60話:狭間
「……俺の名前は、名字はキャンサーになるはずだった。カンケルみたいな重い名を背負う必要などどこにもなかった――姉が死ぬまでは」
キャンサー。父がつけてくれた名字。由来は忘れてしまったけど。こんな独白も、一粒一粒が地面に重く響きわたる雨にすぐにかき消される。
頭を上げて、もうすでに天気が沈んでいる気がした。こんな天気では昼か夜かなんて分からないけど。――ああ、疲れた。今日はぐっすりと休みたい。近くの宿でも探そうか。そのまま適当な屋台で夜食を買い、適当に選んだ宿で眠った。
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「ああ。どうしようか」
朝目覚めて、今日の予定を考える。遊説までは今日を含めて後3日ぐらいあるようだ。貧民街みたいなのがあれば見に行ってもいいし、憲兵の様子を探ってみてもいい。そういえば憲兵もカエクスの思いつきなのだろうか。市民の役には立っているっぽいし、まあ治安維持という目的は達成しているようだ。
「……ここで殺してもいいのか」
逡巡が浮かび上がる。勿論ここで殺すことは可能だと思う。ただそれだと布石として打った噂の意味が薄くなる。それにあくまで可能であって確実ではない。どうせ大量の憲兵や冒険者を待機させているはずだ。というかしていなかったら危機意識の欠如だろ。それに俺がしたこともプロパガンダに利用されるだろうな。
「ま、とりあえず外に出るか」
天気は……曇りだな。いや晴れなのか?区別のつかない天気だな。曇りという事にしておこう。適当にぶらつくか。
道を歩いていると、いい匂いがしてきた。今更だが、俺に決まった食習慣というか、ルーティンというか、そういったものが無かった気がする。朝食や昼食、ましてや夕食まで。こういうものは抜かすと健康に悪い影響があると聞く。朝食がてら何か買っていくとしよう。
「すいません。ここって何か美味しいものとか売ってるんですか?」
「!ええ!ありますよ!」
「ここのおすすめを一個くれますか?」
「もちろん!少々お待ちを」
トルティーヤか。美味しそうだ。今焼いてるのが、より強くなった香ばしい匂いで分かる。この間どこで時間を潰そうかと思案していると、
「お母さん。僕もあれ食べたい」
子供がこちらの方に――というか屋台の方に近づいていた。
「だめよ。今お金がないから、あとでね」
「え~?やだやだ!」
子供は駄々をこね始めた。というか今、朝だぞ?この時間帯でお腹が減るって何か急用があったのだろうか。お母さんは、子供が駄々をこねるのと、周りからの目線で困惑している。仕方ない。
「すいません。もう二つ、同じのを買えますか?」
「……ええ。勿論!」
店員には俺の意図が伝わったらしい。笑顔で答えてくれた。俺はお母さんと子供もところへ行って、
「少々お待ちを。今作ってますから。それまでここで待ってもらえますか?」
そう言って、相手のリアクションを待った。だが、
「……?」
しまった。言葉足らずだったか。そう思ったが、どうやら子供の方には伝わったらしい。「うん!待ってる!」って言うとお母さんを連れて近くのベンチに行って座った。お母さんが子供からどういうことなのかを聞いて、俺の方を向いて申し訳なさそうにお辞儀をした。まあ、たまにはこういうのも悪くない。
暫くして、さっきの店員から呼びかけられた。すぐに向かうと、三人分のトルティーヤができていた。お金を払おうとすると、その値段は看板に書かれてるものより少なかった。
「値段。間違ってますよ?」
そう言うと少し呆れた様子を見せた店員は、
「お客さん。こういうのはですね、気づいたふりをして、その提示された値段を払っていくんですよ」
そんな作法は聞いたことがない。だが、わざとらしく怒る様子を見せる店員も、内心面白おかしくやっているのだろう。「これは失礼」そう言って三人分のトルティーヤをあの二人に持っていった。
「ありがとうお兄ちゃん!」
「すいません私の分まで」
「構いませんよ。笑顔が見れるのであれば。では、私はこれで」
お母さんの方は何か言おうとしていたが、ここで時間を潰してもあれなのでそそくさと移動することにする。さてと、どこに行こうか。
「失礼。今時間はあるか?」
暫く歩いていると、憲兵が話しかけてきた。
「ええ。少しは。どうしました?」
「セウェラーエで、憲兵が全員怪我を負わされたのは知っているか?」
「ええ。新聞で」
「何か知ってることは無いかと思ってな。適当に市民に質問しているんだ」
「なるほど。残念なことに知ってることはさっき言った、セウェラーエで惨い事件が起きたことしか知らないです」
「そうか……」
「すいません、役に立つ質問が無くて」
「いや、構わないさ。協力感謝するよ」
そういって憲兵は去っていった。……”適当に”ねぇ。少なくとも憲兵は迷いもせずこちらに来たようだが。2日後には難癖付けられて捕まりそうだな。今のうちに調べること調べとくか。
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――憲兵とはカエクスによって作られた組織である。地域によって治安の維持の仕方は変わる。ある地域では市民から募って自警団という形で雇ったり、カエクスのように憲兵に権力を持たせることによって地域の安全のみならず自身の安全を確保しようとする者もいる。また、治安維持をできない場所もあるらしく、地域の財の差によって貧富の差だけでなく、安全の差にも影響が出、さらにその地域から人が減り財が減るというスパイラルに陥ってしまった地域も少なくない。主に貧しい地域の人が団結したのが野党。裕福な地域が団結したのが今の与党である――
「なるほどな。そうなるとサジタリウス家が野党に付いたの僥倖だったな。となるとサジタリウス家も善意だけではなさそうだ」
カウスも金はあるとか言ってたしな。それにしても本というのはやはり面白い。大体のことは先人が書いてくれてる。結局調べることもカエクスについてぐらいだしな。それに宿に戻ってきてしまったし。そういえばカエクスの後継者とかいるのか?そういうのも調べないといけないな。それに、遊説の規模を見ないと、フロスで殺しておくのが、セウェラーエで殺しておくよりいいのかの判別ができないな。結局、2日後まで待つ他ない。
ふと窓を見ると、もう夜だった。朝あれだけ意気込んでいたものも集中力には勝てなかったようだ。少し外に出てみよう。
夜は少しだけ涼しかった。だが寒いわけじゃない。ちょうどいい温度だ。綺麗な夜空だった。郊外まで移動して、自然を楽しむ――ことができたらどれだけよかっただろうか。今まで通りの黒い幻覚。
「……常に思う。お前は何がしたいんだ?」
どうせ何も返答しない。もはやただの儀礼。そう思っていたのに――
「お前こそ。お前は殺した時、何も思わなかったのか?」
ついに幻覚は喋ったのだ。おそらく殺した時というのは憲兵を殺した時だろうか。
「憲兵のことか?まあ何も思ってなかった、と言ったら嘘になる。興奮、愉悦、雲外蒼天のような――」
「お前は何も変わってないのだな。お前の罪も、悔いも、願いも。全て、忘れたままなのだな」
俺の言葉を遮ってまで幻覚は言う。その姿勢に少し憤りを感じる。
「……正直に答えて、その返答がこれか」
「ああ。殺人が享楽だと思うやつは、頭がおかしいという他ない。ただの”殺人鬼”。それだけだ」
殺人鬼――その言葉がどうしても俺の頭を搔き乱す。余計に腹が立ってきた。もういい。会話など無益なことをする義理もない。ここで殺す。剣を構える。
「そうか。それがお前の選んだ答えなのだな」
幻覚も剣を構えた。互いの剣が交差する。幻覚は成長をしていた。俺の剣を防いだ後も、すぐに攻撃に転じていた。だが、隙を見せた時に、それを対処することはできなかったのか、横腹を刺された。その感触が、今までと違って妙にリアルだった。幻覚はそのまま霧散することはせず、こう言った。
「いい加減目を覚ませ。悔恨のままに、瞋恚のままに剣を振るえば、相手のみならず、自分、友、全てを盲目に切り裂いてしまうぞ」
その声は重くのしかかった。だが、何故そう感じるかも俺は分からない。幻覚は多分今までと同じように霧散したと思う。けれど――この心に残る蟠りは、一体なんなんだ?
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