第一章 魔術の都
学校、と言えば普通は勉学を学ぶ場所の事を指す。数学、物理、エトセトラ・・・基礎教養をしっかり学んで立派な社会人になる為の準備施設といったところか。
誰しもが通る通過点。基本的には行かなくてはならない場所。それが学校。
そしてもちろん、近代化が進むセフィライアの中では伝統を感じさせる古風な、ヨーロッパの城のような外観をした学校であるこの『アスガルド学院』。
その校門を重たい足取りでくぐる黒髪短髪の少年、アルフレッド=グレイスもまた、社会に出る為の準備施設に行かなければならない者の一人だ。
「・・・・・・完全に遅刻だな。・・・・・・はぁ」
現在時刻は午前8時55分、『特別補習』開始の時間は午前8時30分。最早清々しい程に余裕で遅刻である。
だがしかし、彼には人助け、という名の大義名分(言い訳)がきちんと有る為、今更走って教室に向かうとかそんな無駄な労力は使わない。
校門から昇降口までの道をのろのろと歩いて進む。ふと視線をグラウンドの方に向けても人っ子一人も存在しない。運動部の連中は皆今日は休みなのかもしれない。となるといよいよとなって夏休みというのに学校なんぞに来ている生徒は自分だけなのか、と一層ぐったりしてしまうアルフレッドだった。実際には他にも生徒は来ていたりするのだが。
脱力しきった足取りで昇降口まで来ると、更に気分が重くなる出来事が待ち構えていた。
「あら、遅かったじゃありませんの」
「げ・・・・・・」
突然かけられた声にアルフレッドは思わず声をしかめてしまっていた。
昇降口に立ち並ぶ多くの下駄箱、その一つに背をもたれている金髪の少女がいた。
染めたのではなく生まれた時からの純度100%の金色の髪。さらさらのストレートの髪は長く、腰のあたりまで伸びている。綺麗な金髪に加えて、スタイルも出るとこは出て閉まる所は閉まっているという抜群のプロポーション。まさしく完璧なお譲様、といった印象を誰もが受けること間違いなしの少女だ。ホントにお譲様であるのだが。
「まったく、レイア先生に殺されても知りませんわよ・・・・・・って貴方、何でそんなボロボロですの?」
「う、うるせえよ」
金髪の少女の言う通り、アルフレッドの体のいたる所に擦り傷やあざができているし、制服も汚れている。
アルフレッドは金髪少女の問いには答えなかったが、彼の性格をしる彼女には何となく予想がついていた。
「どうせまた『人助け』とやらに性を出していたのでしょう? それでそんな傷だらけになるなんて、とんだマゾフィストですわね」
「ほっとけ!」
図星を突かれて(マゾフィストという言葉に対してではなく)思わず上ずった声を出してしまうアルフレッド。そんなアルフレッドを呆れたように見る金髪少女、エメリルファ=アーデライトは正真正銘のお嬢様だ。
セフィライアでも有数の大企業、『アーデライト・テクノロジー』の社長令嬢である彼女だが、何故か特に名門という訳でもない平凡なアスガルド学院に通っている。その謎は学院の7不思議にすら入っている程の奇妙な事だ。普通社長令嬢ともあればお譲様学校にでも行きそうなものなのに。ともあれ、中高一貫のこの学校ではアルフレッドとエメリルファは同級生なのだ。アルフレッドの『性格』を知っているのはそのためだ。まあ、同じクラスになったのは中学三年の時だけしかないけれど。
「・・・・・・つーか何でお前いるの? まっさかあのアーデライト家のお譲様が期末テストで赤点取りまくって補習ですー、なんて事はねえよなぁ?」
日ごろから何かにつけていちゃもんを付けてくる少女に、ささやかな反撃のつもりで言い放った言葉だったが、目の前の金髪お嬢様はまったく動じていない。
「・・・・・・わたくし、挑発には本気で答えますわよ」
「嘘ですごめんなさい!」
反撃のつもりが、ただ地雷を踏んだだけだった。アルフレッドはさっきまでの威勢を改め、深々と頭を下げて見事なまでの綺麗な姿勢で謝罪する。この少女が本気で暴れたら学校がめちゃくちゃになるじゃ済まない。下手をすれば倒壊してしまう。そしてこのお譲様はそいつをやりかねない事をアルフレッドは良く知っている。以前街で彼女の素性を良く知りもしないで金品を巻き上げようとした不良は見事に瞬殺され、挙句の果てに彼女はその不良が所属するグループの根城まで赴き、綺麗に跡型もなく吹き飛ばした、という事件はアスガルド学院でも有名な話だ。
素直でよろしくてよ、と言うエメリルファ。どうやら許してくれたようだ。16年という短い生涯の中で最高の謝罪が彼女の気を静めることができたのだ、と下らない事を考えているアルフレッドを余所に、エメリルファは下駄箱に預けていた背を離して校舎の中へと歩き出す。
そして振り返り、
「さ、ぼさっとしてないで行きますわよ。貴方の『特別補習』の時間はとっくに過ぎていますわ」
そう言えばそうだった。人助けに時間を取られて補習の時間は当の昔に過ぎてしまっている。だが特に慌てることもなく、いつもと同じような動作で下履きから上履きへと履き変えるアルフレッドだったのだが、不意に疑問が湧いて出た。
「何でお前が俺の付き添いみたいになってんの?」
「つ、付き添い!? そ、そんなじゃありませんわ! ・・・・・・わたくしはその、れ、レイア先生に頼まれて・・・・・・」
俯きながらボソボソ喋る金髪少女。あーなるほど、と適当に納得してアルフレッドも校舎の中へと足を踏み入れる。そのままアルフレッドはエメリルファに先導される形で、教室までの廊下を歩いていった。
校舎の中はアスガルド学院の西洋の城や宮殿の様な外観から得られるイメージとぴったり合った造りになっている。廊下は大理石できており、壁などもまた見事なまでの石造りだ。おまけに絵画なんてものも飾ってある。
そんな時代錯誤に陥りそうな校舎内を歩く二人の少年少女。そこには会話が無く、ただ気まずい雰囲気だけが漂っていた。
「・・・・・・あの、お譲様。もう教室すぐそこだし後は俺一人でもいいんじゃないでしょうか?」
漂い続ける気まずい雰囲気を脱出すためにそう言ったアルフレッドだったが、
「駄目ですわ。きちんと貴方を送り届けて、しっかり補習を受けるよう監視するのが、わたくしが先生にお願いされたことですから」
補習まで付いてくる気かよ、と心の中で毒づき、アルフレッドは更なる疑問を、先を歩く金髪の少女に投げかける。
「なんでお前がそこまでするんだよ」
「だ、だからレイア先生に頼まれたって言ってるでしょう! そ、それに・・・・・・」
一旦区切り、言葉を濁しながらもエメリルファはこう言った。
「魔術を未だに使えないというセフィライアの歴史に類を見ない存在の貴方が、魔術を使えるところに立ち会うのは、まさしく歴史的瞬間に立ち会うということだからですわ」
そう言いながらエメリルファは、アルフレッドの担任が待つ教室へとひたすら歩を進める。その背に向かって、もう数えるのも面倒な程してきた溜息を吐きながら、
「・・・・・・左様でございますか」
と、呟いてエメリルファの後を追う。
何だか朝から疲れるイベントの多い日であるが、それはほんの序章に過ぎない。本当に疲れるイベントはこれから始まるのだ。
*
「だからどうして貴様はこんなこともできんのだ」
言いながら、教卓の前で一人の女性がゲームや漫画で見る様な魔法陣を展開する。魔法陣の中には、これまた漫画なんかに出てくる魔方陣の様にびっしりと謎の文字が描かれている。
すると、その魔法陣から轟っ!という音と共に真っ赤な炎が生み出される。それは生きているようにゆらゆらと、青白い光を放つ魔法陣を起点に燃え続けている。
何もない所から突然炎を生み出すなど、常人離れにも程がある芸当だが、この街ではこれが普通の出来事だ。むしろ魔術が使えない者の方がこの街からすれば『常人から離れている』存在なのだ。
「それができたらこんな夏休みに学校に出て来てませんよーだ」
黒髪の少年、アルフレッドはぐったりと机に突っ伏しながら口を尖らせてそう呟く。
その呟きに女教師、レイア=ベルの額に青筋が浮かぶ。
「たわけ! そんな腑抜けた事を抜かしているから、貴様は高校生に上がっても一向に魔術が扱えんのだ!」
言うが早いか、レイアは目の前に展開させた魔法陣から絶えず蠢いている炎の威力を増幅させる。先程よりも威力を増し、勢いよく燃え広がった炎は、アルフレッドの鼻先数センチの距離まで近づいてきた。
「あっちいっ! 何すんだよ先生!」
いきなりの出来事に反応することもできず、もろに炎の熱さを喰らってしまって椅子から転げ落ちてしまう。アルフレッドは可愛い生徒である自分を丸焼きにしかねない女教師に非難の声を上げた。
「まったく、どんなに平凡な魔術師でも中学生までには何らかの魔術の片鱗を見せ、高校生にもなれば確実に魔術を扱えるというのに貴様という奴は」
魔法陣から生じる真っ赤な炎よりも赤い深紅の髪を搔きあげながら、レイアは床に転がる残念な教え子を残念そうな瞳で見つめる。
スラリとした、女性にしては長身の体躯。深紅の髪をポニーテールのように束ねるレイア=ベルは一見して知的で美しい女性に見える。が、中身はその外見を裏切っている。実際の彼女は口調も乱暴で、性格も比較的に短気で怒りっぽい。ちなみにこれは余談だが、『特別補習』に遅刻したアルフレッドは、遅刻した理由を懇切丁寧に身振り手振りで、それこそ状況がよく解るくらいに熱く語って聞かせたのだが。無表情にそれを聞いていたレイアは、そうか、と一言だけ言ってアルフレッドの頭を鷲掴みにすると、教室の後ろの壁まで物凄い怪力で吹き飛ばした。アルフレッドの『大義名分』などは聞く耳も持たれなかったという訳だ。おかげで打ちつけられた背中がまだ痛む。
「でもさぁ先生。使えないもんは使えないんだってホントに」
「馬鹿者が。そこがまずおかしいという事を自覚していないようだな。アルフレッド、お前は私達魔術師という生き物がどうして魔術を使えるか、もちろん知っているな? それすら知らないと言うなら、お前の焼き加減はミディアムだ」
結構な焼き加減である。
展開される魔法陣から放たれる炎の威力がまた少し上がった気がしてアルフレッドの背中がブルっと震える。ていうかこの糞熱い真夏日に、見ているだけで身体が火照るような炎を出すのはやめていただきたい、と心中で反論する。
「そりゃぁ俺だってそんくらいの事は知ってるって」
アルフレッドはまだ少し痛む背中をさすりながら、気だるげに椅子に座り直す。
魔術。
それはこの魔術師の都、『セフィライア』に住む者ならば誰しもが使える技術である。
魔術を扱うに至って、必要な物は二つ。魔力と術式だ。術式は魔力を込めることで初めて起動し、魔術はこの世に具現化される。そして、生まれながらにこの街の人々は魔力を持ち、また同時に身体の中に魔術を発動させる為の術式も宿している。親から子へと、魔力と術式は受け継がれていく。故に、セフィライアの人々はずっと昔からこの世に生まれた時点で魔術師なのだ。
「知っているのなら、解るはずだ。お前には魔力があるのだ。ならば当然術式も持ち合わせていなければおかしい。」
「・・・・・・でも実際使えないんだから仕方ないじゃん」
そう、仕方ないのだ。
アルフレッドの表情が何かを悟っている様な、そしてどこか寂しげなものへと変わる。
この『セフィライア』に住む人々は皆魔術が使える。それは彼らが、この魔術師の都ができる遥か昔から存在する魔術師達の子孫だからだ。つまり簡単に言えば、偉大な先人魔術師達の末裔である者は魔術を使える。要はそういう事なのだから、彼――アルフレッドには仕方ない、としか言いようがない。
「ではルーンによる補助術式で彼の体内の術式を呼び覚ます、というのは如何でしょう」
それまで後ろの席で黙って特別補習の様子を見ていたエメリルファ=アーデライトが唐突に口を開いた。
「うむ、それも試す事は試したのだがな。この馬鹿は余程私を困らせたいと見える」
溜息をつき、レイアは展開されている魔法陣の前で右手を真横に振る。すると、燃え続けていた炎はあっさりと消え去り、青い輝きを放っていた魔法陣も音を立てずに消失した。
魔法陣、正確には魔術陣と呼ばれるそれは、言わば魔術がこの世に具現化される際の入り口といったところだ。魔力を術式に込めることで魔術陣は出現し、その魔術陣を起点に魔術は発動される。これが魔術を扱う一連の流れだ。
しかし、例外もある。その中の一つがルーンと呼ばれる魔術言語による『補助術式』だ。
「私が考案した五代元素魔術式になら確実に適合する『万能術式』を持ってしても、こいつの術式は何の反応も示さなかった。・・・となると、可能性としてはこの馬鹿者の魔術は『特異魔術』ということだろう」
『補助術式』とは、それ自体は一応術式ではあるのだが、それだけでは魔術は発動させる事はできない。あくまでその名の通り、自らの体内にある術式の補助の為のものなのだ。
しかし、逆を言えばその『補助術式』が起動すれば、自らの体内の術式が『補助術式』に適合し、魔術が発動したことになる。レイアはそこからアルフレッドに自身の体内にある術式の感覚を掴ませようとしているのだ。
「ただでさえ貴様自身が術式を解っていないのに、『特異魔術』とは。厄介にも程があるぞまったく」
苛立ちながら、そうレイアは吐き捨てる。
何度やっても結果は同じなんだけどな、とレイアには聞こえないようにボソッとつぶやくアルフレッド。
どうやっても自分は魔術を使えない。これは彼には解りきったことなのだ。別にそのことを不幸だとも思わない。
「まあいい、やる事は決まった。貴様の魔術が特異魔術ならば私の『万能術式』も意味がない。ならばその術式に適合できる補助術式を一から考えるまでだ。今日も沢山術式を考えてきた。とりあえずはそれを片っ端から試すとするぞ」
「・・・・・・ちなみに先生。それってどれくらいあるのでございましょうか」
恐る恐るといあったように尋ねるアルフレッドに、レイアはサラッと適当に答える。
「およそ1200といったとこか」
1200っ!?、と思わずその膨大な数字を復唱してしまう。そんなめちゃくちゃな数の術式を試すとなると、当然とても長い時間が必要になるわけで。自然な反応としては、顔が引きつって、思わず逃げ出したくなってしまうのだが、
「何か文句が?」
言いながら無表情で魔術陣を展開するレイアを見て、アルフレッドは両手を上げる。
「いやいやないない! 文句無いですやりますよ!」
「そうか、ならいい」
やや半泣きで放つアルフレッドの叫びを聞いて、レイアは魔術陣を消した。自分の周りは何でこうも物騒な女性が多いのだろう、と嘆きながらもホッと息を吐きながらアルフレッドは胸を撫で下ろす。
と、これからいよいよ特別補習が始まろうとしている中、レイアはふと教室の後ろに佇む金髪の少女に視線を向ける。
「時に、エメリルファ。今更だが、お前がなんでここにいる?」
「・・・・・・え、あ・・・・・・その」
珍しく慌てふためくエメリルファを見て、レイアの疑問は深まる。
しかし、一番疑問を感じているのはその一連のやり取りを見ていたアルフレッドだ。
「あれ? 先生があいつに頼んだんじゃないの? 俺がこの補習から逃げ出さないように監視しろ、って」
「何だそれは。そんな話私は」
知らん、と言いかけてレイアの言葉が止まる。
ゆっくりと、顔を真っ赤にして慌てるエメリルファに視線を向けて、次に首を傾げているアホ面を見る。そしてレイアは何故かいきなりニヤリと不敵な笑みを浮かべながら、
「あーそうだったそうだった忘れていた。そんな頼みもしていたなーそういえば」
ニヤニヤと笑いながら何故か棒読みでそう言うレイアに、アルフレッドは更に首を傾げ、エメリルファは安堵の息を吐いていた。が、安堵するエメリルファに深紅の髪の鬼教師は更に言葉を投げかける。
「これは貸しだぞ、エメリルファ」
不敵な笑みを残したまま言い放たれたレイアの言葉に、
「・・・・・・・・・・・・はい・・・・・・」
と、何故か縮こまる金髪小女。そこは貸しじゃなくて借りじゃないのか、という至極当然の突っ込みをしたアルフレッドだったが、何故か悲しくもその突っ込みは華麗にスルーされてしまった。何やら行われた水面下でのやり取りに疑問が残るが、アルフレッドはこれから始まる特別補習に臨む為に意識を集中させる。集中するといってもそれで何かが変わる訳ではない。やっぱり結末は魔術が使えない、で終わる事は解っている。だからこんなことをしても無駄ですやめましょう、と正直に伝えたいのだが。それはできない。自分の事情は目の前にいる担任教師には言えない。レイアに限らず、この島の全ての人間に言う事はできない。それを言ってしまえば、自分の――アルフレッド=グレイスの正体がばれてしまう恐れがある。そうなればこの街に居られなくなるかもしれない。だから無理だと解っていても、魔術を発動させる為のこの『特別補習』は受けなければならないのだ。アルフレッドはまだ、魔術が使える、と思われているのだから。
こうして夏休み始まりの日、アルフレッドにとって無意味で時間の浪費でしかない『特別補習』の時間が始まった。
*
「あー疲れた。ほんとーに疲れた。こんなのがまだまだ続くと思うと辛すぎる」
アルフレッドが心底うんざりしたように溜息をつきながらそう呟く。
空はすでに赤みがかっている。時刻は午後4時といった所だろうか、こんな時間まで延々とルーンの補助術式を書いては試し、書いては試しを何千回も繰り返す事がどれほど苦痛か、それが知りたければ彼の顔を見ればすぐわかるだろう。ずっと補助術式を書き続けていた手がひりひりしている。
疲労感満載の表情のアルフレッドは何かの罰則の様な『特別補習』を終えて、学生寮に帰る道を歩いていた。他の土地に比べて標高の高い位置に建つアスガルド学園の校門からは長い坂が延びている。アスガルド学園の生徒が登下校の際に必ず使うこの坂は学生が多く使うことから“学生坂”と呼ばれていたり、朝からこんな急とも緩やかとも言えない長い坂を登らなければいけないことから“魔の脱力坂”と呼ばれていたりと、呼び名は人によって様々だ。
坂の頂上付近、校門を出てまだ間もない場所から街の景観を眺めることができる。街には多くの少年少女が思い思いの夏休みを過ごしていた。この時間帯はまだ仕事なのか、大人の姿は圧倒的に少ない。そんな青春を謳歌する者達を見ると、補習で夏休みの一日を潰され、しかもこの地獄はまだ続くだろう事を考えると、妬ましくてアルフレッドの瞳が恨めしいものに変わる。
セフィライアという絶海の孤島は、五つの区画に大きく分けられている。東のエストラシル、西のヴェストラシル、南のスッドラシル、北のノルドラシル、そして中央に位置し、この島の首都とも言えるセントラルウォード。日本の首都“東京”の半分の面積を持つセフィライアを更に5つに分割した為、各エリアの土地は広いとも狭いとも言えないものになってしまっている。アルフレッドが住んでいるのは東のエストラシル、ここは五つのエリアの中でも最も近代化が遅れてしまっている街だ。
理由は単純、このエストラシルの街のお偉方である老人達が近代化を拒んでいるからだ。
『セフィライア』と呼ばれるこの島ができたのは15世紀から突如世界各地で始まった“魔女狩り”が原因だ。当時、魔術師達が手を取り合い、互いの魔術高め合うという名の元に作られた組織、“魔術連合”は過激化していく魔女狩りから魔術を守るべく二つの案を実行した。一つは魔術の秘匿。これは魔術師達が研究してきた各々の術式を体内へと記し、魔術の痕跡を隠して後世へと受け継がせていく、という現代の魔術の形態の起源である。
そしてもう一つが、『魔術師の楽園』の建造である。魔女狩りが横行する世界各地で、生き残った魔術師達が自分たちの身を守る為に、最期の希望として作り上げたのがこの島というわけなのだ。彼らの持てる魔術の粋を結集した大規模術式により作られたこの島は巨大な結界で覆われており、姿を見ることはおろかその場所を“認識する”ことすらできず、彼らは何世紀もの間、魔女狩りから逃げ続けた。
故に、元々鎖国的だったセフィライアだったのだが、20年ほど前に同じ島国である“日本”にその存在を明かし、そして国交を結んでそれまで産業革命以前の農業的な生活を送っていたセフィライアの人々にとっては魔法の様なハイテク技術の多くを“日本”の技術者達から学ぶことになった。そうしてセフィライアの近代化が進み、今もまだ近代化は進んでいるのだが、エストラシルの老人たちは外の世界=魔女狩りといった偏見を持っている為、外の世界の人間と関わるなどあってはならないと主張している訳なのだ。おかげでエストラシルの街には鉄とアスファルトで造られた現代建築の建物と、旧態依然の石やレンガで造られた建物達がごちゃごちゃに混同されてしまっている。
そんな現代と過去が交差する街を眺めながら、アルフレッドは疲れた体を癒すべく学生寮への道を歩く。
「疲れた疲れたとうるさいですわ。まったく、見ているだけのわたくしの方が疲れたというのに。こんな時間まで付き合わされたわたくしの身にもなってもらいたいですわね」
隣を歩く金髪ロングヘアーのいかにもお譲様、エメリルファがそんな嫌みを言ってくる。それは俺のせいなのか?と思ったアルフレッドだが今は疲れてそんな反論を口にしようという気は起こらない。
「はいはいごめんさいね俺に才能が無さ過ぎてエメリルファお譲様の大切な夏休みの一日を潰してしまって」
「本当に申し訳ないと思って謝る態度じゃありませんわねそれ。欠片も誠意が感じられませんわ」
ジト目を向けてくる金髪少女には目を向けず、ひたすらにアルフレッドは帰路行く。今はこのお譲様の食って掛かる態度に付き合う気力などはない。
そんな人と喋ることすら億劫に感じる今のアルフレッドだが、金髪お嬢様はその事を知る由もないのだから次々と話題を変えて(全部アルフレッドに対する愚痴か説教だった)話しかけてくる。疲れている為適当な返事になってしまうと、その度に睨まれた。
しばらくして、話題の内容が全く違う種類のものになった。
「そういえばレイア先生が仰っていた例の事件、貴方はどう思いますの?」
「ん? あーあれか。連続通り魔事件だっけ。どう思うって言われてもなぁ」
アルフレッドは『特別補習』の時に聞いた担任教師の言葉を思い出す。
近頃、この東の街エストラシルで通り魔が横行しているという話だ。これまで4人の犠牲者が出たが、誰一人として接点がない為通り魔と言う事になっているらしい。被害者達の間で唯一共通しているのは、外傷が全く見当たらない事、にも関わらず皆体中から大量の血を流して倒れていた事、そしてこれが最も奇妙なことだが、4人の胸には拳大の黒い結晶が埋まっていたと言う事だ。どれも手掛かりとしては乏しく、捜査は難航を極めているらしい。その為か、夜も警察車両が巡回をしているせいで折角の夏休みに夜遊びもできなくなった学生達からの不満の声も大きい。
鬼担任からはくれぐれも夜道を一人で歩くなと忠告を受けた訳だが、この手の事件はどうして身近には感じられなくてアルフレッドは特に気にもしていなかった。
「わたくしは魔術信仰をする者による何らかの魔術的実験が行われているのではないかと考えていますの。現場には魔力の痕跡も残っていたようですし」
自分などはまったく興味のなかった事件だが、横を歩くお譲様がそんな深く考えていた事を知り、感心してしまった。流石はこの街の産業を支える『アーデライト・テクノロジー』の社長令嬢といったところだろうか。
(・・・・・・にしても、魔術信仰・・・・・・ねぇ)
魔術信仰とはつまり、『我々は魔術と共にあり、魔術を探求することは己が世界を拡張し、この世の真理を垣間見えることのできる道である。』という考えを元にできた魔術至上主義の連中による宗教的にも近い信仰である。魔術を扱う自分達魔術師は優れた種族だと考える彼らの信仰は時に過激な一面を見せることもある。近代化の際に日本と協定を結んだ時も、優れた人種の自分達より劣る奴らの力を借りるなどふざけるな、と暴動すら起こしたことがあるのだ。彼らの過激さが魔術探求に向けられることも無いとは言い切れない。もしかしたらこの街を騒がす通り魔事件も、エメリルファの言う通り魔術信仰の連中によるものかもしれないのだが、
「まーそういうのは警察に任せろって。俺達学生があーだこーだ言っても事件は解決しねーよ」
色々とアルフレッドも考えてみたが疲れに支配されている彼の脳みそは遂に思考を止めた。実際こういうのは専門家に任せるに限る。間違った事は言っていない筈だ。
発言の正当性を自らの中で再確認したアルフレッドに、エメリルファが何やら物言いたげな視線を向けてくる。
「あなた、困っている人を助けるのが信条じゃなかったんですの?」
「そ、それはそうだけどさ。どうにもこの事件は実感なくてだな、俺としては警察様に任せるのが一番だと思う訳でありまして」
痛い所を突かれて額に汗が浮かぶ。事実だが言い訳臭いセリフを吐きながら、アルフレッドは視線をあっちこっちに泳がせる。確かに苦しんでいる人を救う事を信条にしているアルフレッドとしてはこの事件を解決したいと思うが、この事件は謎も多く何から始めて解決へと向かえばいいのかまったく分からないのだ。ならば専門家である警察に任せるべきなのだ。本当に言い訳などでなく。
「そ、そういやさ。最近この近くに上手いバイキングができたって話知ってるか? すげー上手いって俺のクラスの奴らも言ってたぞ」
これ以上痛い所を突かれないよう話題を逸らす為に、近頃できた新たな飲食店の話を振る。
いくらこの街の近代化が遅れているからといって今までバイキングの様な食べ放題の飲食店が無かった訳ではない。しかし、アスガルド学園に伸びる広大な幅の“学生坂”にこの様なバイキング形式の飲食店ができたのは初めてだ。できてからすぐに大勢の客が押し寄せるその店は、メニューも和洋様々な品を揃えているし、味もバイキングにしては質の高い物を提供してくれるという噂だ。そして、何といっても好評なのは値段である。一番安いコースでも何と899円で食べ放題らしいのだ。当然のことながら学生には大人気を得ると共に、一般層の客からも高い人気を得ているそうなのだとか。小遣いの少ないアルフレッドにとってもまさに救済の一言に尽きる店である。
「ふん、そんなことくらい知っていますわ。というかスポンサーをしているのはわたくしの家でしてよ」
エメリルファは別に得意げになるでもなく、適当な感じでそう言った。
適当に放たれた言葉だが、黒髪短髪の少年はその言葉に異様に食いつく。
「え!? マジで!? だったらお前の力でメニュー増やしたりとか、値段もっと安くしたりとかできんの!?」
「??? ま、まぁできない事は、無いでしょうけど・・・・・・」
「おおおおおおマジでか! ならばバイキングのデザートメニューに杏仁豆腐を追加してくれぇ!! 俺杏仁豆腐めっっちゃ好きなんだよ。あと一番安いメニューの値段をもう150円、いやもう100円だけ減らしてくれないだろうか!!」
疲れて色の無くなっていたアルフレッドの瞳に再び輝きが戻る。
キラキラと瞳を輝かせてエメリルファの肩を掴んで、真っ直ぐ彼女の瞳を見つめて懇願するアルフレッド。杏仁豆腐のフルーツの味が染みた甘い風味と、少しコリコリした癖のある食感は初めて食べた時は並々ならぬ衝撃を覚えた程だ。なのに何故だかその店には杏仁豆腐はない、という情報を耳にしてアルフレッドは凄く落ち込んでいたのだ。
ちなみに、セフィライアでは日本と国交を結ぶようになってから島で使用される通貨は“円”に変更されることとなった。理由はセフィライアに輸入される日本からの様々な物資の価値基準の統合、らしいが政治的な事に詳しくないアルフレッドにはいまいち理解できていない。
と、メニュー追加と値段交渉の為アルフレッドに肩を掴まれ、真っ直ぐに見つめられる様な体勢になっているエメリルファは何故だか顔が赤くなっていた。
「わ、分かりましたわ。・・・・・・その・・・・・・絶対とは、言えませんけど。その旨をオーナーに伝えておきますわ・・・・・・」
「ホントか!? いやぁ助かるぜ。あの杏仁豆腐を食べ放題できるなんて夢のようだ」
うっとり顔で来るべき杏仁豆腐食べ放題に思いを馳せる。思わずよだれが出てしまっている事などに気付かない程である。今度からあの店にご意見ご要望がある時はコイツにお願いしよう、とせこい事もちゃっかり考えるアルフレッドだった。
と、そんな他愛ない話に興じていた二人だったが。
不意に近くの路地裏からただならぬ物音と罵声が聞こえてきた。
思わず顔を見合わせて辺りを見回すアルフレッドとエメリルファ。そして、二人はその喧騒の発信源をすぐに見つけることができた。
学生坂に立ち並ぶ多くの建物、新旧入り乱れる建物達によって織りなされる日の当らない闇。そこに、4人の見るからに不良な連中と1人の男子生徒が居た。
何か、凄く見た事ある光景なんですけど、と朝の出来事を思い出すアルフレッド。
「どうせ、小遣い稼ぎでしょう。ほんっと、どうしようもない人種ですわね」
「まったくだ。それに関しちゃおもしれえくらい同意見だぜ」
一日で二度も厄介ごとに遭遇するとは、アルフレッドにとっては運がいいのか悪いのか分からない所だが、やはりやる事は決まっている。
「たかだか不良ごとき何ともありませんわ。ここはわたくしに任せてあなたは救急車を呼んでおいてく・・・・・・ってちょっと!何してますの!」
エメリルファの言葉は聞かずに、アルフレッドは既に走り出していた。
路地裏へ、助けを求めているであろう誰かの元へ。
*
走って駆け付けると、不良の一人が男子生徒の胸倉を掴んでいて、その周りを残りの不良が品の無い笑い声を上げながら取り囲んでいた。駆け付けたアルフレッドの姿に気付いた不良がギロリと鋭い視線を向ける。
「おお? なんだてめえ、こいつの連れかぁ?もしかして“お友達”ってやつかぁ?」
男子生徒の胸倉を掴んでいた不良は、突如現れた黒髪の少年に問い掛ける。
思ってもみなかった乱入者に、不良一同が好戦的な瞳を向けて黒髪の少年の言葉を待つ。
「てめぇら、・・・・・・何となく想像は付くけど一応聞いといてやる。何してんだ?」
敵意ある不良達の視線を臆せずに真っ直ぐ受け止めて尚、それにも勝るとも劣らぬ鋭い眼光で彼らを睨みつける。
「何って見てわかんねえのかよ。俺ら貧乏人一同が金持ち学生からお恵みを受け取ろうとしてんだよ、なあ?」
不良が男子生徒の胸倉を掴んでいる手に力を込める。
同時に、既に半泣き状態だった男子生徒の口からひぃ、という短い悲鳴が漏れる。
「・・・・・・そぉかよ」
アルフレッドは不良達を睨み続ける。
悪を許さぬ正義の意思を含んだ瞳で。
「だったらその手を離しやがれ糞野郎ども!」
静まり返っていた路地裏に、アルフレッドの怒声が響き渡る。
一瞬の沈黙が場を支配する。
あまりに唐突な展開にポカンとしてしまった不良一同だったが、すぐに状況を思い出して腹を抱えて全員が笑い出した。
「ぷ・・・・・・くはははははっ。何おもしれえこと言っちゃんてんだこいつ」
「こいつ状況分かってないんじゃね?」
「そんなにボコボコされてえならてめえからいっとくかぁ?」
口々に不良達がアルフレッドに罵声を浴びせる。
確かに、勢いよく啖呵を切ったものの相手は四人だ。二対一までなら勝算は無きにしも非ずだが、これは正直非常にまずい状況だ。しかし、後先考えないアルフレッドはもう絶望的な戦場に足を踏み入れてしまっている。
どうする、頭の中でこの状況を打破する作戦を考えるが、元々喧嘩が特別強い訳でもなく、魔術の才もなければ頭も宜しくない方のアルフレッドである。そんないい考えなど浮かぶ訳もなく・・・・・・。ええいもうどうにでもなれ!
考える事をやめがむしゃらに不良達に突っ込むべく、足を踏み込もうとしたところで後ろから足音が聞こえてきた。
それは緊迫した空気を孕む路地裏に静かに響き渡っている。
「まったく、私に任せなさいと言いましたのに。正義感旺盛な事ですわね」
アルフレッドが声をした方を振り向くと、そこに居たのはこんな不良の喧嘩とは程遠いイメージのお譲様だった。腰まで届く長いストレートの金髪をサラッと手で流しながらエメリルファは状況を確認するように辺りを見渡す。
「さてこのような陳けな輩をあしらうのに大した時間は必要ありませんわ。さっさとけりをつけましてよ。」
その言葉に、不良達の額に青筋が浮かぶ。
「待てよ、ここで女の子に戦わせたとあっちゃぁ俺の名が廃るってもんよ」
「なら問題ありませんわ。元々魔術が使えない時点で貴方の名前は廃っていましてよ」
「な、なにおぅ!?」
不良達の額からブチブチっと何かが切れる音が連続する。
完全に眼中にないといった感じの二人の様子に不良達の怒りが最高潮に達した。
「陳けな輩とは言ってくれるじゃねえかよ糞尼ぁ・・・」
言いながら、男子生徒の胸倉を掴んでいた不良はその手を乱暴に離して、ゆっくりと右腕をアルフレッド達に向けて掲げる。
「てめえらまとめて消し炭にしてやるぞこらぁ!」
不良が叫ぶのと同時に、掲げられた右手の先から数センチの所に魔術陣が現れる。それは青白い光を放ち、薄暗い路地裏を表の通りの様に明るく照らし出す。
そして、魔術陣から炎の塊がけたたましい音を立てながら現れる。
紛れもない魔術の技がそこにはあった。
「あら、あなたみたいなチンピラにしては立派な魔術ですこと」
エメリルファは目の前で人一人分程の炎の塊が轟々と音を立て、自分達を焼きつくそうとうねりをあげているにも関わらす、余裕の態度を崩さない。
そんな彼女の余裕の態度に、更に不良の怒りは増していき、その怒りに呼応するように炎の塊も勢いよく燃え広がり大きさを増していく。
「やっちゃってくださいダリルさん! そいつらに俺らレッドテイル“火竜の尻尾”の恐ろしさを思い知らせてやってくださいよ!」
後ろに控える残りの不良達の一人がそんな事を言った。
レッドテイル“火竜の尻尾”と言えばエストラシルでも有名な不良グループだ。規模も大きく、このエストラシルの小さな不良グループのほとんどを傘下に収めている程だ。
少々厄介な連中に絡んでしまった、と考えた所で後の祭りである。それにアルフレッドとしては相手が誰だろうと関係はないのだから結果としては同じである。
ダリルと言われた男は得意げな笑みを浮かべながら、燃え続ける炎の塊をアルフレッド達に向けることを止めない。
「俺の魔術等級はドライオだ、そんじゃそこらのヘボ魔術師と一緒にすんじゃねえぞ糞尼あぁ!」
叫びに応えて、魔術陣から出る炎が更に燃え広がる。
魔術等級とは、セフィライアにおける魔術師達のランク付けである。一番下から下級“フィーネル”、中級“ドライオ”、上級“ツヴァイア”、そしてこのセフィライアで最高位の魔術師達に与えられる等級、超級“アインス”。その中でドライオは下から二番目である。人口的には下級が多いセフィライアでは、中級のドライオはそれなりの力を持っている事になる。
ダリルは掲げた右腕を振りかぶり、魔術陣から溢れ出る炎の塊を投げ飛ばす様に振り下ろす。
「消し済みになって後悔しろ! 糞共がぁ!」
今までお預けを食らっていた肉食動物の様に、荒々しい炎がアルフレッド達の方にさながら炎の柱の如く延びてくる。
左右に逃げ場の無い狭い路地裏で、熱気の塊が迫りくる。
当たれば間違いなく大けがじゃ済まない、死ぬ可能性もある。生きたとしても皮膚は大やけどで後遺症が残るのではないだろうか。そう考えると半端に生き残ってしまった方が辛そうに思えるが、死ぬという結果もたまったものではない。
そんな当たる事前提の後ろ向きな思考ばかりが巡っていたアルフレッドに、今この瞬間も殺意が溢れ出ている様な荒々しさで、炎は迫ってくる。
「おどきなさい」
静かに、けれど荒れ狂う炎が響かせる轟音の中でも通るような声で、金髪の少女はそう言ってアルフレッドの前に出た。
炎は既に手を伸ばせば届く所まで来ている。物凄い熱気が押し寄せる。
しかし、そんな絶体絶命の状況でも、彼女の余裕が崩れる事はなかった。
そしてそのまま、殺意ある炎は容姿端麗な彼女を、焼けただれた醜い肉塊に変える、
――筈だった。
今まさに炎が彼女を呑みこむというところで、エメリルファの目の前。迫りくる炎と彼女の間に、青白い光を帯びた魔術陣が展開される。
展開された魔術陣から巨大な氷の壁が、アルフレッドとエメリルファの二人を守る楯の様に現れた。炎はその勢いを殺さず、突如現れた氷の壁にぶち当たるが、衝撃で轟音を轟かせただけで虚しくもその氷の楯を破壊する事が出来ずに消えていった。
「な、なんだよそりゃあぁ・・・・・・」
不良の顔が驚愕に歪む。
自らの魔術を物ともせずに防ぎきった氷の壁をただ呆然と見つめる。
氷の壁は役目を終えたかのようにガラガラと音を立てて崩れていき、その先にいる者の姿が露わになる。そこにあったのは相も変わらず涼しげな顔で、まるで炎を防ぐことと呼吸することが同義であると言わんばかりの余裕の態度をした金髪の少女だった。
じりっ、と自らの意思に反してダリルの足が一歩下がる。
本能が告げている。
これはマズイと、この金髪の少女は危険だと。
「こ、この尼あああああああああああああああああああああああっ!」
本能が発する危険信号をまるで獣の様な咆哮で無理やりかき消す。
自らを奮い立たせて、ダリルは再び魔術陣を展開させ、先程生みだした炎よりも激しく、強い熱気を孕んだ紅蓮の塊を出現させる。
「これが俺の全力の炎だ。てめえもやり手の魔術師みてえだが! ドライアの俺の全力魔術だ、たかが氷で防ぎきれると思うなよコラ!」
叫ぶのと同時にダリルは炎の塊をアルフレッド達に向ける。魔術陣が作る青白い光源と、獰猛な赤い塊が生み出す朱色の光が路地裏を照らす。熱気が大気を温め、路地裏に烈風が巻き起こる。狭い路地裏を作り出す建物の壁を黒く焦がしながら燃え続ける赤い塊は、今度こそアルフレッドと、その前に立つ冷静沈着な金髪の少女を燃やし尽くす為に、動き出した。路地裏の幅程もある巨大な炎は、まるで荒波の様に押し寄せてくる。
だがそれでも、金髪の少女は動じない。
その様子は恐怖という感情など持ち合わせていないようだ。
「一つ、当然のことを教えて差し上げますわ」
轟々と獰猛な音を撒き散らし迫りくる炎の塊は獣じみている。
そんな炎に向かって、臆することなくエメリルファは手をかざす。
一切の迷いもなく、押し寄せる殺意の炎を受け止めるようにしてかざされた彼女の手の先から、魔術の入り口が作りだされる。
「先程から随分と元気に吠えていらっしゃるようですけれど」
後僅か、ほんの数センチで差し出された金髪の少女の色白の華奢な掌に、赤い灼熱の獣が喰らいつく――というところで。
炎はその勢いを完全に停止した。
正確には、炎の塊はその姿を氷の塊へと変換させられていた。
エメリルファの魔術陣にぶつかった炎は勢いを殺されて、そのまま魔術陣と接触した部分から凍りついていったのだ。
宙を浮く状態となった炎の塊改め氷の塊は、自然界の法則に従い地面へと落下し、粉々に砕け散る。ガラスが砕ける様な甲高い音が路地裏に響き渡る。
「あ・・・・・・くっ・・・・・・」
その様子にダリルは言葉を失ってしまった。
無理もない、彼の全力は意図もたやすく、それこそ羽虫を殺すかのように打ち破られてしまったのだから。
戦いを後ろから眺めていただけの他の不良達もただ立ち尽くすしかなかった。
彼らの中で中級である“ドライオ”はダリルだけ。その彼がこうも全く歯が立たないのなら、ダリルよりも格下である下級“フィーネル”である他の不良達に一体何ができるというのか。
為す術なしの不良達に、エメリルファは更なる絶望を与えるべく口を開く。
「格下が格上に勝てる道理はなくってよ」
冷徹に、自らが生み出す氷の如き声色でそう言うと、エメリルファは魔術陣を展開させる。
「さあ、どう落とし前をつけてもらおうかしら」
彼女の魔術陣が青白く発光する。
不良達の体からじっとりとした嫌な汗が一気に噴き出す。
物理的に考えて、炎を凍らせるなど聞いた事がない。要は物理法則などといった既存のルールが当てはまらない程の強さを、この金髪少女は秘めているのだ。
と、文字通り絶句していたダリルが何かを思い出したように言葉を紡ぎだす。
「思い、だしたぞ・・・・・・。確か、このエストラシルには・・・・・・魔術等級最高位、超級“アインス”であり・・・・・・、しかもこのセフィライアで五人しかいない五代元素使い“エレメントマスター”の一人・・・・・・。あらゆるものを一瞬にして凍らす氷結女王がいるって・・・・・・」
「あら、今更気付いたところで謝っても許してあげませんわよ」
にっこりと不気味に微笑みながら、セフィライア最高位の魔術師は右腕を軽く振るう。
それは魔術を発動させる動作かと思ったが、特に何も起こりはしなかった。てっきり氷の柱を叩きつけてきたり、はたまた全身凍り付け、何て恐ろしいものを想像していた不良一同だったのだが。
しかし、安堵も束の間、恐ろしい異変はすぐにやってきた。
炎使いのダリルの右腕が指先からゆっくりとカチカチ、という異常な音をたてて凍結されていく。人肌には冷たすぎる温度がダリルの右腕を支配する。もちろん激痛と共に。
「う、あああああああああああああああああああああっ」
情けない悲鳴を上げて、氷結した右腕を押えてダリルは尻もちをついた。その顔面は痛みと恐怖でくしゃくしゃになってしまっている。その他三人の不良達も、自分たちのリーダー格であるダリルの、氷塊と化した右腕の惨状に青ざめている。
金髪少女の視線が痛みに呻く炎使いの不良から、後ろに佇む不良達に向けられる。
その冷たくて鋭い瞳は、案に次はお前達だと語っていた。
全てを凍らす氷結女王は、ゆっくりと不良達の方へと歩みだす。
「魔術を使った殺人は、捕まれば20年は監獄から出てこれないと聞きますが。・・・粉々になった死体なんて、誰が見つけられるのかしら」
エメリルファは一歩一歩、歩を進めながらもう一度魔術陣を展開する。
青白い閃光を放つその魔術陣を前に、不良達はまるで処刑台に立たされている様な、これから首を切り離される様な恐怖に駆られ、
「ひ、ひいああああああああああああああああっ」
一人の不良のみっともない叫びを皮切りに、不良一同は全速力で路地裏を駆けだした。
最初の威勢はどこえやら、彼らは無様に何度か躓き、よろめきながら路地裏の奥の方へと姿を消していった。
ともあれこれで、喧騒が無くなって一件落着した路地裏は、元の静寂さを取り戻す事となった。
「さぁ、もう大丈夫ですわよ。運が良かったですわねあなた」
不良達に絡まれていた学生はいきなり自分へと話を振られ、戸惑ってしまっていた。あまりに突拍子のない一連の出来事に、未だ呆然としていた学生だったが、助かったという事実がようやく分かったころには安心して腰を抜かしてしまっていた。
学生服を着た男子生徒、先程まではあまり意識が向かなかったが、その制服はアスガルド学園の物ではない。制服マニアではないアルフレッド(ましてや男子の制服などこれっぽっちも興味の無い)はその制服がどこの学校の物なのかがまったく分からない。
アルフレッドがそんな事を考えていると、腰を抜かした学生はよろよろと立ち上がって、ありがとうございました、と早口に一言告げて逃げるように路地裏から去って行った。おそらく、助けてもらって感謝はしているのだろうが怖いのだろう。彼女の、エメリルファ=アーデライトの圧倒的なまでの強さが。
恩を仇で返されたような感じとなってしまったが、金髪のお譲様は特に悲しい顔をするでもなく、何も言わずに走り去る学生の背を見つめていた。その様子はこういう反応は慣れているという感じにアルフレッドは思えた。
「あらまだいましたの、途中から空気でしたわねあなた」
不良を見事にあしらったお譲様は、明らかに人を馬鹿にする笑みをアルフレッドに向けながら、カツカツと音を鳴らして歩き出す。
「く・・・・・・仕方ねえだろ。魔術師の戦いなんて俺が参戦したら即お陀仏だっつーの!」
カッコを付けて男子生徒を助ける為に不良達に啖呵を切ったは良いが、現実はお譲様の陰で戦いを見ている事しかできなかったことを考えると、悔しいという感情よりもまず恥ずかしい気持ちが強くて思わず顔が赤くなってしまう。
ばつが悪そうにそっぽを向く黒髪短髪の少年。
そんな彼の心中を知ってか否か、不良達を余裕の勝利で退けたお譲様は優雅に歩きながら、そっぽを向く少年に追い打ちをかける。
「さ、レディに守られた無謀で頭の足らない非力なおぼっちゃん、さっさと帰りますわよ」
悪意たっぷりの笑みを浮かべて、エメリルファはワナワナと肩を震わす無謀で頭の足らない非力なおぼっちゃんの隣を通り抜け、薄暗い路地裏から“学生坂”へと歩いて行った。
その背中に文句の一つでも言ってやろうと口を開きかけたアルフレッドだったが、右腕を氷漬けにされた不憫な不良を思い出し、そっと口を閉じた。
「はあ、ホント泣けるよまったく・・・・・・」
なんて誰にも聞こえないような小さな声で呟くと、彼もまた静まり返った路地裏を後にした。
裏路地が元々暗かったせいか、表通りに出ると赤みを帯びた空はその色を失いつつあった。“学生坂”に設置された無数の街灯が自分の使命を果たそうと明るい光を放ち始めていく。そんな昼間の街から夜の街へと変貌していく中を、黒髪の少年と金髪の少女の一組が歩いていた。その途中、黒髪の少年アルフレッドは傍らを歩く金髪の少女エメリルファに、『力もないのに出しゃばるな』とか、『というか魔術が使えないとかあり得ない』とか、『この能無しお馬鹿さん』、なんて説教だか嫌みだかを延々と言われて、特別補習に加えてその後の路地裏での喧嘩(見ているだけだったが)でぐったりしていたアルフレッドは更に気が滅入ってしまっていた。てか普通に悪口も混ざっているんですけど。
適当に相槌を打って彼女の話を聞き流していたアルフレッドだが、不意に彼のお腹の辺りからグーッ、という食欲要求の声が響き渡る。
「いやしいお腹ですこと。下品ですわ不愉快ですわ」
「う、うるせぇよ生理現象だよ! てかお前も鳴ることあるだろ!」
「ふん・・・・・・わたくし、自身の体調管理は怠らないですわ。お腹なんて鳴り始める前に適切な食事を摂りましてよ」
「くっ・・・・・・な、なるほど。・・・・・・一理ある」
妙に納得してしまうアルフレッド。
確かに彼は朝食も食べずに特別補修に出かけ、昼食に至ってもレイア先生が考えてきた様々なルーンの補助術式を試していた為、疲れきって食事が上手く咽を通らなかったのだ。よって、このお譲様が言う所の“適切な食事”は摂取できていない。
と言う訳で、食料を催促してくる声を鎮める為どこかで飯でも食おうかと思って辺りをキョロキョロ見回していたアルフレッドだったが、ふとある店の事を思い出す。
「そうだ、折角だし例のすげー上手いっていうバイキングにでも行くか。どうだ、お前も一緒に来るか?」
と、ごくごく自然な感じで黒髪の少年は隣を歩くお譲様を誘ってみる。
まさか誘われるとは思っていなかったのか、いきなり夕食の誘いを受けた金髪のお譲様エメリルファはビクりと肩を大きく震わせて立ち止まる。そんなに驚くことか、と疑問に思ったアルフレッドだが、何故か今度は俯きだして長くてサラサラの金髪をいじりだしたエメリルファの挙動に更に違和感を覚える。
(ええー何だよその反応。ま、まさか俺気に障るような事言ったか!?)
珍しく挙動不審な態度を取る彼女を前にアルフレッドは、自らの言葉を思い出しながら必死に発言の悪い所を探す。そこでふと、別の可能性に思い至った。
「た、確かにお譲様が行くにはちょっと品が無い所かもな、バイキングって。何かこう庶民が安い金でバクバク食う為にある、って感じのとこだしな。」
「わ、わたくしは別にそんな・・・・・・」
「それにあーゆう店は俺なんかと二人で行くより、友達とかとワイワイガヤガヤしながら飲み食いする方が楽しいだろうしな。」
うんうんそうだよな、と自分の推理が的を得ていると信じて疑わないアルフレッドは頷きながら納得顔をしていた。
そんな彼がふいにエメリルファの方に視線を向けると、彼女はいつの間に髪をいじる手を止めており、そしてなんだか寂しそうな悲しそうな、不良達との喧嘩の中ではまったく見せなかった表情をしていた。
「・・・・・・そ、そうですわ。貴方みたいな汗臭い男と行くより、と、と、友達と行った方が楽しいし、ご飯も美味しく食べれますわ。誰が大した力も無いくせに不良に喧嘩を挑むようなお馬鹿で、魔術も使えない能無し野郎で、超変態ドスケベ犯罪者の貴方なんかと食事なんていくもんですか」
ちげーよ!勝手に犯罪者にすんじゃねーよ!と、有らぬ罪を着せられたアルフレッドは思わず道行く人が足を止める程の大声で反論して、
「そうかよ、だったらどこへなりと行けよ。俺はバイキングに行くからよ。じゃあなお譲様。せいぜい高級料理でも美味しく頂いておくんなさいよ」
ひらひらとあしらうように手を振るアルフレッドだったが、彼は気付く。
彼女の、エメリルファの肩が震えている事に。それが寒いからか、それとも別の要因があるのか、アルフレッドには分からない。けれど、さっきから奇妙な行動をするエメリルファに、アルフレッドは何故だか身の危険を感じて一歩後ずさる。
そしてくしくも、彼が感じた危険は現実のものとなった。
金髪のお譲様の前にびっしりと、おそらく魔術的なものだろう文字が書かれた魔術陣が展開される。
その魔術陣は空が薄暗くなった為動き出した街灯が放つ光よりも眩い輝きを放っている。
「え、あのお譲様? ひょっとして怒ってらっしゃるんでしょうか?」
恐る恐るといった口調で尋ねるアルフレッド。しかし、質問に対する金髪お嬢様の回答は無言。両者の間に僅かな沈黙が訪れる。ていうか俺が何したって言うんだよ、と胸の内で嘆く黒髪の少年だったが、無情にも彼女が魔術陣を消す気配はない。
「あ、あのーお譲様? 魔術陣なんか出しちゃって一体何をなさるおつもりですか?」
ま、まさか氷漬け!? と恐怖の展開を想像するアルフレッドの額から、冷たい汗がツーッと垂れていく。
今度の質問には無言ではなく、別の答えが返ってきた。しかしそれは言葉ではない。代わりにやってきたのは魔術陣から現れた氷の棒だった。直径は拳ほどの大きさのそれは、物凄い勢いで伸びてきて、そのまま吸いこまれるようにしてアルフレッドの腹部へ見事に直撃した。突然の攻撃にぐふぉっ、と呻きながらアルフレッドはその場にうずくまる。
そんな彼を、エメリルファは明らかに怒っている瞳で見下ろしながら、
「夕食は用意されているので帰りますわ。ではごきげんよう」
ふんっ、と鼻息を荒くしてそう言うと、彼女は足早に去って行った。
一人残された黒髪の少年はあまりの痛みに腹を押さえながら、道に転がってのた打ち回る。ものの見事に鳩尾にクリーンヒットした為回復には時間を要するだろう。加えて同じく“学生坂”を歩く人達から奇異の視線を送られ、内にも外にもダメージを負ってしまった彼は思った。
「俺、今日は厄日なのかな。・・・・・・ぐすっ」
何だか泣けてきたアルフレッドであった。
*
激痛から何とか立ち上がり、アルフレッドはとぼとぼと“学生坂”の麓に最近オープンした超人気バイキングを目指していた。歩ける程までは回復したものの、まだ鳩尾の辺りがズキズキと痛む。
「あの女ぁ、覚えてろよちくしょう。絶対にいつかぎゃふんと言わせてもう皮肉の一つも言えなくしてやる・・・・・・」
まだ痛む腹を優しく優しく赤ん坊の頭を撫でるくらいそーっとさすりながら、この場にはいない金髪暴力冷血お譲様に恨み辛みの言葉を吐くが、当然そんなことは実現できない事は百も承知である。何だか、本人が居ない所で口だけ達者にものを言う自分を冷静に考えると、物凄く虚しくなってきた。
「もう、なんかいいや。とりあえず腹いっぱい飯食ってさっさと帰ろう」
色々とあのお譲様に不満はあるが、もうアルフレッドの気力ゲージはほぼゼロだ。
今日一日でエネルギーを使いすぎた。大げさに言えば一週間分くらいの活動力を、この日に起きた様々な出来事に使い切ってしまった気がする。朝っぱらから人助けをしてボロボロになったり、夏休みだというのに補修に行かされ、また人助けで不良と喧嘩(何度も言うが見ていただけ)したり、金髪お嬢様に訳も分からずキレられて氷の棒で物凄い突きを鳩尾に食らったり、といった彼の許容量を遥かに超えるアクシデントの数々を思い出すだけでどっと疲れが倍増する気分だ。とにかく今は食欲を満たし、寮に帰ってシャワーで汗を洗い流してそのままベッドにダイブしたい。
そんな事を考えながら、まだ行った事のないバイキングを友人から聞いた情報を思い出して向かうアルフレッドの耳に、ふと妙な音が飛び込んできた。
それはガサガサ、という微かな音だ。
アルフレッドが嫌な予感を感じながらも音の出所を探すと、どうやら“学生坂”にある数多くの路地裏の一つから聞こえているのが分かった。
「・・・・・・またイベント発生かよ。いい加減にしてくれぇ」
とか何とか、泣きごとを言いつつもその路地裏から聞こえる音を無視する、という選択肢を選ばないあたり、彼はどうしようもなく正義感の強い少年なのであった。
音のする路地裏に入ると、そこには深い闇が広がっていた。
もう空は夕焼け空ではなく、太陽と入れ替わりでやってきた月が支配する夜空なのだ。建物と建物の間にできた疑似的な闇が、その深さをより一層沈ませるのは当然だろう。
今もまだ、ガサガサと奇妙な音が続いている路地裏の中、アルフレッドは恐る恐ると一歩を重ねていく。その彼の脳裏にふと、夕方にエメリルファと話した他愛ない世間話の一つが思い起こされる。最近エストラシルで起きている連続通り魔事件。まったく何も事件について考えていなかったアルフレッドに金髪の少女は事件に対する自身の意見を聞かせてくれた。それは事件が『魔術信仰』を崇拝する信者の何らかの魔術実験ではないか、という意見だった。
その事を思い出して、アルフレッドはごくりと唾を飲み込む。
(・・・・・・何かマジで通り魔だったらどうしよう)
本当に音を立てる正体が通り魔だった場合、自分はどうすればいい、どう対応するのがベストなのか、などと最悪の展開を想定して自然と緊張感が高まっていく。もし相手が通り魔だとしたら学生であるアルフレッドにどうにかできるレベルを超えている。果たして自分に何ができるだろうか。
と、色々考えていた彼の視界に、音を立てる張本人であろう人影の姿がようやく映る。
そこにはゴミ置き場があった。おそらく裏路地を作る建物と建物の片方は飲食店なのだろう。わずかに生臭い匂いが漂っている事を考えるに、残飯が捨ててある事が分かる。
問題の人影は、そのゴミ置き場でガサガサと音を立てて何かをしている。何をしているのか詳しくは路地裏が暗過ぎて見えない。
(ホントに通り魔・・・・・・なのか?)
アルフレッドはどうするべきか逡巡したが、やがて意を決して、
「・・・おい、そこで何やってんだ?」
アルフレッドが声をかけると、怪しい人影は彼の存在にまったく気づいていなかったのか、ビクッと盛大に驚いた様子だった。あまりに驚きすぎてその人影は体勢を崩して、きゃっ、という可愛らしい悲鳴を上げてそのまま仰向けに倒れ込む。
暗闇で見えにくいが、人影はローブを身に纏い、全身を覆い隠していた。おまけにフードまで被って完全に全身を隠していたようだが、倒れた拍子にフードが脱げて怪しい人影の顔が露わになる。しかし、辺りは夜の暗さと路地裏の暗さが相乗された事により、視界が良好とは言えない。折角曝け出された不審者の顔がはっきりと見えない。だが、先程の可愛らしい悲鳴となんとか見える長い髪の毛から察するに女の子だろうとアルフレッドは推理した。体型から察するに、年は10歳前後といったところだろうか。
まさかこんな幼い少女が通り魔な訳がないとホッとしたアルフレッドだったが、すぐに思い直す。この街では早い者で生まれた時から魔術が使える人間もいるのだ。この幼い少女が『魔術信仰』を崇拝し、魔道の探求に犠牲を問わない過激派である可能性は十分にあり得る。そして、探求の末に通り魔と呼ばれることになった可能性も・・・・・・。
アルフレッドが憶測ばかりに頭を働かせていると、仰向けに倒れていた怪しげな少女は脱げたフードを慌てて被り直して立ち上がると、アルフレッドの方に身体を向ける。
「い、いきなり声かけないで! びっくりして転んじゃった。・・・・・・というかあなたは誰なの? こんな所で何してるの?」
怪しげな少女はアルフレッドの問い掛けなどまったく無視して、非難の声を浴びせてくる。しかも質問を最初にしたのはアルフレッドの筈なのに逆に質問を投げかけてきた。
何だかさっきまで築き上げてきた緊張感が一気に崩れ落ちていくの内心で感じるアルフレッド。彼は拍子抜け、と言うより呆れた様な顔で、
「誰でも良いだろ別に。てか俺の質問をそのまま返してきてんじゃねーよ。何してるのか聞いたのは俺のが方が先だぞ」
「何って、見て分からないの? 今日の夜ごはん何にしよーかなーって探してるの」
あまりに予想外な相手の回答に一瞬戸惑う黒髪短髪の少年。
「夜飯って・・・・・・それ全部ゴミに見えるんだけど」
「何言っちゃってるの! ここにはまだまだ食べれる物が沢山あるよ。それを食べずに置いとくなんて食の神様から天罰を受けても知らないよ!」
両腕をブンブン振りながら力説する少女に、アルフレッドはつい押し黙ってしまう。
要約すると、この謎の幼女はゴミ置き場に捨てられた生臭い残飯の山を夕食の山だ、とぬかしている訳だ。・・・・・・意図せず口から溜息が吐かれる程、この全身ローブで身を隠す不審幼女の言葉は呆れるものだった。通り魔や魔術信仰がどうとか真剣に考えていた自分がアホらしく思えてきたアルフレッド。
そんな彼を置いて、怪しげな少女は再びゴミの山(少女いわく夕食)を漁り始める。
「おいおい待ったちょっと待った!腹が減ってるのか? だったらさっさと家に帰ってママにでも夜飯作ってもらえ。こんなばっちぃことするなよ」
目の前でまたガサガサとゴミを漁る少女に、見かねたアルフレッドはそう言った。
すると、急にピタリとローブ姿の幼女のゴミを漁る手が止まる。俺の言う事聞いてくれたのか、と安易に考えていたアルフレッドだったが、少女の様子がおかしい事に気付く。
「・・・・・・・・・・・・いない・・・・・・」
「え?」
「・・・・・・ママはもういないもん・・・・・・」
消え入る様な、絞り出す様な小さな声で紡がれたその言葉をきっかけに、少女は嗚咽を漏らしながら泣き始めた。暗くて見えないが多分瞳からボロボロと涙が出ている事だろう。
アルフレッドはあまりに突然の事態に、え、何これ俺のせいなのか!? と内心で疑問に思いながらも慌てふためく。
「わぁごめん! 何だかわからんが俺が悪かった許して!」
必死になだめようと謝るアルフレッドだが、少女は泣きやんでくれる気配はなく、今も嗚咽と共に涙を流している。
どうすればこの少女が泣きやんでくれるのか、と足りない頭をフル回転させて考えるアルフレッドが咄嗟に浮かんだ方法は、
「お、お前腹が減ってるんだろ? 良かったら奢ってやろうか? ちょうど俺最近できたバイキングに行こうとしてたんだよ。そこなら食べ放題だから腹いっぱい飯が食えるぞぉ。だ、だから泣き止んでくれよ、な?お願い!」
咄嗟に浮かんだ作戦が食べ物で機嫌を取る、なんていうのは我ながらゲスな作戦だと思い自己嫌悪しかけていたアルフレッドだったが、意外にも効果はあったようだ。
それまで聞こえていた嗚咽が不意に止まる。
「・・・・・・ほんと?」
「ああホントもホントちょーホントだって!だから泣くなよていうか泣きやんでくださいお願いします!」
夜の路地裏に、男子高校生と泣きじゃくる幼い少女。誰かに見られでもしたら通報されても文句は言えない絵面である。
自分の輝く(かもしれない)未来の為に、何としてもこの幼女には泣き止んでもらわなければならないというアルフレッドの切実な願いが届いたのか、少女は鼻をすすり、目をゴシゴシと擦りながら泣きやんでくれた。
牢獄行きの未来から何とか逃れたアルフレッドは、安心しすぎて腰が抜けるかと思っていた。
「・・・・・・ごめんなさい、いきなり泣いちゃって」
「ま、まー別に良いってことよ気にするな」
何ともない風に装いながらも、アルフレッドは心の中では物凄く安堵していた。
彼が変態ロリコン犯罪者の烙印を押されなかったことに、こっそり胸を撫で下ろしていると、フードで身を覆う幼女はいつの間にかアルフレッドの目の前まで来ていた。
そして高らかに一言、
「さあ行こ! そのバイキングとやらに!!」
フードで顔を隠している為表情は見えない筈なのに、何故だかアルフレッドはこの少女が目を輝かせているのだろうと断言できた。少女の声はさっきまで泣きじゃくっていた人間とは思えない程打って変わって陽気なものになっている。まったく切り替えの早い奴である、と思うと同時に、てかもしかしてさっきのはまさか演技か、と動揺するアルフレッドだが、一度行くと言ったものは仕方がない。この世界には男に二言はない、という万国共通の紳士ルールが存在するのだ。それに何より、やっぱり連れて行かないとか言うとまた泣きだすかもしれない。
そんなこんなで釈然としないものを感じながらも、アルフレッドは謎の幼女を連れて近頃話題の美味しいバイキングへと向かう事にした。
通り魔や魔術信仰といった面倒なことにならなくて良かったとホッとしていた黒髪の少年は知る由もなかった。この謎の少女との出会いが更なる面倒なイベントのスタートだと言う事を・・・。
*
謎の幼女を連れてアルフレッドが辿り着いたのは、最近できたとは思えない歴史を感じる古風な建物であった。外装は鉄やアスファルトではなく、石材や煉瓦といった味のある素材を用いて作られているそれは、近代化が遅れながらも進んでいるこの街にとって、その建物は昔からそこに建っていましたと思わせるくらい古びた外観を成していた。大方、エストラシルの御老体達から反感を買わない為の策なのだろう。実際、老若男女を問わず人気があるのだから効果は覿面だったようだ。ともあれ煌びやかでもっと現代風の建物を想像していたアルフレッドは期待はずれな気分になってしまっていた。しかし、店の外観はともかく、味は確かな筈なのは情報として入手済みだ。そちらは期待しても問題ないだろう。
さっきから隣でおぉーっ、と目を輝かせて歓声を上げる少女を横眼で見る。
「お前もこのバイキングくるの初めてか?」
「うん。ていうかお店でご飯を食べるのが初めて!」
「え、そうなのか」
店に来る途中、この少女にバイキングとは何かと聞かれた時は単に言葉を知らないだけと思っていたのだが、まさか外食が初めてとは思っていなかった。
その事実に軽く驚くアルフレッドなどいざ知らず、全身ローブ姿の少女は小走りでバイキングの扉前まで駆けていく。先を行く少女に早く早く、と急かされてアルフレッドもまたバイキングの入り口まで歩き出す。ふと見上げた所にはこの店の看板が取り付けられており、夜の街でも目立つようにネオンの電飾で『OVEREATING“暴食”』と書かれていた。
「うおおお、凄いなこりゃ。めちゃくちゃ広いじゃん」
「広い! 広いよ! 広すぎるよ!」
店内に足を踏み入れた二人の目に映るのは、それはもうとても広い空間だった。外から外観を見た時も広そうだなぁとは思っていたが、実際中に入ってみると想像以上の規模であったことが覗える。内装は外観を裏切らず、同じく石と煉瓦でできた中世ヨーロッパの建築様式を連想させる洋風かつ古風なものだった。立ち並ぶテーブルと椅子、その他様々な店内のオブジェから溢れ出る気品を前にアルフレッドは素直に感動していた。
と、二人が初めて遊園地に来た子供の様に感動していると、ウエイトレスさんがやってきて適当な席へと案内してくれた。店内を歩きながら周りを見渡すと、多くの客がワイワイガヤガヤと夕食を楽しんでいた。座席はやはり大人数で来るお客を狙ってか、4人掛けのテーブルがほとんどだったのだが、2人掛けのテーブルもあるらしくアルフレッド達はそちらへと案内された。そして、二人が席に着いた所でウエイトレスさんが当店は初めてか、と質問をしてきた。頷くとウエイトレスさんがこのバイキングのシステムを簡単に説明してくれた。どうやらまずお好みのコースを選び、その選択したコースの中で決められた料理のみを取ってくる事が出来るらしい。
「よし、じゃーこの一番安いコースで――」
「このコースが良い!」
アルフレッドがウエイトレスさんに一番安い“控えめコース”を注文しようと発した言葉を、店の中でもフードを眼深に被る少女が遮る。メニューを広げてこれこれ!これが良い、と言いながら少女が指さすコースに目をやって、アルフレッドは思わず絶句する。そこには“がっつりコース”と書かれており、一番安い“控えめコース”よりも1000円も高い値段が表記されていた。
「ば、馬鹿野郎! そんなのにしたら俺のお財布が極寒の地に立つが如く寂しい中身になってしまうだろ! 大人しく庶民の俺たちはこの“控えめコース”に」
「これが良いの!」
「人の話聞けよ!」
アルフレッドが切実に自分のお財布事情を語って聞かせたが、少女は聞く耳も持たずにさっきから“がっつりコース”をビシビシ指さして要求している。どうやらこの少女は“がっつりコース”に含まれるフルーティパフェとかいう果物が沢山載ったデザートを食べたいそうなのだがそんなことは知った事ではない。このままでは少ないお小遣いは目の前に居る贅沢幼女によって絞り取られ、折角の夏休みをほぼお小遣い無しという状況で生きていかなければならない。そんなチャレンジ生活はまっぴらごめんである。
すると、お財布の危機に頭を悩ますアルフレッドに追い打ちをかけるようにウエイトレスさんが申し出る。
「コースはバラバラで選ぶ事はできないので同じものにして頂きます。なので“がっつりコース”をお選びになるのでしたらお二人で3798円になりますが如何なさいます?」
「なっ、3798円!?」
財布の中身を一掃するその金額に、貧乏学生であるアルフレッドは驚愕の声を上げる。
ゆっくりと財布を取り出して日本の偉人(アルフレッドは名前を忘れた)が描かれた一枚1000円の価値を持つ紙幣の枚数を数える。何度数えても四枚しかない。
「だーめーだ! “控えめコース”しか俺は認めん。てか奢ってもらうくせに贅沢言ってんな!」
「やだやだこれが良い!」
バンバンとテーブルを叩きながら喚き散らす少女に、アルフレッドの額に青筋が浮かぶ。
とそこで、怒りに震えるアルフレッドはふと周囲の状況に気付いた。見ると、傍で注文を待ち続けるウエイトレスさんの爽やかな営業スマイルが明らかな苦笑いに変わっており、周りにいる他の客達からは『何の騒ぎだ』『やかましいなぁ』と多くの視線を集めている。
(・・・・・・こんのくそがきぃ・・・・・・っ!)
周囲の注目に恥ずかしくなってか、それとも単に怒りのせいか、アルフレッドの顔が赤くなっていく。そして、ついにそんな状況に耐えきれなくなった彼は、
「・・・・・・すいません“がっつりコース”を二人でお願いします」
四人の偉人が収められた財布を固く握り、瞳から悲しみの涙を流してそう言った。
“がっつりコース”を選んだアルフレッドとローブ姿の少女は、料理を取ってくる為に店内を歩いていた。二人の手には透明なプラスチック素材のカードが握られていた。そのプラスチック製のカードには彼らが座ったテーブルの番号と、注文したコース名が書かれている。
「これを使って料理コーナーに入る、とか言ってたな」
数秒前に聞いたウエイトレスの説明を思い出す。なんでもコースごとで入れるエリアが決まっているらしく、この渡されたカードを専用の読み取り機にかざして初めて料理を取りに行く事が出来るそうだ。そうこうしている内に、“がっつりコース”のコーナーと、カードを読み取る為の機械と思しきものが見えてきた。
「これを、こうするのか?」
見たことも無い機械に戸惑いながらも、適当に手に持ったプラスチック製のカードを
かざしてみる。するとピピー、という機械音が鳴り渡る。
「へぇ、すげーな」
未知の技術にアルフレッドは感嘆の息を漏らす。外装と内装は古びているが、近代化による最新技術をしっかり取り入れているあたり、やはりこの店は『最近できた』店ということなのだろう。これも日本から教えてもらった技術の一つだろうか、と考えながらもアルフレッドは空腹をいち早く満たすべく、どれを見ても美味しそうな料理の山から一つ、また一つと厳選し、入り口で手にしたトレイへと乗せていく。一しきり料理を選んだ所で自分達のテーブルへと戻る。いつの間に戻ったのかそこにはすでに料理を持ってきていたローブ姿の少女が、フォークとナイフを握ってよだれを垂らしながらアルフレッドを待っていた。
「なんだ、別に待ってなくてもさっさと食ってて良かったのに」
「駄目だよ。頂きますはちゃんと一緒にしないと駄目なんだよ?」
「ま、まあそうだな」
奢ってもらう分際で“がっつりコース”をねだる図々しい少女だと思っていたが、どうも変なところで礼儀正しい性格なようだ。その礼儀正しさを何故俺のお財布状況に向けてくれなかったのだ、と嘆くアルフレッドに構うことなく、少女は両手を合わせて、
「いっただっきまーす!」
「・・・・・・いただきます」
世界で共通の食への感謝の言葉を口にして、二人は持ってきた料理を食べ始める。
朝食を食べず、昼食も満足に食べた気にならず、おまけにこの店に来るまでに様々な体力消耗イベントを乗り越えてきたアルフレッドの腹は極限まで減っていた。持ってきたカルボナーラとステーキをガツガツと頬張ると、噂通りの美味が口の中に広がる。
「うめぇ! 何これホントに食べ放題の味なのか!?」
食べ放題のバイキングなどは味はそこそこで量で攻めるもの、と勝手な偏見を抱いていたアルフレッドだったが、その考えは改めなければと思うほどこの店の味は大したものだった。期待以上の料理の味に満足していたアルフレッドは、不意に目の前で同じく感動に浸っている少女の方へ視線を移す。
「そういやお前、名前なんていうの?」
「人に名前を聞くときはまず自分から名乗るもんだよ。常識だよ?」
(こ、このガキ生意気過ぎる・・・・・・っ!)
物知り顔でそう言った少女の言葉に、アルフレッドは微かなイラつきを覚える。が、ここは冷静にと自分に言い聞かせる。確かに生意気な発言だがよくよく考えてみればこの少女の言う事にも一理ある。というか冷静に考えるとホントに常識なんじゃなかろうか。
落ち着いて考えて墓穴を掘り、本当に常識がなかった自分に嫌悪する黒髪の少年。こんな得体の知れない幼女に常識を説かれたのは癪だが、自身の名をアルフレッドは口にする。
「・・・・・・アルフレッド=グレイスだ。で、何ですかあなた様のお名前は?」
「リタの名前はリタ! よろしくね」
リタと名乗った全身ローブの謎幼女はぺこりと一礼すると、再び料理にがっつき始める。危なっかしい手つきで手に持つナイフとフォークを使いながら、ハンバーグステーキを切り分けるこの少女も相当腹が減っていたのか、一心不乱にバクバクと肉を喰らうその姿はまるで小さな野獣のようだ。
「にしてもマジで上手いなこの店。こんな上手いもん食べ放題にしちゃっていいのか」
あまりの美味しさに食べ放題のバイキングというこの店のスタイルに、何故だか申し訳ない気持ちになってしまう。
「おいしー! 美味しすぎ! ありがとうこんな美味しいお料理を御馳走してくれて!」
「そりゃ良かったよ。おかげで俺はもう今月は上手いもんの一つも食えませんよーだ。はぁ、さながらこれは最期の晩餐といったとこですかぁ。・・・・・・とほほ」
心の中で涙を流して、アルフレッドはしっかりと最期の晩餐を噛みしめる。
「それに」
バクバクとハンバーグステーキを食べていた少女の手が止まる。その様子に、アルフレッドもまた食事の手を止めて彼女の言葉を待った。食事所だというのに薄汚れたローブを脱がず、あまつさえフードで顔を隠している少女の表情を見ることはできない。
だが、
「誰かと一緒に食べるご飯はやっぱりおいしいね」
そう言った目の前の少女は笑っているのだ、とアルフレッドは思った。
そして思い出す。この少女、リタが路地裏に設置されたゴミ捨て場で“夕食探し”と称したゴミ漁りをしていた事を。いったいこの10歳前後であろう少女はどんな生活を送っているのか。つい数十分前の会話が脳裏を過る。そういえばママ――母親がいないとかどうとか言っていたような・・・・・・。
「そういやさ、お前の家この辺なの? 飯食い終わったら送ってくよ。さすがに幼女を夜中に一人で歩かせるのは危険だしな。それに最近この辺りは物騒な事件が起きてるし」
近頃話題の通り魔事件の被害者達に共通点はないというのが警察が公言する見解だ。ということは狙われているのは無作為なのだからこの幼女が次の被害者にならないとは限らない。それに、母親が居なくとも父親はいるのではないだろうか。ならばこんな時間まで帰ってこない娘を心配している筈である。きちんとこの少女を送り届けて、事情を説明して安心してもらわねばならない。それから『お宅のお譲さんに値段の高いコースをしつこくせがまれましたよ』とそれとなく抗議をしてあわよくばお金が戻ってくる、なんていう展開を想像してみる。
アルフレッドがそんなせこい作戦を考えている間、向かいに座る少女はずっと沈黙していた。
やがて、アルフレッドの問いに対する答えを考える為なのか分からないが、俯いて口を閉ざしていた少女は不意に言葉を発した。
「・・・・・・ない・・・・・・」
「え?」
「帰るところは・・・・・・ないの」
一瞬、少女が何を言ったのか分からなかった。
「帰る所がないってどういう」
意味だ、と聞き返そうとして直前に言葉を呑みこむ。
気付いたからだ。彼女が路地裏で汚い生ごみの山を漁っていた事と、先程の言葉の意味が繋がったという事実に。
少女は食事の手を止めて俯き続けている。
よくよく考えてみればこんな10歳前後にしか見えない少女が路地裏で食べ物を探しているなどただ事ではない。何か重大な理由があるに決まっている。家出か、それ以上の理由があるかはアルフレッドの知る所ではないがそれでも、この少女は今晩帰る家が無いと言っているのだ。それを知ってしまったとあっては見過ごすアルフレッドではない。
どうしたものかと頭を悩ますアルフレッドは、
「・・・・・・ならお前、俺の部屋に来るか? うちは男子寮で女子禁制だけどまぁこんな幼女だったらバレても親戚ですって言えば許されるだろ」
「・・・・・・・・・・・・もしかして犯罪者なの?」
「ちっげえええよ!! 何だよ! 心配して言ってやってるのに、人の親切心を何だと思っていやがる!!」
サッと身の危険を感じて身体を逸らす少女に、アルフレッドは全力で否定する。
しかし、言われてみれば幼い少女を男の部屋に連れ込む、というのは世間的にはどうなのだろうか。てか犯罪じゃないのだろうか、と黒髪の少年は口では反論するがこれから自分は本当に犯罪の一歩を踏み出そうとしているのではないか不安になってきていた。
だらだらと嫌な汗を流しながら自らの発言を悔やむアルフレッド。
すると、少女は少しの間考えてから、
「・・・・・・良いの? 泊まっても」
「むしろ俺が聞きたい。俺は犯罪者じゃないから無理にとは言わないぞ。・・・でもまぁ、お前が良いって言ってくれた方が俺は安心するけどな」
本心で彼は言った。このまま帰る所が無いと言う少女を放っておくよりは、幼女を部屋に連れ込む、という犯罪者の誤解を受けた方がまだマシである。
アルフレッドのその言葉に、ローブを着こんだ少女リタは言いにくそうに、恥ずかしそうに身をよじりながら、自分の意思を口にした。
「だったら、その・・・・・・と、泊めてもらっていい?」
「お、おう」
何故かぎこちない返事になってしまったアルフレッドだが、少女が提案に乗ってくれた事に心底安堵していた。断られた時の次の提案を考えていなかったからだ。
少女――リタは急に止めていた手を動かしだす。ナイフとフォークで織りなされる拙い乱舞によって肉が切り分けられ、口に放り込まれる。その様子はさっきまでのしょんぼりとした調子ではなく、出会った頃の無駄な元気さで満ちていた。
「そうと決まったらいっぱい食べなきゃ! モグモグ、んーおいしぃー!!」
「そ、そうだな。よし俺も食うぞ! 折角なけなしの金を出し切ったんだ、ここで満足しなきゃ俺の財布が報われねぇ!」
言うが早いか、アルフレッドもまた、リタに負けず劣らずの勢いで料理に食らいつくのを再開した。そして、あっという間に持ってきた料理をたいらげた二人は席を立つ。
2時間の食べ放題はまだ始まったばかりである。少女にとっては初めての外食を、少年にとってはこの夏休み最後の晩餐を余すところなく堪能する為、彼らは新たな美味たる料理を求めて店内を歩きだした。
*
アルフレッドとリタは長いとも短いとも言えない坂、通称“学生坂”を歩いていた。
「ぷふー、お腹いっぱいだよぉ。もうなんにも食べれないー」
と、薄汚いローブを着た少女は御満悦といった様子でお腹をさすっている。対するアルフレッドはというと、バイキングの食べ放題時間を終えてお会計を迎え、その際にほぼ全財産を失った現実にすすり泣きをしていた。残り金額500円にも満たない財布の中を見てしまったあのレジ店員の同情の瞳は忘れられない。
「うっ、うぅ・・・・・・。これからいったいどういう夏休みを送れっていうんだ俺に」
「そんなに落ちこまないで! 美味しいもの食べた時は笑ってなきゃ駄目だよ!」
「お、お前がそれを言いやがるんですか」
少女の屈託の無い気遣い(本人はそう思っている)の言葉にアルフレッドは呆れてしまった。この少女は奢ってもらったという自覚が無いのではなかろうか、と更に呆れてしまいそうになりながらアルフレッドが考えていると、いつの間にか彼が住む学生寮が既に視界に入ってきていた。
彼が住む学生寮はアスガルド学院の正門から延びる“学生坂”を一番下まで下った所に建てられている。寮から学校までは2,3キロ、歩いて30分程かかる距離に位置するこの学生寮、外見はやはりこの街の古い建物同様ヨーロッパ風の建築様式をした中々に豪奢な洋館だ。気品が漂う装飾とその大きさは、まるで上流階級の貴族様の御屋敷のようだ。
そんな立派な貴族風学生寮に到着したアルフレッド達は、開け放たれたこれまた寮の外観に見合った派手な装飾の門を開けて、中庭へと足を踏み入れる。庭も綺麗に整理されており、寮が雇っているであろう庭師の技術力の高さが見て取れる。
「うわーすごーい! もしかしてあなたお坊ちゃんなの?」
「いや違うぞ。前はここも普通のこじんまりとした寮だったんだけど、2か月前くらいに新しく来たここの寮監の趣味でこんな風になっちまった。ったく貴族の御屋敷かよって思うだろ」
豪奢な外観のみならず、寮監の趣味は寮生一人ひとりの部屋まで行き渡り、寮の外観と同じ貴族主義みたいな装飾にされた為しばらくは落ち着かなかったものである。しかし、この高級感を撒き散らす外観の寮に出入りをすることで、御近所の方々や通りすがる人々にお金持ちのエリート御曹司、だと思われたりする事は悪い気はしない。現実は夏休みだというのについ先ほどほぼ全財産を失った貧乏学生で、魔術を使う事もできなければ学業の成績も芳しくない劣等生なのだが。
バイキングに行った時みたく、“寮”という自分にとって珍しい物に興奮しているリタはうろちょろして感動しまくっている。
そんな少女を置いて、アルフレッドはさっさと寮の玄関扉を開けて中に入って行く。その様子に気付いたリタは、後ろから待って待って!、と大声を出しながら走ってきた。
「ば、馬鹿! 大声出すな! バレたらどうすんだ」
と慌てて辺りをキョロキョロするアルフレッドの声も相当大きかったのだが、幸いにも近くに人はいないようだ。彼はそっと息を吐いて、後ろにいる少女に静かにするように促した。
寮の玄関扉を抜けると、そこにあるのはエントランスホールのような開けた空間だ。天井の一部はガラス張りになっている為、今は電気が付いているが消灯時間にはガラス張りの天井から月明かりが差し込みエントランスを照らしてくれる。そしてホールの中央には二階へと続く大きな階段がある。そこから更に階段は二つに分かれ、寮の左側と右側に行ける様な作りになっている。
アルフレッドは慣れた足取りで左側に行く階段を上る。その間、さっき静かにしろと言ったばかりにも関わらず、寮内の様々な装飾品やオブジェに歓声を上げる少女にでこピンを喰らわせて黙らせる。
寮の左側へと通ずる階段を上り切り、そのまま一直線に続く廊下を歩いて行く。一番奥にある201号室がアルフレッドの部屋だ。
部屋の前に辿り着きようやく帰ってきた、と肩の力がどっと抜ける思いに陥ったまま、アルフレッドはポケットから部屋のカギを取り出し、鍵穴に差し込む。
「わぁーっ! なんか変な絵が飾ってある!」
部屋の中に入って早々、壁に掛けられたとある肖像画を指さしてリタが驚きの声をあげた。リタが指さすその肖像画には一人の男性が描かれていた。その描かれた男性は口紅でも塗っているのか真っ赤な唇に、化粧でもしているのか頬がほんのり赤くなっている。ここまでの外見なら女性に見えなくもないが、綺麗に整えられた顎鬚が男性であるとういことを主張している。
誰この変なひと?、と不思議そうに首を傾げて聞いてくる少女の口を、アルフレッドは全力の早さで両手を使って覆い隠す。
「や、やめろ! 悪口を言うな聞かれたらどうする! ・・・・・・その人がウチの寮監様だ。まったく勘弁して欲しいぜ。この部屋だけじゃなくて全部の部屋に飾ってあるからな、それ」
部屋が無駄に豪華な装飾になったのも落ち着かなかったが、何よりもこの絵が一番落ち着かない。2か月たった今でも夜中なんかは目が合ってしまって鳥肌が立ったりもする。何より監視されているようで気味が悪い。できればこんな悪趣味装飾絵なんか捨ててしまいたいのだが、ある生徒が夜中にその絵と目が合って半狂乱になりビリビリに引き裂いて処分したということがあった。そして何故かその事実は寮監に知られてしまい、その生徒は後日呼び出しをくらって何らかの“お仕置き”を受けたらしいのだが、それを境にその生徒は人が変わった様な糞真面目な優等生になってしまったのだ。それはいいことなのだがそれを知った他の寮生一同は肖像画を捨てるという選択肢を取る事はなくなった。
ちなみに“お仕置き”を受けた生徒の部屋には再び肖像画が壁にかけられている。
「なんだか大変そうだね・・・・・・かわいそう」
「こんな幼女に同情されたくねぇよ」
なんか憐みの瞳(フードで目は見えないけどなんとなく)を向けてくる幼女を無視してアルフレッドはソファへとどすっと腰を下ろす。今日は本当に疲れた。数週間の内に起こりえるイベントを一日に詰め込んだみたいな一日だった。あまりに疲れすぎていた為、アルフレッドはそのまま寝ていきそうにぐったりとソファに背を預ける。
だがそこで、薄汚れたローブを着たままの少女がベッドに飛び乗ってピョンピョン跳ねている光景が視界に映り、思わずソファから飛び上がる。
「おいやめろバカ! お前そのローブ絶対汚ぇだろ。ゴミとか漁ってたし!」
「むー、レディに汚いとか失礼だよ! ひどいよ!」
「知るか! どこの世界にゴミ漁りするレディがいんだよ!」
ほっぺたを膨らまして未だにベッドから降りようとしない幼女に、アルフレッドは強硬手段に出た。両腕をはがいじめにする形で、暴れまわる少女を無理やりベッドから引きずりおろす。強引に楽しみを奪われた少女は、レディに手を上げるなんてこの野蛮人!と何やら文句を垂れているがそんなものは無視無視。
疲れきっているのにまた無駄な労力を使ってしまったと嘆息しながら、アルフレッドはそこそこ豪奢な革製のソファに再び腰を下ろす。
「とりあえずお前風呂入ってこいよ。身体を綺麗に洗って、そんでもってその汚いローブを脱いだらベッドに乗ってもいいぞ」
「・・・・・・やだ。このローブは脱ぎたくないもん。それに、あなたは変態さんかもしれないからお風呂は覗かれそう」
「覗くか! だから何ですぐ犯罪者呼ばわりすんだお前は」
またもや変態犯罪者扱いされてアルフレッドは反論する。
それから少女は少し考えて、
「ならリタがお風呂に入ってる間にローブ洗ってよ。あとこの毛布貸して」
そう言って少女はベッドの上にあった薄い毛布を掴みとる。
「洗ってってお前なぁ」
何でそんなめんどくさい事をやらんといかんのだ、と言いそうになったがアルフレッドは口を閉じた。反論してこれ以上ギャーギャーと騒がれるのも面倒だ。
わかったわかった、とアルフレッドは片手をひらひらさせてさっさと風呂に行くように促す。それに応じて、少女は部屋の扉のすぐ隣に位置するバスルームの方へそそくさと向かうが、ふと脱衣場兼バスルームのある扉の前で立ち止まってこちらを振りかえる。
「絶対に、ぜーったいに覗いちゃダメだよ!」
「誰が見るかよ幼女の裸なんざ。俺にその気はねえから安心しろ」
「ホントのホントのぜーったいに見ちゃ――――」
「いいから入れ!」
あまりにしつこく釘を刺してくる少女にイラっときて大声を出すアルフレッド。リタはまだ納得しきれていないようだったが、やがて渋々といった感じでバスルームの中へ入って行った。その様子を見届けた黒髪の少年はソファに預けていた背を倒して寝そべる姿勢へと変える。
「あー落ち着くー。このまま寝ていけそうだ」
横になるだけで全身の疲労が癒されていく様な心地よい錯覚を覚えて、アルフレッドの瞼は自然と重たくなる。ゆっくりと意識が薄らいでいき、完全に眠りモードに入ってしまっていたアルフレッドだったが、そう簡単に安らぎを手に入れる事は出来なかった。
突然、バスルームの方から甲高い悲鳴が聞こえてきたのだ。
その悲鳴で強制的に意識を覚醒させられたアルフレッドは、その顔に明らかな不機嫌さを表していた。声の主が誰か解る分、不機嫌さは更に増していく。
(何やってるんだよあいつ・・・・・・)
心地よい気分を妨害されたアルフレッドは嫌々といった感じで立ち上がると、何事が起きたのかと確かめるべく、ユニットバスへ通ずる扉を開ける。扉の先には決して狭くない脱衣場があった。脱衣所に置いてある脱いだ衣服を入れておく籠の中には、出会った時から少女が着ていた薄汚れたローブと、その下に着ていたと思われる黒いワンピース(更にくしゃくしゃに放りこまれたワンピースの隙間から子供向けの毛糸のパンツがチラリと見えたがそれは気に留めない)が入れてあった。
そしてその先、バスルームの中では湯気が立ちこめていて、更には曇りガラスの引き戸ということもあってシルエットしか見えないが、小柄な体躯が端っこの方で身を縮こめているのが見て取れた。
「おーいどしたー? 何かあったのか?」
「ちょ、あ、ダメ!来ちゃだ・・・・・・あでも助けてほしっ、でもでもでも・・・あ、動いきゃあああああああああああああっ!!!」
「・・・・・・・・・・・・」
黒髪の少年は迷った。何やら少女にとって緊急事態が起きているであろうバスルーム中に突入するか否か。絶対に入るな、と何度も釘を刺されている訳だが、バスルームからは未だに少女の怯える悲鳴が続いている。
「・・・・・・・・・・・・ふむ」
どうするべきか熟考したアルフレッドは、そっと曇りガラスの引き戸に手をかけた。幼女の裸を見ることはまったくもって興味はないがこうなっては仕方がない。こうもキャーキャーと叫ばれては隣の部屋に居るかもしれない他の寮生にリタの存在を知られることになるだろう。そうなってはアルフレッドが『夜な夜な幼女を連れ込んだ変態』という称号が欲しくも無いのに与えられてしまう。そう、これは彼の今後の学校生活を左右する一大事なのだ。
(許せ、これも俺の華々しい学校生活を守るためだ)
心の中で少女に謝罪して、アルフレッドは引き戸にかけた手に力を込める。そしてそのまま何の躊躇いもなく、引き戸を力いっぱいに開け放った。
その時の彼は知る由もなかった。
少女が――リタが、ただ単に女の子として裸が見られたくなかったから、絶対に風呂場を覗くなと念を押していたというわけではない事を。
何故ずっと、バイキングで夕食を食べている時もアルフレッドの寮に入ってからもずっと、ローブで全身を覆い、更にはフードを眼深に被って顔を隠していたのかという事を。
黒髪の少年は今、この瞬間まで気づける筈もなかった。
*
曇りガラスの引き戸を開けて、アルフレッドの視界に飛び込んできたのは、肌色だ。
そこには確かに、10歳前後のまだ色んなところが成長していない貧相な女の子の裸があった。曲がりなりにも女子の裸である。興味はないが一瞬顔が熱を帯びたように赤くなってしまうアルフレッド。しかし、こんな幼女体型を見て恥ずかしがるのは癪だと思い、すぐに冷静さを取り戻す。
裸の幼女リタは、突然バスルームに入ってきた侵入者に最初はポカンとしていたが、やがて状況を理解していき、その小さな顔を果実の様に真っ赤に染めて、今まで上げていた悲鳴よりも更に一際大きな悲鳴を上げながらその場にうずくまる。
今までフードに隠されて見えなかった少女の顔を見る。10歳相応の無邪気な笑顔が似合いそうな可愛らしい顔だ。将来はきっと美人になるだろうなとアルフレッドは思う。髪は栗色の長髪だが、おそらく手入れなど全くしていないのだろう。ボサボサに伸びくさっているし、所々痛んでいる様に見える。
だが、アルフレッドはその普通の身体的特徴などよりも別の、彼女の“特徴”に驚愕していた。そう、彼女の――リタの体、顔のいたる所に、“黒い紋様”が描かれている。
そして、アルフレッドはこの黒い紋様が意味する事を知っている・・
「・・・まさか、お前・・・」
「言わないで見ないで! 変態! この変態死ねっ!! ていうか早くその生き物を何とかしてよ早く!」
問いただそうとするアルフレッドの言葉を遮って、罵声と共に助けを求めるリタの指さす先には、薄緑の色をした爬虫類が時折モゾモゾと動きながらバスルームの壁にへばりついていた。
「なんだヤモリじゃねぇか」
何事かと思っていたが、全然大したことではなかった。てっきりアルフレッドは自分でもその姿を見たら思わず悲鳴を上げるあの黒い生物を想像していたのだが、これは拍子抜けである。もっともそれはそれで凄く幸運なことなのではあるのだけれど。
「ヤモリはなぁ、害虫を食ってくれて家を守ってくれるってのが語源なんだぜ? だから良い奴なんだからそんなビビってやるなよな」
言いながらアルフレッドはよしよーし、とヤモリをそっと掴みとる。
「とりあえずヤモリは捕まえたぞ。だから安心して身体洗えよ。また何か出た時には助けに来てやるからさ」
「・・・・・・ぐすっ・・・・・・うん」
膝に顔をうずめて、少女はそう返事をした。
アルフレッドは手にヤモリを掴んだまま、バスルームを出て部屋のベランダに通じる窓を開けると外に出る。そして、ヤモリを持った手をそっと離した。
「悪いな驚かせちまって、まぁまた気が向いたら来てくれよな」
ヤモリに言葉など通じるわけはないのだが、そう語るアルフレッドにヤモリはしばし爬虫類特有の細い瞳を向けると、サササッとどこかへ行ってしまった。
室内に戻ったアルフレッドはどっかりと革製のソファに腰を下ろすと、小さな溜息をついた。それからさっきの風呂場の光景を思い出す。
「・・・そういうことだったのな。まさかあいつがなぁ・・・」
あの少女と初めて出会った時の会話が脳裏に蘇える。
『・・・ママはもういないもん・・・』
夕食時の彼女との会話が脳裏に蘇える
『帰るところは・・・ないの』
そういった全ての少女の言葉の意味を、路地裏でゴミの山を“夕食”と言って漁っていた理由も、ここにきてようやくアルフレッドは完全に理解した。
「・・・・・・ほっとけねぇよな、こりゃ」
寮に戻ってやっと一息つけると思ったのも束の間、まだまだ彼には乗り越えなければいけないイベントが待っていたというわけだ。
ソファに座ったまま天井を見上げて、アルフレッドはこれから少女をどうするべきかを考え出した。
バタンと扉を閉める音がする。
どうやらリタがシャワーを終えたらしい。そちらに視線を向けると、リタは借りるといった毛布を頭から被ってまた顔を隠している。そしてそのままとぼとぼとベッドの方に歩いていき、その上にちょこんと座った。
「おい、もう別に顔を隠さなくていいって。別に今更見たって驚かねえよ」
そう言うとリタは少し躊躇っていたが、やがて毛布から頭を現わす。
その顔の左側半分にはやはり刺青にも見える“黒い紋様”が描かれている。
「・・・でも正直最初は驚いたぜ。お前、あの一族の生き残りだったんだな」
「・・・・・・・・・」
少女は言葉を発しなかったが静かに首を縦に振った。
その表情はとても暗い、今にも泣き出してしまいそうな程だ。
悪魔の一族“ヴォルドダンタリアン”。
その昔、まだセフィライアができて間もない頃に、存在するかどうかも解らない悪魔を殺し、その血を体内に取り込んだ者達がいるとされている。それが彼ら”ヴォルドダンタリアン“の性を持つ一族である。彼らは悪魔の持つ邪悪な力を己の魔術に転用させ、『特異魔術』という新たな術式を生みだし、ある意味では魔術の新しい道を切り開いた。
しかし2年前、セフィライアで今起きている“通り魔事件”よりも遥かに大きな殺人事件がエストラシルで起きた。街の人間が無差別に、それも大量に殺害されていったこの事件でまず、警察や島の上層部が疑ったのは彼らヴォルドダンタリアンの一族だった。
警察の見解はこうだ、『魔の者の血が流れるあの一族は悪魔の儀式を執り行おうとしている』というものだった。そして事件がまだ街を騒がす中、犯人が捕まった。現行犯で捕えられた犯人の顔には不気味な黒い紋様が描かれており、警察の見解が正しかったことが証明された。
そこから先の対応は驚くほどに迅速なものであった。島の上層部はヴォルドダンタリアンの一族のセフィライアに対する反逆行為と判断し、魔術の精鋭部隊をエストラシルの一角にあった一族の住む土地へと派遣し、大規模な掃討作戦を実行したという話だ。当時まだ中学生だったアルフレッドもこの事件で色々騒いだものである。街の為に何かしようと張り切っていたが結局は専門家達の手によって解決されてしまった。
そして、この少女はその生き残りという事なのだろう。
掃討作戦で生き残った一族の者も数名いたようだが、後日に全員捕えられてヴォルドダンタリアンは完全にこの島から居なくなったと言われていた。だからまさかその生き残りがいるとは思っていなかった為、最初風呂場で一族全員生まれた時から身体に描かれているとされる“黒い紋様”を見た時は驚愕してしまった。
「・・・本当に行く所が無かったんだな、お前」
少女は何も語らずにただ俯いている。
こんなまだ10歳くらいの女の子が家族も、住む場所も無いなんていう現実に、アルフレッドの中で誰にもぶつけようの無い怒りが込み上げてきた。
2年前の大量虐殺事件。確かにそれは少女の一族“ヴォルドダンタリアン”の仕業だった。しかし、それはあくまで少女の関係ない所で起きた事件の筈だ。彼女が事件に関わっていた可能性は無いとは言い切れないが、無いとアルフレッドは断言できる。今日一日、ほんの数時間行動を共にしただけだ。でも『無い』と断言できる。数時間の短い間に見た少女の年相応の無邪気さは、とてもではないが人殺しとは程遠いものに思えるからだ。
アルフレッドは思う。
この少女を助けてやりたい。例えそれが、余計な御世話だと拒まれても、それでも助けてやりたい。そう思った。
何故ならそれが、そうする事が、アルフレッド=グレイスという人間の生き方だからだ。
「一晩泊まってこれからどうするべきか考えようかと思ってたけど、やっぱそれは無しだ」
事情があるといってもここまでのものとは思っていなかった。正直に言って、どこかで軽く考えていた自分に気付く。
だが知ってしまった。事の重大さを。救わなければいけないと。
だからこそ、この行き場の無い少女にアルフレッドは言う。
「しばらくここで生活していけよ。知り合い、っつーか身内なんだけど結構頼れるやつがいてさ。そいつならきっと何とかしてくれると思うんだ。だから何とかなるまでここに居ろよ」
その言葉に、俯いていた少女の顔が上がる。
いきなりの提案に驚いていた彼女だったが、その表情は段々曇っていく。
「・・・それは駄目だよ。だって・・・その、リタがここに居るとあなたに迷惑が」
かかるから、とリタは上げた顔を再び俯かせながらそんな事を言った。
少女はこう考えているのだろう。
人々から忌み嫌われ、憎まれている一族の生き残りである自分を匿えば、庇ってくれるこの少年もまた、人々から非難の扱いを受けるだろう、と。それが、アルフレッドにとって迷惑になることだと、この少女は言っているのだ。
だがそれは、この少年――アルフレッド=グレイスという人間にとっては、その迷惑はとんだお門違いにも程があるというものだ。
黒髪の少年はソファから立ち上がると、そのままの足取りで少女の元へ向かう。
そして、その小さな頭にそっと掌を乗せた。
「ガキがそんな気遣いしてんなよ。いいから任せとけって。それにだ、もしお前のことでなんか言ってくるよーな奴がいたら俺が殴り飛ばしてやるから問題ねぇよ」
ぐしゃぐしゃと少女の頭をかき回しながら、努めて優しい声音でアルフレッドは言った。
黒髪の少年の言葉に、リタは申し訳なさそう顔をしながら、
「・・・じゃあ・・・お世話に、なります」
そう言って笑顔を作る少女。
その笑顔が無理をしている様な、今にも泣きだしそうなものに見えて、アルフレッドは胸を締め付けられる思いになった。
*
夜――まだ街は寝静まっておらず、むしろ大人たちにとっての自由な時間が始まったこの街のはまだ活気があった。例年の夏休みならばこの時期は大人になりたがる学生達も混ざって更なる活気が満ちていた事だろう。そうならないのは今このエストラシルで起こっている“通り魔事件”とやらのせいで警察が見回りをしているからだろう。
そんな活気が冷めやらぬ街の影とも言える暗い路地裏。その路地裏を一人の男子生徒がウロウロとしていた。但し、目的も無くこんな夜中に人気の無い路地裏を彷徨っている訳ではない。ある探し物をしているのだ。
元々その学生はこの街、エストラシルの学生ではない。彼はセフィライアの5つに分けられた街の南、スッドラシルの学校に通う学生だ。
そんな彼が何故、夏休みだと言うのに制服を着てエストラシルに居るのかというと、アスガルド学園に在籍していると言われているセフィライアで指折りのルーン語学研究家に会う為だ。会ってその研究家が考案した『万能術式』について詳しく聞くつもりだった。
近代化によってこの島にも随分昔に“インターネット”は普及を開始していた。調べれば研究家が書いた『万能術式』に関する論文は誰でも閲覧する事ができる。だから別に直接会わずとも『万能術式』を誰だって使えるようになっているのだが、それでも直接会って話を聞きたかったのだ。
男子生徒はスッドラシルで通う学校ではお世辞にも良い学校生活を送っているとは言えない毎日を過ごしていた。簡単に言ってしまえば彼は苛められる立場の人間だった。特に大きな理由がある訳ではない。ただ単に彼が弱いから標的にされているだけ。彼には喧嘩に勝てる様な腕っぷしもなければ魔術の才も人並み以下。ネットで見た『万能術式』と呼ばれるルーンの補助術式を使ってある程度上手く魔術を扱えるようになったが、それも人並み以下。
補助術式とは文字通り魔術を『補助』する為のルーンで記された術式のことだ。本来であれば、魔術の制御は自身の体内にある受け継がれる術式だけで行うものだが、それを上手く出来ない人も多くいる。例えば五代元素の一つ、火の魔術を扱う際、呼び出す炎の形状を巨大な塊の様にすることが自分の体内の術式操作だけで容易にできる者とできない者がいる。それをできるようにする為に、補助術式で『巨大な火の塊を作り出す』という補助の指示を自らの内にある術式に組み込むのだ。それが補助術式。
一見して便利なものに思えるがこの『自分の術式に組み込む補助術式』というのは、作りだすのが相当難しい。何せ1000文字近くあるルーン文字を使って自分の術式に適合できる式を見つけ出さなければならないのだから、当然莫大な時間が掛かってしまう。
しかし、セフィライアで指折りのルーン研究家が生み出した『万能術式』は五代元素魔術である火、水、地、風、空(雷)ならばどんな術式にでも適合できるというまさに万能の補助術式なのだ。そこにあとは操作したい指示をルーンで作って付加し、自身の内にある術式に組み込めば、どんなに才能の無い者でも自在に魔術を制御できるという訳だ。といっても個人差で限界はあるのだが。
ともあれ男子生徒はセフィライアで指折りのルーン研究家に補助術式に関する理解を高めると共に、もっと深い知識をご教授願おうとこのエストラシルに来たという訳なのだ。それで己の魔術を磨き、自分を苛める奴らにひと泡ふかせようと思っていたのだが、肝心の研究家は自分が受け持つ生徒の補習とやらで忙しいらしく、長い間待ったが一向に会える気配が無かったので仕方なく男子生徒は帰る事になってしまった。そしてその帰宅途中、適当な喫茶店で一息ついた後、とぼとぼ俯きながら帰路を辿っていると、厄介事が起きてしまった。向かいから歩いてきたいかにも柄の悪そうな集団の一人に肩をぶつけてしまったのだ。当然な流れで見事に絡まれてしまい、現金をよこせとカツアゲをされたのだが、そこに突然現れた謎の二人組の学生(主に金髪の女子)によって何とか窮地を救ってもらう事となった。それから面倒事に巻き込まれないように全速力で駅に向かったはいいが、ふと制服のポケットに手を入れると学生手帳が無い事に気付いた。
そして今に至る。
どこで落としたかも分からない為、とりあえず今日歩いた記憶のある所を片っ端から探してみた。けれど、どこにも見当たらず今日来た場所の一つである不良達に絡まれたこの路地裏を今も懸命に探している。
どれくらい探しただろうか。最初は薄暗かった空も、もう既に完全な漆黒へと塗りつぶされてしまっている。光源は空に浮かぶ太陽の代役がもたらす淡い光と、手に持った携帯電話の照明機能だけ。それだけを頼りに、暗過ぎる路地裏で落し物を必死に探す。
と、そんな彼の肩を何者かが唐突にトントンと叩いた。
誰かと思って何の気なしに振りむいた男子生徒の無防備な顔面に、固く握りしめられた拳が飛んできた。
あまりに一瞬で突然の出来事に、理解が追い付ける訳もなく、状況が理解できずに吹き飛んで倒れ込む男子生徒。
地面に伏して痛みにもがき、何とか動かした瞳が捉えたのは、いかにも柄の悪そうな不良の集団だった。
「やあっと見つけたぜこの野郎」
そう言って見下ろしてくる不良の顔には見覚えがあった。夕方にぶつかって絡んできた不良だ。確かダリル、とか呼ばれていた気がする。
そしてその不良、よく見ると右腕の肘辺りまでが明らかに異常な赤みを帯びている。恐らく男子生徒を助けた金髪の女子の魔術で氷漬けにされて凍傷にでもなったのだろう。しかしまぁ氷漬けから解放されているのを見るあたりに、あの冷血無慈悲そうに思えた金髪女子も手加減という言葉は知っているらしい。
「ったくよぉ。痛ぇんだよ腕が、なぁ。どうしてくれんだ? ああぁっ!?」
言いながらダリルは倒れている男子生徒の腹を思い切り、全くの容赦なく蹴り飛ばす。
「ぐっ・・・!」
呻き声を上げて苦しむ男子生徒に、息を突く間もなくもう一度蹴りが発せられる。
「ま、要は俺達今すげームカついてんだよ。だからよぉ、ちょっと俺らのストレス解消に付き合ってくれや」
ダリルがそう言って後ろで見ていた仲間の不良達に顎で指示を出した。
そこから始まったのはただのリンチであった。一人の男子生徒を四人の不良集団は取り囲み、痛みにうずくまる男子生徒の体を何度も蹴る。蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る。
どれほどその時間が続いただろうか。最早男子生徒は意識が途切れていないのが不思議なくらいの数の暴力を受け続けていた。
しばらくして、不良達も飽きてきたのか徐々に暴力の回数が減っていく。不意に、不良の一人が男子生徒の制服のポケットを探り始めた。
「おっ、財布はっけーん」
不良の一人は男子生徒の財布を取り出してそう言うと、その財布をダリルへと渡す。受け取ったダリルは何の躊躇いもなく不躾に中身を確認する。
「おいおい何だよこの薄っぺらさは。しけてるにも程があんだろ。俺のがまだ持ってんぞ」
あまりの貧相な財布に呆れるダリルだが、それでも取るものは取る。
中身が無くなって更に軽くなった財布を男子生徒に投げつけてから、ダリルは彼の髪を掴みあげて無理やりに面を上げさせる。
「明日の夕方、そうだなぁ今日お前に肩をぶつけられたくらいの時間だ。この路地裏に来い。もちろんちゃーんとその寒い財布を暖かくしてな。金額は言わねぇ。俺らを満足させるだけの金額じゃなかったら今と同じ目に合わせる。良いな?」
髪を掴んでいた手を唐突に離すと、そのまま重力に従って落ちる男子生徒の顔面をダリルは思いっきり踏みつけた。
「そんじゃ明日な。くははははははははははははっ」
下品な笑い声を夜の闇に包まれた路地裏に響かせるゴロツキ達の背中を、無様に闇の中で倒れ伏すしかできない男子生徒の瞳は彼らの背中が見えなくなるまでずっと見ていた。
そうすることしか彼にはできなかった。
しばらく痛みで倒れて体力の回復に努めるしかなかった男子生徒だったが、ようやく立てるくらいの力は取り戻せていた。それでも、身体の痛みが引いた訳ではない。口は切れて赤黒い血が滴り落ちているし、肌の至る所が内出血で青くなっている。あれだけ蹴られて死なないとは、人間という生き物はそこそこ頑丈に造られているらしい。それとも、ある程度は不良達が加減をしたのかもしれないのだが。
何故、自分がこんな目に合っているのか男子生徒には理解できずにいた。
自分が不良達に強いて何か危害を加えたとことを挙げるならば、それは最初にぶつかったことくらいだ。不良達のリーダー的存在に見えたダリルという男の腕に凍傷を負わせたのは断じて自分ではない。今夜与えられた暴力は間違えなくとばっちりである。
「・・・何で、僕が・・・こんな目に・・・」
全身が悲鳴を上げている状態、立つのもやっとの状態の男子生徒だったが、彼は歯を食いしばりながら歩き出した。当初の目的だった落し物である生徒手帳を探して。
別にそれほど大事なものでもない。失くしたってまた発行はできる。しかし、その事で両親が学校内でのいじめを疑ったりする可能性があるのは男子生徒にとっては阻止したい事だった。両親には自分の力の無さで始まった苛めで心配などさせたくなかった。
だから彼は探し続ける。弱々しくて酔っ払いの様なおぼつかない足取りだが、それでも足は止めない。
歩きながらふと、さっきの不良達に言われた事を思い出す。金を持ってまた明日この場所に来いというその理不尽な要求に男子生徒はどうしようかと考える。
(無視・・・しようかな)
一瞬そんな事を考えた彼だったが、すぐに思い直す。そんな事をすれば間違いなく彼らの怒りを買うに決まっている。例え自分がスッドラシルの人間だからもうもう会う事もないだろうとしても、彼ら不良はあのレッドテイル“火竜の尻尾”の一員だと言っていた。レッドテイルはかなり大規模なグループだ。南のスッドラシルにも手が及んでくる可能性は捨てきれない。そうあっては小さな逃亡生活の始まりである。いつか見つかるかも知れないと毎日怯えて暮らすのは辛い。しかしかといって要求を呑んで金を持っていけば奴らは味を占めて何度も同じ要求をしてくることだろう。
歯向かう、という選択肢は存在しない。力の無い自分では絶対に不良達に喧嘩で勝つ事はできない。ましてや魔術の才にしても、自分は下級“フィーネル”であのダリルとかいう不良は中級“ドライア”だ。あらゆる点で男子生徒に勝ち目は無い。
結局、このエストラシルでも、自分が住むスッドラシルでも、彼は無力で虐げられるしかない存在なのだ。そのどうしようもない事実を再認識させられ、彼は絶望する。ただ襲い来る暴力に屈するしかないのだと絶望する。
とそこで、絶望に打ちひしがれながらも必死に暗闇の中落し物を探す男子生徒の前に、いきなり人影が現れた。
本当にいきなり、である。それまでこの路地裏には自分以外の人の気配を全く感じなかったのに、それこそ瞬きする一瞬の内にその人影は音もなく現れた。
「さっきから随分と熱心だが、探している物はこれか?」
何の前触れもなく、まるで最初からそこに居たとでも言う様に現れた目の前いる人影は若い男だ。体格や声の雰囲気から20代くらいに思える青年だ。一見すれば特に挙げることもない普通の青年だが、月明かりに照らされて見えるその紫色の髪が、彼を普通に見える人物から怪しげな人物へと変換させてしまっている。
あまりに毒々しいその紫という髪の色に、男子生徒は思わず後ずさる。
そんな男子生徒の反応に、現れた怪しげな人物は、
「そんなに警戒するな。これはお前の持ち物だろう? だったら素直に受け取れ。別に何にも細工をしちゃいない。拾った時のままの状態だ」
困惑する男子生徒に歩み寄りながら、青年は手の中にあったものを差し出す。それは紛れもない、彼が痛む身体を動かしてでも見つけたかった生徒手帳だった。
「どうして・・・それを」
男子生徒は訝しげな視線を目の前の紫髪をした青年に向ける。
その問いに青年は、拾ったからに決まってんだろ、と言いながらポイッと雑な感じで男子生徒に向かって手に持っていた手帳を放り投げる。予想外に投げられた手帳に、男子生徒は何度か落としそうになりながらも何とかキャッチした。
普通に考えれば親切な事をしてもらったのだが、男子生徒にはこのいきなり現れた怪しい青年に対する警戒心を解こうという気にはなれなかった。その様子に紫髪の青年はそんなにビビるなよ、と言ってくるが、それは無理な話である。誰が音もなく突然現れた、しかも紫なんて不気味な色の髪をした男など安心できるものか。
「それにしても、お前。随分なやられようだったじゃねぇか。何でやり返さないんだ? 見てるこっちがイライラしてきたぞ。・・・お前ひょっとしてマゾってやつか」
この路地裏で行われた一方的な暴力を見ていたのか青年はそんな事を言った。
だが、見ていたのならば解る筈だ。相手は四人、こっちは一人。そもそも喧嘩にすらなりはしない。ましてや喧嘩が強い訳ではなく、魔術もろくに使えない自分が勝てる筈もない。ならば下手に反撃して更なる怒りを買うより、大人しく彼らの気が済むまで殴らせるべきなのだ。その事はスッドラシルでもここでも変わらない。それがベストの選択。
「・・・仕方ないでしょ。僕なんかが歯向かったところであいつらには勝てないんだ。弱者は踏みにじられる。それはどこに行っても同じなんだ。だったら才能も力も無い僕は大人しく踏みにじられて嵐が過ぎるのを待つのが正しい選択なんだよ」
「だったら聞くが。お前、力があったら歯向かうのか?」
紫髪の青年は、鋭い眼差しで男子生徒の瞳を射抜く。
射抜かれた男子生徒はまるで心の、胸の内を探られている様な悪寒に見舞われる。そんなことはあり得ないと考えているのに、悪寒は消えてくれずに纏わりついている。
その不気味なまでの真っ直ぐな視線に気押され、男子生徒は言葉を詰まらせるが、
「と、当然さ」
そう、彼が答えると紫色の毒々しい髪をした青年は腹の底から笑い声を上げた。
「ひゃっははははははははっはははあーそっかそっかぁ。はー・・・オーケーだ。感謝しろよ、お前の望む力ってヤツを与えるこの俺に。そんで俺の期待に答えろ」
青年は路地裏中に響き渡る様な大声で笑いながら男子生徒の元へと歩み寄る。その手には、この自然の闇と人工的に造られた闇とで出来上がった路地裏の漆黒よりも尚黒い輝きを放つ結晶体が握られている。
「こいつを使ってお前の適性を試す。こいつに認められたら、お前も今日から晴れて弱者から強者になれるってわけだ。どうだ? 己の才能を試す度胸が、てめぇにはあるか?」
問いただされた男子生徒は困惑し、そして考えていた。
この男は自分に力をくれると言っている。無論、そんなものが本当に手に入るならばすぐにでもその方法にしがみ付きたい。実際この街に来たのも力を手に入れる為と言えばそうなのだ。ルーンの補助術式の深い理解と知識を得る為に、それで自分を苛めている連中にひと泡吹かせてやろうと、そう思ってここに来たのだ。
しかし、この男。目の前に居る紫の髪をした青年は怪しすぎる。それに何故だかわからないが関わってはいけない、そんな気がする。男子生徒の直感がそう告げている。
けれど、危険だと。この男は危ないと。無意識にそう感じるのに。
いつの間にか青年の問いに対して、力を手に入れるチャンスがあるけどお前はどうするという問いに対して――頷く頭を止めることなど、彼にはできなかった。