婚約解消の日、私は返納品を数え終えました——指輪が一つ、足りませんでしたが
「ヴィオラ。婚約を、解消したい」
アレクセイ様の背後、西側の窓、2枚目のかんぬきが、斜めに、2度、浮いていた。
このままだと、3時過ぎの風で葡萄酒のグラスが揺れる。——後で伝えなければ。
と考えて、気づいた。
後で、というものが、私には、もう、ない。
「……承知いたしました」
膝の上の指を、一度だけ、組み直した。
「家のしがらみより、自由な恋を選びたいのだ」
アレクセイ様は、こういうとき決まって言葉の順序を間違える。
本来、「家のしがらみより」の前には、従姉妹のミレーヌ様のお名前が入るはずだった。
ご自分でお考えになった台詞では、ないのだろう。
「ミレーヌ様との件、でございますね」
彼の喉が、一瞬、動いた。
「……察していたのか」
「いえ。ただ、王宮の夜会で、あなた様のお席をミレーヌ様の隣にずらしてほしい、とのご依頼が、3週間ほど前から、4度、ございましたので」
「あ、あれは、だから、その——」
「理由は伺っておりません。席を動かす理由をご申告いただく慣例は、ございませんから」
アレクセイ様は、ほっとしたような、そしてなぜか少し不満そうな顔をされた。
こういう方なのだ、この人は。責められたくはないし、気づかれていなかったのも、不本意。
善意の方で、悪い人ではない。
ただ、ご自分の行いの重さを量る秤を、お持ちでない。
「それで、手続きは、どうすれば」
「ご心配なく。本日中に、お済ませできます」
私は、彼に向けて、手を伸ばした。
「婚約解消の手続きは、返納品の確認から始まります。お預かりしている品を、こちらへ」
革張りの箱が、従者の手から、テーブルに置かれた。
私は蓋を開け、中の品を、一つずつ取り出した。
刺繍入りの手巾、1。
家紋入りのブローチ、1。
婚約時の短刀、1。
家紋入りの扇、1。
誓約の手紙、1束。
婚約の指輪——ない。
もう一度、箱の底を、指で探った。
やはり、ない。
「アレクセイ様」
「はい」
「婚約の指輪は、どちらに」
彼の顔から、血の気が、ゆるゆると、引いていった。
「ああ、それは。——預けてある、一時的に。しばらく、一時的に、預けて」
「預けて」
「修理に、出してある。石が、緩んで」
石。
私は、ほんの一瞬、天井の飾り縁を、見上げた。
婚約の指輪は、家紋だけを刻んだ、銀の輪だ。
絡み合う2本の蔓と、小さな葉が3枚。
嵌まっていない石は、緩みようが、ない。
けれど、それを口にするのは、私の仕事ではない。
私の仕事は、返納が完了しているか、していないか、それを記すことだけだ。
「……なるほど」
私は懐から補佐家の封書を取り出し、インクを開け、短い一文を記した。
「婚約解消に際し、婚約時の指輪1点、返納未了」
インクが乾くのを待って、アレクセイ様の前に、置いた。
「こちらの写しは、王宮の婚姻庁に提出いたします。正本は、お手元に。返納が完了し次第、この写しを破棄し、新しい写しを発行いたします」
「……新しい写し、とは」
「返納完了の確認書、でございます。これが発行されなければ、次のご婚約は、法的には、結べません」
一瞬、彼の目が、見開いた。
「……それは、どのくらい、時間が」
「指輪を婚姻庁に提出してから、7日以内です」
「指輪さえ、あれば」
「指輪さえ、あれば」
私は、ゆっくり、立ち上がった。
「では、ごきげんよう。——窓の鍵が1つ、開いております。西側の2枚目が。葡萄酒が、揺れますので」
屋敷を出るとき、振り返らなかった。
振り返る理由が、1つもなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
実家に帰って、3日。
私は、母の書棚から古い植物図鑑を借り、庭に出て、薔薇を数えて過ごした。
白が17、淡紅が9、濃紅が6。
蕾はまだ固く、開いているのは、32輪。
数える癖は、5歳の誕生日の朝、父から言い渡された。
とにかく数えて、ズレを見つけ、直す。
それが、アーレンデル家の仕事だ。
母に「解消いたしました」と告げたとき、母は「そう」とだけおっしゃって、お茶を注いでくださった。
——必要なときにしか言葉を使わない、というのが、うちの母の癖で、私はそれを、母から学んだ。
父は、一言だけ「指輪は」と尋ねた。
「未返納です」
父は、椅子の背にもたれ、眉根を寄せた。
「……面倒な男だな」
*面倒な男ですね、*と、私は心の中でだけ、父に、調子を合わせた。
石の嵌まっていない指輪の、石が緩んだ、とおっしゃる方ですから。
3日目の夕方、王宮から早馬が来た。
王太子殿下からの書状だった。たった1行。
「ヴィオラ嬢。王宮に戻ってきてほしい。できれば、今日のうちに」
私は断った。
「婚約者ではなくなった者が、王宮の夜会補佐を続ける慣例は、ございません」と返書を書いて、丁寧に封をした。
4日目の朝、また早馬が来た。
今度は、別の方からの書状だった。
差出人——辺境伯、ルスラン・ヴェルトハイン様。
私は、そのお名前を、知っている。
年に3度だけ王都にいらっしゃる、国境警備の若い当主様。
色の濃い黒髪に、少しだけ眠そうな目をなさった方。
夜会のお席を調整するとき、私が必ず、一番気を使う席のお一人だ。
なぜなら、この方の副官殿は、左利きだから。
書状には、こう書かれていた。
「明日の夕刻、そちらへ参ります。お会いいただけますでしょうか。儀礼のお話では、ございません。氷水の、お話です」
氷水。
私は、しばらく、その紙を、見つめていた。
母が、横から覗き込んで「今度のお客様は、窓の鍵まで、数える方かしら」とおっしゃった。
「……そこまでは、まだ、存じません」
「そう」
母は、お茶を、もう1杯、注いでくださった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
後から知ったことだが、私が実家に帰ってから、王宮では、小さな不調が、いくつも、始まっていた。
3日目の朝、王太子殿下が、朝食の席で、ふと、ご自分の皿の右に、何もないことに気づかれた。
いつもは、そこに、薄く切った林檎が2切れ、置かれていた。
殿下は朝、果物の酸味がないと会議に集中できない癖がおありで——けれど殿下ご自身は、ご自分にそういう癖があることを、ご存じではなかった。
誰かが、黙って、置いていた。
それから、外交使節2国からの返礼が、1分ずつ、遅れた。
「前回まで、我が国の親書には、受領より4日目の午後2刻に、返礼が届いておりました。今回は、4日目の午後2刻1分。——これは、貴国の外交における我が国の順位が、1段、下がったという意味でしょうか」
抗議書が、3通、届いた。
その頃、王宮の配膳係のうち、新任の者が、席順表を見て、首を傾げた。
「この辺境伯のお席が、下から3番目、というのが、ずっと、直されていないのですが」
「直さなくていい。それが、本来の席だ」
「はあ。しかし、昨晩、殿下が『どうして辺境伯はあの席なのだ』とおっしゃっておられましたが」
「——直されて、いたのか」
「ずっと、直されていた、ようです」
そして、7日目の昼餐で、辺境伯ルスラン・ヴェルトハイン様の副官殿は、2年ぶりに、右手でフォークを取り損ねた。
左利きである彼の右側には、いつの頃からか、白い布巾が、1枚、余分に置かれていた。
2年間、それは、欠けたことがなかった。
7日目、白い布巾は、なかった。
副官殿は、フォークを取り損ねて、自分の利き手が右ではないことを、2年ぶりに、思い出した。
そして、なぜ自分が、2年間、そのことを忘れていられたのかについて、初めて、考えた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
辺境伯ルスラン・ヴェルトハイン様が私の家にいらしたのは、約束通り、翌日の夕刻、日没の少し前だった。
応接間に通された彼は、まず、深く、頭を下げた。
それから部屋の奥に目を走らせ、1度だけ、窓の方を、見た。
「西側の窓、鍵が、開いています」
「……ええ、そうですね」
「お閉めしましょうか」
「お気になさらず。我が家の窓、ですから」
彼は、静かに、笑った。
「失礼いたしました。癖で、ございます」
私は、気づいた。
——この方も、窓の鍵に気づく方だ。
「ヴィオラ嬢」
「はい」
「俺の副官は、左利きです」
「……存じております」
「公的な場では、右手で食事をします。長時間の晩餐で、右手が痺れる。そのたびに、副官の右側に、白い布巾が、1枚だけ、余分に、置かれておりました。5年間、一度の欠けも、なく」
「……」
「俺が殿下と長話をしたあと、廊下の給仕が、俺の前にだけ、氷水を差し出します。喉を痛める癖は、副官しか、知らない。——それでも、氷水は、来ました。毎回」
私は、膝の上の指を、組み直した。
「俺の席は、本来、下から3番目のはずです。ですが、あなたが補佐をなさる夜会では、必ず、王太子殿下の斜め向かい。国境情勢の話が、聞こえる、席でした」
「……」
「昨日、俺の副官は、2年ぶりに、右手でフォークを取り損ねました。そのとき初めて、自分が左利きであることを、2年ぶりに、思い出したそうです。——2年間、思い出さなくてよかった、ということが、どれほどの手数の積み重ねだったのか、彼も、俺も、昨日まで、知らなかった」
彼の目が、私を、見た。
読むのではなく、知っている、という目だった。
「王宮は、今、小さく、しかし、確実に、壊れかけています。3日前から」
「……大したことでは、ございません」
「大したことです」
「……」
「5年間、分かりませんでした。誰がやっているのか。名前を、知ろうとも、しませんでした。知らないまま、感謝していた」
彼は、一度、息を吸った。
「——今、その名前を、知った。知った以上、俺には、知らないふりをする権利が、もう、ありません」
彼は、椅子から立った。
それから、片膝を、床に、静かに、落とした。
騎士が、王に、忠誓を立てるときの姿勢だった。
「ヴィオラ嬢。どうか、俺の隣の席を、埋めてください。——あなたの、お名前で」
私は、しばらく、返事ができなかった。
この方の話し方は、これまで私が耳にしたどんな求婚とも、違っていた。
アレクセイ様の「しがらみより自由な恋」とも違う。
王太子殿下の「慣例と責務」とも違う。
この方は、私の仕事を、知っている。
知った上で、それを私の仕事だと、名前ごと、呼んでくださった。
私は、一度だけ、自分のこめかみを、指で押さえた。
それから、数えた。
窓の鍵、1。
白い布巾、1。
氷水、1。
席、1。
林檎、1。
5つ。
この5年、私が、数えなかった日のない、5つ。
「辺境伯様」
「はい」
「1点だけ、お伺いしても、よろしゅうございますか」
「どうぞ」
「その『隣』の、お席順を、ご存じですか」
彼は、少しだけ、目を見開いた。
それから、静かに、笑った。
「辺境伯の妻の席、でしょうか」
「はい」
「王太子殿下の真向かいの、1つ左、と伺っております」
「ご存じでしたか」
「知っていました。5年、あなたの仕事を、見ていましたから」
私は、初めて、彼の顔を、まっすぐ、見た。
「……では、そのお席で、ご一緒、いたしましょうか」
彼は、指輪のない私の薬指に、一度だけ、そっと、唇を寄せた。
「俺の家紋の指輪なら、明日、お持ちします。あなたの家紋のほうは——」
「アレクセイ様のお手元、ですね」
「はい」
「あれは、戻りません」
「……」
「質に、入っております。買い戻すだけの金子を、ベレント公爵家が今、お持ちかどうか」
彼は、静かに、答えた。
「では、国法に従って、あちらの家が、代価を、お支払いに、なりますね」
「ええ」
「300年分の、代価を」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
アレクセイ様とミレーヌ様の新婚約儀礼は、その4日後に、王宮の小聖堂で、執り行われた。
私は、その場に、いなかった。
けれど、何が起きたかは、後日、婚姻庁から、父のもとへ、正式な通達として、届いた。
儀礼の冒頭、婚姻庁長官が、帳面を開き、静かな声で、読み上げたそうだ。
「ベレント公爵家ご令息、アレクセイ様。前婚約の返納品のうち、家紋入りの指輪1点、未返納のまま、本日、新婚約に、臨んでおられます」
アレクセイ様は、顔を、青くなさった。
「い、いや、あの、それは、後日、必ず、取り戻しますので、本日は、前倒しで——」
「前倒しも、後倒しも、ございません」
長官は、顔を、上げなかった。
「返納は、完了しているか、おらぬか。国法の定めるところは、それだけで、ございます」
「……」
「本日の新婚約は、成立いたしません」
ミレーヌ様が、隣で、細く息を吸うのが、聞こえたそうだ。
「アレクセイ様。指輪、を」
「い、いや、それは、修理に、石が」
「アレクセイ様」
ミレーヌ様の声が、少しだけ、震えた。
「婚約の指輪に、石は、ございませんわ」
アレクセイ様は、そこで、2度目に、顔の血の気を、失った。
1度目は、私の前で。
2度目は、ミレーヌ様の前で。
ベレント公爵は、杖を、床に、静かに、一度、突き立てた。
「アレクセイ」
「……はい」
「指輪は、どこに、ある」
アレクセイ様は、答えられなかった。
質入れ先を、思い出せなかったのだ。
3箇所の候補があり、そのいずれにおいても、利息が、既に、元本を、超えていた。
どの店に、どの利息が付いているか、彼は、紙に書き留めてさえ、いなかった。
答えられない、ということは、答えだった。
「——300年を、失ったな」
ベレント公爵は、そうおっしゃって、杖を握り直し、静かに、小聖堂を、出ていかれた。
その日の夜、王宮の家督台帳が、一行だけ、書き換えられた。
「ベレント家、当主格級、侯爵位に更正。暦307年、婚姻儀礼返納不履行による降格規定に基づく」
父は、その通達を読み終えて、お茶を、一口、ゆっくり、飲んだ。
「……面倒な男だったな」
*面倒な男でしたね、*と、私は心の中でだけ、父に、調子を合わせた。
ご自分の質入れ先さえ、数えられない方でしたから。
父は、私の顔を見て、一度だけ、笑った。
こんな父を見るのは、珍しかった。
「お前は、数えられる家に、嫁ぐか」
「……数えられる方が、迎えに来られました」
「そうか」
「窓の鍵まで、数えられます」
「それは、安心だ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから、3月後。
私、ヴィオラ・アーレンデルは、辺境伯ルスラン・ヴェルトハイン様の妻となる儀礼のために、王宮の大広間に、立っていた。
儀礼の席順は、全て、頭の中に、入っていた。
入っていたが、今日、私はそれを並べる側では、ない。
並べられる、側だ。
王太子殿下の真向かい、1つ左。
辺境伯の妻の席。
ルスラン様が、私の隣に、立たれた。
「席順、合っておりますでしょうか」
「はい」
「あなたが確認なさらないと、俺は、自信が持てません」
「……ご心配なく。本日の補佐は、私の妹が、いたしますので」
「妹君も、ご職業柄、ですか」
「ええ。アーレンデル家の娘は、5歳から、数え始めますので」
「数える」
「人の数、皿の数、席の数、時刻の数、返礼の数、視線の数、沈黙の数」
「……窓の鍵も」
「窓の鍵も」
彼は、少しだけ、笑われた。
「今日、俺の右側に、氷水は、ありますか」
「本日は、ございません」
「ほう」
「長時間の晩餐では、ありませんので、必要ないかと」
「では、代わりに、何を、用意してくださったのですか」
私は、彼の顔を、見上げた。
「……何も。本日の私の仕事は、あなたの隣に、立つことだけ、です」
彼は、私の左手を取って、薬指に、指輪を、通した。
家紋の刻まれた、銀の輪。
石は、今度も、嵌まっていない。
「その指輪、お返しいただかなくて、結構でございます」
「ええ。——二度と」
儀礼の鐘が、鳴った。
大広間の端では、新任の配膳係が、殿下の皿の右に、薄く切った林檎を2切れ、静かに、置いていた。
副官殿の右側には、白い布巾が、1枚、余分に。
廊下には、氷水が、用意されて、待っていた。
昨日、妹が、すべて、手配していた。
私がいなかった10日間、王宮は、小さく、壊れかけていた。
今日からは、妹が、ここを、数えていく。
私は、もう、この広間を数える者では、ない。
今日からは、この方の隣で、この方の空気を、一人分、数える。
数えることなら、得意だ。
これから、一日ずつ。
返納されない指輪が、1つ、私の手にある。
——それで、十分だ。
【作者から読者様へお願いがあります】
少しでも、
「面白い!」
「続きが気になる!」
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