序章 善人と、そうでない者
「・・・・・・っ! くそっくそっ!!」
息を切らし、夜の闇を必死に走る男が一人。
彼の表情は恐怖と痛みによって歪んでいた。
男は石造りでできた、歴史を感じさせる建物がひしめき合う路地裏を走り続けている。この辺りはまだ近代化が進んでいないのか、路地裏は区画整理もされずに所狭しと、まるで蜘蛛の巣のように無数の道が張り巡らされている。
男の風貌は至って普通、どこにでもいそうな中年の男性だ。しかし、一見して普通に見える男の胸には拳大程の黒い結晶が埋め込まれていた。その結晶が黒く光る。
光が放たれる度に激痛が彼を襲う。
「はぁ、はぁ・・・・・・何なんだこれは、くそぉ!」
必死に男は胸に埋め込まれた黒の球体を引きはがそうとするが、まったく取れる様子はない。むしろその痛みは増すばかりだ。
男は諦めてとりあえず引き剥がす行為を止め、走る事に集中する。
(なんで、なんでこんなことに・・・・・・)
男はその日、憎しみをぶちまけるつもりだった。
元々街にある普通の証券会社に男性は勤めていたのだが、先日いきなりの解雇通告を受けてしまった。男性は比較的会社では有能な人物であった。それ故若くして着々と地位を積み重ねていったのだが、それがまずかったのだ。その活躍に自らの地位を脅かされていた上司達が彼を目の敵にしたのだ。そして、事は何の前触れもなく起こり、男の人生を転落させることとなった。会社で横領事件が起きたのだ。当然男性は何の関係もなかったのだが、事件の証拠は何故か彼の机から発見された。つまり一言で言うならば、男性はハメられたのだ。その後は簡単である。多額の賠償金の請求と共に退社を命じられたのだ。
そんな理不尽を受けた男性は憎しみに駆られ、今日という日に自分の人生を転落へと追いやった件の会社に、復讐してやろうと思って街を歩いていたのだが・・・・・・。
そこである若い青年と出会った。
「あいつ、痛みも何もないって言ってたのに!」
出会った青年は知り合いでも何でもない筈の自分に『全てを破壊できる力をやる』、といきなり話しかけてきたのだ。復讐を目論んでいた男性としては、胡散臭いその青年の話を聞いてやる事にしたのだが。
それがこんな事態になるとは思ってもいなかった。
胸に埋め込まれた黒い結晶がまた光る。それと同時に男は口元を押さえて激しく咳込む。その手にはドロッとした赤黒い液体がべっとりこびり付いていた。
「ハァハァ・・・・・・くっ」
男は痛みを堪えながら走る。追ってくる者から逃れるために。
どれくらい走っただろうか。
最初自分が歩いていた所からは随分離れた筈だ。此処までくればもう大丈夫だろう。後はこの黒い石を医者にでも見せて取り除いてもらえばいい。
そう考えて、路地の壁に身を預けて一息ついた所で・・・・・・。
考えの甘さを思い知った。
「おいおっさんよぉ。“儀式”の途中で逃げ出してんじゃねえよ。・・・・・・まぁもっとも、お前の体にソイツは合わなかったみたいだがな」
声は頭上から聞こえた。
声がする方へと男はゆっくりと視線を向ける。
その先、夜空に浮かぶ綺麗な月を背に、宙を舞う人影があった。
月光を一身に浴びるその人影は神々しくも思えるが、今の男が置かれている状況を考えれば頭上の光景は恐怖以外の何ものでもない。
「っ!? ・・・・・・そんな、どうして・・・・・・」
自分の胸に謎の結晶を埋め込んだ青年が薄く笑みを伸ばして空に浮かんでいる。
入り組んだ路地裏を必死に駆けまわって逃げても、空から追われては何の意味もない。男は絶望し、壁に預けた背をずるずると地面に下ろしていく。
「どうしてだぁ? そんなもん見りゃ分かんだろ」
青年は口に笑みを張り付けたまま、まるでそこに見えない階段があるかのように宙を歩いて降りてくる。
腰を抜かした哀れな男の元へ、ゆっくりとした足取りで青年は向かう。
空を歩く、なんてのは普通じゃない。反則だ、と男はそう思ったが、この街に住む人間に普通な者など男を含めて誰一人いないという事実を思い出す。空を歩くことを当然のようにできる者がいてもおかしくはない。ここはそういう街なのだ。
しかし、男には眼前に迫る青年が、自分達街の人間と同じとは何故だか思えなかった。ただの直感だが男はそう思ったのだ。
だから自然と、男の口からこんな言葉が紡がれる。
天を歩き、その背に月光を浴びる若い青年。自分に怪しげな黒い結晶を埋め込み、命を削りとろうとする若い青年。
それを見て発せられた言葉は、この世にいるかどうかも解らない者達の名前・・・
「この、・・・・・・悪魔め・・・・・・っ!!」
その言葉に、青年の表情にあった笑みが更に広がる。
心底愉快だとばかりに笑いながら、青年は眼下で無様にへたり込む男を見下し、
「おうおう案外的を得た事を言うじゃねーかよ」
何の気なしにそう言った青年はもう既に、恐怖で顔を歪める男の目の前まで来ていた。青年の右手が地面に腰を沈ませた男の胸に埋め込まれた結晶へとかざされる。
瞬間、今までよりも強い光が結晶から放たれると同時に、これまた今までよりも激しい痛みが男の体に襲い掛かる。あまりの激痛に絶叫する男を前にして、青年は本当に楽しげにただ一言、
「これは俺からのプレゼントだぁ。ありがたく受け取れよ下等種族」
まだ夜もこれからだというのに辺りには人がまったくおらず、おまけに入り組んでいてパッと辺りを見たくらいじゃ出口が見えない程の迷宮だからなのか、ひっそりと不気味な程に静まり返っている路地裏。
その静寂を、男の痛みに苦しむ叫び声が喧騒へと塗り替えていく。
青年は目の前にできた血の海に横たわる男を眺めていた。
盛大に鮮血をぶちまけたが、横たわる男はかろうじて息をしている。
「はぁ、これで4人目か。強い負の感情と魔力、それさえありゃぁ作れるって話だったんだがなぁ。素質とか才能とか、そんなもんまで要るのか。・・・・・・案外めんどくさいもんだな」
頭を搔きながら呆れたように青年が呟く。
「しかしまぁ、幸いおもしれぇことに『素体』は山ほど居やがる。たかがまだ4人目だ」
青年の瞳が血の海から星の海へと移り変わる。
満月同様、地上を照らさんと躍起になる星屑達を眺め、青年は小さく笑う。その瞳には月や星などといった“矮小な存在”は捉えられていない。
と、辺り一面に飛び散る大量の血を目の当たりしてもまったく動じていない若い男の耳に、聞きなれぬ騒音が飛び込んできた。
それが、警察車両が発する警告音だということを知識として知らない若い男だが、面倒が起こりそうだという事は想像できた。
「さて、次に期待ってとこだな。いくら『素体』が多くても失敗ばかりはめんどくせぇし、おもしろくねぇ。今度はもうちょっと品定めをちゃんとするか」
若い男はさながら迷宮の如き複雑さの路地裏を歩き出す。
月の光が差し込まない奥の方へと。
そうして若い男は再び自らが望む『素体』を探して、夜の闇へと消えていった。
*
7月29日午前8時15分。
世間は夏本番を迎え、学生達にとっては夏休みという楽園が始まった今日この日。辺りを忙しなく歩いているのは大人ばかり。まあ、社会人に夏休みなど有るはずもないのだから当然の光景だ。
そんな大人達を可哀想に、なんて勝手に憐れむ子供たちは今この時間などは惰眠を貪っていることだろう。
にも関わらず、膨大な時間を自由に消費できる筈の学生の少年が、何故か制服を着て自らが通う学校へと向かっていた。
「あちぃ・・・・・・凄い熱い。なんでこんなに熱いんだよ」
はあ、という溜息をつき、灼熱で気のせいか景色がゆらゆらとして見えるアスファルトの道を、少年は歩き続ける。
高校生には珍しく、髪は全くいじられていない黒髪短髪の少年、アルフレッド=グレイスは忌々しげに太陽を睨めつける。
「くそ、・・・・・・何で俺は夏休みという天国が訪れた筈なのに、こんな時間に学校へ行かないといけないんだ」
とは言うものの、彼には何故自分が学校へ向かわなければならないのかはきちんと理解している。
何故、学生の一大特権の一つである夏休みに学校に行かないといけないか、と言うと。
それは彼、アルフレッド=グレイスが高校生になっても全く『魔術』が扱えないから、である。
「魔術なんて使えなくても生きていけるっつーの」
口を尖らせて悪態をつくアルフレッド。正直サボりたいのは山々なのだが、そうはできない事情がある。そんなことをすれば彼は担任教師に丸焼きにされると知っているからだ。
自分の命可愛さに、少年は足取りを重くしながらも歩き続ける。
彼が住むここは魔術師の都、名を『セフィライア』という。緯度30度、経度178度、およそ日本とアメリカの真ん中あたりに位置する絶海の孤島。それが『セフィライア』である。日本の首都、東京の半分ほどの面積をしたこの島には500万もの人々が生活をしている。
――そして、その500万人の人々は皆、普通の人間ではない。
生まれながらに魔力を体内に宿し、『魔術』を扱う魔術師だ。しかし、彼らは生まれた時から魔力は持つが、必ずしも赤ん坊のころから魔術を使えるわけではない。幼稚園児になって魔術を使えるようになる者から中学生になって使えるようになる者まで様々だ。
けれど、高校生にもなって未だに魔術が使えないというのは、セフィライアを隅々まで捜索してもアルフレッドただ一人だろう。それほどまでに異常な状態なのだ。
もっとも、アルフレッドには何故自分が魔術を使えないのか、なんていうこの街の誰もが疑問符を浮かべるその謎の答えはとっくの昔に理解しているのだが。
「はぁ・・・・・・」
一際大きな溜息をついて、アルフレッドは学校まで続く今の自分にはとても険しく思える道(実際少し険しい)をひたすら歩いて行く。とぼとぼと力なく歩く彼の背に、太陽は容赦なくその眩しく熱い光を注ぎ続ける。
そんな折、熱い熱いと呻くように呟くアルフレッドの耳にふと、物騒な会話が聞こえてくる。何事かと思ってアルフレッドが視線を向けると、すぐに状況は理解できてしまった。
アルフレッドが歩いているのは比較的大通りに分類される広い道だ。当然そこを歩く人の数は通勤時という事もあって多い。そんな人ごみ溢れる通りにはもちろん沢山の店や施設が立ち並んでいるものである。多くの人を引き入れるためにできた多くの建物。そのせいで日の光が入らない路地裏もまた沢山できている。
そして路地裏の一つ、物騒な声が聞こえるその場所では、一人のサラリーマンらしき男がいかにも不良ですといった二人の男に絡まれていた。
「・・・・・・朝っぱらから元気な奴らめ」
こんな朝早くから小遣い稼ぎをしようなんてのは中々殊勝な不良だな、と思いながらアルフレッドは辺りを見回す。辺りを行きかう人々は路地裏で起こる小さな事件には目もくれず、中には伏し目がちに目を逸らして歩き続ける人ばかりであった。
(ったく、通報くらいしてやれよな)
路地裏から少し離れたアルフレッドが聞こえているのだ。まさか気付いていません、という事はないだろう。見て見ぬふり、というやつだ。
薄情な奴らだな、と思う反面彼らの気持ちも解らないでもない。誰だって自分から厄介事には首を突っ込みたくないだろう。ましてや通勤時にそんなものに巻き込まれては会社に遅れてしまう。
そんな誰もが見て見ぬふりを通すこの状況だったが、アルフレッドは人々と違った行動に出る。
(はぁ、遅刻確定になるけど・・・・・・まー大義名分っていう言い訳でもしますか)
学校から路地裏に進路変更をするアルフレッド。路地裏に近づくにつれて、さっきまでは大声が聞こえる程度だったのだが詳細な会話が耳に飛び込んでくる。
「いいからさっさと金出せよ!社会人様は俺ら学生と違ってたんまり持ってんだろ?もったいねぇから使ってやるっつってんだよ!」
「そ、そんなバカな事を・・・・・・っ!」
「うるせぇ!」
遠くからだとちゃんと見えなかったが、どうやら本当にカツアゲ(小遣い稼ぎ)をしていたらしい。絵に描いたようなカツアゲにアルフレッドは呆れて本日何度目かの溜息をつく。けれど、アルフレッドの瞳にはやる気と言う名の闘志が映し出されている。
そして、今にも不良がサラリーマン風の男を殴りかかろうとしたところで。
アルフレッドは渾身のとび蹴りを不良の一人に放った。
小さな呻きと共に吹き飛ぶ名もなき不良A。突然の出来事に、不良達はもちろん、助けられたサラリーマンすらポカンとして口を開けている。
しかし、少しの間を置いて状況を理解した不良達はすぐにアルフレッドを敵と認識し、怒り狂ったような表情で彼を睨みつける。
「何だてめぇ! 何しやがんだコラ!」
吹き飛ばされた不良がゆっくり立ち上がりながら叫ぶ。
「何って見りゃわかんだろ」
アルフレッドはまだ呆然としているサラリーマンに逃げるように言って再び不良達の前に立ちふさがる。
自分たちの獲物が逃げていくのを見て追いかけようとする不良だが、その前に立ちふさがるアルフレッドが邪魔で追いかけられない。
金を手に入れることができなかった不良達は更に顔を赤くして怒り狂う。
「おいてめぇ。どうしてくれんだ。折角の俺らの獲物を逃がしやがって。代わりにお前から貰うもん貰うけどよぉ、文句はねぇよな!」
これまたお決まりの様な不良の恫喝にまったく臆することなく、むしろアルフレッドの顔にはうっすら笑みが作られていた。
「ああ、くれてやるよ。・・・・・・正義の鉄槌ってヤツをな!」
こうして、路地裏は朝早くから喧騒に包まれることとなった。
別にアルフレッドは見返りなど求めてこんな事をしているのではない。助けたサラリーマンから謝礼を貰おうとかそんなよこしまな事はまったく一切考えていない。
ただ単に人助けをしただけだ。そこにそれ以上もそれ以下の意味もない。本当にアルフレッドにとっては当たり前のことをしただけだ。
困っている人を助ける。それが彼の信念であり、絶対に守ると決めた約束。彼はただそれを守っただけなのだ。
そしてこれが彼の、アルフレッド=グレイスの生き方なのだ。