、さん?」

「ゴホン。・・・おばさん、よ。まぁいいわぁん。そういう事ならまたいらっしゃいな」

「うん!」

 そう言って、リタは歩き出した。

今度こそ本当に、この場所から立ち去るべくして。

 最後に、それじゃぁと言って手を振りながら歩みだしたリタだったが、ふと何かを思い出したように立ち止って、寮監の方へ振りかえり、

「あ、そうだ。あの人に伝えておいて。ありがとう・・・それからさようならって」

 寮監の返事を待たないまま、それだけ言い残してリタは再び歩みを始めた。

 これからまた一人で生きて行かねばならない事に、淋しさと不安を抱えたまま。

 それでも、この街にはあの少年のような優しい人間がいる。そのことを知る事ができただけで、何故だか頑張っていけるような気がしていた。

自分を思ってくれる人がいる。そのささやかな幸せを噛みしめて、リタは街へと向かう。

そして、言伝を頼まれた寮監はというと、

「・・・・・・どういう意味かしら?」

長い廊下に呆然と立ち尽くし、首を傾けていた。

彼女の、もとい彼のそんな呟きが、自分以外誰もいない廊下に虚しく響き渡る。

 

                   * 

 

「はぁ・・・はぁ・・・ちょーギリギリセーっフ!!」

 急いで寮を出て、あの無駄に長い坂を炎天下の中全力疾走して、ダラダラと汗を流して教室に辿り着いた時刻は午前8時29分と37秒。まさに奇跡のゴールである。

 特別補習開始まではあと20秒ちょっと。乱れた呼吸のリズムを直す為、2,3回深呼吸をして酸素を十分に補給する。そして幾分か身体が楽になったのを確認して、教室の扉に手をかける。そういえば今日はあの金髪暴力お譲様の姿が見えない。昨日の話ではアルフレッドが補習を受けている間は毎日監視する、という任をとある鬼教師から仰せつかっていたそうなのだが。

(まさかあいつ・・・サボった?)

 と考えたアルフレッドだが、すぐにどうでも良くなって思考を止める。別に彼女がいないからといって何かが変わる訳ではない。結局はこの無意味な補習を受けなくてはならないのだ。むしろ横からグチグチと説教じみた事を言われない分、気が楽になるくらいだ。

 アルフレッドは教室の扉を開けた。

 開けた先、教室に広がる風景はいつもと変わらない。生徒の人数分の机と椅子、大きな教卓と深緑のどこの学校にもある普通の黒板、そして――不機嫌そうな女性が一人。

「遅刻まで残り6秒といったところか。ギリギリだなアルフレッド。私は貴様を火だるまにせんといけないのかと思って物凄く心配していたぞ」

「そ、それ絶対心配してないじゃん!! ていうか俺火だるまにされるとこだったの!?」

 あまりに物騒なセリフに、アルフレッドは心底遅刻せず良かったと安堵する。

「ん? そういえばエメリルファの姿が見えんが、どうしたんだ。まさか喧嘩でもしたのかお前達」

「別に喧嘩なんて・・・あー」

 アルフレッドは言葉を詰まらせて昨日の出来事を思い出す。確かにあのお譲様は何やら御立腹になって氷の如意棒で渾身の一撃をアルフレッドにお見舞いしてくれた訳だが。あれは喧嘩なのだろうか。どうにも一方的な暴力にしかアルフレッドには思えなかった。

「まぁあれだって。ふつーにめんどくさくなっただけでしょ。何が悲しくて折角の夏休みに学校なんぞに行きたがる奴がいるんだっての」

「・・・ふむ、それは私に“どうか火だるまにしてください”と言っている事と同義か?」

「ち、違うって! いや違います違いますから! だから魔術陣なんか展開しないで!」

 静かに魔術陣を出現させた担任教師の顔は無表情だったが、心無しか額に怒りマークが見えたアルフレッドであった。

「・・・でも先生、俺思うんだけどさぁ。どうして魔術が使えないと駄目なんだよ。別に今の御時世、魔術が使えなくても何の問題もねーじゃん」

「ふんっ、確かに貴様の言う事は最もだろう。今のセフィライアでは魔術を使わなくても、多くの近代機器で何不自由ない生活を送っていける。むしろ魔術は使い方を誤れば凶器にすらなってしまう危険な技だ。無い方が幸せかもしれん」

 じゃあ何で、と質問してくる生徒に、担任教師はその答えを告げる。

「だからこそだ。昔と変わらず、今でも魔術を使った犯罪はなくなる事はない。そこで、セフィライアを統治している統括評議会が提案したのは“魔術師の徹底管理”だ」

 そう言って女教師――レイア=ベルは黒板に何かを書き記していく。

「魔術等級はさすがに知っているだろう? 下級、中級、上級、そして超級・・・。体内にある生まれ持った術式の質と魔力の量、そしてその術式と魔力の効率よい運用、こういった様々な観点から魔術等級というのは定められる訳だが。これらランク付けのようなものは近代化が始まる以前のセフィライアでは家柄や身分階級を決める為に行われていた。がしかし、今のセフィライアでは魔術等級による身分制度は廃止されている。ならば何故、今でも魔術等級を定める必要があるのか、解るか?」

 唐突に質問されて、アルフレッドは首を傾げて戸惑いながら、

「え、えーっと・・・何か称号みたいでかっちょいいから?」

 アホ丸出しのアルフレッドの発言に、レイアは溜息をすることすらせずに呆れた脳みそをした生徒の前まで行くと、いきなりその呆れた脳みが詰まった頭蓋骨の額にでこピンをかました。

「ぐおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 パッと見至って普通のでこピンなのだが、見た目に反した衝撃がアルフレッドの頭蓋骨に響き渡る。比喩でも何でもなく、想像を絶する威力のでこピンにアルフレッドは叫び声を上げずにはいられなかった。

それこそ本当に頭蓋骨にひびが入ったかのような衝撃に悶絶するアルフレッドを冷たい瞳を向けながら、レイアは話を再開する。

「答えはさっき言った“魔術師の徹底管理”だ。予め私達魔術師が持つ各々の術式の性質を記録し、更に等級を定めることで、魔術による犯罪が起きた時に犯人を特定しやすくなるというわけだ。言わば現在の魔術等級とはその魔術師の危険度を示したものだな。当然、魔術犯罪が起きれば真っ先に疑われるのは超級、上級の魔術師達になる」

「ふーん、だったら何で俺が魔術使えないのは駄目なんだよ。いいじゃん使えない方が。犯罪とかに使う可能性が無くなるわけだし」

 思った疑問をそのまま口にするアルフレッド。

 それを聞いたレイアは呆れた瞳を、己が受け持つお馬鹿な生徒へと向ける。

「察しの悪い奴め。何度も言っているだろう。無くならない犯罪に対して、上の連中が考えたのは“魔術師の徹底管理”だと。徹底して管理するのだからそこに漏れがあってはいけないだろう。未知の脅威を野放しにする馬鹿はいまい。だから、お前の魔術は暴かれなくてはいけないんだよ」

 それに、と言葉を区切りながら、深紅の髪をした女教師は続ける。

「己の魔術を修練するのはセフィライアの法律で決められている事だ。人の身に余る力を制御できなければ、それはたちまち凶器に変貌し、人々に牙を剥くからな。何としてもお前は魔術を使えるようにならんといかん訳だ」

「・・・・・・はぁ」

 話を聞いていたアルフレッドは小さな溜息をついて机に突っ伏した。

 自身の魔術を完璧に制御するのがセフィライアの住民の義務だとか法律だとか、そんな大仰な言葉で語れても、アルフレッドには何の意味もない。根本的に魔術自体を扱えないのだから義務だ何だと言われても守りようがない。そしてその事実はこれからも変わる事は無い。

 このまま魔術が使えなければどこかの研究所に送られて念入りに身体の隅々を検査されるのか、はたまた黒い服を着た連中に毎日監視されるのか、と来るかどうかも分からない恐ろしい未来に震えるアルフレッドなど気にも留めず、女教師は持ってきた鞄の中からA4サイズ程の分厚く束ねられた紙束を取り出す。恐らくそこに書き記されているのは彼女が考えてきた無数の補助術式だろう。

 アルフレッドの頬を嫌な汗が伝う。

 紙束の一番上の用紙に書かれた補助術式だけでも物凄い数だ。それが何枚も重ねられて分厚い束を形成している事を考えるに、昨日と同等かそれ以上の数はあるだろう。

「・・・・・・あのー先生。俺今日ちょーっと用事があるから早く帰りたいんだけど」

 それとなく進言してみたアルフレッドを、鋭い視線が貫く。

「貴様、どの口が言っているのだ」

「いててててててあちっ、っつ・・・いてーし熱いって先生!!」

 ほっぺたを思いっきりつねるのと同時に、鬼教師は指の先に小さく展開させた魔術陣から何らかの火の魔術を行使しているのか、火傷をしないギリギリの熱さでアルフレッドに悲鳴を上げさせる。

「やります! もう何百だろうと何千だろうとやりますから離してください!!」

 と、涙目になり本気で叫ぶアルフレッドに、ようやく女教師は手を離した。

 つねられた頬は少し赤みを帯びており、ヒリヒリとした痛みが続いている。

「貴様は私が寝る間も惜しんで、生徒の為に必死に考えた補助術式を試さないで帰ると言ったのか、んん? 私が肌が荒れるのを我慢して考えに考え抜いた術式なんかやりたくないと言ったのか、んん?」

 そう言いながら冷酷な瞳を向ける担任教師の肌は、それはもう見惚れる程につやつやですべすべの綺麗な白い肌をしていた。

 ごめんなさいごめんさい! と叫ぶアルフレッドは寮の自室に置いてきた一人の少女の事を思い浮かべる。

(・・・悪いけど、早くは帰れそうにないわ・・・)

 少女に早く帰ると言ったが、それは叶わぬ約束となってしまった。

 その事に申し訳なってか、それとも単にこれから始まる無駄な時間を消費するだけの特別補習に嫌気がさしてか、自然に溜息が零れるアルフレッド。

 そんな彼の頭に、担任教師のゲンコツが振り下ろされる。腑抜けるな、と喝を入れられたアルフレッドは、いかにも嫌々といった感じで補習に臨むことにした。


                  *


 リタ=ヴォルドダンタリアンは新と旧の織交ざった歪な街を歩いていた。

 自らの体格よりも一回り大きいサイズのローブで全身を覆い隠している彼女は、照り返す日差しのせいで汗だくになりながらも、そのローブを脱ぐ事だけは決してしなかった。加えて、ただでさえ全身を布生地で包みこんでいるおかげで熱気が内側に籠っているのに、その全身を覆い尽くすローブの色は黒一色だ。一般的にその色は多くの光を吸収し、熱を溜めこむと言われている。

 けれど、こんなにも暑苦しい条件が揃い踏みしているのにも関わらず、少女の脳内にローブを脱ぐという選択肢は全く生まれない。

「ふぅう。熱いよー熱くて死んじゃうよぉ」

 そんな泣きごとが少女の口から零れ落ちる。

 熱いのならばローブ脱げば良いだけなのだが、少女はそれをしない。いや、できない。

 ヴォルドダンタリアン。セフィライアでこの性を知らない人間は少ない。その名は良い意味ではなくむしろ逆の、悪い意味でこの魔術師の都に知れ渡っている。

 二年前、突然始まった大量殺人事件。その事件を起こし、セフィライアに恐怖を伝播させた邪悪な一族、それが魔術師の都でヴォルドダンタリアンの性が有名な理由の一つだ。元々彼ら一族は体内に悪魔の血を取り入れたことで『特異魔術』と呼ばれる魔術の新たな可能性を引き出す事に成功し、その功績を称えられて当時まだ魔術の才能で身分が定められていたセフィライアにおいて、それなりの地位を獲得していた。

 だが、ヴォルドダンタリアンの名はセフィライアの人々からは畏怖されていた。

 当然だろう。悪魔の血が流れた者たちなのだ、良い印象を抱かないのは自然である。

 時代は流れ、外の文化に触れて変わっていくセフィライアにとっては、悪魔の血を持つ彼ら一族は畏怖される存在から嫌悪される存在へと変わっていった。

 そんな中で起きた、ヴォルドダンタリアンの者による大量殺人事件だ。噂では悪魔を召喚する儀式を行おうとしていたとされるその事件、セフィライアの中で黙っている者はいる筈もなかった。魔術を使った犯罪には重く罰するのがセフィライアの法だ。ましてや悪魔召喚などという邪悪極まりない儀式の為か、正確には定かではないが、犠牲になったのは38人もの人々だ。重い罰で済まされるレベルを遥かに超えている。

 島の上層部――セフィライア統括評議会が、大量虐殺を行ったヴォルドダンタリアンに下したのは一族全員の処刑だった。

 その判決が下されて間もなく、魔術等級アインスの魔術師だけで構成された精鋭部隊が編成され、一族抹殺の任を遂行すべく、ヴォルドダンタリアンの者達が住む土地へ精鋭部隊は投入された。

 彼ら精鋭部隊が一族を殲滅するのには一晩も掛かりはしなかった。

 ヴォルドダンタリアンの一族が脆弱だった訳ではない。むしろ悪魔の血が流れる彼らは一人一人が並外れた魔力を内包しており、また全員が『特異魔術』を扱う魔術師だ。中級“ツヴァイス”以下が存在しないヴォルドダンタリアンの一族は、それ自体が魔術の精鋭部隊のような集団だ。

 にも関わらず、1万程の人数を持った一族は一晩でその血を絶やす事になった。

 それほどまでに、セフィライア上層部が用意した魔術師達の力は強大だったのだ。

 僅か7,8人だけで構成された魔術師部隊に、一族の者達は為すすべもなく蹂躙されるしかなかった。燃えた家屋の火が広がって周囲一面を火の海へと変え、悲鳴や怒号、魔術がぶつかり合って生まれた爆発、それらがグチャグチャに混ざり合ってできる轟音が見渡す限りの場所で響き渡っていた。

 そんな絵に描いた地獄絵図の戦場から何とか生き残ったのが、彼女――リタ=ヴォルドダンタリアンだ。

「ダメダメこんなことでへこたれちゃ。暑さなんかに負けないよ!」

 リタはそう言って街を歩き続ける。

 苦しい熱さを耐え忍び、それでもローブを脱ぐ事をしない理由は隠すためだ。

自身の体の至る所に刻まれた黒い紋様を。ヴォルドダンタリアンの者が皆生まれた時からその身に刻む悪魔の一族の証を。

「でもちょっと疲れてきたなぁ・・・」

 かれこれ、朝から歩きまわってもう時刻は午後15時過ぎ。さすがに何時間も歩いたか弱い少女の足は、棒の様になってしまっていた。

 何故、リタ=ヴォルドダンタリアンがこうして街を練り歩いているかと言うと、これから街で生きていく為にお金が必要だからだ。

 セフィライアと貿易協定を結んだ極東の島国『日本』では、『働かざる者、食うべからず』という言葉がある。つまりはお金が欲しいなら働けという事だ。

 別にこれまでの様に、飲食店から出る残飯を食べ、路地裏で野宿すればある程度は生きていける。現にリタはそうして2カ月もの間を生活してきた。だがそれでは駄目だ。もっと長い未来、それこそ天寿を全うして死ぬまで生きようと思うと、その生活は無理があり過ぎる。ならば人並みに生きる為には、働いて金銭を得て普通の人と同じような生活を送らなければいけない。

 だから彼女は街を歩き続ける。

 10歳ながらに、仕事を探して歩き続ける。

「絶対にリタを雇ってくれるところはある・・・・・・筈だもん!」

 そう自分に言い聞かして気持ちを無理にでも前向きにする。

 これからは誰の手も借りず、一人で生きていかなくてはならないのだ。この程度の困難を乗り越えられないようじゃ駄目だ。誰の手も、借りずに生きていく。そう決意をしたからこそ、リタはあの黒髪の少年の元から去ったのだ。

しかし、意気込みは立派だが結果は芳しくない。どれだけ探してもリタを雇ってくれる場所が一向に見つからない。

仕方が無いと言えば仕方がない。どこの世界に全身をローブで覆い隠し、フードで顔も見えない、そしてまだ10歳前後にしか思えない得体の知れない少女を雇う者がいるだろうか。相手にされないのが普通の、一般的な人々の反応だろう。

それでも、リタは今の今までずっと街を歩いて仕事を探していた。訪れる先々で『リタのママが病に倒れて、入院費や治療費でお金がいるの。だから働かせて!』とか、『パパが残したとっても沢山の借金を返さないといけないの。だから働かせて!』とか、色んな情に訴えかけるエピソードをでっち上げてはそれを語って雇ってくれと頼みこむという事を繰り返しているが、いまいちその作戦では効果を得ることができなかった。相手にされないのが大半だったが、中にはリタの話をきちんと最後まで聞いてくれる人もいた。しかし最後にはいつも全員が『雇えない』の結論を出す。

10歳前後の少女を雇って賃金を払おうなんて考える者などいなくて当然だ。

“先の見えない職探し”というまだリタのような幼い少女が浸かるには早い泥沼に沈んでいくような気分に、肩を落としながらも諦めることはしない。

地面に刺さろうとする足を必死に動かし、街を歩き続けているとリタの視線があるものに吸い寄せられた。視線の先では愛くるしい小型犬を連れた若い女性が、とある店に入って行く光景があった。

「あ! ワンちゃんだ!」

 そう言って女性が入っていった店に駆け寄る。

 ガラス製の店の扉を覗くと、店内の至る所に世間でペットとして愛されている動物代表の犬達がそこら中を歩き回っていた。

「いったいここは何て言う天国なの!?」

 こう見えて大の犬好きであるリタは瞳を輝かして、店の中に視線を釘付けにされる。

 一歩離れて店の入り口上部に掛けられた看板を見る。

看板には『ドッグカフェ』と書かれていた。

「こ、これこそリタが探し求めていた理想の職場・・・・・・」

 リタは両の手で拳を握り、鼻息を荒くして店内に通ずる扉へと手をかける。

 そして、迷いの無い動きで犬達がひしめく楽園へと足を踏み入れた。

「あ、今度の“設定”を何にするか考えてない・・・・・・」

 途中でその事に気付いたがすぐに、ワンちゃん達と遊びながら考えよ、と頭の中は雇ってもらえるかよりも犬達のことでいっぱいのリタであった。


                *


「ふーっ、やっと終わったぁ」

と言いながらアルフレッドは椅子に背をもたれて天井を仰ぎ見る。

時刻は午後16時ちょっと前。結局、補習は昨日と同じくらいの時間で終わりを告げた。

「あー駄目だー。魔力の使い過ぎで体に力が入んねーよぉ」

 脱力しきったアルフレッドの頬は若干こけているように見える。

 1000を越える補助術式にひたすら魔力を注いだのだ。発動しない分魔力の消費も極度に少ないとはいえ、数が数だけに多くの魔力を使ってしまった。

 魔力の消費は身体的にも多少の負荷が掛かるものだ。魔力をほぼ使い切ったアルフレッドが疲労感に支配されているのはそういうことだ。

「貴様は私をそんなに悩ませたいのか? それとも何か、わざとか。わざと魔術が使えないふりをして私の小皺を増やそうという魂胆か?」

「わざと魔術使えない振りして折角の夏休み潰してまで補習が受けたいガリベンマゾフィスト君に見えますか俺が?」

「少なくとも人助けとか言って毎回毎回、不良達に喧嘩を売ってボコられるマゾフィスト君には見えるな」

「・・・・・・そうかよ」

 紛れもない事実を指摘され、反論する言葉が浮かばないアルフレッドは口を尖らせて、天井から眼前の教師に視線を向ける。

 眼前の教師――レイア=ベルは見るからに不機嫌そうな顔をしている。今にも魔術陣を展開して、お得意の火の魔術でアルフレッドを消し炭にしそうなくらいだ。

 その怒りの理由は自分にあるのだとアルフレッドは分かってはいるが、どうしようもない。わざと魔術が使えない振りなどしても何の得も無い事は百も承知である。そんな事をして鬼担任教師の怒りを買うのと、夏休みを自由気ままに謳歌する事、秤にかけるまでもない比べ物である。

(もう疲れたしさっさと帰りますか。・・・・・・あいつ、ちゃんと大人しくしてるだろうな)

 寮の部屋に置いてきた一人の少女のことを思い浮かべてちょっとだけ不安になるアルフレッド。なにせあの少女は珍しいものをみると騒ぎだす年相応の好奇心旺盛な性格をした少女だ。未知の世界の誘惑に負けて寮内を歩き回る可能性も考えられなくは無い。

 と、不安を募らせるアルフレッドはふと思った唐突な質問をレイアに投げる。

「そういやさ、先生知ってる? ヴォルドダンタリアンって一族の事」

 その問いに、補助術式が書かれた紙を片付けていたレイアの動きが一瞬止まる。

「逆にこの街で知らない奴がいるのか?」

 止めた手の動きをすぐに再開させながら、質問を質問で返すレイアに、そうだよな、と言いながらアルフレッドは更なる質問を重ねる。

「じゃあさ。その、一族の事・・・・・・先生はどう思う?」

 レイアは片付ける手を止めずに、訝しげな視線を生徒へと向ける。

 話が見えないと言いたげな担任教師だったが、質問の答えを口にする。

「別に、これといった感情は無い。強いて言うならば馬鹿な奴らだ、と思うくらいか」

「馬鹿な・・・・・・奴らか」

 その言葉は恐らく、ヴォルドダンタリアンの一族がエストラシルで大量殺人を行い、その結果として彼ら一族が滅んでしまった事を指しているのだろう。

「俺も・・・そう思うよ。でもさ、それでもそんな事件が起きる前から一族の人間はエストラシルの、いやセフィライアの人達皆から嫌われていた。それは何でなんだよ」

 確かにヴォルドダンタリアンの一族の体には悪魔の血が流れていると言われていた。それを不気味に思って忌み嫌っていたのだろうっていうのは何となくわかる。

しかし、いるかどうかも分からない生き物である悪魔の血が流れているなんてことを真正直に信じて、嫌悪するというのはどうなのかとアルフレッドは思う。

「それが理解できないのはお前が若い世代だからだろうな。いいか、まだ日本と協定を結んでいなかった昔のセフィライアでは魔術の力で、家柄や身分が決められていた。そんな中でだ、悪魔だなんだと胡散臭い方法で強い力を得て、高い地位を手に入れた連中を誰が認めようとするものか。簡単に言うと人間の醜悪な感情の一つ、嫉妬ってわけさ」

 嫉妬。誰でも、アルフレッドだってその感情を持つことはある。嫉妬しない人間なんていないだろう。他者が持つ優れた才能であったり、物だったり、境遇だったり、他者が優れているほどその感情は強くなる。

 だが、だからといって一族全員を嫌うのも筋が違うと思う。ヴォルドダンタリアンの中には力や地位を欲した者も居たかもしれない。だが、その子供や孫、後世の者まで嫌悪され続けるというのはおかしい。後に生まれる者達が力や地位を欲するとは限らないのだから、言ってみれば完全なとばっちりである。

「近代化の影響で魔術の才が決める身分制度は無くなったが、それでも奴らは嫌悪され続けた。ヴォルドダンタリアンの一族と関わるな、奴らは嫌悪すべき存在だ、っていうのがもう風習とか言い伝えみたいに根付いてしまってたのさ。この島ではな」

「・・・・・・何か理不尽だな、それ」

 心底そう思って、アルフレッドは吐き捨てるように呟いた。

「まぁな。そしてそんな立場にいると知って、奴らは大量殺人事件を起こしたんだ。街の人間の意識が嫌悪から憎悪に変わることなど分かりきっていただろうに。だから私は馬鹿な奴ら、としか思えん。同情も無ければ怒りも無い、私の意見はこんな感じさ」

 レイアの話を聞いていたアルフレッドは、胸の内に怒りが込み上げてくるの感じていた。

 昨日出会った少女、リタ=ヴォルドダンタリアンの顔が思い起こされる。

 あの少女が路地裏で生ごみを漁って生きていかなければならない現実が、ヴォルドダンタリアンの一族に生まれてしまったが故に辛い運命に呑みこまれたという事実が、彼女を取り巻く負の連鎖全てに対して、アルフレッドは怒りを感じていた。

詰まるところ、ヴォルドダンタリアンの一族が事件を起こそうとなかろうと、あの少女はこの島の人間達から嫌われる存在であったということだ。

「何故あの一族のことを聞いた?」

 静かに怒るアルフレッドに赤い髪の女教師は疑る様な視線を向ける。

その視線にアルフレッドは慌ててごまかしの言葉を考える。間違ってもヴォルドダンタリアンの生き残りと出会いました、なんて事は言ってはいけない。別にレイアがその事を噂として広めるなどとは思わないが、それでも知られるのは危険な気がした。この問題はもっと頼れる人間に相談して解決してもらわなければならない。それこそ街の問題一つを解決できる程の力を持った人間に。

「べ、別に何でもないけど。ふと二年前の事件を思い出して気になっただけだって」

「・・・・・・なら良いがな」

 どうやらごまかしは成功したようだ。

 担任教師は生徒の答えに釈然としないものを感じながらも、持ってきた鞄に補助術式が書かれた紙の束をしまうと、それを手にして教室の扉へと歩き出す。

「私は職員室に戻る。お前も、帰るのは良いが戸締りはしていけよ」

 そう言って教室を出て行こうとする女教師の背中に、アルフレッドが声をかける。

「あの、つかぬ事を聞くんだけど。明日も補習あるんすか?」

 生徒の問いかけに、女教師は鋭い眼差しで睨みながら、

「つまらんことを聞くな。当然だろう」

 吐き捨てるようにそれだけ言ってレイアは教室を出ていった。

 残されたアルフレッドはしばらく廊下に響くカツカツと遠ざかっていく足音を聞きながら固まっていたが、やがて盛大な溜息を漏らして呟いた。

「ですよねー。わかってた、わかってたよ俺は」

 がっくりと肩を落として項垂れながら、閉じまりを始めたアルフレッドだった。

 

                 *


 愛くるしい小動物達が思い思いにくつろいでいる店内、その光景は看板に書かれていた『ドッグカフェ』の名前を裏切らないものであった。見渡す限り犬、犬、犬・・・・・・客として訪れた人間よりも店内にいる犬達の数の方が圧倒的に多い。

 店の内装は至って普通だ。よくある喫茶店のようにカウンター席とテーブル席が並んでいて、店内でかかっている心が落ち着くクラシック系の静かな音楽が良い雰囲気を作り出している。普通の喫茶店と違うのは訪れた客達と同じように、寝そべり、くつろぐ犬達が居るというところだろう。

 午後のティータイムを楽しむ客達は、お茶の味を楽しみながら犬達の一挙一動に微笑みながら各々談笑をしている。

 そんな変わった趣向を持ち合わせた喫茶店を見回しているローブを身に纏って全身を隠す少女リタの足元に、数匹の小型犬の群れがまるでやってきたお客様を歓迎するかのようにぞろぞろ集まってきていた。

「か、かかかか可愛ぃいいいい! 可愛さの秘訣を教えて欲しいくらい!」

 感極まって涎が出そうになるのを堪えて、リタはしゃがみ込んで擦り寄ってきた犬達の頭をよーしなでなでぇ、と優しく撫でまわす。犬達も頭を撫でられて気持ちいいのか元から勢いよく振っていた尻尾を更に加速させて喜びを表す。

 すると、犬達のあまりの可愛さに頬を綻ばせてここに来た目的すらも見失ってしまって犬達とじゃれあっているリタに

「いらっしゃい。お譲ちゃん一人で来たのかい?」

「ほえ?」

 犬に夢中になっていたリタは、突然かけられた声に思わず変な声が出てしまう。

 声のした方を見ると、いつの間にか目の前に一人の男性が立っていた。年齢はパッと見30代か40代、眼鏡を掛けていて中肉中背、いかにも温和そうなその男性は見た目に比例した優しい笑顔を顔に張り付けている。

「おやおやごめんよ。驚かせるつもりは無かったんだよ許しておくれ」

 優しい声で話してくる男性は恐らくこの店の店員だ、と彼が身につけている緑色のエプロンを見てリタはそう思った。

 さっきまで無我夢中で犬達とじゃれ合っていたリタは男性を見て一気に冷静さを取り戻す。思い出したのだ、ここへ来た当初の目的を。

「あ、えと・・・・・・そのぉ」

 心の準備ができていなかったからだろう。口から思うように言葉が出てこない。

 そんなリタの様子に首を傾げるものの、目の前の男性は優しい瞳で少女の言葉を待ち続けている。

 リタは何度か深呼吸を軽くして自分を落ち着かせる。

 そしてゆっくりと、この店にやってきた目的を成し遂げる為に口を開く。

「あの・・・・・・お尋ねしたい事があるの。このお店の店長さんはどこですか?」

「? 私が店長だけど、どうかしたのかい?」

 サラッと言い放った優しそうな男性もといこの店の店長の言葉にリタは驚く。てっきり男性は店の一店員だと思っていたからだ。

 男性が店長を呼んでくる間に何か“情に訴える話”を考えておこうと考えていたので、リタにとっては不意打ちのような展開である。

 設定など何も考えていなかったリタはどうやって切り出そうかと考えてしまって口が動かずにいた。しかしこのまま黙っていては何も始まりはしない。

 リタは下手に考えることを放棄する事にした。そうして、ただ純粋にここに来た目的を伝える為に、リタは一度大きく息を吸い込むと、

「こ、ここで働かせて下さい! お願いします!!」

 擦り寄ってきた犬達の頭を撫でるのにしゃがんでいた状態のリタが頭を下げることで、意図せず土下座をしているような格好になる。

 突然の少女の申し出に、店長である男性は目を点にして驚いた。

 それはそうだろう。いきなり10歳くらいの少女が土下座をしながら働かせて欲しいと言ってきたのだ。この状況で驚かない人間の方がおかしいというものだ。

 沈黙がリタと店長の両者の間に――いや、リタの働かせて宣言の声が大きかったからか、店内に居た数人の客達も彼女らのやり取りに気付き、成り行きを見守る為に会話を中断したせいで店内全体が静寂に包まれている。

 実際にはまだ数秒も立っていないが、頭を下げて返答をじっと待つリタは体感的に数十分くらいの沈黙に感じていた。

(・・・・・・やっぱり駄目、なのかな)

 返ってこない返答に、そんな事を考え始めるリタ。

 しかし、続いていた実際には短い沈黙が笑い声によって破られる。

「はははははははっ! いやぁごめんよ。あまりにも突然、しかもこんな小さなお譲ちゃんに働かせてくれなんて言われるとは夢にも思わなったから思わず呆けてしまったよ」

 笑っていたのは他でもない店長であった。

 彼は笑い過ぎのせいか瞳に涙を浮かべている。

 頭を上げてそんな店長をみるリタは、予想外の反応に困惑して逆に今度はこちらがポカンとしてしまっていた。

 やがて、一しきり笑った店長は眼鏡をずらして瞳に溜まった涙を拭きとると、

「よし、そうだな。じゃあお譲ちゃんにこの店で働いてもらおうかな。犬達の世話、ちゃんとやってくれるかい?」

「・・・・・・え」

 店長の口から放たれた言葉を理解すのに時間を要してしまう。

 思考が止まってしまったかのような錯覚を覚えるリタだったが、何とか言葉を理解できた。その言葉は朝からずっとリタが待ち続けたものだ。

「ほ、ホント!? ホントホントにリタを雇ってくれるの!?」

 リタは先程の店長の言葉が聞き間違いではない事を確認する。

「ああ、もちろんだとも。最近この辺りでは捨てられる犬が多いらしくてね。その子達を引き取っている内にいつの間にかこんなに増えてしまった。何分この店は私一人しか従業員がいなくてね。そろそろバイトでも雇おうと思っていたところさ」

 確かに店の中に居る犬達、客が連れてきたペットもいるのだろうが結構な数がそこら中を歩き回ったり寝転がったりしている。これだけの数を一人で世話をするのはさぞかし大変だろう。

 だが、リタは内心で腑に落ちないものを感じていた。

「・・・・・・でもいいの? リタすっごい怪しい者だけど」

「そ、それを自分で言うのかい?」

 全身を黒いローブで覆い隠し、フードを眼深に被って顔すら見えない少女の発言に、店長は適切なツッコミを入れる。

「・・・・・・んーそうだねぇ。確かにお譲ちゃんは少々以上に怪しい身なりだ」

 けどね、と店長は一度そこで言葉を区切り、微笑みながら、

「これは持論なんだけど、犬好きな人に悪い奴はいないって私は思っているからね。それにお譲ちゃんからはすごい熱意を感じたっていうのも雇う理由の一つだ。だから宜しく頼むよ新人君」

 優しい声音で発せられた歓迎の言葉に、リタは勢いよく頷く。

「うん!! リタ頑張るよ! 何でもやってみせるんだから!」

「ははははやる気満々だね。いいぞぉ、その意気だお譲ちゃん」

「ちなみにお給料はおいくらなんでしょうか!」

「急に現金な奴!?」

 いつ間にか目が円マークになっている少女にたじろぐ店長。

 とにもかくにも、リタはようやく職に就くことができた。

 その事に喜びを隠せず、店長に隠れてガッツポーズを取るくらいの感動に満ちていた。

 色々な策(情に訴える作戦)を弄してはことごとく断り続けられていたのに、逆に小細工無しの直球ど真ん中勝負でいったら成功するとは。最初からストレートに熱意を見せるべきだったかな、と少し後悔するリタであった。

 様子を窺っていた店内の客達はまるで自分の事のように安堵のため息をついていた。良かったよかったと呟く者までいる。

 店内は和やかな雰囲気に包まれていた。少女は職にありつけ、優しい顔の男性は新たな労働者を手に入れ、犬達すら仲間が増えた事に喜びを感じてキャンキャン吠えている。そんなハッピーエンド、いやむしろ幸せの始まりか、とにかく店内には温かい雰囲気で満ち溢れていた。

 その温かな光景が、一瞬にして崩れ落ちることなど誰が想像できただろうか。

 何の事はない。ただリタはこのまま床に腰を下ろしたままでは悪いと思い、勢いよく立ちあがって『宜しくお願いいします!』と言おうとしただけなのだ。

 だがその行為が、不幸を招き寄せた。

 慌てて立ち上がった拍子に背後に擦り寄ってきていた犬の尻尾を踏んで吠えられた事が不幸なのではない。いきなり背後から吠えられた事で驚き、体勢を崩してお尻から盛大にこけてしまったのが不幸なのではない。

 問題だったのはただ一点。

 こけた拍子に顔を隠すために深く被っていたフードがめくれてしまったのだ。

 派手に転んで後頭部を床に打ち付けたリタは最初その事に気が付かなかった。打ち付けた後頭部をおさえる為に手をやったところでようやく気付く事ができた。

 その時、リタは初めて世界が止まったような、時間が止まったような感覚を感じていた。

「あ・・・・・・あ・・・・・・」

 リタは慌ててフードを被り直そうとするが、もう遅い。

 彼女は見てしまったのだ。

 さっきまで本当に優しい、温厚そのものの笑顔をしていた店長の表情が変化しているのを。驚きや恐怖や憎悪といった、決して良くない感情がごちゃごちゃに混ざって歪んでしまっている表情を。

「その黒い紋様・・・・・・ヴォルドダンタリアン、か」

 恐怖か、それとも怒りのせいか、店長の声は震えていた。

 文字通り人が変わった店長の様子に、リタは声も出せずにいた。

 店長だけではない。店内に居る客達もまた、同じように様々な負の感情で歪んだ表情を少女に向ける。ざわざわとどよめく客達の中には恐怖に震えている者さえいた。

「・・・・・・出ていけ。今すぐ、この店から出ていけ!」

 数分前に目の前に居た筈の眼鏡をかけた優しい面影は消え失せ、怒り狂って憎悪にまみれた表情で怒声を上げる店長に、リタだけでなく犬達までビクりとして店内にの隅へと散っていく。

 そんな状況に、リタは声も出なければ体を動かす事もできなかった。

 いつまでたっても動こうとしないリタに業を煮やしてか、店長は怒りで荒々しくなった足取りで少女の元までやって来ると、フードが脱げて露わになった栗色の長い髪を乱暴に鷲塚む。

「い、いたっ・・・・・・やめっ」

 リタの口から短い悲鳴が漏れるが、そんな事など関係ないというように店長は少女の髪を掴んだまま扉の方へと引きずっていく。

 そして、店の扉を乱暴に開けると、店長はリタを外へと放り投げた。

 ブチブチと嫌な音が頭皮から聞こえるのリタは聞いていた。

 投げ飛ばされて地面へと全身を打ちつけたリタは痛みに呻く。

「・・・・・・私の、私の妻はお前達の一族に殺された」

 地面に伏したリタを見下ろしながら、店長はそう言葉を漏らした。

「誰にでも優しい、私にはもったいない程の女性だった。なのに何故、彼女が殺されなくてはいけない!」

 深い、怨嗟の籠った言葉がリタへと浴びせかけられる。

 店長の言葉はまだ終わらない。

「それなのに、どうして生きている!裁きを受けて、お前達一族は全員滅んだんじゃなかったのか! お前達は死んで当然の奴らだ。なのに何故お前は生きている!」

 店長は己の中に渦巻く憎しみの感情を全てぶちまけるようにして叫ぶ。

 なのに、憎悪や恨みで叫んでいる筈の店長の叫びは、何故だか泣き叫んでいるようにリタは聞えた。

 リタは店長の叫びから、罪を問うその叫びから逃げるために、痛む体を動かして走り出した。足が震えて何度も何度もこけてしまったがそれでも走り続けた。

    

                    *


 昇降口を出て灼熱の太陽の光を浴びると、体中の毛穴からじわじわと大量の汗が滲みできて不快な気持にさせられた。

 もう夕方になろうとしているのにまったくもって熱さが引いていく気配がない。むしろ昼間よりもモワっとした熱気が肌に纏わりつき、立っているだけで汗が出る程だ。

「ちくしょう・・・・・・どうしてこう太陽ってのは手加減をしねぇんだ。何か人類に恨みでもあんのかよ」

 届くはずもない太陽への文句が思わず口から出てしまう。

 だがしかし、早く帰る理由がある黒髪の少年アルフレッドはあまりの暑さに動きたくないだるいと主張する体を何とか動かして、昇降口から校門へと続く道を歩き出した。

「あいつ・・・・・・何かやらかしてなきゃ良いけど。特に寮監の肖像画にだけは何もしてない事を祈ろう」

 歩きながらふと考えたのは寮に置いてきたとある少女の事だ。

 少女の名前はリタ=ヴォルドダンタリアン、悪魔の血が体内流れているとされる一族の最後の生き残りだ。一族全員が処刑されたのは二年前、多分少女の両親はその時に亡くなっているだろう。となると今日までの二年間少女が一体どんな生活をしてきたのか、何となくは想像が付く。出会った頃、あの少女は飲食店から出たであろう残飯を夕食と言って漁っていたのだ。

 それは、10歳の少女が歩んで良い人生では決してある筈がない。

 アルフレッドの中に再びぶつけようの無い怒りが静かに湧き上がる。

 どうしてあんな幼い少女に誰も救いの手を差し伸べなかったのか。

 しかし、アルフレッドはその答えを何となく理解してしまっている。

「・・・・・・まったく、虫唾が走るったらありゃしねぇな」

 悪魔の一族などと罵られ、忌み嫌っていた連中を誰が助けようと思うのだろうか。そんな一族を匿ったとなっては、今度は自分までもが世間から冷たい眼差しを向けられる、そう考えるのはもしかしたら普通なのかもしれない。

 それがアルフレッドには許せない。

 けれど、その事を理解できてしまっている自分自身も同じくらいに許せないでいた。

 だからせめて、自分だけは絶対に少女の味方でありたい。そうすることで自分自身を嫌悪しないでいられる。それに、困っている人が居たら助けるといのはアルフレッドの生き方であり、彼が母と交わした守り通すと誓った約束でもあるのだ。

(帰りにどっか寄って旨いもんでも買っていってやるか)

 そんな事を考えながら歩いていると、もうすぐそこに校門が迫っていた。

 校門を抜けて、そこから続く無駄に長い坂を下れば寮に到着する。その途中のどの店で旨い物を買っていこうかと思案して、アルフレッドが校門を抜けようとすると、門を出てすぐの壁に一人の見覚えある金髪少女が背をもたれかけていた。

「あ、どこぞのお譲様じゃん。何してんだよこんなとこで」

「・・・・・・どこぞの、とは失礼ですわね」

 そう言って金髪お嬢様エメリルファ=アーデライトはゆっくりと壁から背を離した。

 アルフレッドは疑問に思っていた。てっきりこのお嬢様は“特別補習の監視役”という任を放棄して夏休みを満喫していると思っていたからだ。それがどうして制服を着てわざわざ学校に来ているのか。

 しかも彼女の綺麗な碧眼はキョロキョロと泳いでいて、何だかソワソワしているというか、緊張しているというか、とにかくいつもと雰囲気が違っていてアルフレッドは不吉に感じていた。もしかしたらまだ昨日の怒り(アルフレッドは未だに彼女が怒った理由が分からないでいる)が鎮まっていないのか!? と身構えてしまうアルフレッド。

「な、何が目的だ・・・・・・条件によってはこちらも承諾する用意がある」

「何を言っていますの?」

 また氷の棍棒が腹に伸びてくるのか、と警戒して構えるアルフレッドに、本当に訳が分からないといった感じで首を傾げるエメリルファ。

 その様子にアルフレッドは余計に分からなくなる。ではこの金髪お譲様は何をする為にこんなところにいるのだろうか。

 そこでふと思った可能性をどうせ違うだろ、くらいの軽い気持ちで言ってみた。

「まさかとは思うけど・・・・・・俺のこと待ってた?」

「そ、そそそ、そうですわ!」

 わ、悪いですの!? と何故だか顔を赤くしてそう言ったエメリルファに、アルフレッドは余計に不吉な物を感じて青ざめる。

「こ、殺されそうで怖いんですけど!」

「どういう意味ですの!!」

 金髪お譲様は今にも掴みかかろうとする勢いで、アルフレッドに詰め寄る。

「いやいやだってさ、お前が俺なんて待ってどうすんだよ」

「だからわたくしはっ!・・・・・・その・・・・・・」

 さっきまでの勢いは何処へやら、何やらボソボソと呟きながら俯きだすエメリルファ。

 俯いて表情は見えないが、サラサラの金髪から少し出ている耳が赤くなっている。

「用があるなら早く言ってくれよ。こう見えて俺ちょー忙しいんだぜ?」

一向に用件を話しやがらない金髪お嬢様にジト目を向けていると、ややあってようやくエメリルファの唇が動き出した。

「・・・・・・昨日はごめんなさい。折角あなたが夕食に誘ってくれましたのに、無下に断ってしまって・・・・・・」

「何だそんなことかよ。別に良いって、そんな気にしてねーし。てかそれよりも俺が謝って欲しいのは氷の棍棒で俺の鳩尾をどつきやがったことなんだけどな」

最後の方は聞かれないようにボソッと言うアルフレッドだったが、バッチリ聞かれてしまったようだ。鋭い視線をエメリルファはぶつけてくる。

「それは自業自得ですわ。」

「えぇ!? 俺なんかした!? むしろ友好的に食事に誘ったわけだが!?」

アルフレッドの至極当然な反論にエメリルファは押し黙る。黙られるとそれはそれで恐ろしいものである。

何かその内に魔術陣が展開されて昨日よりも大きい氷の棍棒が伸びてきそう、何て嫌な想像が浮かんでしまって若干腰が引き気味になるアルフレッドだったが、ようやく黙っていたエメリルファが口を開いた。

「あの・・・・・・そういえばさっき急いでいるとか仰ってましたけど、何か用事でもあるんですの?」

「用事っていうか、まぁ早く帰りたい。そう、俺は早く帰りたいのだ」

「? なら用事はある訳ではないんですのね」

 ・・・・・・何だか話が見えてこない。このお譲様は一体何を企んでいやがるのか、とアルフレッドは訝しむ視線を金髪の少女に向ける。

 またしても俯きながらモジモジしだすエメリルファだったが、急に上目遣いになって、

「だ、だったら・・・・・・その、昨日誘ってくださったバイキングに、しょ・・・・・・食事でもどうかしら?」

「・・・・・・え?」

と思わずアルフレッドの目が丸くなってしまった。

何かにつけて嫌みや説教を言って付きまとってくるこのお譲様が、怒ると容赦なく魔術で暴力を振るってくるこのお譲様が、食事に誘ってきた。

金髪お譲様と出会ってから不吉な予感しないアルフレッドは、ただの食事の誘いが怪しくて仕方がない。誘ってもらって食事に行ってみたら実は奢らされるとか、むしろ逆に奢ってもらったは良いが下僕にされるとか、そういう嫌な想像ばかりが膨らむ。

だが、断るのもそれはそれで怖い気がする。

どうしたものか悩んだ末にアルフレッドは、

「その食事に呼びたい奴がいるんだけど。それでも良いなら行かして頂きます」

 アルフレッドの発言に、エメリルファの表情が怪訝なものに変わる。

 心無しか彼女の瞳が鋭くなったように見えるのは気のせいではないだろう。

「・・・・・・誰ですの。その呼びたい人というのは」

「そ、そんな怖い顔するなよ。えーっと、親戚の子だ。10歳くらいの女の子」

 もちろん親戚の子というのは真っ赤な大ウソで、今もアスガルド学園男子寮の一室で待っているだろうリタのことである。

 エメリルファは何だか不満そうな顔をして考え込む。

「まぁ、別に構いませんわ。・・・・・・二人きりの方が良かったのですけれど」

「ん? 何か言ったか?」

 最後の方の言葉がボソボソとしていて聞き取れなかったアルフレッドは聞き返すが、何でもないですわ、とエメリルファはそっぽを向いてしまう。

「で、その親戚の女の子というのはどこにいるのかしら」

「あー、えっとだな。そ、そろそろ俺んとこの寮についたんじゃねーかなぁ」

 苦し紛れの嘘を放つが、エメリルファは何の疑いも持たずに頷いている。

「では早速あなたの寮に行きますわよ。夕食にしては少し早い時間ですけど、貴方の親戚の子とやらを拾ってその辺をぶらついていれば良い時間になりますわね」

 話をまとめてさっさと歩きだしてしまった金髪お嬢様の後を追う形で、アルフレッドもまた歩き出そうとしたのだが、

「あ、俺金なかったんだ」

 思いだしくない現実を思い出してしまったアルフレッド。

 すでに夕食に行く気満々のエメリルファに『金がないからやっぱ無理』なんて言えるわけもなく、彼は仕方なく最終手段を使うことにした。

(はー。まっさかただの飯ごときにへそくりを使うことになるとは。これで来月に買おうと思ってた全自動お掃除ロボットは諦めるしかねぇな。・・・・・・はぁ)

 楽をして掃除をサボろうなんて考えていた罰なのかもしれない、とアルフレッドは嘆きながらエメリルファの背を追って歩き出した。


朝から大人しく待ち続けているだろう少女が居る寮を目指して、アルフレッドとエメリルファの二人は学校前の大きな坂を下って行く。

坂といってもずっと下りではなく、様々な建物が並ぶ平坦な道が何度かあり、その一番下付近にアルフレッドの住む学生寮は佇んでいる。そんな長いと言えば長い坂を歩いて通う学生達には“学生坂”とか“魔の脱力坂”とか様々な愛称でこの坂は呼ばれていたりする。

そんな坂をしばらく歩いていると、ふと一つの路地裏がアルフレッドの視界に入る。

(・・・・・・そういや、昨日はいろいろあったな路地裏で)

不良に絡まれている学生を助けるために魔術師同士の戦いが始まったり、ゴミの山を漁るとある訳あり少女を拾ったり、といった非日常を思い出す。

と、そんなアルフレッドの視界に、路地裏に入って行く集団が映った。

その集団、良く見ると昨日の不良軍団と絡まれていた学生だ。恐らくは昨日の仕切り直しのようなものだろう。そうこうしている内にその集団は路地裏へと消えていった。

「わりい、ちょっと野暮用ができた」

 アルフレッドは隣を歩く金髪の少女にそう告げると、全速力で駆けだした。

見てしまったからには行くしかない。むしろ目撃した事を幸運に思うべきだ。

アルフレッドは躊躇わず、そしてまた何の考えも無しに、路地裏へと足を踏み入れた。


                    *


路地裏は様々な建物によって作られている。それゆえに色んな空間が出来上がる。

ただの一本道かと思ったら十字路になり、道が分かれる。そう言って蜘蛛の巣の様に広がっていく。

そしてとある路地裏のある一角、少し開けたその場所。いかにも不良達が好みそうな溜まり場の様な場所に、彼らは居た。

「よぉ、よく来たな。信じてたぜぇ、来てくれるってよぉ。まぁもっとも、来るだけじゃあだめなんだけどよ」

そう言うのは不良達のリーダーらしき男、名前は確かダリル。

ダリルは渡す物があるだろ、と言わんばかりに手の平を差し出す。

手を差し出されているのは貧弱そうな男子生徒である。昨晩の暴行の最後にダリルが指示した時間通りに男子生徒はやってきた。指定された場所に、指定された時間を守って学生はやってきた。

だが一つだけ男子生徒は指示を守らなかった。

そう、大金を持っていくという指示だけは。

「・・・・・・お金は持ってきてないです」

「ああん? 聞こえねえなぁ? なんつった」

ダリルの顔が怒りの色を表す。だがあくまでゆっくりとした口調で男子生徒に詰め寄る。

対する男子生徒は冷静に、臆する様子もなく俯いている。

問い掛けに対していつまでたっても無反応の男子生徒に、ダリルは遂にキレた。

怒りで額にうっすら血管が浮かび上がるダリルは男子生徒の襟首に手を伸ばして引きちぎる勢いで引き寄せる。男子生徒の鼻先に自分の鼻先が当たるくらいまで顔を近づけて俯く男子生徒の顔を覗き込む。

「・・・・・・なめてんのか?」

怒り心頭の筈だが、あくまで静かな声音で話しかける。

だがそこまでされて尚、男子生徒は何の反応も示さない。

その態度にダリルは実力行使にでるため空いている方の腕を振りかざす。

そしてそのまま学生の顔面に拳が放たれる、

――筈だった。

男子生徒は顔をに当たる寸前のところでその腕を掴み、飛んできた拳を眼前で静止させる。掴まれているダリルの腕がミシミシと音を立てる。それは貧弱そうな男子生徒の腕から出る力とは思えないほどのものだった。

「が・・・・・・こ、このっ離しやがれ!」

ダリルは襟首を掴んでいた腕を外し、再び拳を顔面に食らわせようとするが、拳を振りかざした瞬間掴まれた腕に異変が起きた。

骨が遂に耐えきれなくなったのだ。思わず耳を覆いたくなる異音と共に、腕は本来の可動範囲ではあり得ない方向に折れていた。

「痛いですか?」

男子生徒は抑揚のない声で呟く。

既に折れているダリルの腕を未だに離さず、更に力を込める。

「苦しいですか?」

ダリルは声を出す事も、動く事すらも忘れていた。

目の前のあり得ない事態に何もできない。

「これが、この痛みが、僕があなた達に与えられたものです。・・・・・・今ここで全てお返ししますよ」

そこで、ようやく俯いていた男子生徒が顔を上げる。

その瞳は真っ赤に、白眼も黒眼もなく真っ赤に染まっていた。

ダリルの腕があり得ない方向にねじられる。そこでようやくダリルの五感が戻ってきた。痛みに叫び声が出そうになるが、その前に男子生徒はダリルの腹部に蹴りを入れる。

とても普通の蹴りを食らったとは思えない勢いでダリルが吹き飛び、路地裏の壁に激突する。距離にして5メートル近く吹き飛んだダリルは内臓を損傷したのか、肺から大量の空気が飛び出すのと同時に赤い血を撒き散らす。

「なんだよ・・・・・・なんなんだよこいつ!」

自分達のリーダー格があっさりと残虐に打ちのめされたのを見て、他の不良達が半ば狂乱したように叫びながら学生に殴りかかろうと駆けだす。

だが誰の拳も学生には届かなかった。

そこから始まったのは、昨晩男子生徒が受けたような一方的な暴力。

飛びかかる一人の不良は顔面を殴られ吹き飛ばされる。生々しいグシャリという音がした。恐らく鼻の骨は砕け散っているだろう。また別の不良は殴ろうと拳を振るうが、それはたやすく避けられてしまい虚しく空を切る。男子生徒はそのまま回避運動から反撃へと移る。拳が空振り、不安定な態勢になった不良の懐に屈みこむようにもぐりこみ、学生は不良の足を掴みあげる。そのままいとも簡単に足を持ち上げるとこれまた簡単に不良の体ごと一回転させて、ハンマー投げの要領で投げ飛ばす。その際足は折れ曲がり、壁に打ち付けられた衝撃で、投げ飛ばされた不良は内臓にダメージを食らう。

最後の一人となった不良は短い悲鳴と共に後ずさり、この場から逃げ出そうとするがそれはさせないとばかりに、男子生徒は物凄い早さで逃げ出そうとする不良に詰め寄り腕を掴むと、そのまま壁に投げつける。

壁に激突した不良に、男子生徒は更に追い打ちをかけるべくゆっくりと歩み寄る。

「や・・・・・・めろ。たのむっ、お、俺達が悪かった! だから・・・・・・」

不良は無様にも涙しながら命乞いを始める。

だがそのみっともない命乞いは学生には届かなかった。

無情にも拳を振りかざす男子生徒を前にして不良は泣き叫ぶ子供の様な、断末魔と言っても差支えない程の悲鳴をあげる。

そして拳は不良の腹部にめり込み、いくつかの内臓を潰された不良の悲鳴は途切れ、静かにその場に倒れこむ。

日の当らぬ路地裏で、最後に立っていたのは貧弱で喧嘩とは全く縁の無いような男子生徒だけだった。


                   *


「ちっくしょう。どこに行ったんだあいつら」

路地裏に掛け込んだは良いが、例の集団を完全に見失ってしまってアルフレッドは舌を打つ。この近くに居る筈なのに、まるで彼らが忽然と姿を消したかのような錯覚すら覚える。

エストラシルは近代化が最も遅れた街だ。路地裏の区画整理もまったくされておらず、迷宮のように道が張り巡らせている。ここで鬼ごっこなどをすれば間違いなく最初の鬼から変わらずに日が暮れてしまうだろう。

それでもアルフレッドは懸命に路地裏を走り回る。必ずこの暗い迷宮のどこかで、一人の男子生徒がならず者達の食いものにされようとしているのだ。見過ごす訳にはいかない。

とその時、唐突に断末魔の様な絶叫が路地裏に響き渡った。

「あっちか!」

 絶叫が聞えた方角を確認し、その僅かな手掛かりを元にアルフレッドは走った。

 そして、ようやく辿り着いたとある路地裏の一角。

不良達がいかにも溜まり場に選びそうな少し開けたその空間に広がっていた光景は、アルフレッドの予想していたものとはまったく違うものだった。

「な、なんだよこりゃぁ・・・・・・」

 てっきりさっきの絶叫は男子生徒のものだとアルフレッドは考えていたのだ。だから慌てて駆けてきたのだが、実際に広がっている光景はその予想を完全に裏切っている。

 そこに広がっている光景は、どこかの学校の制服を着た一人の男子生徒の周りで、四人の不良達が呻き声をあげながらうずくまっている、というものだ。

 うずくまている不良達は皆傷を負っていた。腕があり得ない方向にねじ曲がっている者や、鼻から大量の血を流している者、足の骨が木の棒みたいに折れ曲がっている者までいる。そのどれもが重傷と言えるレベルの怪我だ。

 そして、その凄惨の一言に尽きる惨状の中心に立っているのは、アルフレッドが助けようとしていた見るからにひ弱そうな男子生徒だ。

「これは、一体どういう・・・・・・・」

何故か想像とまったく逆の事態にアルフレッドは混乱する。

これでは助けるべきなのは不良達の方ではないのか、と考えながらアルフレッドが立ち尽くしていると、倒れていた不良の一人がねじ曲がった腕を押えて弱々しく立ち上がった。

「て、てめぇ・・・・・・なめてん、じゃ・・・・・・ねぇぞ」

 時折血を零しながらそう言って立ち上がった不良は、折れていない方の腕を突きだす。

付きだされた腕の先に、青く輝く魔術陣が展開される。そして、展開された魔術陣からは荒れ狂う猛獣のような炎が一気に溢れだす。

「良い気に・・・・・・なってんじゃねぇぞ糞ったれがぁあああああああああああっ!」

 不良の咆哮に呼応するように、溢れだした炎は男子生徒を呑みこもうと迫るが、

 ――その炎が男子生徒に届く事はなかった。

 迫りくる紅蓮の波にまったく動じない男子生徒の胸、鎖骨のちょうど下辺りが禍々しい漆黒の輝きを放つ。

 その漆黒の光が放たれると同時に、男子生徒の目の前に彼の頭くらいの大きさの真っ黒な球体が現れた。

「何を言ってるんですか。良い気になってたのは貴方達の方でしょう」

 現れた謎の黒い球体が、男子生徒の胸から放たれるのと同じ漆黒の輝きで、薄暗い路地裏を照らしだす。

 そして次の瞬間には球体からこれまた真っ暗な色をした光線が矢の如き早さで放たれた。

その光線は男子生徒を呑みこもうとする炎を貫き、魔術陣を展開させる不良の肩へと直撃した。

「がっ・・・・・・」

 直撃を受けた不良の肩には小さな穴が開き、そこから盛大に鮮血を撒き散らす。

 激痛のあまり不良の意識はそこで断絶し、ゆっくりと地面へと倒れていった。

 展開された魔術陣も、術者の魔力供給を断たれて静かに消えていく。当然、魔術の技である紅蓮の炎もまた、轟という音を残して消えていった。

 一連の出来事を少し離れた所で見ていたアルフレッドは何もできずに見ている事しかできなかった。

 ただ混乱に陥って呆然としていたアルフレッドだったが、ようやくその存在に気付いたであろう男子生徒が彼に顔を向けた。

 さっきまでよく見えなかった男子生徒の顔がしっかりと露わになる。

 男子生徒の瞳は、充血しているように――いや、眼球の色自体が変わってしまったかのように、血よりも赤い深紅の色で染め上げられていた。

 そんな不気味極まりない瞳で凝視され、アルフレッドが背筋に寒いものを感じる。

 とそこで、アルフレッドの後ろからカツカツという足音が聞えてきた。

「いきなり路地裏に消えていったと思って追いかけてみれば、何だか物騒な展開ですわね」

 路地裏に入っていったアルフレッドを追いかけてようやく辿り着いたのか、エメリルファは辺りに広がる血生臭い光景を冷静な瞳で見渡しそんな事を言った。

「・・・・・・」

 男子生徒は金髪のお譲様の姿を見るなり、射抜くような視線をぶつける。

 それは紛れもない、敵意の籠った瞳だ。

「あんた・・・・・・そうだよ。あんたのせいだ。あんたが中途半端に僕を助けるから、あんな目にあったんだ。・・・・・・あの時大人しく僕があいつらに殴られていれば・・・・・・それで終わってたのに・・・・・・」

 男子生徒は狂ったような笑みを浮かべながら、ゆっくりとアルフレッド達の方へと歩み寄る。彼の呼吸は興奮しているからなのか荒くなっていて、何故だか苦しそうに見える。

「それ以上近づけば、あなたを氷漬けにしますわよ」

 エメリルファは警告するが、男子生徒は聞こえていないかのように歩みを進めることを止めない。ただただ不敵な笑いを顔面に張り付けて近づいてくる。

「あんたみたいな・・・・・・強者には、解らない。弱者の苦しみなんて・・・・・・踏みにじられるしかない者の痛みなんて!」

 男子生徒の叫び声と同時に、彼の胸の辺りが漆黒に輝きだす。

 そして、その輝きが引き金なのか再び黒い球体が男子生徒の前に現れる。

 先程の出来事がアルフレッドの脳裏に蘇える。

「おい! あの黒い玉は気を付けろ!」

「ふん、言われるまでもありませんわ。いかにも怪しいじゃありませんの」

 言うが早いか、エメリルファは魔術陣を目の前に出現させる。

 青く光る魔術の入り口から、メキメキという音をたてて氷の壁が形成されていく。男子生徒とエメリルファ達の間を区切るように、氷の壁があっという間に出来上がる。

 がしかし、いつまで経っても何の攻撃もやってはこなかった。

 異変を感じてエメリルファが展開させた魔術陣と氷の壁を自ら消した。

 そして、氷の壁で隠されていた先にあったのは、口や鼻、目や耳といった体の各器官から大量の血を流している男子生徒の姿だった。

 そのまま真っ赤に染まった男子生徒の体は、自分で作った血の海に沈みこむように倒れていった。黒い球体もまた、制御していたと思われる男子生徒が倒れるのと同時に虚空へと消えていった。

「え、あ・・・・・・え?」

 アルフレッドは予想外にも程がある展開に、思わずとても間抜けな声が漏れてしまう。彼の隣に居るエメリルファも珍しく同様しているのか、言葉を失って眉間に皺を寄せている。

 まだまだ太陽が元気に活動中の夕方少し前の路地裏で、生々しい鉄の匂いが立ち込め、鮮血が所かしこに飛び散る凄惨な路地裏で、黒髪の少年と金髪の少女はしばしの間言葉も無くその場に立ち尽くした。

 

いくらこのエストラシルが時代に取り残されたように古びた街ばかりだからと言って、まったく文明が止まっているわけではない。車は走っているし、冷蔵庫やクーラーとか扇風機とか。この糞熱い夏の今日を生きていく物はもちろん、その他多くの近代文明品が溢れている。ただその種類や数が他の北、南、西、中央に比べて少ないだけ。

だから金髪の少女が“携帯端末”とかいうハイテク機器を慣れた手つきで操作しているのを見ると、思わず興味深深になって瞳を輝かしてしまう。

「さっすがエストラシルの近代化を舵取りしてる“アーデライト・テクノロジー”の社長令嬢だな。俺“携帯端末”って初めて見たわ。指でタッチするだけで動くとかすげーなそれ。しかも電話としての機能とは別に、ネットとかも普通にできんだろ?」

「これくらいの物で驚いてはいけませんわ。近代化の進む今のセフィライアではもっと沢山の近代機器が設計、開発されていますのよ」

 エメリルファはそう言って制服のポケットに“携帯端末”をしまった。

「救急車はすぐに到着するそうですわ。本当に、貴方といると退屈しませんわね。もちろん悪い意味で」

「俺だってこんな退屈しのぎはできれば遠慮したいけどな」

 アルフレッドはうんざりしたように肩を落としてそう言った。

 二人は血生臭い路地裏の一角からすでに抜け出しており、今は路地裏の入り口でエメリルファが呼んだ救急車を待っていた。

 気を失って横たわる不良達には一応エメリルファが魔術で氷の塊を作って骨折や打撲をしている者の患部に当てて冷やしたりといった応急処置をしたものの、男子生徒に至っては全身から血が流れている為、素人の高校生二人の応急処置ではどうにもならない。一刻も早く大きな病院に運び込まなければ命の危険に関わるだろう。

「それにしても何だったんだろうな。あの黒い球体。魔術にしては陣も出してなかったし、それに昨日はあんな力があるようには見えなかったけどな」

「魔術陣が出ていないとなると、“魔眼使い”の可能性はありますけど。・・・・・・それよりもわたくしが気になったのはあの男子生徒の胸の辺りにあった黒い結晶ですわ」

「そんなのあったのか?」

「ええ、チラッと見えただけですけど」

 その黒い結晶が何で気になるんだよ、と言いたげに不思議な顔をするアルフレッドを見て、エメリルファは呆れたような溜息をついて語り出す。

「忘れましたの? 今エストラシルで起こっている“連続通り魔事件”。その被害者達の唯一あった共通点を」

 そう言われて、アルフレッドはようやく思い出していた。

 確かに、あの男子生徒が突然体中から血を流したこと、それから胸に黒い結晶が埋め込まれていたこと、これらは昨日の補習で担任教師から聞いた連続通り魔事件の被害者達の状況とまったく同じである。

しかし、数分前に行われていた路地裏の喧騒を思い起こしても、とてもではないが男子生徒の方が被害者のようには見えなかった。むしろ謎の力を使って一方的に不良達を痛めつけていた加害者にしか思えない。

うーん、と唸り声を上げて考え込むアルフレッド。男子生徒が何らかの形で件の通り魔事件に関与しているのであろうことは分かるのだが、どう関与しているのかがまったく読めない。

(あの黒い球体・・・・・・どう見ても魔術っぽいよなぁ。となるとやっぱ魔術信仰の連中が絡んでるのか?)

 そんな事を真剣に考えていると、“学生坂”の麓の方から救急車のサイレンが聞こえてきた。サイレンの音は徐々に大きくなっていき、あっという間にアルフレッド達が立っている所まで辿り着いた。

 真っ白な外装をした車の中から数人の救急隊員と思しき人物が降りてくる。 

 そして、アルフレッド達が彼らに状況を掻い摘んで説明すると、救急隊員達はすぐさま路地裏の奥へと姿を消していった。

 残された黒髪の少年と金髪の少女は、これからどうしたものかと顔を見合わせる。

 そこでふと、アルフレッドが腕時計に目をやると時刻は午後17時になろうとしていた。

「まーあとはあの人達に任せときゃいいだろ。腹減ったし俺達はさっさと飯に行こうぜ」

「そう、ですわね・・・・・・」

 エメリルファは顎に手を当てて何やら思案していたようだったが、アルフレッドの提案に軽く頷いて答えた。

 朝から随分と時間が経ってしまっている。ちゃんとあの少女は大人しく部屋で待っているだろうか、とアルフレッドは少し心配になっていた。

(待たされまくった腹いせに肖像画を破ったりしてねーだろうなぁ)

 そんなこんなで、路地裏での出来事に居合わせた目撃者がさっさとこの場を立ち去る事に若干気が引ける思いになりながらも、アルフレッドとエメリルファはアスガルド学園男子寮へと足を向かわせた。


                   *


『ドッグカフェ』から追い出されたリタは、無我夢中で走り続けて気が付けばいつの間に路地裏中に迷い込んでいた。

近代化の影響で建設された建物と昔からエストラシルにあった古臭い建物とが密集して出来上がったこの空間には太陽の恩恵は無く、真夏だというのに心無しかひんやりとした空気を肌に感じる。

リタは全速力で走り続けていたせいで乱れた呼吸を整える為に、路地裏の地面へと座り込んだ。日が当たらないせいか、地面から伝わるの心地よい冷たさであった。

「・・・・・・どうして」

こんなことになってしまったのか、とリタは考える。

折角働けると思ったのに、居場所が見つかると思っていたのに。そう考えると自然とリタの瞳に涙が溢れだす。

正直、リタは甘く考えていた。

いくら自分が悪魔の一族と罵られていた連中の生き残りとはいえ、所詮は年端もいかない小娘だ。もし万が一正体がバレたとしても周りの人間は不気味に思ったり、距離を取ってくるだけだろうと思っていた。だが、現実は優しくはなかった。

『ドッグカフェ』の店長が見せた憎悪に満ち溢れる表情が脳裏に蘇える。

あんなに大きな憎しみをぶつけられたのは初めてだ。何故、憎まれなくてはならないのか、リタには分からない。罰を受けなければならない理由が分からない。

(・・・・・・何も、悪いことなんてしてないのに)

 人殺しも、悪魔の召喚も、何一つ罰を受けるようなことはしていない。それなのに、どうして自分が損をしなければならないのか。どうして普通に生きていく事が許されないのか。

「・・・・・・ママ・・・・・・っ」

 母親との、一族の人間達と過ごした優しくて楽しかった日々を思い、瞳に浮かぶ涙のかさが増えていく。やがてその涙は地球のルールに従って地面に極小の染みを作る。

 リタに限った事ではない。ヴォルドダンタリアンの一族の者達にしても、リタの知る限りとても罰を受けるような人達ではなかった。皆優しくて、セフィライアに住む色んな人達から嫌われていても決してめげず、普通の生活を送っていただけだ。

もしかしたらリタが知らないだけで、一族の中では自分達に対する不当な扱いに怒りを示し、何らかの計画を企てていたのかもしれない。悪魔を召喚する為に、エストラシルの人々の命を奪うような計画が実行されたのかもしれない。

だがそれは一族全員の意思では無かった筈だ。少なくともリタはそんな企みは知らない。

それなのに、セフィライアを取り仕切る上層部――統括評議会は無情にも“一族抹殺”という重すぎる裁きを下した。まるでこの島の厄介者を消し去る良い機会だとでも言うように、あっさりと決断したのだ。

リタは涙を流したせいで赤く腫れた瞳をゴシゴシ擦ると、脱げていたフードを被り直した。『ドッグカフェ』からずっと脱げていたが、幸いにも人には会わなかったと思う。

冷たい地面から立ち上がって、リタは路地裏の出口を探す。迷宮と比喩できるほど入り組んだ路地裏だが、所詮は道。出口などすぐに見つかるだろう。

「諦めないもん・・・・・・・絶対、生きていかなきゃ・・・・・・」

折れそうになっていた心に無理やり喝を入れて、リタは再び働き口を求めて歩き出す。

 この先また、理不尽にも深い憎しみをぶつけてくる人が居るかもしれない。ひょっとしたらあの『ドッグカフェ』の店長よりも激しい拒絶を示してくる人がいるかもしれない。

 それでも、リタは生きていかなければならない理由がある。

 何故ならそれは、今は亡きリタの母親の、この世界で唯一最後までリタの味方であり続けてくれた女性の願いなのだから。


                    *


 「な・・・・・・」

 アスガルド男子寮の201号室。

自室であるその部屋に戻ってきたアルフレッドは驚愕していた。

いないのだ。ここで大人しく待っている筈の少女が。トイレやバスルーム、クローゼットの中やベランダ、ベッドの下まで探したがどこにもあの少女の姿がない。

「あいつまさか、部屋を抜けてどっか探検してんじゃねーだろうなぁ」

言いつけを守らなかった少女に若干の怒りを覚えるものの、とりあえず寮内を探してみることにしたアルフレッド。食堂や生徒達用の談話室、それから念の為トイレにも捜索に行ってみるが、どこにも少女の姿を見つけることができなかった。

「あと居るとしたら寮の中庭か」

 そう思ってアルフレッドはエントランスホールのような広さの玄関に向かう為に歩を進めたのだが、不意に嫌な想像が頭をよぎった。

(まさか、寮監に見つかったんじゃねーだろうな)

 これはあくまでアスガルド男子寮の噂だが、以前寮に住む学生の一人が寮監の肖像画を捨てた際に、何故かそれが寮監にすぐバレたという出来事があった。その理由は、寮監がこっそり部屋に入って抜き打ちチェックをしているのではないか、という根も葉もない噂が広がっているのだ。もしそれが本当だったとしたら、その時にアルフレッドの部屋に居た少女が寮監に見つかって追い出された、という可能性はあるのではなかろうか。

(一応寮生以外の人間は正規の手続きしないと中に入っちゃ駄目だしなぁ)

 当然昨晩は時間も時間だった為そんなめんどくさい手続きはしていない。とすれば寮監に見つかれば追い出されるのは当然だ。

 だが、アルフレッドの嫌な想像は更に深くへ沈んでいく。

(あいつがヴォルドダンタリアンの生き残りってバレたとしたら・・・・・・)

 最悪の展開が想像される。あの少女――リタ=ヴォルドダンタリアンは悪魔の一族と蔑まれ、とある事件をきかっけに全員が処刑される事になった一族の生き残りだ。

 もし少女の素性を知った寮監がそれをセフィライア上層部の耳に知らせるようなことをすれば、すぐさま生き残りを処刑するために然るべき刺客が送り込まれる、といった事態にもなりかねない。何せ“一族の血を絶やす”というのが、統括評議会が下した裁きなのだ。生き残りがいて血を絶やすことはできない。

 アルフレッドの背筋を嫌な感覚が纏わりつく。いつの間にか彼の歩幅は大きくなっていた。

「・・・・・・頼む、嫌な予感で終わってくれよ」

 エントランスホールに辿り着いたアルフレッドは、無駄に大きくて豪奢な扉を開け放って外に出た。

 外に出ると、何やら不機嫌そうに腕組みをしているエメリルファの姿があった。

「おっっっそいですわ! いつまで待たせますの。一体何をしていたか知りませんけどレディをこんなにも待たせるなんて恥を、」

 そこで金髪のお譲様エメリルファの言葉が詰まった。彼女の視線はアルフレッドからその背後へと向けられる。

「あら? 親戚の子というのはどうしましたの? いないじゃありませんの」

 待たされた事で怒り心頭だったエメリルファの態度が一変する。

本当に不思議そうに、辺りをキョロキョロしてどこかに親戚の少女とやらが隠れていないかと探す彼女に、アルフレッドは言いにくそうな顔で、

「・・・・・・いなかった」

「は? ってちょっと!」

 エメリルファの制止の言葉も利かずアルフレッドは慌てて、けれど走らず早歩きのような速度である建物を目指して歩き出した。それは浮かんだ嫌な可能性を排除する為だ。

(仕方ない、行きたくなかったけどこの際なり振りかまってらんねぇ)

 行きたくない、と思っているのはおそらくアルフレッドだけではないだろう。今彼が向かっているところはアスガルド学園男子寮に住む生徒なら誰しも行きたがらない場所だ。いや、正しくは『行きたくない』のではなく『会いたくない』だろうか。

 後ろからギャーギャーと何かを言いながら付いてくるエメリルファなど気にも留めず、

中庭の端に建つ目的地を目指して歩き続ける。

 すると、あっという間に目的に到着した。

「な、なんですのこの不気味な建物。本当に人の手で造られたものなのかしら」

 到着するなりそんな感想を漏らして若干引き気味になっているお譲様を横眼で見つつ、アルフレッドはげんなりと肩を下げた。本当ならば絶対に、それこそ重大な理由でも無ければこんな所には来たくはなかった。

 金髪のお譲様が不気味といったその建物は、十中八九誰が見ても同じ感想を抱く外観をしていた。アサガオやヒマワリ、コスモス、ハイビスカスにマリーゴールドといった一般に夏の花と呼ばれるそれらが視界一杯に広がる程、辺り一面に咲き誇っている。しかし、普通にそれらが咲いているだけなら、ただの綺麗な光景だ。普通に咲いているのなら。

 その花々はまるで一つ一つが寄り集まって壁を構成しているように、びっしりと建物の外壁全体に敷き詰められていた。ぽっかりと花の海に空いた所々にある窓と建物入り口である玄関扉がある空間が、どうにかそれを建物だと認識させている。敷き詰められた花々はそれぞれ種類が全く違うのに、何故か意味のある模様に見えてまさしく不気味の一言に尽きる。

 玄関であろう扉に取り付けられたインターホンに指を添えながら、アルフレッドはとなりで言葉を失っている金髪少女にこの奇怪な建物の正体を明かす。

「絶句するのも無理はねぇな。ここはアスガルド学園男子寮の寮監室だ。お前の言いたい事も分かるがここは何も言うな。ひいてはそれがお前の為でもある」

「?」

「あの人のセンスには文句を言うなってことだよ」

 アルフレッドはそう言うと、インターホンに添えた指に力を込めた。ピンポーン、という現代的な呼び出し音が建物内に反響しているのが外からも分かる。

 しばしの間を置いて、寮監室の中からパタパタと足音が聞こえたかと思うと、ガチャ、という開閉音と共に玄関扉がゆっくりと開けられた。

「はぁーいどなたぁ、ってアルフレッドちゃんじゃないの、どうしたのぉこんな時間に。まだ夜じゃないわよぉ? それとも早くアタシのこと抱きしめたくなっちゃったのぉ?」

「き、気持ちわりぃこと言ってんじゃねーよ!」

 全力で叫ぶアルフレッドに扉から現れた人物はもう素直じゃないわねぇ、と何やら腰をクネクネと動かしながら熱い視線を送ってくる。

 現れたのは肌が透けて見える程の薄さをしたネグリジェに女性用の大人っぽい下着を穿いた女性、のような人物だった。女性のような、と表現するのには理由がある。一見してその人物は化粧を顔に施し、更には女性モノの衣服を身に纏っていて要所要所に女性らしさを感じさせる格好をしているが、それを否定するように口元には綺麗に切りそろえられた髭や、薄いネグリジェのせいで透けて見える胸板には立派な胸毛が生え渡っている。

 そして、これが極めてその人物を男性と思える根源なのだが。女性用の大人っぽい下着、それもいわゆる勝負下着らしきモノを着用しているその人物の股間は、女性ではあり得ない程の膨らみをしていた。

 ふと隣を見てみれば、金髪のお譲様が顔を真っ赤にして両手で視界を塞いでいた。

「な、なななな何ですのあなた!? 変態ですわ通報しますわよっ!」

「あら失礼なお譲さんねぇ。アタシのどこが変態だっていうのぉ。至って普通の綺麗なおねぇさんじゃなぁい。」

 どこが!? と絶叫するエメリルファは、変態相手に言葉が通じないと思ったのか、矛先を黒髪の少年に切り替える。

「ちょっとあなた! あの方とどういう関係なんですの!? 抱きしめるとかどうとか・・・・・・まさかっ、男性同士で楽しむ人だったの!?」

「何を楽しむんだよ!? ふざけんな誤解だ! 俺は健全な男子だ!!」

 勝手にどん引きして憐れむ視線を投げてくる金髪少女に、アルフレッドは心からの異議を叫びたてた。すると、アルフレッドの反論に謎の変態が相槌を打ちながら、

「そうよぉ。アルフレッドちゃんは健全な男子よぉ。だってアタシ、女だものぉ」

 そう言った謎の変態の股間にある男性の象徴は、相変わらずに存在証明の為か下着を膨らませている。

 黒髪の少年と金髪の少女はもう返す言葉も出てこずに閉口してしまっていた。

頭を抱えたくなる展開にアルフレッドは深い溜息をつくが、すぐに寮監室に来た目的を思い出して真剣な表情になった。

「寮監、あんたに聞きたい事があるんだ。10歳くらいの女の子を寮で見なかったか?」

 アルフレッドの問い掛けに、寮監と呼ばれた半裸の“男性”は顎に手を当てる。

「んー、あぁそういえば。今日の昼前だったか見たわよぉん、ローブで全身包まれた10歳くらいのちっちゃな女の子ぉ。あの子、アルフレッドちゃんの親戚何だってねぇ。かぁわいい親戚じゃなぁい。あなたに会う為に一人で来るなんてぇ」

 親戚? と一瞬怪訝な顔になるアルフレッドだったが、恐らく寮監に見つかった際にあの少女が適当についた良い訳だろうと納得した。

 しかし、問題はその後だ。

「で、その子をどうしたんだ? 規則破りで追い出したのか?」

「あぁんな小さい子に規則だ何だってアタシもそこまで鬼じゃないわぁ」

 人の部屋に変な肖像画を無理やり飾り付けるのは鬼じゃないのか、と心の中で突っ込む。

 寮監はそんなアルフレッドの心中など露知らず、話を続ける。

「アタシの部屋でアルフレッドちゃんが帰ってくるまで待ってる?って聞いたら丁寧に断られちゃったわぁ」

「な、あいつ出てったのか・・・・・・」

 嬉しい誤算の筈なのだが、アルフレッドは喜べず、むしろあの少女に対して少し怒りを感じていた。あの少女が出ていった理由について、何となくだが分かるからだ。少女は自分がアルフレッドの傍に居ることで、彼もまた世間から非難の目で見られる事を危惧して、迷惑をかけまいと出ていったのだろう。その行動が既に、アルフレッドに迷惑をかけているなど考えずに。

「あのバカっ・・・・・・くそ!」

 気付けば既に体は動きだしていた。

 昼前に出ていったとすればもしかしたらもうエストラシルには居ないかもしれない。だがそれでも可能性はゼロではない。

 少女を探す為に、アルフレッドは寮門を目指して走る。

 とそこで、走り去る彼の背に声をかける者がいた。

「あぁそれとアルフレッドちゃぁああん。あの少女から伝言があったわぁ」

 声を発したのは寮監だ。呼び止められる形になったアルフレッドはその場で止まり、続きを促すように振り返る。

「さようなら。それからありがとう、だってぇ」

「・・・・・・っ!」

 その言葉を聞いて、アルフレッドは知らず知らずに奥歯を噛みしめていた。

 止めていた足を動かす。アルフレッドは再び寮門へと駆けだした。街にまだ居るかもしれない少女を探すべく。

 しかしその時、またしても彼は足を止めることになった。

 今度は言葉で止められたのではない。物理的に、アルフレッドは腕を掴まれて停止させられてしまった。見るとアルフレッドのを腕を掴んでいるのは白くて細い、綺麗な手をした金髪の少女だった。

「どこへ行きますの?」

 黒髪の少年の尋常ではない焦りに、疑問をぶつけるエメリルファ。少年の腕を掴む華奢な腕に力が込められる。男のアルフレッドからしたら彼女の腕力など微々たる力の筈なのに、何故か逃れることはできなかった。そう感じる程に、エメリルファの眼差しは真剣なものだった。

「先程から何をそんなに慌てていますの?」

「・・・・・・なんでもねぇよ」

「本当かしら? これはあくまでわたくしの予測ですけど、あなたの親戚の子に何かあったんじゃありませんの?」

「・・・・・・」

 アルフレッドは答えられなかった。否定もせずに、ただ黙るしかなかった。

 エメリルファに事情を説明し、あの少女を一緒に探してもらったほうが発見できる可能性は高くなるだろう。だが、アルフレッドは考えてしまう。あの少女、リタの素性を知ったエメリルファが一体どういう反応をするのか。

 適当にごまかして彼女の協力を得ることもできる。しかし、良いのか。リタ=ヴォルドダンタリアンが抱える問題を、自分だけでなく目の前の金髪お嬢様までも巻き込んでしまって良いのか。そう、考えてしまうのだ。

「・・・・・・教えなさい。事情は分からないけど、深刻な問題が起きたのでしょう? 貴方の顔を見れば分かりますわ」

 アルフレッドの腕を掴むエメリルファの腕に、更なる力が込められる。

 瞳は真っ直ぐに、黒髪の少年を捉えて逃がさない。

「もう一度言いますわ、教えなさい。貴方がわたくしと逆の立場なら、貴方はどうしますの?」

 それまで口を閉ざしていたアルフレッドに、紡がれたその問いは確かに彼の心の中に響いた。問いの答えは口にするまでもない。

 巻き込む事が相手にとって迷惑だと思う事は、助けを差し伸べる者にとって最大の迷惑になるということをアルフレッドは良く知っている。現に今あの少女に対してそういう感情を抱いているのは他でもないアルフレッドだ。

 自分の腕を掴む金髪お嬢様の温かさを感じて、アルフレッドの口に小さな笑みが零れる。そして黒髪の少年は黙る事を止めて、昨晩出会ったある一人の少女の素性と、少女が抱える問題について語り始めた。


                    *


 気を取り直してもう一度職探しを再開したリタ=ヴォルドダンタリアンだったが、結果は芳しくなかった。

 情に訴えかける作戦を止めてストレートに働きたいと頭を下げ続けるも、どの店も雇ってくれることはなかった。『ドッグカフェ』の店長が異例中の異例だったのだ。普通はこんな10歳前後の幼女など相手にもされる筈がない。それも全身をローブで包み隠した得体の知れない幼女なのだから尚更だ。

 そんな感じでエストラシルの街を歩き続けていると、リタはいつの間にか大通りに設けられた広い噴水広場に来ていた。いくつもの水柱が噴き上がる噴水の真ん中にそびえた大きなオブジェの一番上、そこには時計が取り付けられている。見ると時刻はもう午後5時を過ぎてしまっている。昼前から行動を開始しておよそ6時間は歩き続けている事になる。

 さすがにもうリタの体は肉体的に、そして精神的にも疲れ切っていた。

「ふー。ちょ、ちょっと休憩しよー」

 リタは噴水を取り囲むように設置されたベンチに腰を下ろした。風に乗ってくる僅かな水飛沫と、噴水広場に人工的に植えられた大きな樹木がベンチに日陰を作っていることが完璧な憩いの空間を生み出しており、リタの疲れを癒していく。辺りを見回せば同じように疲れを癒そうと多くの人がベンチに座っているのが見て取れる。

「はぁー涼しー。もうここに住んじゃおうかなぁ」

 真夏とは思えぬ涼しさが漂うベンチにぐったりと体を預ける。動きたくない程の心地よさがリタを包んでいた。

 そうしてベンチで一休みをしていたリタだったが、不意にこれからの自分が取るべき行動について考えてしまっていた。生きていくための仕事探し。次はどの店を尋ねるか、はつぃてその店は自分を雇ってくれるのか、そんな事ばかりが頭の中を巡っていく。

 そんなネガティブな事ばかりを考えていると、折角心地良い休息に身の疲れを癒そうとしているのに不安が募り始めて落ち着くことができないでいた。

「よし! 考えていても何も始まらないし、お仕事探し再開しよっかな。何事もやってみなきゃ結果は分からないって言うしね!」

 もう少し休憩していきたいリタではあったが、押し寄せる不安で落ち着きがなくなった彼女としては、無理にでも行動を起こして不安を紛らわせたくなったのだ。

 ピョンとベンチを飛び下りたリタは再び職探しのため歩き始めた。

 とそこで、次はどの店に行こうかと辺りを見回したリタの視界に、物凄い行列が映った。噴水から少し離れた所で、その行列は形成されている。

「うわぁ凄い行列。何かあったのかな」

 気になったリタはその行列に近づいていった。すると、行列ができているのはとある飲食店だということが分かった。しかもその店は、リタの記憶に新しい店であった。

「へーここにもあったんだ! しかもデカイよ!」

 そこにある建物はとても古風な外観をしたものだった。取りつけられた看板には『OVEREATING“暴食”』と書かれている。間違いない、昨晩とある黒髪の少年に夕食を御馳走してもらった飲食店の名だ。しかし、昨晩の店は“学生坂”と呼ばれる大きな坂に建てられたものだ。まさかあの坂以外にもあったとは。恐らくはチェーン店なのだろうが、リタにはそういったことは理解できておらず、ただ驚くのみであった。

 時刻は夕食時とはいえこれほどの列ができるということは余程人気があるのだろう。にしても昨晩いった店は客こそ多かったが長蛇の列はできていなかった。何か理由があるのだろうか、と更に店を注視したリタの目に『開店記念特別コース実施』という文字が飛び込んできた。

「こっちはできたばっかりなんだぁ。・・・・・・ふーん」

 リタはしばらくの間行列を眺めながら考えた。

 やがて、少女は決心した。

「・・・・・・行ってみよう! 無理かもしれないけど、行ってみるだけ行ってみよう!」

 リタは次に尋ねる店を決めると、迷いの無い足取りで行列へと歩を進めた。

 あれほど忙しそうな店に働きたいと言っても、リタの様な子供は門前払いを受けるに決まっているだろう。しかし逆に忙しいからこそ、従業員達が手を回せない――というか彼らがやりたくないと敬遠する雑用仕事があるかもしれない。

 前向きにそう考えて、リタは改めて決意を固めて店へと向かった。

 その選択が、更なる不幸への分岐点だった知る由もなく。


 リタが店内に入って抱いた感想は、『とにかく広い』だった。“学生坂”に建てられた店舗よりも三倍は広い空間がそこには存在した。当然テーブルも3倍以上は多い筈なのにそれでも行列ができるという事は余程お得なサービスを実施しているというのが分かる。

 ちなみに、店内に入ったリタは馬鹿正直に行列に並んで中に入ったのではない。いかにも店内に知り合いがいますというように並んでいる人達をかき分けて入店したのだ。途中で多くの人に訝しむ視線を向けられたが、こんな子供を疑って注意する者などおらず、リタはあっさりと店内に入れたのだ。

 軽く100人近くは居そうな店内を忙しなく駆けまわるウエイトレス達に声をかけるのは少々気が引けたが、こちらも生活がかかっている。すぐ近くを通り過ぎたウエイトレスを、リタは演技でもなんでもなく心底申し訳なさそうに呼び止めた。

「すいません! あ、あの店長さんは居られますでしょうか! 居たら会ってお話したい事があるの!」

「店長ですか? えーっと・・・・・・」

 ウエイトレスは空いた皿を下げている最中なのだろう。その両手にはよくそんなに持てるなと思うくらいの沢山の食器が抱えられている。

リタの申し出にウエイトレスは困惑したような様子になっていた。それもその筈、何せ黒いフードで全身を隠した10歳くらいの幼女が店長に会いたいと言っているのだ。こういった時の対応マニュアルを知らないのか、それとも忙しさのあまり判断できずにいるのか、ウエイトレスは食器を持ったまま考え込んでしまっていた。

「おい、何をぼさっと立ち止っている」

 突然、彼女達の背後から野太い男の声が聞えた。

 声のした方をリタとウエイトレスが見ると、そこにはスラリとした体格の30代前後と思われる男性が立っていた。服装はウエイトレスと同じタイプの男性用だろうか。どうやら別の従業員のようだ。

 質問されたウエイトレスはやや上ずった声で、

「い、いえこちらのお客様が店長にお会いしたと仰っていて・・・・・・」

「ふむ、なるほどな。とりあえず君は仕事に戻れ。この忙しさだ、一人でも立ち止っていては店が回らなくなってしまう。こちらのお客様の話は私が聞く」

 男性従業員にそう言われたウエイトレスは慌ててどこかへと行ってしまった。

 そして、男性従業員はゆっくりとリタの視線に合わせるようにその場に屈みこみ、

「君、店長に会いたいんだってね。店長の知り合いか何かなのかい?」

 その問いに、リタはほんの少し考えて答える。

「あ・・・・・・そ、そうです! 店長の遠い親戚だよ!」

「そうか、なら仕方ないな。詳しい事情は知らないけど、店長の親戚なら案内しないわけにはいかないな」

 案内するよ、と言った男性従業員は店内を歩きだした。リタは一先ずの関門を突破した事に安堵して小さく息を吐いた。

 店内を歩く二人。時折すれ違うウエイトレスに目の前の男性従業員が指示を出しているのを見るに、恐らく彼は現場を任されたリーダー的な立場の人間なのだろう。そんなことを考えながらリタは男性従業員の後を付いていく。

 やがて店内の奥にある“従業員以外立ち入り禁止”とかかれた扉の前まで来ると、男性従業員は扉を開けて中へと入って行く。リタも同じく扉を抜けると、すぐ近くのところにエレベーターが設置されていた。ヴォルドダンタリアンの集落からあまり出た事の無いリタにとってその四角い鉄の箱は初めての体感で、ひっそりと感動するには十分の乗り心地であった。エレベーターを降りると左右に道が分かれており、男性従業員は右の道へと歩を進める。それから何回か道を曲がって進む事になるのだが、その途中にあった多くの部屋に男性従業員はまったく目を向けずに進んでいく。

 そして、しばらく二人が歩く廊下は行き止まりへとさしかかった。

 行き止まりの最後には一つの部屋があった。どうやらそこが店長のいる部屋なのだろう。

 コンコン、と男性従業員が扉を叩く。

「店長、ちょっと良いですか」

 男性従業員は中に居るであろう店長に話しかける。すると、その声に応じて中からかすかに声が聞こえてくる。だが、リタの位置からでは上手く聞き取れなかった。

「店長の親戚という子供が来ているのですが、どうしますか?」

 問い掛けに、またしても部屋の中から声が返ってくる。

 それで会話は終了したのか、男性従業員がリタの方へと振り返る。

「入って良いそうだ」

 そう言うと、男性従業員は扉に手を掛け、一歩下がるようにリタにへ道を譲り、ゆっくりと扉を開けた。

 まだ見ぬ店長に緊張しながら、リタはこれまで何度言ったか分からない『雇ってください』の言葉を頭の中で繰り返し唱える。その間も扉は静かに開かれていく。希望と不安を胸に扉が開くの待つリタには、やけに時間が遅く進んでいるように感じていた。

 そして――扉が完全に開ききった時、リタの表情は凍りついた。

 これから働かせて貰えるようにお願いするため、気合いを入れて表情を引き締めていたリタの顔が、驚愕に崩れていく。扉の先にある光景を目にして。より正確には、部屋の中に居る店長と思しき男性の顔を見て。

「やぁ、君かい? 私の親戚の子供というのは。こんなに小さい子となるとモルドさんところのリーゼちゃんかなぁ? はっはっはっは、何でフード何か被ってるんだい。早く顔を見せておくれよ」

 横に長い事務机に座していた店長は、フードで顔を隠すリタの表情の変化になど気付ける訳もなく、気さくに話しかけながら少女の元へ歩み寄る。

 自分の問いにいつまで経っても言葉を返さない少女に、店長が首を傾げる。

 無理もない。リタの思考は完全に真っ白になってしまっているのだ。それは決して緊張のし過ぎで思考が飛んだのではない。まだ見ぬ店長と思っていたが、違う。少女は目の前にいる男を知っている。その顔を、その声を、知っている。忘れることなどできるわけがない。何故なら――目の前の男こそが、リタの最後の味方で、大好きだった母を死に追いやった人物なのだから。

「・・・・・・ないの」

「え、なんだい?」

「・・・・・・リタのこと・・・・・・覚えてないの」

 真っ白になった思考を動かして、リタの口からやっと言葉が発せられた。

掠れるような声で何とか口にしたリタの言葉に、店長理解ができずに更に首を傾げるだけだった。本当に、それだけだった。

――そっか・・・・・・この人覚えていないんだ

 リタは片時もこの男の声を忘れたことは無かったのに、目の前で首を傾げる男は少女の声など覚えていないのだ。その事実に、リタは唇を噛んでいた。

 そしてリタはゆっくりとした動作で顔を隠すフードを脱いだ。それまで隠されていた少女の顔が、小さな顔の左半分に刻まれた黒い紋様が、姿を現した。

 その瞬間、店長はようやく少女の言葉の意味を理解し、驚きのあまり後ずさった足は絡まって無様にもその場に崩れ落ちた。その顔は恐怖と驚愕に染められている。

「お前・・・・・・そんな、何故っ・・・・・・」

 崩れ落ちた店長の顔がみるみる変化していく。

 まるで恐ろしいモノを見るような、そんな瞳を少女に向けている。

「どうして、ママを・・・・・・どうしてっ・・・・・・」

 震える声で、リタは言葉を口にする。

 悪魔の一族――ヴォルドダンタリアンの生き残りは、正確にはリタ一人ではなかった。一族処刑の夜を生き残ったのは他にも数人は存在した。しかし生き残った数人も後に行われた一族残党狩りによって命を奪われ、結果として最後に生き残ったのがリタ一人だったということだ。

 処刑の夜を生き残った数人の中に、リタの母親も居た。リタと母親は何とか生き残ったが行き場がなく、そこで頼ったのがリタの父親の兄夫婦だった。本来、ヴォルドダンタリアンの一族では一族内の者としか結婚してはいけないという暗黙の掟があったが、リタの父親は一族とは無縁の男だった。だから父親の兄夫婦となれば普通の人間だ。

 最初はリタ達を拒んだ兄夫婦だったが、リタの母親が涙ながらに懇願し続けて何とか匿ってもらえる事になった。

 兄夫婦は小さな飲食店を経営していた。リタ達はそこで言われるがままにどんな雑用でも請け負った。厨房の掃除やトイレ掃除、ゴミ処理、どんなことでもやった。経営が上手くいかずに苛立つ兄夫婦からの暴力からも耐えた。食事などは客の食べ残しである残飯や、調理の際に出る屑しか与えられなかった。それでも、そんな苦しい生活でも、リタとリタの母親はとても幸福だった。リタは母が、母はリタが傍に居てくれるだけで、ただそれだけで幸せだったのだ。

 しかし、その幸せは2年という歳月であっさりと終わりを告げた。

 遂に経営が完全に困難になってしまった兄夫婦がセフィライア上層部にリタ達を引き渡そうとしたのだ。無論、多額の報酬金と引き替えに。

 その事を未然に知ったリタの母親はリタを連れて逃走をするが、セフィライア上層部が遣わした刺客に追い詰められてしまう。リタの母親もそれなりに魔術の力はあったが、それでも追い詰められるほど刺客である魔術師の力は強大であった。必死に路地裏を逃げるリタ達だったが、リタの母親は路地裏にあったマンホールを開け、そこに入るようにリタの指示を出した。嫌がるリタに『すぐに戻ってくるからね』と言い聞かせ、リタの母親は路地裏の先へと消えていった。

 リタはずっと待ち続けた。しかし、翌朝になっても戻ってこない母親にリタは待ち続けることを止めて地上へと上がった。だが、どれほど探しても路地裏に母の姿はなく、とうとう路地裏の出口の一つに辿り着いたリタは、街でヴォルドダンタリアンの生き残りが捕まったという絶望の知らせを聞く事となったのだ。

「ママが、何をしたっていうの・・・・・・リタが何をしたっていうの!」

 自然と涙が溢れだす。母の笑った顔が、暖かい手で抱きしめてくれた温もりが、ずっと傍に居てくれると言ってくれた優しい言葉が、様々な母との思い出が胸の内に溢れだすのを止められない。

 ゆらゆらと近づいてくるヴォルドダンタリアンの少女に、床に尻を付く男は無様に地を這うようにして後ろへ下がる。

「仕方なかった、仕方なかったんだ! あのままじゃ店は潰れて、俺達は路頭に迷う事になったんだぞ・・・・・・。だから金が、やり直せるだけの金が必要だったんだよ!」

 男は弁明の言葉を叫ぶが、それは意味を為さない。むしろ余計に少女の感情を刺激していることにまったく気付かず、尚も男の口は止まらない。

「それに、お前達は元々あの夜に死ぬはずの命だったんだ。それを俺達の情けで2年も生かしてやったんだ、恩返しとして俺達の為に命を差し出すくらい当然だろう! そ、そうだ俺は別に悪くない・・・・・・むしろ感謝するべきだ!」

 男のその言葉に、リタの中で何かが崩れる音がした。

 目の前の男はリタ達親子を金と引き替えに、間接的だが命を奪ったことを何とも思っていない。ましてや恩返しとして命を差し出すのは当たり前だと言っているのだ。

 胸の中に渦巻いていく重い感情の正体を、リタは分からなかった。

「なんで、なんで・・・・・・なんでこんな奴の為にママが死ななきゃならないの!!」

 リタの口から嗚咽の様な叫びが放たれる。

 と同時に、少女の周囲に青白い閃光を放つ無数の魔術陣が現れた。それは少女の周りに点々と姿を現し始め、やがてあっという間に少女の周囲だけでなく部屋全体を埋め尽くすように展開される。

 その光景に、一瞬にして男の顔が青ざめる。これから起きる絶望に恐怖してか、悲鳴を上げることも忘れて男はただ広がる光景を眺めていた。

 魔術陣が、少女の感情を反映してか一層強い輝きを放つ。

「返して、よ。返してよ・・・・・・。ママを、ママを返せ!!」

 少女が叫ぶの同時に、魔術陣から棘のような先の尖った鋭利な物体が伸びていく。棘と言うと細くて鋭利な物を想像するが決して違う。現れたのは三角錐の形をした物体で、底面の直径が2メートルはある巨大な物だ。

 それが無数の魔術陣から無数に出現し、二人のいる部屋を串刺しにする。

「ひ、ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!!」

 ようやく男は悲鳴を上げることができた。

 男が悲鳴を上げてうずくまる間も、出現した巨大な棘は部屋の天井や壁、床といったあらゆる箇所に突き刺さっていく。しかし、それらにぶつかるだけで棘が止まる事はなく、貫通して建物全体を傷つけていく。異常に気付いたのか店内にいる100に近い客達が一斉に悲鳴をあげるのが聞えてくる。轟音が響き渡る。まるで爆撃されているような、大地震でも起きているような、そんな地響きが大きな店内全てを支配している。

 そして、とうとう建物の支柱のいくつかを棘が貫いたのか、建物は限界を迎えたように崩れ出した。厨房に取り付けられたプロパンガスに引火したのか耳を押える程の爆音までもが聞こえてくる。

 遂に、地鳴りや爆音を街に轟かせながら、店は倒壊した。

 一族を、大好きだった母を失い、絶望に押しつぶされた少女の手によって。


                  *


「まさか、生き残りがいたとは・・・・・・。全員処刑されたと聞いていましたのに」

 アルフレッドの話を聞き終えたエメリルファが最初に表情に現したのは驚きだった。

 まあそうだろう。何せ一族は徹底的に殲滅させられたのだ。セフィライアの隅から隅までを管理する最高機関――セフィライア統括評議会が下した制裁である。生き残りがいると誰が思えるだろうか。

 しかし、エメリルファは驚いただけだった。恐怖や怒りといった、およそ負の感情と呼べるものは一切表情に表れていない。その事に、アルフレッドは逆に困惑する。

「・・・・・・その、何とも思わないのか?」

「? 同情はしますわ。いくら大罪を犯したとはいえ、何も一族全員を処刑しなくても良かったんじゃないか――」

「そうじゃなくて、だな」

 我ながらはっきりしない事言っているとアルフレッドは思う。しかし、今頭の中に浮かんでいる言葉は実際に口にするにはどうしても躊躇ってしまう。

 と、そんな歯切れの悪いアルフレッドの態度に、エメリルファは何かを察したのか、

「ああ、もしかしてわたくしがその生き残りの少女に嫌悪や恐怖はしないのか、と聞いてますの? それならば答えはNOですわ」

 予想外の答えに、今度はアルフレッドが驚愕させられていた。

心を見透かしたようにアルフレッドの質問に答えた金髪お嬢様は、更に言葉を続ける。

「ヴォルドダンタリアンの一族が、本当かどうか知らないですけれど悪魔の血を体内に取り入れたことで“特異魔術”というのが生まれた事は貴方も知っていますでしょう?」

「ああ、それは知ってる。でもそれが何だって言うんだよ」

「一族には一族内の者としか結婚してはならないという暗黙のルールがあったらしいですけど、昔はそれに背く者も多くいましたのよ。おかしいとは思いません? 悪魔の血を体内に宿した彼らが生み出した“特異魔術”が、一族とは全く無縁である他のセフィライアの魔術師が使役できることを」

「・・・・・・確かに」

 言われてみればそうだ。一族の者、厳密には悪魔の血が体内に流れる者が“特異魔術”を使う事ができる。ということは、セフィライアに住む人間の多くが体内に微量だが悪魔の血が通っているのではないか。

「だからもしかしたらわたくしの中にも、貴方の中にも悪魔の血とやらは流れているかもしれませんのよ。もちろんヴォルドダンタリアンの者達に比べたら微々たるものでしょうけどね。だからわたくしはヴォルドダンタリアンを嫌悪も恐怖もしませんわ。彼らとわたくし達に然したる違いなど無いのだから」

 こんなことを言えるのは被害者ではないからかもしれませんけど、と金髪のお譲様は付けたして言った。

 アルフレッドは憤りを感じていた。

考えもしなかったことだ。ヴォルドダンタリアンが嫌悪される原因である悪魔の血は、セフィライアの人々にも僅かに流れている。そしてそれはアルフレッドが考えもしなかっただけで彼以外の人、大人達なんかは解っていたのではないか。それなのに、セフィライアの人々は一族を非難し続けた。その事実に、アルフレッドは憤る。

「・・・・・・ホント理不尽だな」

「そういう風に思えるのはわたくし達が近代化の進む今のセフィライアで生まれたからでしょうね」

 エメリルファがどこぞの赤髪女教師と同じようなことを口にするのを聞いて、アルフレッドは思わず苦笑していた。

「とにかく、そういうことでしたら急いだ方が良いですわね」

「ああ、もしあいつが街でヴォルドダンタリアンの生き残りってことがバレたりしたら・・・・・・捕まって処刑されるかもしれないからな」

「それもそうですけど。もっと大変なのは正体がバレても、あの少女が捕まらずに逃げ続けている可能性ですわ」

 金髪少女の発言に、アルフレッドが僅かに眉を動かす。

「どういうことだよ。捕まらない方が危険って」

「もし生き残りの存在がセフィライア統括評議会に知られた場合、連中は何が何でもその子を殺しに来ますわよ。そしてその少女が魔術を使って対抗しようものなら、無論追って側も魔術で応戦する。そうなれば街に甚大な被害がでますわ」

 それに、とエメリルファは短く言葉を区切り、

「追ってによっては街ごと悪魔の一族の生き残りを消滅させようとする輩もいるかもしれませんわ」

「なっ・・・・・・」

 アルフレッドは言葉を詰まらせた。あまりに現実味の無いエメリルファの言葉に、一瞬理解が遅れてしまう。

 言葉の意味を理解してもそれが起こりえることなのか、本当にセフィライアの上層部は街ごとでもヴォルドダンタリアンの生き残りをこの世から消し去ろうと考えているのか、疑問を抱かずにはいられない。その疑問をアルフレッドは口に出さずにはいられなかった。

「あ、ありえねぇだろ! そんなことしてエストラシル以外の、他の街の連中が黙ってねぇだろ!」

「・・・・・・そうですわね。街ごとは言い過ぎたかもしれませんわ。それでも、二年前の一族処刑が行われたあの夜に駆り出された魔術師達はそんな事を平然と、何とも思うことなくやってのける連中でしたのよ」

 そう語る金髪の少女の表情は暗く、まるで何か嫌なことでも思い出したような顔をしていた。

 彼女のそんな様子に、アルフレッドの表情は怪訝になる。

「お前、何でそんなに詳しいんだよ」

 考えたくなかったことが勝手に浮かぶ。もしかしたら目の前に居るこの少女は、

「心配しなくても、わたくしがあの夜に駆り出された魔術師の一人というわけではありませんわ。ただ知り合いがいるだけですわ、一族殲滅戦に参加していた魔術師に」

 エメリルファはあっさりとアルフレッドの杞憂を消し飛ばした。

「話を元に戻しますけど。とにかく一刻も早くその少女を見つけた方が良いですわ。最悪の結果が起きる前に」

「そうだな。・・・・・・でも何の手掛かりもねぇ。何処から探せばいいのか」

 寮監から話を聞いた時は感情に任せて走り出したが、一呼吸おいて冷静になってみれば

いかに広大なエストラシルの街、果てはセフィライア全土を捜索するのが難しいかを理解してしまった。

それでも、どこに居るのか見当もつかない少女を探さなければならない。少女を救わなければならない。

と、そんなことを考えていたアルフレッドの耳に突然、空気を震わす程の爆音が飛び込んできた。一つの爆音が消えても、地響きしているような腹に響く音が続いている。

驚くアルフレッドとエメリルファは音のした方角に瞳を向ける。

立ち並ぶ多くの建造物により視界は遮られ、遠くの方までは見渡せない。しかし、そんな建物達が並ぶ光景の一角、その地点からただならぬ量の煙が立ち込めている。何か尋常ではないできごとが起きた事は明らかだった。

「まさか・・・・・・」

 先程のエメリルファの話が脳内でもう一度再生される。

 一族処刑の夜に送り込まれた魔術師達には容赦がない。

 悪魔の一族、ヴォルドダンタリアンの血を絶やす為ならば、連中はエストラシルの街ごとあの少女を殺しかねない。それらの情報がアルフレッドの頭を目まぐるしく駆けていく。

 呆然と煙が上がる方角を見続けるアルフレッド。

 すると、隣で同じように煙を見ている金髪のお譲様が口を開いた。

「何も手掛かりがないのでしたら、まずは直感で怪しいと思った所を探してみたわどうですの?」

 そう言うエメリルファの視線は煙の上がる方角を見つめたままだ。

 彼女の言う事は最もだ。とにかく情報がないなら最初は直感でも何でも頼って探し始めた方が良いに決まっている。そこがあの少女に関係の無い場所でも構わない。何も無い事にこしたことはないのだから。

「行ってみるか」

 僅かな逡巡の後、アルフレッドは再び走り出した。さっきの爆音が、少女に――リタ=ヴォルドダンタリアンにまったく関係のないものだと信じて。

「・・・・・・まったく、わたくしは何をやっているのかしら」

 走り出した黒髪の少年の背中を見つめながら、エメリルファは小さく溜息をついていた。


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