離れ離れになんて。
「――――ま」
……眠い。眠いのに、誰かが私を呼んでいる気がする。誰だろう、この声。
「――様」
徐々に、意識が引き上げられていく。夢の世界から現実へと。そして、ゆっくりと肩を揺すられた私は、重い瞼を開いた。
「……お嬢様。おはようございます」
「おはよう、エナ……」
大きなあくびをして、目を擦る。朝から小太りのおばさんに怒鳴られることのない、平穏な目覚め。静かに香る甘い紅茶の匂いが、気持ちを落ち着かせてくれる。
私は帰ってきたんだ。あの地獄のような農場を脱し、この大きな邸宅へ。
ラスール農場から解放されてから三日。エナ達の手厚い看護のおかげか、まだ少し肉付きは悪いものの、鞭で打たれた時に出来た痣の殆どは顔を隠してしまった。流石ファンタジー世界。日本じゃ考えられないような性能の薬や薬草があるもんだから驚きだ。
今はこうして、ユーゼリアにあるヴェイロン辺境伯邸にて療養生活。とはいっても、身体機能に大きな障害が残ったわけでもない。食べ物の量を徐々に増やしたり、一日二回の検診があったり。
「……髪、短くなってしまいましたね」
「え? ああ、うん。仕方ないよ」
私の髪を梳かすエナが、悲しげな表情で言った。
農場を抜け出すために必要だった私の髪。前は腰まで届くほど長かったのに、今は肩にも届かない。『髪は女の命』と言うけれど……実際問題、本当の命には代えられない。
そうそう。農場にいた他の子供達はというと、三十二人いた内の三十人は、エヴァンの支援もあって親元へ帰っていった。身寄りがない子供は、都市の孤児院に引き取られたらしい。
元々、この国では奴隷の売買・運用が禁じられている。あの子達がこれ以上酷い目に遭うことはないだろう。
農場にいた番犬達は、それぞれが調教施設へ。そして、肝心のラスール夫妻は……収監されて判決を待っているところらしい。エナやジェイド曰く、『貴族の娘を奴隷にした罪』や、『違法薬物の栽培・売買』、その他諸々の罪に問われて、死刑は免れないだろう、と。同情する余地もない。
ああ、そう。あの場にいた子供は全部で三十二人。私を除いて三十一人。では、もう一人はどこに行ってしまったのか、という話だけど。
「お嬢、いいですか?」
「ジェイド? うん、入って」
本来なら身支度中の、それも異性の入室は許可されないだろうけど……私は気にしない。髪を梳いているだけだし。
扉を開けて入ってきたのは、ジェイド……と、アランだ。
「おはよう、リリィ」
「おはよう、アラン」
くすんでいた金色の髪は本来の輝きを取り戻し、こけていた頬は少し丸くなった。触れれば折れてしまいそうなほど細かった腕にも、ちゃんと、肉が付いてきたようだ。
アランは……色々あって、あの中でも特に重傷だったから、ヴェイロン邸にて治療を受けることになった。様子を見る限り、この三日で自由に動き回れるくらいには回復したようだ。
「もう良くなったみたいだね」
「かなりね。まだ本調子じゃないけど……キミや閣下のおかげで、痕も残らないみたいだ」
恐らく、私と同じような治療を受けたのだろう。エヴァンには力説したからね。アランがいなければ私は死んでたって。『恩義には恩義を』という信念を持つエヴァンにとって、娘の命の恩人であるアランは放ってはおけなかったはずだ。
「おいおい、ずっと手当してたのはオレだぜ?」
「あはは。本当にありがとうございます、ジェイド様」
そんな風に、ジェイドとも軽口を言い合っている。どうやら、この三日間で随分と仲良くなったみたいだ。
ただ……それはそれとして、どうしたんだろう。この三日間、一度も会えなかったわけでもないのに、わざわざ部屋まで尋ねてきて。
「それで、どうしたの?」
「それが……リリィに、大事な話があって」
「話?」
原作小説にはない展開だ。当然、内容も分からない。
ちらりとエナの方へ視線を送ると、彼女はそれだけで意思を汲み取ったのか、ぺこりと頭を下げ、簡易的に髪をセットしてくれた。
「少し、席を外します」
エナがジェイドを引き連れて部屋を去る。扉の近くには待機しているだろうけど……大事な話というくらいだ。形だけでも二人きりになった方がいいだろう。
「それで、どうしたの?」
そう問いかけると、アランは気まずそうに、頬を掻いている。
「実は……そろそろ、邸宅を離れようと思う」
「えっ!? ……もう?」
アランが、こくりと首を縦に振る。
ここへ来てからまだ三日。怪我自体は治ったものの、彼の言葉通り、まだ本調子ではないはず。まだ、早すぎる。
「もう体だって良くなったし、いつまでも居座るわけにもいかないからね」
「でも、もう少しゆっくりしたって……それに、家にはすぐに帰れる距離なの?」
そんな質問をすると、アランは再び気まずそうな表情を見せる。
「……僕も、身寄りがないんだ。だから、孤児院に引き取られると思う」
「そんな……」
小説ではアランの身の上は語られなかった。序盤のお助けキャラ的な立ち位置にいる、正体不明の美少年、という設定だったはずだ。
……助けたあとのことは考えていなかった。当たり前のように、ずっとここにいてくれるものだと思っていた。
「キミには、本当にお世話になった。キミがいなきゃ、僕はあのまま死んでいたと思う。だから、先に伝えておきたくて」
「アラン……」
このまま行かせれば、アランは他の子供達と同じ、孤児院に引き取られることになるだろう。決して豊かではないが、平穏に暮らすことが出来るはずだ。
けど……もし叶うことなら、ここにいてほしい。私自身がアランを気に入っているということもあるけど、もう一つ。これから待っているであろう、リリエルに関係する人物の、不幸な結末を変えるために……少しでも、味方が欲しい。原作では予定されていなかった味方が。
もちろん、アラン自身がここにいることを望まないのなら、強要はしない。ここに残ることを強いれば、マダム達がやっていたことと同じだから。
「ぱ……パパにお願いしたら、ここで暮らせないかな……?」
「……無理だよ。僕は平民だし、今は孤児だ。どんな理由があればここで暮らせるのさ」
「それは、そうだけど……」
正しすぎる反論に、言い返せない。
アランは俯く私に近付き、そっと肩に手を置いた。
「僕も、もう少しここにいたい。リリィと離れ離れになるのも寂しいしね。けど、仕方ないよ」
……そして、その言葉で我に返った。
そうか。発想を逆転させればいいんだ。ここで暮らす理由を見つけるんじゃなくて……ここを離れられない理由を考えればいいんだ。
「ねえ!」
「うわっ……ど、どうしたの?」
急に顔を上げたからか、アランは驚いて後退る。そんな彼に迫り、今度は私が肩を鷲掴みにした。
「アラン……ここで働かないっ!? ほら、わたしの……わたしのお付きの……『執事』とか!」
「し、執事……? キミの?」
「うん! ほら、仕事だったらお給料も貰えるし、生活も安定するし、何よりここで暮らせるでしょ!?」
豆鉄砲を喰らった鳩のように、アランが目を見開いている。言葉も出ないようだ。
「どう? 名案じゃない?」
「名案、ではないと思うけど……でも、本当のことを言うとね」
「?」
肩に置かれた私の手に触れ、ゆっくりと下ろす。そして、今度はぎゅっと強く握り締めた。
目は、真っ直ぐと私の目を。元気になったことで更に磨きがかかった美顔が、私の前にあった。
「僕は、キミのために生きたい。キミのおかげで生き残ることが出来たんだ。だったら……この命、キミのために使いたい」
「アラン……」
思わず、心臓が止まりそうになった。何度も言うように、アランは少女にも見間違うほどの美少年……男と無縁だった前世の私は、イケメンに対する抵抗力が弱いのだ。
しかしまあ……今のリリエルは八歳。アランも同じくらいの歳に見えるけど、この歳でよくそんな言い回しが出来るもんだ。
……いや、感心してる場合ではない。正確には私がアランを助けたんじゃなくて、私の『髪』が生き残るきっかけになっただけなんだけど、その訂正は後でいい。アランの気が変わる前に、エヴァンに交渉しなくては。
ぎゅっと握られていた手を、今度は私が握り返す。そして、引っ張った。
「……じゃあ、パパにお願いしにいこうっ!」
「えっ、ちょっ、リリィ!?」
「大丈夫っ! わたしに『作戦』があるから」
扉を開いて、当主の執務室へ向かう。足をもつらせながら付いてくるアランを連れて。
二人が走り去ったあと、リリィの自室の扉の前では、ジェイドが微笑ましい表情でそれを見送っていた。
「……オレは応援してるぜ、アラン」
「旦那様に聞かれたら殺されますよ、ジェイド」
「はは、確かに」
やれやれといった様子で首を振るエナと、いたずらな笑みを浮かべるジェイド。やがて二人は部屋の前を離れ、それぞれの持ち場へと戻っていった。