◇告知板◇ 6章 私の医療あり方論に <4-7-10> 私の診療心得 ⑦-10 「良い思い出作り」ー 患者さんとの別れ:香織さん を追加しました
<4-7-10> 私の診療心得 ⑦-10 「良い思い出作り」ー 患者さんとの別れ:香織さん
この患者さんは、当サイトに投稿した、私のノンフィクション小説『いのちの砦』の冒頭に登場する女性です。
白く静かな病室に、一人の若い女性が横たわっていました。彼女の名前は百瀬香織さん、21歳でした。
太ももにできた軟部肉腫の手術を受けたあと、肺に転移し、咳に苦しめられる日々を送っていたのです。
香織さんは「宇宙からのメッセージ」という本を毎日読んでいました。宗教を信じているわけではありませんが、神様のような存在と静かに対話しているようでした。
私もクリスチャンであり、香織さんの真っ直ぐな問いかけに、次第に心を開いていったのです。
肺転移巣は改善の見込みがないものの、リン酸コデインで咳を抑えることができ、一時的に症状は安定しました。香織さんは退院することができました。
その後も元気な様子で2週に1度の通院を続けていました。
ある日「頭が痛むんです」と訴えてきます。私はその時、脳転移の可能性を感じながらも、すぐには認めたくない思いから、鎮痛剤で様子を見ることにしました。
しかし、その後の検査で、脳への転移が明らかになりました。香織さんは心乱すこともなく、私の入院の勧めに素直に応じました。むしろ私のほうが動揺していたほどでした。
入院後は脳圧を下げる治療で頭痛は緩和され、彼女は再び、本を読みながら静かな時を過ごしていました。
やがて香織さんは「放射線治療を受けたい」と自ら決意します。「生きられるだけ生きたい」という意志は強く、年齢にそぐわないほどの落ち着きと覚悟がそこにはありました。
治療は頭痛をやわらげたものの、副作用で白血球が減少してしまいました。
そんなとき、母親の志津江さんが相談を持ちかけました。
彼女の夫、つまり香織さんの父親は製薬会社に勤めており、くしくも現在治験中の免疫強化剤があるというのです。
私は、治験中というリスクも理解した上でその薬の使用を承諾し、慎重に注射を開始しました。
副作用は特に現れず、香織さんの白血球は回復しました。私がその結果を志津江さんに伝えると、彼女は何度も「ほんとうに良かったです」と涙を浮かべながら感謝の言葉を繰り返しました。
季節は夏へと移り、私に転勤の辞令が届きました。病院長として横浜の病院に赴任することになったのです。
香織さんにそのことを伝えると、彼女は寂しげに窓の外を見つめながら、
「ここにはもう来ないんだ……」
静かに言いました。けれど本当は、「私を置いて行かないで」と叫びたい気持ちを、必死に抑えていました。
その沈黙の中で、香織さんはふいに言いました。
「ホスピスがあったらいいのにね」
彼女は読書が好きで、生と死について深く考えており、「ホスピス」という存在に希望を見いだしていました。終末期のがん患者にとって、限られた時間をどう生きるかは非常に重要なことなのです。
「先生は香織の意志を大切にしてくれた」
どんな検査でも、意味や結果を丁寧に説明してくれたこと、自分を一人の人間として扱ってくれたことへの深い感謝の言葉でした。
そして最後に、香織さんは私に小さな紙包みを差し出しました。
その中には『ターミナル・ケア』という本が入っていました。がんの終末期医療について書かれた本で、香織さんがこれまで読んできた本の中でも、大切にしていた一冊でした。
「先生に渡そうと思って用意してたの」
はにかんだように笑う香織さん。その表情を見つめながら、私は涙をこらえきれず、香織さんを抱きしめました。
「一生懸命生きるんだよ。いつまでも生きるんだよ。神様にお願いするんだよ。いいかい。いいかい……」
香織さんは泣きじゃくりながら何度もうなずきました。
その別れの時は、単なる「医師と患者」の関係を超えた、深い人間的なつながりと、生と死のはざまで交わされる祈りのような瞬間だったのでした。
香織さんの死を知ったのは、それから8か月後のことでした。
〈つづく〉
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│いのうげんてん作品
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│①著作『神との対話』との対話
│《 あなたの人生を振り返る 》《 自分の真実を取り戻す 》
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│②ノンフィクション-いのちの砦
│《 ホスピスを造ろう 》
│
│③人生の意味論
│《 人生の意味について考えます 》
│
│④Summary of Conversations with God
│『神との対話』との対話 英訳版
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