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カルテに書けない よもやま話  作者: いのうげんてん
2章 医者もいろいろ
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<20> 多田富雄先生との思い出

 多田富雄先生は、東大以外の出身者で初めて東大の教授に就任されたことで有名になられました。


 千葉大出身で、免疫学の世界的権威として働いておられました。


 多田先生のお弟子さんにはノーベル医学賞を受賞した利根川進博士もおられます。


 私が多田富雄先生と知り合ったのは、以前勤務していた病院の院長が先生の従兄にあたるご縁からでした。当初は遠い存在のように感じていましたが、国際協力の仕事を通じてごいっしょする機会を得てから、次第に親しくさせていただくようになりました。


 ある年、日本の医師約10人とともにタイを訪れ、現地の医療機関との交流や情報交換を目的とした協力活動に参加しました。多田先生もその一員で、現地での研究会や懇親会など、幾度となく同席する機会がありました。


 先生は、医学の分野だけにとどまらず、文化や社会のあらゆる側面に深い関心を寄せられる方でした。その姿勢は、知的好奇心の塊のようであり、私には強い印象を残しました。


 帰国の前日、空港近くの小さな町をいっしょに散策する機会がありました。時間にすればわずか1時間ほどだったでしょうか。しかしそのひとときが、私の記憶には強く焼きついています。


 雑然としたバラックのような雑貨店にふらりと入り、品々を丁寧に手に取りながら「こういうものに、その国の生活が出るんですよね」とつぶやく先生の声が、今でも耳に残っています。道端では製氷業者が大きな氷をノコギリで切り出しているのを、しばらく無言で見つめておられました。その眼差しは、ただの観光ではなく、まるでその土地の時間の流れを肌で感じ取ろうとしているかのようでした。


 路地を抜けた先にあった小さな飲み物店で、私たちはコーヒーを注文しました。店の出すコーヒーには氷がたっぷり添えられていました。私は以前に「タイでは氷は衛生的に不安だから避けるべきだ」と聞いていたので、やんわりとそれをお伝えしました。


 ところが先生はにこりと笑って、「そう?でも大丈夫でしょう」と言って、迷いもなくその氷をコーヒーに入れて飲み干してしまわれました。慎重な医師というより、どこか達観した旅人のようなその姿に、私は軽い衝撃とともに、なぜか妙な安心感を覚えたものでした。


 先生は日本の伝統芸能にも造詣が深く、特に「能」に関しては台本まで執筆されるほどの専門家でもありました。脳死をめぐる議論が世間で盛んになっていた頃、新作能『無明の井』を発表され、それがマスコミでも話題となったのを覚えています。生と死、意識と無意識の境界を、能という様式で表現しようとするその試みに、私は深い感銘を受けました。


 当時、私自身も脳死問題に関心があり、読売新聞の「論点」に意見を寄せたこともありました。その点でも、先生との交流は個人的に非常に意味のあるものとなりました。


 また、免疫学の利根川博士らを招き、一般の臨床医向けに高度な免疫学セミナーを主催されたこともありました。私もその準備や進行のお手伝いをさせていただいたことがあります。学術と臨床をつなぐ場を真剣に築こうとされていた先生の姿勢には、いつも敬服していました。


 そんな多田先生が、ある日突然、脳梗塞で倒れられました。


 しかし、先生は倒れてもなお立ち上がる方でした。懸命なリハビリを経て再び執筆活動にも復帰され、その姿に多くの人が励まされたのです。ただ残念ながら、現行の保険制度ではリハビリは半年しか保障されず、その後の継続には大きな壁が立ちはだかります。


「半年でリハビリが終わるなんて、回復する意志のある人に失礼じゃないか。」


 そんなことを、先生が静かに、しかし深い怒りを込めて語られたのを思い出します。


 先生の背中から学んだことは、いまでも私の中に残っています。知的で、情熱的で、何より人間としての「好奇心」を最後まで失わなかったその姿勢は、これからも忘れることはありません。


(2010年4月21日、83歳で亡くなられました。合掌)




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│いのうげんてん作品      

│               

│①著作『神との対話』との対話

│《 あなたの人生を振り返る 》《 自分の真実を取り戻す 》

│②ノンフィクション-いのちの砦  

│《 ホスピスを造ろう 》

│③人生の意味論

│《 人生の意味について考えます 》

│④Summary of Conversations with God

│『神との対話』との対話 英訳版

└───────────────


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