水の貴公子
今日は久しぶりの「休日」だ。
今日はお勉強の予定は何一つない。
玻璃からの御誘いで一緒に買い物に行くことになっている。
何故だかは解からないけれどスペードからお小遣いを貰ってしまったので、きっと襤褸になった靴でも買いかえろと言うことなのだろう。
基本的にクレッシェンテはよく歩く。
庶民の移動手段は主に徒歩だからだろう。
馬車に乗るのは貴族と決まっている。
いや、ハデスの人たちは、個性豊かにさまざまな乗り物に乗る。
ルシファーは人力車がお気に入りのようだし、アラストルは基本的に新しい物好きのようで自動車に乗っている。リリムには馬車を与えられているらしいし、他の人たちは馬を使う。
それに対してディアーナは徒歩以外の移動手段を知らないように、みんなとにかく歩く。
だから、今も私は玻璃と並んで歩いているのだ。
「あの店、寄っていい?」
「勿論」
玻璃が指したのは画材店だった。玻璃は赤い絵の具が切れたとか言って絵具を吟味している。
私はと言うと、絵心は無いので初めから画材なんか買う気にもなれないが、連日の書きとりでインクが切れているのと、ペン先をダメにしてしまったので、インクとペンを購入した。
「玻璃は文字書けるの?」
「ううん。読み書きは苦手」
「へぇ、練習は?」
「アラストルが三日目で匙を投げた」
意外と根気強いアラストルが諦めるとは何があったのだろうか?
気になったが訊ねることは出来なかった。
「すまない」
店を出た瞬間だった。
長身の男に呼び止められた。
「何?」
「カトラス・ジョアン・ロートという男を知らないだろうか?」
「カトラス・ジョアン・ロート? カトラスAならば知っているが人違いだろうか?」
「ああ、そういえば最近はスペードとか名乗っているんだった」
「え?」
「知らないだろうか?」
どこか儚い雰囲気の男だ。
「メルクーリオ?」
突然玻璃が呟いた。
「玻璃……私の天使……探しました」
「いや、アンタ、今探してたのはスペードでしょ?」
「ああ、忘れていた」
「忘れるなよ」
いろいろ突っ込みどころが満載な人だ。
ウラーノとは少し違うけれど、なんだか高そうな服を着ている。それに、なんと言うか趣味がいい。時代錯誤という感じは若干感じるが、クレッシェンテではそれは普通だ。どちらかというと、彼は現代的だ。
まぁ、いかにも高そうなアクセサリーをじゃらじゃら付けているあたりはメディシナみたいだけど、彼は似合っている。
それが不自然ではないのだ。
「玻璃、結婚して欲しい」
「嫌」
しかも私の存在は完全に無視して玻璃にプロポーズして断られている。
一体何者なんだ?
「玻璃、この人誰?」
「メルクーリオ。ロートの伯爵」
なるほど。ウラーノと同類か。
「で? 私の玻璃に何か用? 伯爵さん」
「君の? どういうことだろう」
どこか眠たそうにも見える表情で、彼は囁くような甘い声で言う。
「玻璃、こいつ好き?」
「嫌い」
一蹴だ。
いや、好き嫌いはっきりしてるのはいいと思う。
「だってアラストルのこと殺そうとした」
「ああ、だったら私にも敵だ。アラストルには世話になってるからね。スペードのことも殺す気?」
「カトラスには用件があるだけだ」
やはり彼の声はどこか甘い。
こんな声を知っている気がする。
「なんかスペードの囁き声に似ている」
兄弟とか親子って声が似るって言うけど、出身地で声が似たりもするんだろうか?
「へぇ、君、カトラスのこと本当に知ってるんだ」
「そりゃ、世話になってるし……」
「それより、玻璃、私の妻になって欲しい。何不自由ない生活は保障する。ドルチェもたくさん用意しよう」
「うっ……」
玻璃はドルチェで若干揺らぎそうだ。
本当に誘拐されそうな子だ。
「やぁ」
呆れて玻璃を見ていると、知っている声がした。
「あ、ジル、丁度良かった。あそこにロリ誘拐未遂の男が居るから捕まえてよ。このままじゃきっと陛下も危ないよ」
「陛下が? って……メルクーリオ・ロートだ。彼はそれなりに陛下に従う。積極的ではないが逆らいはしない。今のところ無害な男だよ」
「でも、玻璃を誘拐しそうだ。国民の安全を護るのも宮廷騎士の仕事じゃないの?」
わざとジルにそう言ってみる。
「……いやな言い方だね。まぁいいや。メルクーリオ・ロート、その子から離れろ」
「君は……確か宮廷騎士の……ユリウスだっけ?」
「誰がユリウスだって?」
「まぁいいや。邪魔をするな」
メルクーリオはジルの存在すら無視して玻璃に視線を戻す。
「あの人……頭大丈夫だろうか?」
「僕は精神病棟に入院させるように勧めたんだけどね。ロートの使用人たちはそれをよしとしなかった」
「へ、へぇ……取り合えず、玻璃を救出して帰ろうかな?」
「え?」
「だって、買い物の続きなんてできそうに無いもん」
「君、あの子の連れ?」
「うん」
「ふぅん。仕方ないから助けてあげるよ」
「え?」
そう言ったかと思うと、ジルは二人の間に入って見事に玻璃を「攫って」来た。
「はい。連れは取り戻したよ」
「あ、ありがと……」
いや、もう少しやり方は無いのだろうか?
あのメルクーリオという男は少しばかり反応が遅い。
「なんかすごい甘い匂いする……」
この匂い……時々スペードの服からする匂いだ。
「ロートの特産の蓮の香だろうね」
「ああ、それであの人が幻影みたいに見えるんだ」
「違う」
メルクーリオは静かに言う。
「現に実体じゃない」
そう言ったかと思うと彼は消えた。
「え?」
「あっ……」
驚いたのは玻璃も一緒だったらしい。
「ジル、今の何?」
「魔術師に良くある手だよ。自宅に篭りながら幻影を動かす。特に貴族級のやつらは、人や物を探すときに自分は動きたがらない。ああやって幻影を使うんだ。そういう時は香を利用するやつが多いよ」
「へぇ。で? 蓮?」
「ロートはすごく蓮が綺麗だよ」
「へぇ」
地方によって特産が違うのはわかったけど……。
「ナルチーゾはバラだっけ?」
「うん」
「ムゲットは?」
「織物とかかな?」
「特産品は主に紙と織物、それと横笛だよ。キオッコロって言う」
「へぇ、花じゃないんだ」
「さすがに特産品にするほどの花は育てられないからね。けど、有名なのは桃の花だ」
「へぇ」
「日ノ本から何千年か前に運ばれたらしい」
スケールが大きすぎてわからない。
「あ、そういえばスペード! さっきの男、スペードに何かするつもりだ」
「捕らえてくれるなら大歓迎だけど、ちゃんとこっちに渡してくれるかが問題だね」
「え?」
「結構私刑にかけるやつが多いんだよ。貴族は」
「ああ」
どっちにしろスペードが殺されること前提に話が進んでいる。
「ごめん玻璃、私帰る」
「え?」
気がつくと玻璃の返事も待たずに駆け出していた。