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1話:星に吸い込まれた夜

「お疲れ様でした」


 定時の三時間後。俺、高橋誠は力なく頭を下げて、オフィスを出た。


 金曜の夜。街は華やいでいる。


 居酒屋の前を通り過ぎる若者たちの笑い声が、やけに遠く聞こえた。


「誠、今日飲み行かない?」


 同期の田中が声をかけてくれたのは、三ヶ月前が最後だ。

 それ以降、俺は完全に職場の透明人間になっていた。

 二十七歳。彼女いない歴=年齢。貯金は多少ある。


 でも、それだけだ。


 その時の俺は、何もかもに疲れ切っていた。


 仕事は上手くいかない。

 人間関係は薄っぺらい。


 将来のことを考えれば考えるほど、胸の奥が重くなる。


 頑張れ、と言われ続けてきた。

 逃げるな、とも言われてきた。


 でも――もう、限界だった。


 駅のホームに立ちながら、俺はふと思った。


(このまま家に帰って、また月曜日が来て……何のために生きてるんだろう)


 自殺願望があるわけじゃない。

 ただ、疲れていた。

 心が、魂が、すり減っていた。


 その時だった。

 ふと、空を見上げた。


 都会の夜空は明るすぎて、星なんてほとんど見えない。


(きれいな星が……見たい)


 理由なんてなかった。


 ただ、何か違うものを見たかった。

 この灰色の日常じゃない、何かを。


 気がつくと俺は、行き先も決めず電車に乗っていた。


 衝動のまま、ただ遠くへ。

 終点まで乗り、バスに乗り換えた。

 さらにバスを乗り継ぎ、とにかく奥へ、奥へと向かった。


 窓の外は次第に暗くなり、街灯が減り、建物が消えていく。

 舗装された道が終わり、車内に揺れと静けさだけが残った。


 次第に、空気が冷たくなっていく。

 建物が減り、森が増えていく。

 人の気配が、どんどん薄れていく。


 最後のバス停で降りたとき、もう日は完全に暮れていた。


「ここは……どこだ?」


 看板もない、小さなバス停。

 周囲は木々に囲まれている。


 人の気配はまったくない。

 吐く息が白く、音がやけに遠い。


 俺は何となく、山道を登り始めた。


 懐中電灯もない。

 スマホのライトを頼りに、一歩一歩進んでいく。


 足が痛い。息が上がる。

 それでも、俺は歩き続けた。

 どれくらい歩いただろう。


 気がつけば、俺は山奥の寂れた神社の境内に立っていた。

 鳥居は傾き、社殿は古び、賽銭箱は朽ちかけている。


 誰も管理していないのだろう。

 いつの間にか、完全に暗くなっていた。


 電灯一つない境内。


 静寂だけが、そこにあった。

 人の気配はなく、聞こえるのは風と、遠くの虫の声だけ。

 俺は何となく、境内の中央まで歩き、立ち止まった。


 そして――空を見上げた。


「……っ」


 息を呑んだ。


 そこには、今までの人生で見たことのない星空が広がっていた。


 夜空一面に、無数の光。


 近くて、鮮明で、まるで落ちてきそうなほどだった。

 無数の星が、宝石のように輝いている。

 天の川が、本当に川のように流れている。

 星々が、まるで手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じられた。


「すごい……な」


 思わず、声が漏れた。


 スマホの画面越しではなく、写真でもなく、

 ただそこにある、本物の星空。

 都会では絶対に見られない、宝石を撒き散らしたような夜空。


 胸の奥が、じんわりと熱くなった。


「もう……どうでもいいや」


 誰に聞かせるでもなく、そう呟く。


 成功しなくてもいい。

 期待に応えられなくてもいい。

 誰かに認められなくても――今は、どうでもよかった。


 仕事も、人間関係も、将来も。

 全部、どうでもいい。


 こんな綺麗な星空があるなら、それでいい。


 もう、何も考えたくない。

 何も、感じたくない。


 ただ、この星空を見ていたい。


 俺はそのまま、地面に寝転がった。

 冷たい土の感触が背中に伝わる。

 石畳の冷たさが、体温を奪っていく。


 でも、不思議と嫌じゃなかった。

 肌を刺すような冷たい空気も気にならないほど、綺麗な星空だった。

 星を見上げていると、視界がゆっくりと滲んでいく。


 気づけば、頬を温かいものが伝っていた。

 泣くつもりなんてなかった。

 でも、涙は止まらなかった。

 理由なんて分からない。


 なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。


 悲しいのか。

 苦しいのか。

 それとも、ただきれいだから。


 ただ、きれいで、苦しくて、少しだけ救われた気がした。


 俺はじっと、星空を見つめ続けた。

 吸い込まれるように、ただ見つめていた。


 星が、ゆっくりと回っていく。

 遠くなっていく。


 いや、違う。

 俺が、星に吸い込まれていく。

 まるで、空に吸い込まれるみたいに。

 いつの間にか、体の感覚が薄れていく。


 寒さを感じなくなった。

 体が浮いているような感覚。

 呼吸が、遠くなっていく。

 星が、近づいてくる。


 綺麗だ。


 本当に、綺麗だ。


 こんな綺麗なものを見られただけで、もういいかもしれない。

 そう思った。


「……眠いな」


 そう思ったのを、最後に。

 意識が、遠のいていく。

 星の光が、俺を包み込む。


 暖かい。

 こんなに暖かいなんて、知らなかった。


 ああ――

 もう、何も――

 いらない――


 俺の意識は、静かに闇に沈んでいった。


 満天の星空の下で。

 誰もいない、寂れた神社の境内で。


 ただ一人。

 高橋誠という男の、人生が終わろうとしていた。

 星々が、静かに瞬いていた。

 まるで、誰かを見送るように。

 まるで、何かの始まりを告げるように。

 冷たい風が、境内を吹き抜けた。


 そして――


 すべては、闇に沈んだ。

 だが。


 これは、終わりではなかった。

 これは、始まりだった。

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