エナ・ディドルセン
……室内に、芳醇なバターの香りが広がる。一度息を吸えば、それだけで肺の中いっぱいに、香ばしい匂いが充填されていく。
「お待たせいたしました、お嬢様方」
お手製のクッキーをトレーに載せ、エナがやってくる。それだけで、私はガッツポーズを決めた。心の中で。
「……とても良い香りですね。これを、エナさんがお一人で?」
「はい。リリエルお嬢様のご学友がいらっしゃるとお聞きしましたので」
セリアと親しくなってから、不定期で開催されるようになったお茶会。エナがこちらに来て初めてのお茶会では、彼女の作るクッキーがメインのお茶菓子となった。
テーブルの上にはエナの作ったクッキーや、街で人気のケーキなど、様々なスイーツが用意されている。今朝のうちに、エナが用意してくれたものだ。『女子会』も兼ねているので、アランは出入り禁止である。
前々から、セリアには話していたことがある。それは、『エナのクッキーの美味しさ』について。こちらに来てから一度も食べられず、禁断症状が出始めていること。それくらいに、美味しいクッキーだということを、熱く語ったのだ。
「エナのクッキーね。ほんっとうに、冗談抜きで、マッッジで美味しいから。本当」
「美味しいものを前にするとキャラ変わりますわね、リリエルさん」
セリアが若干引いているものの、引き下がる気はない。日本人は食にはうるさいのだ。その日本人が、この世で一番美味しいクッキーだと評するのだ。技術が進歩した現代地球でも、これほどの味には出会えない。
是非とも食べてほしい、と、セリアの前にお皿を差し出す。私より先に手をつけるのはいかほどかと、最初は様子を窺っているようだったが、クッキーから漂う甘い香りに釣られ、段々と目から理性が消えていく。口の端から涎が垂れるのが、見えた。
そんなセリアを見て、エナは微笑んだ。まるで、幼子を前にする母のように。
「沢山ありますので、どうぞ、ご遠慮なさらず」
「そ、それでは、お言葉に甘えて……」
セリアがクッキーを一枚手に取り、恐る恐る口へと運ぶ。そうして、一度咀嚼して……すぐに、カッと目を見開いた。
「こっ、これはっ……!」
『モッモッモッ』という音が聞こえそうな勢いで、クッキーを次から次へと口に放り込むセリア。あまりに立て続けに食べるものだから、喉を詰まらせて咳き込んでいる。
むせかえる彼女に水を渡すと、彼女はそれを一気に飲み干した。とても公爵家の令嬢とは思えないような食べ方だけど……それだけ、エナのクッキーが美味しかったということだろう。
「こんなに美味しいクッキー、食べたことがありませんっ……!!」
「でしょぉ!? ね、ね、エナ。美味しいだって。公爵家の令嬢にも通用する味ってことだよ」
「本当にマッッジで美味しいですわ」
「お褒めに預かり光栄です」
私達の、若干気持ち悪い反応に顔色一つ変えず、エナは頭を下げた。その謙虚な態度に感銘を受けたのか、はたまた……セリアは突然、何かを思いついたかのように、顎に手を添えた。
「……うちのコックを一人、エヴァン卿の邸宅へ修行に行かせますか」
「申し訳ありませんが、門外不出の味ですので」
「そ、そんなぁ……」
分かりやすく項垂れるセリア。確かに、逆の立場なら、私でも同じ発想をするかもしれない。
そうして、私もクッキーを手に取り、口に放り込む。いつ食べても変わらない、この世のものとは思えない至高の味。現代日本で味わったどのクッキーよりも美味しく、香り高く、紅茶に合う。恐ろしいことに、コーヒーにも合ってしまうのだ。
そんなクッキーだが……エナは先ほど、これのことを『門外不出の味』だと言っていた。原作でも後に登場する情報であり、私は既に、数年前に直接エナから聞いていることだが、この味はどうやらエナの先代だとか、先先代の侍女が作り上げたものらしい。
エナの本名はエナ・ディドルセン。エナはこうしてエヴァンに仕えているものの、彼女より上の親世代は、エヴァンの生家であるヴェイロン侯爵家に代々仕える家系だった。今でも、エナの母は侯爵家に仕えているはず。
「門外不出ってことは、もしかしてエナのお母さんも?」
「ええ。元は祖母が考案したレシピだと聞いております」
「ってことは、パパも……」
侯爵家でも出されていたものだったとしたなら、必然的に、そこで生まれ育ったエヴァンもこれを口にしているということになる。
私の質問に、エナは首を縦に振った。
「はい。ディドルセンは本来、旦那様の生家、ヴェイロン侯爵様に仕える身ですから。旦那様も、幼い頃はよく召し上がられていたと」
あまり、エヴァンが甘いものを食べているイメージはないけれど……もしかすると、今でもこっそり、一人の時に甘いものを食べているのかもしれない。今度、クッキーの差し入れを持って部屋を訪ねてみるのもいいかもしれない。
「ディドルセンに生まれた者は皆、このクッキーを焼くことができるように躾けられるのです。なんでも、祖母が侯爵様に雇われたのも、このクッキーが理由だったとか」
「え、クッキー一つで侯爵家に? そんなこと……」
ないだろう。そんな風に否定しようとして、セリアが横から茶々を入れる。
「ありますわ。彼女がどこの手の者でもなければ、今すぐにでも公爵家が拾っています」
「……」
勧めた身でありながらこう言うのもなんだが、セリアが少し、エナのクッキーの魔力に引き摺り込まれすぎている。彼女は公爵家の令嬢とは思えないほどの行儀の悪さで、テーブルに肘をつくと、大きなため息をこぼした。
「はぁ……リリエルさんが羨ましい限りですわ……こんなものをいつでも食べられるだなんて……」
作ってくれるかは材料の調達次第なので、いつでも食べられるわけではないが、そんなことを知る由もないセリアは、私を羨ましがって酷く項垂れている。
「……卒業してからも遊びに来なよ。歓迎するから」
「そう言ってくださると思っていました。行きますわ。マジで行きます」
流石に可哀想になって、そんな言葉をかけると、セリアはすぐさま顔をあげて、私の手を取った。上手い具合に誘導された気もするが……まあ、いいだろう。
「公爵家のご令嬢にお嬢様の口調が……」
そんな私達の後ろで、エナが頭を抱えながらそう呟いているのを、私は聞き逃さなかった。『やっちまった』といったところだろうか。彼女は知らないかもしれないが、セリアは元々こういう人間なのだ。私は悪かない。
そうして、セリアがクッキーの美味しさに少し慣れた頃。お茶会は次の話題へと進んでいた。
「しかし……本当に、エヴァン卿の下には優秀な家臣が多いのですね。先日拝見した、ジェイド様もそうですが」
「ジェイドのこと知ってるんだ?」
「ええ。ハンカチを落としたところ、拾っていただきまして。その時に名乗っておられました」
少女漫画の出会い方かよ、というツッコミはさておき、セリアの目がほんの少しハートの形に寄ってしまっているのは、私の気のせいではないだろう。恋愛脳のセリアは、そういう出会い方に憧れがあるはずだ。
「……イケメンだよね、ジェイド」
「そうっ! そうなのですっ!!!」
机をバンと叩き、立ち上がるセリア。興奮を抑え切れないといった様子で、その目はどこか血走っているように見える。
「ジェイド様……白馬の王子様という雰囲気ではありませんが、あのどこか飄々とした雰囲気は、まさしくそう——路地裏の帝王といった感じでしょうっ!」
(ホストみたいな二つ名だな)
心の中だけでツッコミを入れ、興奮するセリアを席につかせる。もうすっかり、私には気を許すようになったのか、自分でもあまり好ましく思っていないあの性格を曝け出すことを、躊躇ってはいないようだ。
「そうだ。エナ様、ジェイド様には婚約者などはおられるのでしょうか……?」
「いえ。そういった浮ついた話は耳にしたことがありません。それから、侍女に様付けはおやめください、セリアお嬢様」
「ふむ……」
セリアは何やら決意を固めたような表情で、テーブルの上に置かれた紅茶のカップを眺めている。
彼女が何を考えているかは、何となく、分かる気もするが……そこに触れると、何だか面倒なことになる予感がした。私は自分の紅茶を一度口に含むと、話を変えるべく言葉を紡いだ。
「そういえば——」
——そうして、数時間にも及ぶお茶会は、セリアが暴走することもなく、無事に終了した。今後、ジェイドとセリアを接触させる時は、タイミングに気を遣わなければならない。そう、心に誓った日になったのだった。




