新生活
大勢の生徒が集う教室。周囲にいた生徒の大半が、私達へと視線を向けていた。
注目の的だ。悪い気分ではない。それがもし、良い意味での的であるならば。
「リリエルさん……わ、わたくしと、勝負しなさいっ!」
私の前には、地面に転がる純白の手袋と、それを投げ付けた勇ましい表情の少女。どう考えてもこれは——中世世界に聞く、決闘の申し出である。
(……どうしてこうなった……?)
突然の出来事に頭がこんがらがり、脳内の時間が、ほんの少し巻き戻る。
「リリエルお嬢様、朝ですよ」
「むぐぉぁ……」
——今朝は、いつも通り、気持ちの良い朝だった。程よく眠気が残った状態での眠気。凝り固まった体をほぐすために大きく腕を伸ばすと、途端に、尿意が襲ってきた。
「……トイレ行きたい」
「ええ、どうぞ」
学園の寮、中でも、成績優良生徒や皇族、高位貴族用の個室には、なんと一部屋一部屋に風呂とトイレが設置されている。部屋自体も、日本で私が暮らしていた部屋より広い。聖アルボア学園が貴族向けの学園であることを加味しても、日本の安アパートが学園の寮の部屋に負けるとは。
トイレから戻ると、アランが良い香りのする黒い液体をカップに注いでいる。それは決して怪しい飲み物などではなく……日本人、特に、社畜にとっては馴染みのある飲み物、コーヒーである。
なんと、この世界、コーヒーが存在する。リンゴが存在するくらいなのだから、存在していてもおかしくはないと思っていたが、まさか本当に存在するとは。三年前、偶然ユーゼリアを訪れた行商人が売っているのを見かけて以来、個人的に取引をしている。
紅茶ももちろん好きだけど……毎日、コーヒーをがぶ飲みしていたカフェイン中毒の限界OLの身から言わせてもらうと、やはり、朝にはコーヒーが欠かせないのだ。
「……いつ見ても不思議だ」
執事モードではなく友人モードで。一緒に席に着いてコーヒーを嗜むアランが、私の顔を見てそう呟いた。
「何が?」
「さっきまで寝ぼけていたリリィが、コーヒーを飲んだ瞬間に、元気ハツラツとすることが、かな」
「ああ……OL時代の癖が、ね……」
「OL?」
「こっちの話だよ」
やはり、朝はコーヒーに限る。程よく残った心地よい眠気を、コーヒーを飲むことで先送りにする。先送りにして先送りにして、その日の夜に、回ってきた眠気を使って、眠りに落ちる。健康には害でしかない生き方ではあるが、これがまた気持ちいいのだ。
そうして朝のティータイム——コーヒータイムが終了すると、それを片付けるアランを置いて、支度を始める。
執事としてここに来ているアランは、基本的には授業には参加できない。当然だ。だから日中、私が授業でいない間は、家事や、個人的な勉強を済ませているらしい。
「さて……」
鞄に荷物を詰め込み、制服に身を包んで、靴を履く。とんとんと、つま先を二度地面に叩きつけて、鞄を肩から提げた。
「じゃ、先に出るね」
「はい。いってらっしゃいませ、お嬢様」
最後は執事モードのアランに見送られ、私は部屋を後にした。
ヴェイロンという肩書きは、便利なこともあれば、不便なこともある。学園生活を送る上では、不便なことの方が多いかもしれない。私はそう思う
「……」
大体の先生が、目を合わせてくれない。原因は明白。かつて、エヴァンがこの学園で暴れ回っていたから。
「……」
大体の生徒が、目を合わせてくれない。原因は明白。化け物伯爵と呼ばれるエヴァンを恐れているから。
「……困ったなぁ」
入学してからもう三ヶ月が経つ。他の生徒は学園生活にも慣れ、順調に青春を謳歌しているというのに、私には友人の一人もいない。毎日寮に帰って、アランに甘やかされる日々だ。
当然、何もしていないわけでもない。この学園でやることはいくつかある。正確に言えば、『やらなければならないこと』か。
その中でも必須なのは、有力貴族である『ソフィア・グリゼルダ公爵』の息女、セリア・グリゼルダとの交友関係を結ぶこと。そして、リリエルやエヴァンの属するヴァンダモニカ帝国の皇太子、アゾルとのパイプを得ること。
後者に関しては、早くとも一年後……アゾルが学園の視察に来たタイミング以降でないと難しい。しかし、前者のセリア・グリゼルダに関しては、イベントフラグ自体は立っているはず。少なくとも、原作小説では、この時点でセリアとの接触があった。
……しかし、それが、ない。どれだけ彼女と関わろうとしても、どういうわけか、彼女の取り巻きによって阻まれ、話しかけることすらできないのだ。
「アランを助けた影響がここまで……いや、どちらかというと、想定より早くエヴァンとの関係性が改善したことが原因か……?」
原作では確か……学園に入学する時期は同じではあるものの、侍従として同行するのはアランではなくエナで、初日にあったような、エヴァンによる見送りイベントなどもなかった。まだこの時点では、エヴァンとの関係性は大して改善されていなかったはずだ。
それが、アランの命を救ったことで、五年前の天狼祭でエヴァンとリリエルの関係性が好転し、私も知らない新たなイベントが増えている。妙に他の生徒や先生がよそよそしいのは、一見すると、エヴァンとリリエルが仲睦まじく見えていたからなのかもしれない。
それはそれで困った話だ。セリアとアゾル、そのどちらも、物語終盤でエヴァンを救うためには必要な人脈である。むしろ、その人脈が無かったからこそ、原作ではエヴァンが命を落としそうになっているのだ。
まずはなんとしてでも、セリアと話をつけなければ。そう意気込んで、今日も今日とて、彼女に猛アタックを仕掛けている。
「リリエルさん。貴女、毎日毎日わたくしのことを追いかけ回して、一体何が目的ですの?」
「へ?」
……今日も今日とて猛アタックを仕掛けていると、ようやく、セリア側から反応が返ってきた。ちょっと、私の知っている反応とは違うが、間違いなく進展だ。なんだか、彼女が猛烈に機嫌を悪くしていること以外、何も問題はない。
「いや、私は……」
いつもの取り巻きらしき生徒達はいない。いや、いる。教室の隅の方で、監視のつもりなのか、じっとこちらの様子を窺っている。
下手に動くと、すぐさま彼女達が飛んできて、セリアから引き剥がされてしまうだろう。未来が徐々に原作から逸れてしまっている今、チャンスは掴める時に掴んでおかなくては。
「エヴァン卿は、帝国内では公爵家にも並ぶとされる力をお持ちです。貴女が、他の者のように公爵家の権威を借りたいわけではないのは分かっていますわ」
(公爵家の権威を借りたいんだよなぁ)
今ではなく、将来的に、だが。そんなことを口にすれば話が拗れることは分かりきっているので、口には出さず、心に留めておく。
「つまり……貴女の目的はわたくし自身。違いますか、リリエルさん」
「まあ、概ね当たっているというかなんというか。そんな感じです」
アニメや漫画の中でしか見たことがない、大きな金髪ツインテドリルを揺らしながら、セリアは、得意げに笑ってみせた。私の目的はセリアと親しくなり、原作終盤で起こる戦いで、公爵家の力を借りること。今の段階で言えば、セリア個人に用があると言っても間違いではない。
と、この段階での私は、ある事実を忘れていた。セリアは公爵家の息女でありながら、恋愛結婚に強く憧れを抱く少女である。白馬に乗った王子様とやらが迎えに来るのを、待っているのだ。
「……残念ながら、わたくしは殿方とアチアチの恋愛がしたいので、貴女の思いには応えられません。私の体が目当てなら諦めなさいな」
つまるところ……『恋愛脳』。頭の中が、端から端までピンク色なのである。
「いえ、そういうのではないので大丈夫です。間に合ってます」
「あら。でしたら、一体……」
読みが外れたと知ったセリアはこてんと首を傾げる。黙っていれば、その美貌はリリエルにも劣らずといった、可憐ながらも勇ましさを兼ね備えた美しい少女だ。ただ、発言にしばしば問題的な内容が含まれているだけで。
(……言葉には気をつけないとな。原作でも、それでセリアと揉めていたわけだし……)
彼女に誤解されないような言葉遣いを心がけなくてはならない。最終的には和解するものの、本来のリリエルとセリアは、そういった妙な『すれ違い』で、原作終盤に至るまでギスギスとした関係だった。
「一応、有力貴族の娘として、公爵家のお方にご挨拶を、と。ずっと、避けられていましたが……」
「おや……それだけですか? 随分と熱い視線を送られていたものですから、わたくしはてっきり……」
「ああ、それは……」
色々と策略を張り巡らせていたからだろう。手っ取り早くセリアと関係を持つにはどうするべきか、とか、どういう順序で公爵家とのパイプを作ろうか、とか。
「近い将来、(エヴァンを救うために必要になるので公爵家の息女である)セリア様と親しくさせていただきたいな、と。そう思いまして」
「近い将来、わたくしと(恋人的なあれこれで)親しく!?」
当たり前のことを言ったつもりなのに、何故か驚かれる。何も間違えたことは言っていないはずなのに。
「そ、そんなっ……そんな、情熱的な目でわたくしを見つめるお人は、初めてですわ……」
(情熱的な目……?)
もちろん、そんなものを向けているつもりはない。なのに、セリアは頬を赤らめたかと思うと、体をくねくねと揺らしている。
「あの……セリアさん……?」
「いえっ、まだ早いですわ。早すぎますわ。そういうのは段階を踏んで、友人からというのが定番でしょう? リリエルさんもそう思いませんか?」
「え? ええ、まあ……」
友人からというか、友人までというか。私はただセリアとの関係を良好なまま保ちたいだけだ。ハッピーエンドのために。
それがなんだか……微妙に、話が変な方向へと、進んでいる気がする。
「その、セリアさん。何か誤解が……」
「ええ、ええ、そうですわね。貴女の未来のことですもの。それで、(結婚式には)一体誰を?」
彼女の質問に、私は思わず驚いてしまった。話に誤解が生じているかと思っていたけれど、そうではないらしい。セリアは、私が公爵家の名前を使って、『何かを成し遂げたい』ということを察していたのだ。
流石、公爵家の娘。恋愛脳ではあっても、きちんと、相手の言葉の裏を読み取っている。この世界で出会った中で、一番頭のキレる人物かもしれない。
「……そこまでお察しでしたか。ならば、隠さず申しましょう。他ならぬ、私の父、エヴァン・ヴェイロンです」
「やはり(自身の父親である) エヴァン卿ですかっ!」
「ええ」
やはり、ということは、セリアはそこまで私の考えを読んでいたのだろうか。恐ろしい人だ。この人には、何人も、隠し事などできないかもしれない。
私が感心ばかりしていると、セリアは何やら深刻そうな表情で、眉を顰めている。何か、彼女の気に障ることでも言ってしまっただろうか。
「……それで、(結婚式は)いつのご予定で?」
それは、『公爵家の名前を使うのはいつになるだろうか』と、そういう意味での質問だろうか。
今、私は十三歳。学園に入学したばかりだ。そして、学園を卒業するのが三年後。十六歳の時。それからリリエルは、エヴァンの補佐として邸宅で雑務を担うことになる。
エヴァンが危機に陥るのは、リリエルが雑務を担い始めてから、二年以内のことだとされている。具体的な時期は分からないものの……今このタイミングからで言えば、およそ四年後から五年後のことになるだろう。
「……そうですね。四年後か、五年後には」
「すぐではありませんかっ! わたくし、まだ心の準備がっ……!」
深刻そうな顔をしていると思えば、今度は再び赤面し、顔を手で覆って体をくねらせるセリア。
……何か、おかしい。私は彼女のことを、凄まじく頭が良く、察しの良い少女だと思っていたけれど……どうにも、様子がおかしい。公爵家の名前を使いたい、というこちらの事情を察していて、赤面する理由が分からない。
(……いや、まさか……)
そこまで考えて、私は思い至った。原作小説は、基本的に全編を通して『リリエルの視点』で描かれている。稀にサイドストーリーという形で他者視点の話が描かれることはあるものの、本編上では、他の登場人物が、内心どう考えているかは読者には分からない。
故に、私の知っているセリアの恋愛脳という情報は、リリエルが『彼女から伝え聞いた』ものに過ぎない。
もし、もしだ。彼女の恋愛脳というのが、リリエルの想定を超えて、極度の重症であった場合……どうなるだろう。元々、彼女は『私が彼女を想っているのではないか』という疑念から接触してきている。一度は否定したものの、その疑念が拭いきれず、私の言葉を全て曲解していたなら——、
「……あの、セリアさん」
「なんでしょう、リリエルさん」
「……さっきから、微妙に話が噛み合っていない気が……?」
こてんと、首を傾げるセリア。私の言葉が、いまいち理解できていないらしい。
「つまり、リリエルさんはわたくしにベタ惚れという話では?」
「違いますがぁっ!?」
——やはりだ。やはり、彼女の恋愛脳という思考回路は、それを伝え聞いたリリエルや、読者である私の想定を超えて、重症である。今の会話のどこをどう聞いたら、私がセリアにベタ惚れだという話になるのか。リリエルは訝しんだ。
私の全力の否定に衝撃を受けたのか、セリアがポカンと口を開けている。そして、言葉を詰まらせながら、口を開いた。
「……わ、わたくしと恋人的なあれこれに発展したいと言ったのは!?」
「一言も言ってませんよ!?」
「結婚式には、エヴァン卿も参列すると……!!」
「何がどうなってそうなったんですか!?」
驚きのあまり、私も言葉が出ない。何をどう曲解すれば、『私がセリアにベタ惚れで、恋人になることを望んでおり、結婚式にエヴァンを呼ぶ想定でいる』という話になるのか。これが分からない。どこをどう取っても、そうはならないはずである。
彼女が今想定していること、その全てが誤解だ。そして、私は思い出した。原作で、リリエルとセリアが犬猿の仲だった原因は……会話の『すれ違い』だ。
(そ……そういうことか……! そりゃあすれ違うよ、これは!!)
すれ違うとかいうレベルではない。そもそも反対方向へ歩いている。会話が成り立たないとはまさにこのことである。
私の反応に、流石のセリアも、自身の考えが全て勘違いだったと気がついたのだろう。今度は先ほどまでとは違う様子で赤面し、耳の先まで真っ赤に染める。そして、次の瞬間——右手に嵌めていた純白の手袋を外し、私に向かって投げつけたのだ。
「リリエルさん……わ、わたくしと、勝負しなさいっ!!」




