地の貴公子
翌朝、メルクーリオは馬車を用意してくれた。四頭立ての馬車だ。
ロートの馬は幻影に強い。
あの蓮の香りに惑わされないのだ。
「いつでも来るといい」
「ありがとう。でも、あんまり来ること無いと思う」
「それは残念だ。そなたならいつでも歓迎しよう」
消え入りそうな伯爵は、微かに笑む。
「カトラス、行くのか?」
「ええ、もう二度とこの地に足を踏み入れることが無いことを願いますよ」
「馬鹿なことを。お前は必ず戻る。この地に」
見開かれた瞳は予言。そう感じるのは私だけではなかった。スペードもそれを感じたのだろう。
「そう、ナルチーゾ伯は不在だ。進路を変更したほうがいい」
「え?」
「オルテーンシアに呼ばれている」
メルクーリオは溜息を吐く。
「ヴェーヌスはナルチーゾ伯を気に入っているようだ」
「ウラーノにしてみれば天敵でしょうに」
セシリオはさぞ面白そうに笑う。
本当に人の不幸を好む男だ。
「今から行くならばヴィオーラに向かうといい」
「え?」
「ヴィオーラ伯は少しばかり人見知りするが、そなたなら大丈夫であろう」
そう、メルクーリオは私の頭を撫でた。
「急ぐといい。日が傾くとヴィオーラには盗賊が出る。ヴィオーラの盗賊は宮廷の馬車だろうが容赦なく略奪する。ヴィオーラ伯はそれを止めることが出来ぬのだ。気をつけるといい」
「う、うん」
盗賊にはまだ会ったことが無い。
けれど暗殺者より怖いものなのだろうか?
もっとも、暗殺者が回りにいすぎて恐怖を感じなくなったのだけども…。
「じゃあ、またね」
「ああ」
馬車に乗り込む。
宮廷の馬車よりずっと広い。
「ヴィオーラへ」
スペードが馬に話しかけた。
「何してるの?」
「目的地を馬に教えました」
「馬に?」
乗り込んできたアラストルも不思議そうに訊ねる。
「ロートの馬は元は魔術師。愚かな失敗を犯して馬になったものたちです」
「げっ……」
「魔術なんかに頼るからそうなるんだ」
ジルはどうでもよさそうに大きく欠伸した。
「ジルって本当に魔術師が嫌いだよね」
「そうでもないさ。魔術師の中でもラファエラみたいな馬鹿は嫌いじゃない」
「ラファエラ?」
「姿を変える魔術師か使えない魔女だよ」
ジルは可笑しそうに笑う。
相当なお気に入りなんだろう。
「ペネルとかドジな子好きでしょ。ジル」
「まぁね」
「本当に、性格が悪いですね。宮廷騎士団長は」
「お前に言われちゃ終わりだろ」
ジルをからかおうとするセシリオをアラストルがたしなめる。が、ひと睨みされれば大人しくなる。
ダメだ。
使えない。
「アラストルのヘタれ」
「うるせぇ……お前、こいつらに勝てるか?」
実力で、と彼は付け加える。
「無理」
「だろ? 俺は絶対負けると分かってる勝負はしねぇ」
ということは、クレッシェンテ最強の剣士はクレッシェンテではそれほど強くないということだろうか?
いや、アラストルの場合は剣で勝てても口で負けるということもありえる。
何も言わないであげよう。
「ネレイド、あれは何だ?」
「馬車ですよ。ネットーノ様」
声がする。
「馬車? 初めて見たよ。速い?」
「あれはロートの馬ですからね。速いでしょう」
「ふぅん。僕も乗ってみたいな」
「そうですね。遠出の機会がありましたらご用意いたしましょう」
「誰かいるよ」
「ああ」
「ふたり、ですね」
私のほかはみんなのんびり構えている。
セシリオは呑気にナイフを磨いているし、ジルは大きな欠伸。スペードは本を開き始めたし、アラストルはぼーっとしてる。
「敵じゃない?」
「ええ、全く害意はありませんよ。観光客じゃないですか?」
それは無いだろうといいたいが、相手がセシリオなので黙っておく。
「幼い伯爵ですよ。執事を連れて、時折のんびり探索をするのが好きなんです」
「あれ? 知り合い?」
「いいえ。でも、情報は入ってくる」
退屈そうにスペードは言う。
「幼い伯爵ねぇ。幼いっていくつくらい?」
「外見だけならお前より下です。実年齢は……いくつでしたか?」
「陛下より上だということだけは確かだよ」
ジルは不満そうに言う。
ああ、スペードが同じ空間にいるだけで嫌なんだ。この人。
「ネレイド、こっちに来るよ」
「……お客様、のようですね」
「……どうしよう。追い返してよ」
「そういうわけには」
声がする。
確かに子供みたいな声。
怯えているようなそんな声と、保護者みたいな人の声。
「嫌な予感しかしない」
「大丈夫ですよ。ただの子供です」
セシリオは笑うが、別に危険と言う意味で嫌な予感がするわけではない。
面倒ごとがありそうな予感だ。
「スペード、ジル、苛めないでよ」
「苛めないよ」
「何故僕に言うのです?」
「一番苛めそうな二人だから」
泣き出されたら困る。
いや、どんな人か知らないけど。
馬車が止まる。
「お待ち申し上げました。ようこそヴィオーラへ」
黒い髪の赤い瞳の男が出迎えた。
どこか玻璃を連想させる外見だけど、彼は玻璃とは違う。玻璃は空っぽに見えるときもあるけど、この男はただただ冷たい。そして、恐ろしくも感じる。
「よ、ようこそ……わ、我はヴィ、ヴィオーラが領主、ネットーノ・ヴィオーラ伯爵、だ」
噛んだ。その上声が震えている。
ダメだこの人。
と、思って見上げると、思ったより小さい。
子供。
そう、子供に見える。
でも、陛下ほど幼くも無い。
中学生になって少しくらいに見える。ただ、その子が中学生には見えないのは明るすぎる茶髪のせい。
大人しそうなのに、その髪が少しばかり遊んでいるような雰囲気を出す。
まぁ、日本だったら、の話だ。
「はじめまして。陛下の命令で参りました」
手短く挨拶を済ませる。
「ああ、貴方方が……そうですか。ネットーノ様、さぁ、応接間にご案内してください。貴方のお客様ですよ」
「う、うん。ね、ネレイド、お前も着いて来て……」
心細そうにネレイドと呼ばれた彼の袖を掴む姿がなんとも可愛らしい。
ただ、あの不気味な男に縋れるというのが、彼の素晴らしさでもあるのだろうけど。
「……申し訳ございません。ネットーノ様は少しばかり人見知りがありまして」
少しばかりと言う次元ではない。
スペードとジルに見られて既に涙を浮かべている彼は肉食獣に狙われた子ウサギのようにしか見えない。