30話:希望はモフモフから始まる
王都を離れた野営地は、驚くほど静かだった。
取り敢えず俺は、従順に拘束されようとしたタメ、安全と見なされ、拘束騎士達の目が届く範囲なら行動自由となった。
邪教団、王国、監視、選択――頭が重くなる話題は山ほどあるのに、今は不思議と心が落ち着いている。
理由は簡単だ。
「……近い」
俺の膝の上には、プーコがいた。しかも丸まって、完全に寝ている。
「お前、さっきまで見張りしてなかったか?」
「ぶもぉ……」
返事にならない寝息。でかい。重い。でも――温かい。
「ふふ……」
思わず笑いがこぼれた。
「こんな状況で、笑えるんだね」
向かいの焚き火のそばで、リーネがマグを差し出してくる。
「はい。あったかいの」
「ありがとう」
受け取ると、ほんのり甘い香りがした。
「……はちみつ?」
「うん。プーコが分けてくれた」
「お前、どこから持ってきたんだよ……」
プーコの腹が、満足そうに上下する。
アイシアは少し離れた岩に腰掛け、腕を組んでこちらを見ていた。
「……信じられんな」
「何が?」
「世界の命運を背負う者が、魔獣を膝枕にして茶を飲んでいる光景だ」
「いや、俺だって信じられないよ」
自分がここまで来たことも。まだ笑えていることも。
さっきまで、選ばれた存在だの世界を壊す力だの、重たい言葉ばかりだったのに。今はただ、モフモフがあったかい。
「ねえ、マコトさん」
リーネが、少しだけ照れたように言う。
「私、決めたことがあるの」
「決めたこと?」
「どんなことが起きても、ちゃんと笑う」
「……それ、結構難しくない?」
「うん。でもね」
彼女はプーコの背を撫でる。
「こうやって、小さな楽しいを大事にすれば、きっと、全部真っ暗にはならない」
その言葉に、胸がじんわり熱くなった。
(ああ)
(この人が、俺の隣にいる理由だ)
アイシアが、ふっと息を吐いた。
「……人間は、弱い」
「知ってる」
「だが――」
彼女は、少しだけ口元を緩める。
「弱いからこそ、こういう時間を作れるのかもしれんな」
竜が、そんなことを言う日が来るとは。
そのとき、背後で何かが動く気配がした。
「……ん?」
振り向くと、モフが茂みから顔だけ出して、こちらをじーっと見ている。
「モフ? どうした?」
「もふ……」
鳴き声が、やけに弱々しい。
「え、もしかして……」
リーネが立ち上がって、茂みに近づく。
「マコトさん! モフちゃん、震えてる!」
「え!?」
慌てて駆け寄ると、モフは小さく丸まって、耳をペタンと伏せていた。
「大丈夫か!?」
抱き上げると、モフの体はふるふる震えている。怪我はない。病気でもなさそうだ。
「……もしかして」
アイシアが冷静に言った。
「夜の闇が、怖いのだろう」
「怖い?」
「星毛獣は光を好む種だ。暗闇を本能的に恐れる」
「そうだったのか……」
モフは俺の胸に顔を埋めて、小さく「もふぅ……」と鳴いた。
「よしよし、大丈夫だから」
頭を撫でると、少しずつ震えが収まっていく。
「マコトさんの腕の中が、一番安心するんだね」
リーネが優しく微笑む。
「そうだな。モフにとってマコトは、光そのものなのだ」
アイシアの言葉に、胸が詰まった。
(俺が、光……?)
そんな大それたものじゃない。でも、モフにとっては、そうなのかもしれない。
「もふ……」
モフが、少しだけ顔を上げて、俺を見た。その黒い丸い瞳に、焚き火の光が映っている。
「……ありがとな、モフ」
「もふ?」
「お前がいるから、俺も頑張れる」
「もふぅ!」
モフが嬉しそうに鳴いて、俺の首にしがみついた。
プーコが突然、もぞっと動いた。
「ぶもっ!」
「うわっ、起きた!?」
次の瞬間。どすん。――完全に体重を預けてきた。
「重い重い重い!」
「ぶもー!」
(訳:甘えている)
リーネが吹き出す。
「ちょ、マコトさん、顔潰れてる!」
「笑ってる場合か!?」
「ぶもぶも!」
プーコは俺の上でゴロゴロ転がり始めた。モフもキャッキャと喜んでいる。
「お前ら、完全に俺を遊び道具にしてるだろ!」
「もふもふ!」
「ぶもー!」
アイシアは、呆れたように目を閉じた。
「……やれやれ。魔王とやり合う前に、筋力を鍛えろ」
「それは後で考える!」
焚き火の火が、ぱちぱちと弾ける。夜空には、雲の切れ間から星が見え始めていた。
あの日。俺が星空に吸い込まれた夜。あれは終わりじゃなかった。きっと――ここからが続きなんだ。
世界はまだ、怖い。敵も多い。
でも。
笑える時間があるなら、歩いていける。
「マコトさん」
リーネが、焚き火の向こうから声をかけてくる。
「明日からまた大変だけど……でも、私たちならきっと大丈夫」
「……ああ」
「だって、こんなに温かいんだもん」
彼女は、プーコの背に手を置いて、にっこり笑った。
「ぶもー」
プーコも、満足そうに鳴く。
「もふ……」
モフは、俺の腕の中でまた眠り始めた。今度は、穏やかな寝息。
アイシアが立ち上がって、夜空を見上げる。
「マコト。世界は選択を迫ってくる。だが、忘れるな」
「何を?」
「お前には、守りたいものがある。それがある限り、お前は道を踏み外さない」
その言葉が、胸に染みた。
「……ありがとう、アイシア」
「礼には及ばん。私は、お前の選択を見届けるだけだ」
彼女はそう言って、また岩に座った。
焚き火が、静かに燃え続ける。
遠くで、夜鳥が鳴いた。
星空が、少しずつ広がっていく。
あの日見た星空の続き。
今度は、一人じゃない。
リーネがいる。プーコがいる。モフがいる。アイシアがいる。
そして――これから出会う誰かも、きっといる。
「よし」
俺は小さく呟いた。
「明日から、また頑張るか」
「うん!」
リーネが元気よく返事をする。
「ぶもー!」
プーコも、やる気満々。
「もふぅ……」
モフは、まだ寝てる。
それでいい。
そう思えた夜だった。
希望は、モフモフから始まる。
そして、俺たちの物語は――まだ、続いていく。
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