20 崩壊
空は、錆びた鉄のような鉛色をしていた。
王城へ向かう馬車の窓から外を見つめながら、私は膝の上でそっと拳を握る。
王都ブエステルの街並みは今日も変わらず整然としているのに、世界そのものがどこか色を失ってしまったように見えた。
隣に座るマクシミリアンもまた、ほとんど口を開かない。
昨夜、シュネーベルクの口から語られた真実はあまりにも重く、そして残酷だった。
14年前。
リーゼロッタ・レーヴェンシュタインを殺したのは、エドゼル派ではなかった。
全ては、シュネーベルクの仕組んだ策略だったのだ。
レイノルドを孤独にし、復讐者へ変え、情を捨てた絶対的な王に育て上げるための。
(レイノルド様はシュネーベルクによって生き方を変えられてしまった)
胸がひどく痛む。
優しかったあの少年は、最初から冷酷だったわけではない。
大切な人を奪われ、信じていたものを壊され。
その怒りと悲しみを利用され続けた結果、今の姿になってしまった。
馬車がゆっくりと止まる。
「着きました」
御者の声に、私は静かに息を吐いた。
(だが、逃げるわけにはいかない――――)
たとえどれほど残酷でも、真実を伝えなければならない。
◇◇◇◇◇
王太子執務室には、張り詰めた静寂で満ちていた。
重い扉の奥、高い天井と壁一面の本棚に囲まれた空間に、大きな窓から薄曇りの光が淡く差し込んでいる。
その中央で、レイノルドは執務机に腰を下ろしていた。
感情を削ぎ落としたような横顔で書類へ視線を落としている。
銀色の髪は今日も隙なく整えられ、表情も変わらない。
だが、その姿はどこか酷く疲れて見えた。
「王室魔法騎士団団長、マクシミリアン・ダウンベール。ご命令の件で、ご報告に参りました」
マクシミリアンが跪いたので、私もそれに続く。
「・・・・・・顔を上げろ」
低い声。
レイノルドは手元の羽ペンを置くと、こちらを見た。
「今日は何の用だ」
その青い瞳を見た瞬間、胸が締めつけられる。
昔、あの瞳はもっと柔らかかった。
本を抱えて笑っていた、小さな少年。
庭で蝶を逃がしてやっていた、優しい子供。
それが今は、氷のように冷えている。
私は視線を伏せた。
マクシミリアンが静かに口を開く。
「魔獣襲撃事件に関する件ですが・・・・・・」
「あれは、すでにエドゼル派残党の仕業ということで解決したはずだが」
レイノルドが淡々と言う。
「まあ、奴らとしては復讐のつもりだったのかもしれないがな」
低く付け加えられた言葉に、空気が重く沈む。
マクシミリアンは少しだけ間を置き、それから続けた。
「・・・・・・今回、我々はそれに伴い別件についても調査を進めておりました」
「別件だと?」
レイノルドの眉がわずかに動く。
「リーゼロッタ・レーヴェンシュタイン暗殺事件です」
その言葉が出た瞬間、レイノルドの視線がぴたりと止まる。
張り詰めた空気が室内を覆い、窓の外では木枯らしが硝子をカタカタと震わせていた。
レイノルドは微動だにせず、しばし凍りついたような目でマクシミリアンを見ていた。
「・・・・・・なぜ、今さらその話をする」
彼はようやくそう口にした。
マクシミリアンはまっぐすに彼を見据える。
「真犯人が判明したからです」
レイノルドの指先がぴくりと震える。
「真犯人だと?」
「はい」
「・・・・・・誰だ?」
それは喉を無理やり震わせて出したような掠れた声だった。
「シュネーベルク宰相です」
その瞬間、蒼穹のような青い瞳がみたこともないほど大きく見開かれる。
レイノルドは何も言わなかった。
ただ、信じられないものを見るように、マクシミリアンの顔をじっと眺める。
まるで言葉の意味そのものを理解できないかのように。
「・・・・・・は? 何を言ってる」
やがて零れ落ちた声は、驚愕というより、崩れかけた呼吸に近かった。
「シュネーベルクが、犯人だって・・・・・・?」
「はい」
マクシミリアンは、昨夜起きた出来事を一つずつ静かに語っていった。
不自然に改竄された様々な記録。
リーゼロッタの登城情報を外部に漏らした事実。
そして、シュネーベルク本人による自白。
何一つ隠さず、淡々と。
感情を挟むことなく告げられる真実だけが、静かな執務室へ重く積み上がっていく。
レイノルドは最初、黙ったまま聞いていた。
机に肘をつき、微動だにせず。
――――だが。
「嘘だ」
低くそう呟かれた直後、彼は勢いよく立ち上がった。
「そんなはずがない、シュネーベルクがそんなことを・・・・・・!」
彼の拳が、激しい音を立てて机を叩く。
その拍子にインク壺からインクが零れ、書類が床に散乱する。
青い瞳が激しく揺れていた。
怒りではない。
信じていた世界が崩れ落ちてしまった人間の、悲鳴のような動揺だった。
「シュネーベルクは・・・・・・いつだって私のために動いていた!」
「その通りです」
マクシミリアンは苦しげに目を伏せた。
その横顔には、レイノルドを追い詰めている痛みと、それでも真実を告げなければならない覚悟が感じられる。
「ですが、奴は殿下を欺いておりました」
「黙れっ!!」
大きな怒鳴り声が、執務室を震わせる。
鋭く張り詰めた声音に、私は思わず肩を揺らす。
レイノルドは机へ手をついたまま、荒い呼吸を繰り返す。
胸が激しく上下し、先ほどから視線が定まらない。
「・・・・・・違う、絶対に違う・・・・・・」
掠れきった声でそう呟き、彼は何度も首を振った。
まるで現実そのものを拒絶するかのように。
「エドゼルがリーゼ姉様を殺したんだ、奴が私の大切な人を・・・・・・」
その言葉は、こちらへ向けられたものではない。
むしろ、自分自身へ言い聞かせる呪文のようだった。
「だから、私はシュネーベルクに命じたんだ、兄上を・・・・・・」
そこで、言葉が途切れる。
レイノルドの顔から、完全に血の気が引いていた。
青白くなった唇が、かすかに震えている。
――――兄上を殺せと。
きっと、その続きが喉の奥に引っかかっているのだろう。
認めてしまえば、自分が犯した罪をはっきりと理解してしまうから。
レイノルドの身体が左右に揺れる。
すでに立っていることすら難しいようだったに。
「・・・・・・違う、違う」
彼が弱々しい声で言う。
しかし、否定を繰り返すごとに言葉の力は失われていく。
崩れ落ちる世界を支えるために吐かれる言葉は、もう自分自身さえも騙せなくなっていた。
シュネーベルクは言っていた。
リーゼロッタの死は必要だったのだと。
あの事件こそが、レイノルドを「絶対的で完璧な王」へ変えるために必要な犠牲だったのだと。
そして――――。
レイノルドは、その言葉通りに変わってしまった。
兄達を憎み、情を切り捨て。
粛清という名の血を重ねながら、冷酷な道を進み続けた。
誰にも弱さを見せず、ただ怒りだけを燃やしながら。
けれど、その始まりは全て「嘘」だった。
レイノルドは一歩、ゆっくりと後退った。
信じていた世界が足元から崩れていくように。
やがて力を失ったように椅子へ崩れ落ちる。
「私は・・・・・・私は、一体何をした・・・・・・」
彼が今にも消えてしまいそうな声で呟く。
「私は・・・・・・自分の兄を・・・・・・」
レイノルドの手が細かに震えている。
その指先は青白く、必死に何かへ縋るように握り締められていた。
思わず、息を呑む。
この人が、こんなにも弱々しい表情を浮かべるのを見たのは初めてだった。
他者を寄せ付けないほど鋭く、決して揺らがないように見えた人が、今はまるで帰る場所を見失った子供のように見える。
「ずっと・・・・・・リーゼ姉様のためだと思っていた。姉様を殺した者達への復讐だと・・・・・・」
ぽつり、と零れ落ちる。
「自分が弱いせいで、力がないから姉様が死んだのだとずっと思ってた・・・・・・だからこそ、どんなことをしても力が欲しかった。今度こそ自分の手で大切な人を守れるように・・・・・・そう生きることが彼女に報いる唯一の道だと思っていたのに・・・・・・」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
(ああ、レイノルド様は本当にずっと苦しみ続けていたのだ!)
怒りを抱え続けなければ、生きてこられなかった。
復讐だけを支えにし、権力の階段を登り続けてきたのだ。
それが唯一の道だと信じて。
だからこそ、真実はあまりにも残酷だった。
私は静かに息を吸う。
そして震える彼の前へ、一歩ゆっくり踏み出した。
「レイノルド殿下」
静かにその名を呼ぶと、彼がゆっくり顔を上げる。
青い瞳は、酷く傷ついていた。
誇りも冷酷さも、もうそこにはなかった。
ただ、自分が信じてきたものを失った人間の痛みだけが滲んでいる。
「私は・・・・・・」
彼は掠れた声で呟く。
「私は、取り返しのつかないことをした」
その声音は、罪を認める囚人のようだった。
自分自身へ絶望しきった、諦めの声。
その顔を見た瞬間、私は彼を叱るように言葉を返していた。
「だから、何です!」
レイノルドが驚いたように、軽く目を見張る。
まさか私がそんな反応をするとは思っていなかったのだろう。
「間違えたなら、今からやり直せばいいでしょう? 人は間違えます。失敗だってする。取り返しのつかないことだってある。でも、それで終わりではありません」
私は、はっきりした声でそう告げる。
レイノルドに逃げ道を与えないように、まっすぐに彼を見据えながら。
けれど、突き放さないように。
「あなたは昔、優しい人だったでしょう?」
その瞬間、彼の表情が凍りつく。
私はそれに気づきながら続けた。
「私はそのことをちゃんと知っています」
庭で蜘蛛の巣に引っかかった蝶を、そっと助けていたこと。
失敗して泣いていた使用人を、一生懸命慰めていたこと。
本を抱えながら「リーゼ姉様、これ読んで」と、嬉しそうに私のところへ走ってきた無邪気な彼のことを。
全部。
本当に、全部覚えている。
「今のあなたがどれほど冷たい顔をしていても、本当は違うのだと。だから、きっとやり直せるはずです」
レイノルドは強く唇を噛みしめた。
青い瞳が苦しげに歪む。
「だからといって、私が犯した罪が消えるわけではない。私は絶対に許されないことをしてしまった・・・・・・」
「それでもです!」
私は彼の言葉を遮るように、強い口調で言い切る。
「それでも、殿下は前に進むしかありません。このまま立ち止まるわけにはいかないのです。なぜなら、あなたはこの国の王になるお方だから。どうか御心を強くお持ちくださいませ!」
私はレイノルドの顔をまっすぐ見つめながらそう言い放つ。
彼が死ぬほど後悔しているのは痛いほど分かっていた。
けれど、未来の王にとって必要なのは、その場限りの安い慰めの言葉などではない。
室内に長い沈黙が落ちる。
窓の外で風が鳴る音だけが、静かな執務室に響きわたる。
やがて、レイノルドはゆっくりと両手で顔を覆う。
その肩は小さく震えていた。
「ああ、そうだな・・・・・・全部、お前の言う通りだ。こんなことで、挫けるべきではない・・・・・・」
そして、ぽたり、ぽたりと。
指の隙間から、一粒、また一粒と透明な雫が落ちていく。
レイノルドは声も上げずに泣いていた。
ただ静かに。
まるで壊れてしまった子供のように、ひたすら涙を零し続ける。
「わ、分かっている・・・・・・分かっているさ・・・・・・」
それは後悔と苦しみが滲む声だった。
怒りだけで人生を歩いてきた人間が、初めて自分の意志で立ち止まった瞬間だった。
その姿はもう、氷の王子などではない。
ただ、大切なものを失い続けながら、ずっと一人で泣けなかった愚かなほどまっすぐな青年だった。




