<21> 徳田虎雄医師 ― 命だけは平等だ
<21> 徳田虎雄医師 ― 命だけは平等だ
「徳田虎雄」という医師がおられます。
医療に詳しくない方でも、「徳洲会病院」という名前を耳にしたことは多いのではないでしょうか。
徳田先生は、「年中無休・二十四時間対応」を掲げた、全国に病院網を持つ、徳洲会病院グループの創設者です。
晩年、徳田先生は筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病を患われました。それでも自ら人工呼吸器を装着したまま、ALS患者の会に出席し、仲間を励まし続けておられました。
その姿は、医療関係者でなくとも、見る者の胸を強く打つものでした。
先生は2024年、86歳で亡くなられましたが、その生きざまはいまも多くの人の心に残っています。
徳田先生の原点は、徳之島での幼少期にあります。
貧しさのため、兄が病に倒れても十分な医療を受けることができず、命を落としたという悲しい体験をされました。
この出来事が、先生の人生を決定づけたのです。
「命だけは平等だ」
この思いを胸に、徳田先生は医師を志されました。
父親が家財である牛一頭を売り、その資金で大阪大学に進学されたという話は、まるで小説のようですが、紛れもない事実です。
30歳ころ、徳田先生は年中無休を掲げた病院を関西に開設されました。
当時の医療界では、非常に大胆で、異端とも言える挑戦でした。しかし、その姿勢は多くの患者の支持を集め、やがて徳洲会は全国へと広がっていったのです。
私が医師になって間もない頃、徳田先生の著書『命だけは平等だ』を読みました。
医療とは何のためにあるのか、医師は誰のために働くのか―その問いが、深く胸に突き刺さったことを今でも覚えています。
その後、私はカンボジアで難民問題が起こった際、医療ボランティアとして現地に赴きました。帰国後、途上国医療に関心を持つ仲間たちとともに研究会を立ち上げました。(この活動は形を変えながら、現在も国際保健医療学会として続いています。)
この研究会の立ち上げに尽力してくださったのが、大阪大学の水野祥太郎先生でした。
水野先生は、学生時代の徳田虎雄先生のことをよく覚えておられ、「気骨のある、並外れた学生だった」と折に触れて語っておられました。
徳田先生は、医療を根本から変えようと、政治の世界にも進出されました。
自由連合という政党を立ち上げ、日本の医療改革を訴えられましたが、国の政策を大きく動かすまでには至りませんでした。それでも、その挑戦が無意味だったとは、私は思いません。
かつてテレビ番組で、徳洲会病院の幹部会議の様子が放映されたことがあります。
幹部たちに向かって、徳田先生が強烈な言葉で檄を飛ばす姿は、賛否はあれど、医療に対する並々ならぬ覚悟を感じさせるものでした。
やがて病に倒れてからも、徳田先生は訴え続けられました。
その生きざまは、後に続く私たち医師にとって、叱咤であり、励ましであり、そして問いでもあります。
『命だけは平等だ』の中には、井村という若い医師の話が登場します。
徳洲会病院の草創期に勤務しながら、若くして骨肉腫を患った医師でした。
彼は亡くなる直前まで、松葉杖をつきながら病院に通い続け、最後の勤務の日に、次のような言葉を残しました。
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私には医師として悲しいことが三つあります。
一つは、治らないと分かっている患者に何もしてあげられない悲しさ。
二つ目は、金のない患者から金を取って診なければならない悲しさ。
三つ目は、患者の心を分かっているつもりでいたが、病気で苦しむ人の気持ちは、やはり誰にも分からないということです。
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その場にいた職員たちは、皆、涙を流したといいます。
「本当の医療とは何か」を、その瞬間、深く胸に刻んだのでしょう。
私もこの言葉を読み返すたびに、自分自身を省みます。
血痰を吐きながら患者を診続けた井村医師。それに比べ、夕方になると疲れたと言って、患者に無愛想になってしまう浅はかな自分……。
医療は、医師のためにあるのではありません。
患者のためにある。
徳田虎雄先生と井村医師の生き方は、今も静かに、そう語りかけてくるのです。
〈つづく〉
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│いのうげんてん作品
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│①著作『神との対話』との対話
│《 あなたの人生を振り返る 》《 自分の真実を取り戻す 》
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│②ノンフィクション-いのちの砦
│《 ホスピスを造ろう 》
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│③人生の意味論
│《 人生の意味について考えます 》
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│④Summary of Conversations with God
│『神との対話』との対話 英訳版
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