表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

婚約解消の日、私は返納品を数え終えました——指輪が一つ、足りませんでしたが

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/20

「ヴィオラ。婚約を、解消したい」


 アレクセイ様の背後、西側の窓、2枚目のかんぬきが、斜めに、2度、浮いていた。

 このままだと、3時過ぎの風で葡萄酒のグラスが揺れる。——後で伝えなければ。


 と考えて、気づいた。

 後で、というものが、私には、もう、ない。


「……承知いたしました」


 膝の上の指を、一度だけ、組み直した。


「家のしがらみより、自由な恋を選びたいのだ」


 アレクセイ様は、こういうとき決まって言葉の順序を間違える。

 本来、「家のしがらみより」の前には、従姉妹のミレーヌ様のお名前が入るはずだった。

 ご自分でお考えになった台詞では、ないのだろう。


「ミレーヌ様との件、でございますね」


 彼の喉が、一瞬、動いた。


「……察していたのか」


「いえ。ただ、王宮の夜会で、あなた様のお席をミレーヌ様の隣にずらしてほしい、とのご依頼が、3週間ほど前から、4度、ございましたので」


「あ、あれは、だから、その——」


「理由は伺っておりません。席を動かす理由をご申告いただく慣例は、ございませんから」


 アレクセイ様は、ほっとしたような、そしてなぜか少し不満そうな顔をされた。

 こういう方なのだ、この人は。責められたくはないし、気づかれていなかったのも、不本意。

 善意の方で、悪い人ではない。

 ただ、ご自分の行いの重さを量る秤を、お持ちでない。


「それで、手続きは、どうすれば」


「ご心配なく。本日中に、お済ませできます」


 私は、彼に向けて、手を伸ばした。


「婚約解消の手続きは、返納品の確認から始まります。お預かりしている品を、こちらへ」


 革張りの箱が、従者の手から、テーブルに置かれた。

 私は蓋を開け、中の品を、一つずつ取り出した。


 刺繍入りの手巾、1。

 家紋入りのブローチ、1。

 婚約時の短刀、1。

 家紋入りの扇、1。

 誓約の手紙、1束。


 婚約の指輪——ない。


 もう一度、箱の底を、指で探った。

 やはり、ない。


「アレクセイ様」


「はい」


「婚約の指輪は、どちらに」


 彼の顔から、血の気が、ゆるゆると、引いていった。


「ああ、それは。——預けてある、一時的に。しばらく、一時的に、預けて」


「預けて」


「修理に、出してある。石が、緩んで」


 石。


 私は、ほんの一瞬、天井の飾り縁を、見上げた。

 婚約の指輪は、家紋だけを刻んだ、銀の輪だ。

 絡み合う2本の蔓と、小さな葉が3枚。

 嵌まっていない石は、緩みようが、ない。


 けれど、それを口にするのは、私の仕事ではない。

 私の仕事は、返納が完了しているか、していないか、それを記すことだけだ。


「……なるほど」


 私は懐から補佐家の封書を取り出し、インクを開け、短い一文を記した。


「婚約解消に際し、婚約時の指輪1点、返納未了」


 インクが乾くのを待って、アレクセイ様の前に、置いた。


「こちらの写しは、王宮の婚姻庁に提出いたします。正本は、お手元に。返納が完了し次第、この写しを破棄し、新しい写しを発行いたします」


「……新しい写し、とは」


「返納完了の確認書、でございます。これが発行されなければ、次のご婚約は、法的には、結べません」


 一瞬、彼の目が、見開いた。


「……それは、どのくらい、時間が」


「指輪を婚姻庁に提出してから、7日以内です」


「指輪さえ、あれば」


「指輪さえ、あれば」


 私は、ゆっくり、立ち上がった。


「では、ごきげんよう。——窓の鍵が1つ、開いております。西側の2枚目が。葡萄酒が、揺れますので」


 屋敷を出るとき、振り返らなかった。

 振り返る理由が、1つもなかった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 実家に帰って、3日。

 私は、母の書棚から古い植物図鑑を借り、庭に出て、薔薇を数えて過ごした。


 白が17、淡紅が9、濃紅が6。

 蕾はまだ固く、開いているのは、32輪。


 数える癖は、5歳の誕生日の朝、父から言い渡された。

 とにかく数えて、ズレを見つけ、直す。

 それが、アーレンデル家の仕事だ。


 母に「解消いたしました」と告げたとき、母は「そう」とだけおっしゃって、お茶を注いでくださった。

 ——必要なときにしか言葉を使わない、というのが、うちの母の癖で、私はそれを、母から学んだ。


 父は、一言だけ「指輪は」と尋ねた。


「未返納です」


 父は、椅子の背にもたれ、眉根を寄せた。


「……面倒な男だな」


 *面倒な男ですね、*と、私は心の中でだけ、父に、調子を合わせた。

 石の嵌まっていない指輪の、石が緩んだ、とおっしゃる方ですから。


 3日目の夕方、王宮から早馬が来た。

 王太子殿下からの書状だった。たった1行。


「ヴィオラ嬢。王宮に戻ってきてほしい。できれば、今日のうちに」


 私は断った。


「婚約者ではなくなった者が、王宮の夜会補佐を続ける慣例は、ございません」と返書を書いて、丁寧に封をした。


 4日目の朝、また早馬が来た。

 今度は、別の方からの書状だった。


 差出人——辺境伯、ルスラン・ヴェルトハイン様。


 私は、そのお名前を、知っている。

 年に3度だけ王都にいらっしゃる、国境警備の若い当主様。

 色の濃い黒髪に、少しだけ眠そうな目をなさった方。

 夜会のお席を調整するとき、私が必ず、一番気を使う席のお一人だ。

 なぜなら、この方の副官殿は、左利きだから。


 書状には、こう書かれていた。


「明日の夕刻、そちらへ参ります。お会いいただけますでしょうか。儀礼のお話では、ございません。氷水の、お話です」


 氷水。


 私は、しばらく、その紙を、見つめていた。

 母が、横から覗き込んで「今度のお客様は、窓の鍵まで、数える方かしら」とおっしゃった。


「……そこまでは、まだ、存じません」


「そう」


 母は、お茶を、もう1杯、注いでくださった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 後から知ったことだが、私が実家に帰ってから、王宮では、小さな不調が、いくつも、始まっていた。


 3日目の朝、王太子殿下が、朝食の席で、ふと、ご自分の皿の右に、何もないことに気づかれた。

 いつもは、そこに、薄く切った林檎が2切れ、置かれていた。

 殿下は朝、果物の酸味がないと会議に集中できない癖がおありで——けれど殿下ご自身は、ご自分にそういう癖があることを、ご存じではなかった。


 誰かが、黙って、置いていた。


 それから、外交使節2国からの返礼が、1分ずつ、遅れた。


「前回まで、我が国の親書には、受領より4日目の午後2刻に、返礼が届いておりました。今回は、4日目の午後2刻1分。——これは、貴国の外交における我が国の順位が、1段、下がったという意味でしょうか」


 抗議書が、3通、届いた。


 その頃、王宮の配膳係のうち、新任の者が、席順表を見て、首を傾げた。


「この辺境伯のお席が、下から3番目、というのが、ずっと、直されていないのですが」


「直さなくていい。それが、本来の席だ」


「はあ。しかし、昨晩、殿下が『どうして辺境伯はあの席なのだ』とおっしゃっておられましたが」


「——直されて、いたのか」


「ずっと、直されていた、ようです」


 そして、7日目の昼餐で、辺境伯ルスラン・ヴェルトハイン様の副官殿は、2年ぶりに、右手でフォークを取り損ねた。

 左利きである彼の右側には、いつの頃からか、白い布巾が、1枚、余分に置かれていた。

 2年間、それは、欠けたことがなかった。


 7日目、白い布巾は、なかった。


 副官殿は、フォークを取り損ねて、自分の利き手が右ではないことを、2年ぶりに、思い出した。

 そして、なぜ自分が、2年間、そのことを忘れていられたのかについて、初めて、考えた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 辺境伯ルスラン・ヴェルトハイン様が私の家にいらしたのは、約束通り、翌日の夕刻、日没の少し前だった。


 応接間に通された彼は、まず、深く、頭を下げた。

 それから部屋の奥に目を走らせ、1度だけ、窓の方を、見た。


「西側の窓、鍵が、開いています」


「……ええ、そうですね」


「お閉めしましょうか」


「お気になさらず。我が家の窓、ですから」


 彼は、静かに、笑った。


「失礼いたしました。癖で、ございます」


 私は、気づいた。

 ——この方も、窓の鍵に気づく方だ。


「ヴィオラ嬢」


「はい」


「俺の副官は、左利きです」


「……存じております」


「公的な場では、右手で食事をします。長時間の晩餐で、右手が痺れる。そのたびに、副官の右側に、白い布巾が、1枚だけ、余分に、置かれておりました。5年間、一度の欠けも、なく」


「……」


「俺が殿下と長話をしたあと、廊下の給仕が、俺の前にだけ、氷水を差し出します。喉を痛める癖は、副官しか、知らない。——それでも、氷水は、来ました。毎回」


 私は、膝の上の指を、組み直した。


「俺の席は、本来、下から3番目のはずです。ですが、あなたが補佐をなさる夜会では、必ず、王太子殿下の斜め向かい。国境情勢の話が、聞こえる、席でした」


「……」


「昨日、俺の副官は、2年ぶりに、右手でフォークを取り損ねました。そのとき初めて、自分が左利きであることを、2年ぶりに、思い出したそうです。——2年間、思い出さなくてよかった、ということが、どれほどの手数の積み重ねだったのか、彼も、俺も、昨日まで、知らなかった」


 彼の目が、私を、見た。

 読むのではなく、知っている、という目だった。


「王宮は、今、小さく、しかし、確実に、壊れかけています。3日前から」


「……大したことでは、ございません」


「大したことです」


「……」


「5年間、分かりませんでした。誰がやっているのか。名前を、知ろうとも、しませんでした。知らないまま、感謝していた」


 彼は、一度、息を吸った。


「——今、その名前を、知った。知った以上、俺には、知らないふりをする権利が、もう、ありません」


 彼は、椅子から立った。

 それから、片膝を、床に、静かに、落とした。

 騎士が、王に、忠誓を立てるときの姿勢だった。


「ヴィオラ嬢。どうか、俺の隣の席を、埋めてください。——あなたの、お名前で」


 私は、しばらく、返事ができなかった。

 この方の話し方は、これまで私が耳にしたどんな求婚とも、違っていた。


 アレクセイ様の「しがらみより自由な恋」とも違う。

 王太子殿下の「慣例と責務」とも違う。


 この方は、私の仕事を、知っている。

 知った上で、それを私の仕事だと、名前ごと、呼んでくださった。


 私は、一度だけ、自分のこめかみを、指で押さえた。

 それから、数えた。


 窓の鍵、1。

 白い布巾、1。

 氷水、1。

 席、1。

 林檎、1。


 5つ。


 この5年、私が、数えなかった日のない、5つ。


「辺境伯様」


「はい」


「1点だけ、お伺いしても、よろしゅうございますか」


「どうぞ」


「その『隣』の、お席順を、ご存じですか」


 彼は、少しだけ、目を見開いた。

 それから、静かに、笑った。


「辺境伯の妻の席、でしょうか」


「はい」


「王太子殿下の真向かいの、1つ左、と伺っております」


「ご存じでしたか」


「知っていました。5年、あなたの仕事を、見ていましたから」


 私は、初めて、彼の顔を、まっすぐ、見た。


「……では、そのお席で、ご一緒、いたしましょうか」


 彼は、指輪のない私の薬指に、一度だけ、そっと、唇を寄せた。


「俺の家紋の指輪なら、明日、お持ちします。あなたの家紋のほうは——」


「アレクセイ様のお手元、ですね」


「はい」


「あれは、戻りません」


「……」


「質に、入っております。買い戻すだけの金子を、ベレント公爵家が今、お持ちかどうか」


 彼は、静かに、答えた。


「では、国法に従って、あちらの家が、代価を、お支払いに、なりますね」


「ええ」


「300年分の、代価を」


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 アレクセイ様とミレーヌ様の新婚約儀礼は、その4日後に、王宮の小聖堂で、執り行われた。


 私は、その場に、いなかった。

 けれど、何が起きたかは、後日、婚姻庁から、父のもとへ、正式な通達として、届いた。


 儀礼の冒頭、婚姻庁長官が、帳面を開き、静かな声で、読み上げたそうだ。


「ベレント公爵家ご令息、アレクセイ様。前婚約の返納品のうち、家紋入りの指輪1点、未返納のまま、本日、新婚約に、臨んでおられます」


 アレクセイ様は、顔を、青くなさった。


「い、いや、あの、それは、後日、必ず、取り戻しますので、本日は、前倒しで——」


「前倒しも、後倒しも、ございません」


 長官は、顔を、上げなかった。


「返納は、完了しているか、おらぬか。国法の定めるところは、それだけで、ございます」


「……」


「本日の新婚約は、成立いたしません」


 ミレーヌ様が、隣で、細く息を吸うのが、聞こえたそうだ。


「アレクセイ様。指輪、を」


「い、いや、それは、修理に、石が」


「アレクセイ様」


 ミレーヌ様の声が、少しだけ、震えた。


「婚約の指輪に、石は、ございませんわ」


 アレクセイ様は、そこで、2度目に、顔の血の気を、失った。

 1度目は、私の前で。

 2度目は、ミレーヌ様の前で。


 ベレント公爵は、杖を、床に、静かに、一度、突き立てた。


「アレクセイ」


「……はい」


「指輪は、どこに、ある」


 アレクセイ様は、答えられなかった。

 質入れ先を、思い出せなかったのだ。


 3箇所の候補があり、そのいずれにおいても、利息が、既に、元本を、超えていた。

 どの店に、どの利息が付いているか、彼は、紙に書き留めてさえ、いなかった。


 答えられない、ということは、答えだった。


「——300年を、失ったな」


 ベレント公爵は、そうおっしゃって、杖を握り直し、静かに、小聖堂を、出ていかれた。


 その日の夜、王宮の家督台帳が、一行だけ、書き換えられた。


「ベレント家、当主格級、侯爵位に更正。暦307年、婚姻儀礼返納不履行による降格規定に基づく」


 父は、その通達を読み終えて、お茶を、一口、ゆっくり、飲んだ。


「……面倒な男だったな」


 *面倒な男でしたね、*と、私は心の中でだけ、父に、調子を合わせた。

 ご自分の質入れ先さえ、数えられない方でしたから。


 父は、私の顔を見て、一度だけ、笑った。

 こんな父を見るのは、珍しかった。


「お前は、数えられる家に、嫁ぐか」


「……数えられる方が、迎えに来られました」


「そうか」


「窓の鍵まで、数えられます」


「それは、安心だ」


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 それから、3月後。

 私、ヴィオラ・アーレンデルは、辺境伯ルスラン・ヴェルトハイン様の妻となる儀礼のために、王宮の大広間に、立っていた。


 儀礼の席順は、全て、頭の中に、入っていた。

 入っていたが、今日、私はそれを並べる側では、ない。

 並べられる、側だ。


 王太子殿下の真向かい、1つ左。

 辺境伯の妻の席。


 ルスラン様が、私の隣に、立たれた。


「席順、合っておりますでしょうか」


「はい」


「あなたが確認なさらないと、俺は、自信が持てません」


「……ご心配なく。本日の補佐は、私の妹が、いたしますので」


「妹君も、ご職業柄、ですか」


「ええ。アーレンデル家の娘は、5歳から、数え始めますので」


「数える」


「人の数、皿の数、席の数、時刻の数、返礼の数、視線の数、沈黙の数」


「……窓の鍵も」


「窓の鍵も」


 彼は、少しだけ、笑われた。


「今日、俺の右側に、氷水は、ありますか」


「本日は、ございません」


「ほう」


「長時間の晩餐では、ありませんので、必要ないかと」


「では、代わりに、何を、用意してくださったのですか」


 私は、彼の顔を、見上げた。


「……何も。本日の私の仕事は、あなたの隣に、立つことだけ、です」


 彼は、私の左手を取って、薬指に、指輪を、通した。

 家紋の刻まれた、銀の輪。

 石は、今度も、嵌まっていない。


「その指輪、お返しいただかなくて、結構でございます」


「ええ。——二度と」


 儀礼の鐘が、鳴った。


 大広間の端では、新任の配膳係が、殿下の皿の右に、薄く切った林檎を2切れ、静かに、置いていた。

 副官殿の右側には、白い布巾が、1枚、余分に。

 廊下には、氷水が、用意されて、待っていた。

 昨日、妹が、すべて、手配していた。


 私がいなかった10日間、王宮は、小さく、壊れかけていた。

 今日からは、妹が、ここを、数えていく。


 私は、もう、この広間を数える者では、ない。

 今日からは、この方の隣で、この方の空気を、一人分、数える。


 数えることなら、得意だ。

 これから、一日ずつ。


 返納されない指輪が、1つ、私の手にある。

 ——それで、十分だ。

【作者から読者様へお願いがあります】


少しでも、


「面白い!」


「続きが気になる!」


と思っていただけましたら、


広告の下↓にある【☆☆☆☆☆】をタップして、


【★★★★★】にしてくださると嬉しいです!


皆様の応援が、作品を書く最高の原動力になります!


なにとぞ、ご協力よろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ