待った!くらえ!
「パパっ!」
「り、リリィっ!?」
事前にノックをするでもなく、エヴァンの執務室の扉を開ける。この部屋はヴェイロンの邸宅の中で、最も警備が手薄な部屋だ。止める者は誰もいなかった。
「……」
当然、エヴァンは室内で書類と睨めっこをしていた。前世の私ですら見たことのない量の紙の束を、一目見るだけで処理していくエヴァン。本当に中身全てに目を通せているのか、定かではない。
丁度、大きな束を一つ処理し終えたところだろうか。エヴァンは執務机の上にあったカップを口に運び、再び戻した。
「勝手に入るなと、以前にも忠告したはずだが」
「だってパパ、ノックしても返事してくれないんだもん!」
一切の感情を捨て去ったくらいに、無表情。エヴァンが世間的に『化け物伯爵』として恐れられる原因の一つが、これだ。誰に対しても、決して感情を露わにすることがない……少なくとも、現段階では。
ノックをしても返事すらしない……それは、原作小説でも度々言及されていたことだ。私自身が経験したことではないが、まあ、原作に書いてあったくらいなのだから事実なんだろう。
エヴァンは私の顔を一瞥すると、新たな書類を手にする。可愛い可愛い一人娘の話は、仕事の片手間に聞くものってことかね。終盤ではあんなに甘やかしてたくせに。
「……それで、何の用だ」
「パパにお願いがあるの。アランを、わたしの執事として雇ってほしいの」
「何故だ?」
間髪入れずに、エヴァンが理由を問うてきた。まさか、未来を知っているから味方が欲しい、だなんて正直に言えるはずもない。
「何故って……」
「侍女ならエナがいるだろう。手が足りていないという報告も受けていない」
書類から一切目を離さずに、淡々と告げる。側から見れば、ただの冷酷な父親だが……いや、ただの冷酷な父親か? 原作では文章だけで情景を思い浮かべていたから、ここまでとは思っていなかったけど、実際に話してみると、想像以上に冷たい対応だ。
本当に、リリエルのことを愛しているんだろうか。少し、不安になってきた。
「それは、そうなんだけど……アラン、身寄りがないみたいなの。だから、ここで働いて一緒に暮らせないかな、って……」
「何故だ?」
再び、理由を問うてくる。私が返事に手間取っていると、質問の意図が理解出来ていないと判断したのか、エヴァンはこう付け足した。
「身元も分からない平民を、わざわざお前のそばに置いておく理由を聞いている」
「それは……」
そりゃあ、そうだろう。貴族の当主としては、それが当然の反応だ。奴隷農場で助けた元奴隷の平民を、一人娘が雇いたいと言っている。私がエヴァンの立場でも、一度は反対するかもしれない。
『切り札』を出すべきか。いやしかし、まだ切り出すには早いか。出来れば、私からではなくエヴァンから話に上げてほしい。もう一発くらい、『ジャブ』を打っておくべきか。
「わ、わたしが、アランと一緒にいたいからっ!」
「リリィ……」
後ろにいるアランから、私を心配するような声が聞こえる。エヴァンは持っていた書類の端を揃えるように、机の上に何度か叩き付けると、やはり、表情を一切変えずに言った。
「話にならんな。私には、その少年を雇う理由がない。養う義務もない」
切り捨てるように告げられた言葉。私の願望を全て跳ね除けた上で、エヴァンは次の書類を手に取った。
「話は終わりだ。お前に理由が提示出来るのなら、検討しよう」
……その一言に、勝機を感じた。条件は整った。ここ最近ハマっている、裁判を題材にしたゲームよろしく、私はエヴァンに指を突きつけた。
「そう。確かに、パパにはアランを雇う理由はないかもしれないし、養う義務だってない」
エヴァンは私の話に耳を傾けながら、書類を眺めているようだった。……そして。
「でも、『雇う義務』ならある」
「……何?」
私のその一言に、エヴァンは一瞬だけ、顔を歪めた。ここまで一度たりとも表情を崩さなかったエヴァンが、だ。
私はエヴァンの執務机に向かって歩き出し、反撃を続ける。
「『恩義には恩義を』……借りは返さなければならず、貸しは返してもらわなければならない。それが、ヴェイロンの家訓だよね」
「……そうだ」
『私』に覚えはないけれど、ヴェイロン家の長女として、リリエルはエヴァンから口酸っぱく教えてこられたはずだ。
要は、貸し借りを貸し借りのまま放置しておくことを良しとしないのだ、ヴェイロンは。誰かに助けられたならその分を返し、誰かを助けたのならその分を返してもらう。
そして、この家訓は今回の事件にも関わってくる。エヴァンが、アランをわざわざこの邸宅で保護、治療したことだ。
「パパがアランを助けてくれたのは、アランがわたしの命を助けてくれたから。そうでしょ?」
「そうだ。お前達二人は作戦を立案し、ヴェイロンをあの場に向かわせた。そして、ヴェイロンがお前達二人を助け出した」
農場で私達二人を助けたのは、エヴァンだ。元の時系列でも半年後に同じことが行われることなど、エヴァンは知りようがない。つまり、この時点でアランに対しての借りは、『的確な作戦を建て居場所を知らせてくれたこと』と、『その結果リリエルの命を救ったこと』の二つとなる。
「同時に、お前の命が救われた分の対価として、私はその少年を治療した」
私達二人を救助したことでそのうちの一つは返し、そして、もう一つはアランの怪我を治療することで等価とした。ヴェイロンの家訓通り、エヴァンはアランへの借りを返したのだ。
……でも、一つだけ忘れていることがある。
「……そう。パパが今言った通り。でもね、パパ。もう一つだけ、恩義に報いるべきことがあるの」
「……何?」
にやりと、犯罪的な笑みを浮かべる私。そして。
「パパじゃなくて……アランが、だけどね」
「……え、僕?」
そして、突然名前が出たことでギョッと目を見開くアラン。
「パパ、わたしを見て、何か気付くことはない?」
「……体調は良くなったみたいだな」
「うん。でも、たった一つ、全然元に戻ってないものがあるの」
分かりやすいように、ひらひらとその場で一回転してみせる。あるはずのものが、ない。
確かに、パパはアランへの借りを全て返しただろう。しかし……『リリエル』はどうだろうか。同じくヴェイロンであるリリエル、つまり私にも、ヴェイロンの家訓は適用されるはずだ。
……ここからは、半分が事実で、半分がハッタリだ。農場での生活を知る人物が、私とアランの二人だけだという前提があるからこそ使える、特大級のハッタリ。
「パパ……商人の積荷に『仕込まれてたもの』って、何だっけ?」
私がそう問いかけると、エヴァンは目を見開いた。何に対してかは分からないけれど……驚いているようだった。
そして、彼は頭が良い。たったそれだけの情報で、全てを察したようだ。
「……なるほど。確かに、私にはその少年を雇う義務があるようだ」
「え……え?」
理解出来ていないのは、困惑して私とエヴァンの顔を交互に見るアランだけ。そんな彼に説明するべく、私は振り返って微笑んだ。
「パパにはね、報いるべき恩義はない。けど……アランにはある。わたしの、切ってしまった髪の分。ほら、『髪は女の命』って言うでしょ?」
この三日間で、唯一元通りにはならなかったもの。当然、切ってしまった髪は、たとえこのファンタジー世界だろうと三日では生えてこない。
「わたしの命みたいな髪を作戦に使ったんだから、当然、その分の貸しは返してもらわなくちゃ。せめて、髪が元の長さまで伸びるまでは、ここで働いてもらうとか、ね」
私はアランに堂々と宣言し、そして、心の中で細々と宣言した。
(まあ……ハッタリだけどね)
作戦に私の髪を使ったことは確かだ。アランにはその分を返してもらわなければならない。それも事実。だけど……忘れてはいけない。あの作戦を実行に移した時、アランが囮になってくれたことを。救助が来るまでの間、マダムの暴行を受け続けていたことを。
だから、半分嘘で、半分事実。嘘の部分は、そう……どちらかといえば、私がアランに、借りを返さなければならないわけだ。
ただし、エヴァンを含め、この邸宅にいる人間は、農場での詳しい生活を知らない。私もアランもそこまで突っ込んだ話はしていないし、ラスール夫妻は牢屋で裁判待ち、他の子供達は親元に帰ったか孤児院に引き取られるかでここにはいない。丁度、都合が良いハッタリなんだ。
まあ、最悪、このハッタリがバレたとして……今度は、『私が借りを返さなければならないから、アランをここで雇うことでお給金をたくさんあげよう』と、そういう話に持っていくだけだ。脅威のハッタリ二段構えである。
エヴァンには見えない角度で、口元に人差し指を当てる。今は余計なことを言わないで、と、アランに口止めをするためだ。アランはそこで察したのか、小さく首を振る。
「どう、パパ? アランにはわたしに返すべき恩がある。そしてわたしは、その恩を労働として受け取りたい!」
ずびしっ、と音が出そうなくらい激しく、指を差す。日本では怒られそうな光景だが、生憎、ここは日本ではない。
どうか、このまますんなりと話が進んでくれ。内心怯えながら、エヴァンの返事を待った。
そうしてエヴァンは一枚の書類に何やら書き込むと、こちらに手渡してきた。
「……ふむ。その少年はエナの下につける。それからどうするかは、お前に任せよう。お前の執事だ」
それは、エヴァン・ヴェイロンの名前で、アランを正式に雇用することを通知する書類だった。日本で言うところの、雇用証明書、のようなものだろう。
思わずアランとハイタッチをして喜んでしまう。昂った感情は、ハイタッチだけでは消化しきれない。
「ありがとう、パパっ! 大好きっ!」
私は執務机の裏側に回り込んで、エヴァンに抱き付いた。推しキャラの匂いがする。エヴァンってこんな匂いなんだ。良い天気の日に干したお布団みたいな匂いがする。
「あ……ありがとうございます、旦那様っ!」
アランも、その場で頭を下げ、エヴァンに礼を告げた。彼はそれに対して何も言い返すことはなかったけれど……特別、機嫌を悪くしている様子でもなかった。
エヴァンから離れ、雇用証明書を手にした私達は部屋を去ろうとする。その背中に、エヴァンが声をかけて。
「待て、リリエル」
ぎくり、と肩が震えた。今更難癖を付けられたところで、一度貰った雇用証明書を返すつもりはない。
「リリエル……どこでそのような交渉術を身に付けた」
エヴァンの質問は、そんな簡単なことだった。けれど、答えることは難しい。原作小説の知識と、最近推している裁判もののゲーム、なんて答えても理解出来ないだろうから。
だから、とびきり笑ってみせた。一見すると冷酷な照れ屋の父親に、特大の愛嬌をぶつけてみせた。
「……秘密! パパがもっと素直になったら教えてあげる!」
それだけ言って、何か言い返される前にアランの手を取って部屋を立ち去った。今日は良い日だ。晩御飯にお寿司でも食べたい気分。そういえば、この世界って生のお魚は食べられるのかな。
……二人が立ち去った後、エヴァンは一人、椅子に深くもたれかかりながら天を仰いでいた。
執務机の上には、有名な画家に描かせた妻の肖像画がある。エヴァンは小さな額縁を手に取って、大きなため息をこぼす。
「……爪が甘いな。むしろ、逆の立場だろう」
諸々への聴き取り調査で、エヴァンはリリエルのハッタリを見抜いていた。しかし、それでいて、彼女の要望を聞き入れた。
「素直に……か」
最後にリリエルに言われた言葉が、何故か心に引っ掛かる。エヴァンは額縁を机の上に戻すと、天を仰ぎ、静かに目を閉じた。