平穏な日々
——平穏な毎日というのは、こういう生活のことを指すのだろう。農場を抜け出してヴェイロンの邸宅に帰ってきた私は、つくづくそう感じた。
「んはぁ〜ダメになるぅ〜」
「お嬢様……行儀が悪いですよ」
あれから二ヶ月が経った。何をせずともご飯が出て、療養を言い訳にだらしなく生活する毎日。最低賃金OLを極めていた私からすれば、贅沢極まりない日々だ。こうして日中からベッドに転がっていても、エナとアランに小言を言われるだけで済む。
傍に立つアランは頭を抱えてため息をこぼすと、おもむろにポケットに手を突っ込み、何やら小さな紙袋を取り出した。
「……残念です。エナ様からクッキーを預かっていたのですが……そのような状態では、召し上がることができませんね」
「えっ!? エナの!?」
「ええ。お嬢様が召し上がるかもしれない、と」
エナの焼いたクッキー。原作でも至上の味と評されるそれは、実際に、噂に違わぬ味だった。現実世界で食べたどのクッキーよりも香り高く、濃厚な味で、これを食べたら他のクッキーが食べられなくなるほどだ。
ごくりと、垂れそうになっていた涎を呑み込む。アランはにこりと、悪戯な笑みを浮かべた。私が断れないことを分かっていての、この発言だろう。
「……食べます」
「ええ。準備いたします」
紅茶とクッキー。この世の全てであろうかという組み合わせ。まろやかなミルクを注いで、ミルクティーにしてもらう。
支度をするアランの動きには無駄がなく、まるで、生まれた時から執事として働いてきたかのように、全ての作業をそつなくこなしている。
これも才能だろうか?
「……妙だな。私もアランも同じ状態だったはずなのに……というかむしろ、アランの方が重体だったのに、もうすっかり元通りになってない……?」
「エナ様にしごかれましたから。お嬢様も、たまには外に出て運動でもなされば、元気になるのでは?」
「うっ……運動は苦手なので……」
少なくとも、リリエルではなく、私は。
「どうぞ」
準備が整い、テーブルの上が軽めのティーパーティー状態となる。クッキーを一枚手に取って口に放り込むと、芳醇なバターの香りが口いっぱいに広がった。
「ん〜……おいひぃ……」
頬が落ちるというのは、まさしくこういう味のことを指すのだろう。咀嚼するだけで幸せな気持ちになってくる。
「左様でございますか。エナ様に伝えておきます」
アランは隣に立ったまま、そう言って頭を下げる。その様が、まるで本当の執事のようで……私は、むすりと頬を膨らませた。
「……どうかなさいましたか?」
「……いや、確かに、執事になってほしいって言ったのはわたしだけどさ……二人きりの時は、別に、そんなに畏まらなくても……」
ティーカップの蓋を指でなぞり、そう、愚痴をこぼす。
執事になって二ヶ月。アランはエナも驚くほどの速度で成長を遂げ、立派な執事になってみせた。けれど、彼が執事として質を高めていくたびに、私は、私の知っているアランがどこかへ行ってしまったような……そんな、寂しさに襲われていた。
もちろん、これが我が儘であることは分かっている。無理を言って彼をここに引き留めたのは私だ。これ以上を望んではいけないということもよく分かっている。けれど……心の中では分かっていても、寂しいという感情は抑えられなかった。
「今の私は、お嬢様の執事ですので」
「分かってるけどさぁ〜……あれだけ一緒に頑張ってきたのに、距離感があるというか、壁があるというか……」
「執事ですから、距離感があるのは当然かと……」
私の言うことをこれっぽっちも理解してくれないアラン。じとりとした目で見つめると、ようやく折れたのか、アランはため息をこぼした。
「……でも、いつどこで、誰に聞かれているか分からないよ?」
「別にいいじゃん。わたし達、死線を乗り越えた相棒なんだから」
「僕は平民の出だから……良く思わない人もいるってことだよ」
「ふぅん……」
わざわざそう言うということは、誰か、心当たりがあるのか。今度、エナかジェイドに頼んで、探ってもらおう。
アランが以前のような雰囲気に戻って、私はお茶を楽しみ始めた。流石のアランも、姿勢を崩したり、一緒にお茶をするようなことはなかったけど……まあ、そこはいい。
「そういえば……もう来週だね、アラン」
そう問いかけると、アランはこてんと首を傾げた。
「天狼祭のこと?」
「そうそう」
私……リリエルが予定よりも半年ほど早く救出されたおかげで開催されることとなった、今年の天狼祭。私にはリリエルとして過ごしてきた八年分の記憶があるわけではないから、彼女がこれまでどうやって祭りを過ごしてきたのかは分からないけれど……原作小説通りなら、あまり、楽しみなものではなかっただろう。
何せ、原作のリリエルは母親を早くに亡くし、父親からはあの態度。エナやジェイドといった従者はいたものの、両親からの愛をほとんど知らぬまま過ごしている。表面上は祭りを楽しんでいるように見えて、内心、寂しい思いをしていたはずだ。
……私はリリエルではないのに、祭りを楽しんでもいいものか。そう考えたこともある。エヴァンがリリエルを愛しているということも知っている。でも、『私』は『リリエル』ではない。そんな私が、こうして楽しく過ごすことを……きっと、リリエルは恨めしく思うだろう。
「……リリィ?」
心配そうに、アランが私の顔を覗き込む。ティーカップを持ったまま考え込んでしまっていたようだ。
「……楽しみだなぁ。いっぱい美味しいもの食べられるかなぁ」
笑顔を作ってそう返すと、少しだけ不審に思ったのか、アランは眉を顰めたが……すぐに、元に戻った。
「リリィは毎年、お祭りに?」
「うん。お祭りって楽しいからね」
まあ、その記憶はないわけだが。
「そっか。開催が間に合って本当に良かった。楽しんできてね、リリィ」
「うん。当日は存分に楽しもうね、アラン」
そういって……なんだか微妙に噛み合っていない会話に、私は違和感を覚えた。
「……うん?」
「え?」
それは、彼も同じようだった。どうにも、その言い方だと……アランは、私と一緒には来てくれないようだった。私は当然、一緒に来てくれるものだと……思って、いたんだけども。
「……アラン、まさか、一緒に行ってくれないわけ……?」
「いや、そういうのはエナ様の仕事かと……」
「仕事ぉ? そういうのじゃなくて、わたしは……」
単に、アランと一緒に行きたいだけ。
そう言葉にしようとしたものの、それは突然鳴り響いたノックの音によって、紡がれることはなかった。
『……リリエル、いるか』
声の主はエヴァンだった。私の部屋に来るなんて、珍しい。
「うん。入って、パパ」
声を掛けると、扉がゆっくりと開き、エヴァンが現れた。相変わらず、本当にリリエルを愛しているのか疑問に思うほど、冷たい目だ。
「どうしたの、パパ。突然……」
「伝えておかねばならないことがあった」
エヴァンはそう言って私の近くまでやってきて、私を見下ろした。身長は優に二メートルを超えているだろう。威圧感の塊のような視線が、ぐさぐさと突き刺さる。
「……天狼祭のことだ。開会の挨拶を終えたあとは、屋敷にいるように」
「えっ!?」
突然告げられたのは……祭り当日の『外出禁止令』だった。訳も分からず、頭の中がぐちゃぐちゃになって、思わずアランの方を見る。向こうも向こうで驚いて、目を丸く見開いている。
「ど、どうして……」
「まだ捕えることができていないラスールの取引相手がいると、ジェイドから報告を受けている。奴らが報復のためにお前を狙う可能性もあるだろう」
「で、でも……!」
楽しみにしていた。そう答えようとして、エヴァンのその冷酷な目に気がついた。とても、実の娘に向けるようなものではない。犯罪者に向けるようなそのまなこの前に、私の口は思うように動かなかった。
「また、同じ目に遭いたいか?」
冷たく、そう告げられる。いや……エヴァンは本当に、リリエルのことを愛している。これはきっと、リリエルのことを心配しての発言だ。そうに違いない。そうでなければ……これは、なんだ?
「……分かり、ました」
口から出た言葉は、弱々しい了承の返事だった。そんな返事に満足したのか、エヴァンは踵を返し、部屋を後にして——、
「……お待ちください、旦那様!」
それを、アランが引き留めた。
振り返ったエヴァンの目は、さらに冷酷なものだった。突然現れた平民の執事。それも、愛する娘が随分と執心している男。もしかすると、エヴァンはアランのことを目障りに思っているのかもしれない。
アランの足は震えている。それもそうだ。アランは以前にも、エヴァンのあの目が苦手だと言っていた。血縁関係のある私ですら怯えてしまうのだから、アランが怯えないわけがない。相手はあの——『化け物伯爵』なのだから。
「何だ?」
「あの、その……」
言葉に詰まりながら、拳に力を込めるアラン。そうして真っ直ぐと、エヴァンの目を見つめた。
「……天狼祭が開催している間、お嬢様に、自由を与えていただけませんか?」
「アラン……」
あんなにも怖がっていたエヴァン相手に、何を物申すのかと思えば……私のためだったのか。私が、本当に祭りを楽しみにしているのだと知って、エヴァンに反抗するために。
エヴァンはアランの言葉に心を動かされることもなく、ただただ、オオカミのような鋭い眼光を突きつけている。
「お嬢様は、本当にお祭りを楽しみに……」
「却下する」
アランが言い切るよりも前に、エヴァンがそれを遮った。追加の抗議も認めぬといった様子で、扉に向かって歩き出す。
「話は以上だ」
扉に手をかけ、そう言って、エヴァンは部屋を後にした。場に漂う静寂が、なんだかとても息苦しい。ぎりぎりと拳を握る音が聞こえて、私は、彼にバレないように涙を流した。




