初夏の風をフルートで
五月。
新入生も馴染んだ頃、辺りには緑の風が吹く。
そんな高校の校舎の一角で、呼び出された女子が声を上げた。
「ちょ、ちょっと待って!」
どういうこと、と須美が言うと、部長とあと二人の男子生徒が顔を見合わせた。
「だから、文化祭の曲。葉月にフルートソロやってもらおうって」
「我妻さんは?でなくてもわたしよりもっと上手い子いるのに。ほら、ナオミちゃんとか」
「我妻さんは受験体制に入るからやりたくないって。林田は一年だからだめ」
「槙さんは」
「あいつはサマコン」
「あたしあがり症だし、ソロなんて無理です。練習ならともかく」
たっぷり数分考えたあと、部長が顎を逸らした。
「練習ならと思ってんだ?じゃ、本番も頑張れよ。決まりな」
「え、そういう意味じゃ…ちょっと、いつもと言うこと違うんじゃ」
「いや、決まりな。うんと練習すればいいじゃん」
最後まで言う前に部長が畳みかけ、男子の一人が目配せして席を立った。
「みんなで話し合いしないの?いつも…」
「終わった。お前来なかっただろ」
「え?」
「先週の土曜」
血の気が引いた。練習には出たが、まさかその後に集まりがあったのか。
「え…」
『あれ、帰るの?』
『うん、練習終わりでしょ?』
『そうだね』
同じ学年、同じパートの子の表情に空気。返答はそれだけで、あとは何も言われなかった。
他に何かあるなんて予定は張り出されも連絡もなかったはず。
「聞いてない……」
「言ったって聞いてるが?」
頭が真っ白になった。
「あれ、今日、ブラバンは合奏でしょ?」
放課後になって帰ろうとしたら、近くの席の女子が声をかけてきた。
「すみっこ、ソロやるんだって聞いたけど」
そう言った後、相手の表情が固まったから、多分自分は怖い顔になったのだと思う。
「ううん、しない。やめたから」
それだけ言って、教室を出た。
あれから一週間がたつけれど、誰も事情を聞きに来ないし、まして引き留めにも来ない。そういうことだと自分に言い聞かせて毎日を過ごしている。
(考えちゃだめ)
目をつぶって急ぐ。早く学校を出たかった。
なのに。
「!」
ふいに背後から襟を掴まれ首が締まった。
「こら、どこ見て歩いてんだ」
「何する…」
喉を押さえて振り返ると、去年同じ組だった男子がいた。
「泉くん…」
「柱にぶつかるのを止めてやったんだぞ、ありがたく思え」
「あ」
確認する。確かに後一歩踏み出せば危ないところだった。
礼を言おうともう一度振り返ると、すでに歩き始めていて、須美は慌てて追いかけた。
「何だよ」
「ありがとうって言いに来たの。ありがとうっ」
別に、とそっけない返事が来る。
「あっ見つけた!泉、その子引き留めといて!」
校舎の中から声が聞こえ、何だと思っているうちに女子が走って現れた。
「まだいた、葉月さん。ちょっと来てくれないかな?」
「え?」
「俺もういいよな?」
「うん、ありがと泉。葉月さん、お願い、一緒に来て。」
腕を引かれる。そのまま校舎の中に連れ戻され、どこに行くのかと訊いたが曖昧にぼかされた。
「ほんとごめん、話す暇なくて」
「え、あの」
「あたし六組の村上遥子。オーボエ吹いてるの、よろしく」
「え?」
それを聞いて須美が急ブレーキをかけた。
「どういうこと?どこ行くの」
相手も止まる。そして須美を振り返った。
「今日だけでもいいんだ。フルート吹いてほしいの、管弦楽部で」
「管、弦…?」
覚えがない。そんなのあっただろうか、というのが露骨に顔に出たのか、遥子はくすりと笑った。
「弱小で人がいないから、管弦楽なんて名ばかりだけどね。見ればわかるよ、あまり気負わないでいいから来てくれる?」
「楽器、ないよ」
「部のを貸せるよ。あ、我妻さんが持ってるかも」
「我妻さん?」
三年の先輩の名前を聞いて、再び須美の足は動いた。
音楽室に着いてみれば、弱小というのに違わず規模が小さいのがよくわかった。吹奏楽部とは比べ物にならない。半分、いや三分の一かもしれない。
「はい、これ」
いつのまにかどこかへ行っていた遥子が黒いケースを持ってきた。
「我妻さんは?」
受け取る前に尋ねると、飲み物買ってくるって、とヴァイオリンを手にした男子が言った。
「だ、そうです。じき来るよ」
席はあそこね、荷物は──と細々と指示を受ける。その間に入り口から知った姿がうっそりと入ってきた。
「あ、我妻さん!こっちこっち!」
遥子の呼びかけに気づいて、我妻勇一がやってきた。
「おお、連れてきたか」
「間に合いました!ほめてほめて」
「なぁに言ってんだよ、ヨーコは」
「たまにはいいじゃないですかー、いっつもキビシイんだからこういう時くらい」
わかったよ、偉い偉い、と我妻が言うと遥子がえへへと笑う。
「じゃ、あたし自分の準備していいですか?」
「おお、早よ行け。サンキューな」
「我妻さん…」
吹奏楽で見ていたのとは随分と雰囲気が違う。そんなことを思いながらおそるおそる声をかける。
「うん。ちょっと待ってて」
ペットボトルを開けながら我妻は壁際に行って鞄を探り、遥子が渡してきたのと似たようなケースを持って戻ってきた。
「こいつ使っていいよ。部のよりはいい……ああ、頭部管拭かんといかんかな。待ってて」
彼がまた荷物のところへ行って、今度はウェットティッシュを持ってきた。
「はいこれ。悪いが自分で頼む」
はあ、と頷いて須美は楽器と共に受け取ってしまった。
「我妻さんは吹かないんですか」
「俺は今日はあっち。だから代わり頼む。初見だし完璧に吹かなくていいからさ」
我妻が指したのは指揮者の位置だった。
「え」
「ドミノみたいに事故が重なって人がいなくなって、急遽こんなことに。だから頼む」
シシリエンヌを、と曲名が続いた。
フォーレのシシリエンヌといえば、管楽器を吹く人間ならまあまあ知っている曲である。
初めてと言われたが音符を追う程度に吹いたことはあるので、その場はそこそこできた。到底満足できるものではなかったが。
その日は練習に付き合った形になって、終わってから帰った。帰りがけには礼と挨拶をあちこちからされた。
同じように楽器を扱う部なのに、空気が柔らかく温かい。
ずいぶん違うものだと思ったが、我妻にも驚いた。
(もっと堅い人だと思ってた)
練習中は弦楽器の一年生とずっと冗談を言って部員の笑いを誘っているし、休憩中は他の部員とも満遍なく言葉を交わす。ブラバンで見ていた時よりも楽しそうだった。
手の届かないところにいると思っていたのに。
翌日。
須美は、終わった後に素早く引き上げて行った我妻に返し損ねた楽器を持って、三年の教室に行った。
「お、ありがとう。帰ってから回収忘れてたの気づいたよ」
「お手入れ一応しました。ありがとうございました」
「礼を言うのはこっちなのに、気を使わせてすまんな。ま、良かったらまた遊びにおいで。みんな感謝してたよ」
「時間があったら…」
「うん、それでいい。待ってるよ」
そう言った我妻の後ろを、ブラスの三年生が通って行ったのが目に入った。
「…どうした」
「いえ」
視線が動いたのを見、我妻がその先を確認した。
「気にすんなよ。やめたんだろ」
「知ってたんですか」
「だから声かけたのはある。そんなのはいいから、吹きたくなったら来いよ。今度は自分の楽器持って、な」
自分の教室に帰る途中に村上遥子がいた。社交的な性格らしく、楽しそうに誰かと喋っている。
昨日まで顔も名前も知らなかった子だ。
屈託なく誰とでも話ができそうな様子に、彼女なら自分のようにはならなかったかもしれないと思う。
とはいえ、抵抗をやめて管弦楽部に顔を出したのは我妻の名を出されたからだ。我妻は誰が見ても吹奏楽部で一番実力があって、いるだけで周りの空気が引き締まるような人だった。
そういえば、断った理由が受験体制に入るから、なのだと聞いたがどういうことなのだろう。
「あー、それは多分練習時間?」
遥子が弁当箱の卵焼きを箸で摘み、ぱくんと食べる。白いご飯の上に鰹節と海苔、それにきんぴらと唐揚げ、卵焼きという売っていてもおかしくなさそうなお昼は何と彼女が作ったということだった。
すごいね、と言うと習慣だと返されたが。
「毎日の、じゃなくて?合奏の時間?」
「ん……それはあまり変わらないんじゃない?普段は」
「普段?」
「演奏会前?彼ら拘束時間長いから。うちは基本的にそういうのはないし、できないなら個人でやっとけ、なのよ」
弦楽器は知らんけど、と考え考え言った遥子は中学では吹奏楽部に籍を置いていたのだそうだ。
「みんなで基礎練とか筋トレもしないな。だからちっとも上手くならないって貶されもするけどね。コンクールも出ないし」
「つまらない、とかはない…?」
「コンクール?それがいい人は吹奏楽やればいいんじゃない?あ、葉月ちゃんのことじゃないからね」
彼女も知っているのだ、と思う。ついあの日を思い出して食べる手が止まった。
「は、葉月ちゃん……?気に障ったらごめん」
「あ、うん、大丈夫」
(葉月ちゃん、か)
まるで友達になったみたいだ、と思う。成り行きではあるのだが。
今朝、廊下で行き合った時に練習の感想を聞かれ(と言ってもおそらく社交辞令程度)たのが始まりで、また来てねと言われ、我妻の話になり、それならお昼を一緒に食べながら話そうと言われて、現在二人で中庭の日陰のベンチにいる。
「そう?ん、じゃ、よかった」
遥子がにっこり笑って唐揚げを口に入れた。
「我妻さんはずっと管弦楽部に行ってるの?」
「吹奏とかけ持ちじゃない?そうだと思ってたけど」
練習は自分の出る曲だけの参加、本番はちゃんと出る、必要なら指導もする、という様子だったらしい。
指導か。
須美は受けたことがない。それとも個人の話ではなく、指揮台に立って、ということなのだろうか。
「気になるならまた様子見においでよ。歓迎するよ、今度の週末の練習なら我妻さんのソロも聴けるよ」
「……うん……」
時間が合ったら、と言おうと思ったが、遥子の表情を見てやめた。
その代わり、遥子はなぜ高校ではブラスではなく管弦楽部に入ったのかを訊ねてみた。
「あ、言いたくなかったらいいんだけど」
「全然。気にしなくてオッケーよ、ええとね」
遥子が考えをまとめるような目になり、それから口を開く。
「あたし」
「村上ぃー、先生が呼んでるぞお!」
その時、遥子の声を吹き飛ばすような大声が中庭の反対側から聞こえた。二人でその方を見る。
「何あれ」
「泉くん?」
「泉だね」
「仲、いいんだね」
あーもう仕方ないな、と呟きながら、空になったわっぱの弁当箱を格子柄のハンカチで包んでいた遥子が裏返った声を出した。
「いや、それ、間違い!勘違い」
「え、だって」
「いや、誓ってそんなことないから!単に隣の席になった時に言いがかりつけられただけだから。じゃ、ごめん、お先にね!」
手を振って素早く去っていく遥子はつむじ風のようだった。
(すごい元気)
パワフルというか何というか。
面白いことに、選ぶ楽器ごとに何となく性格の傾向が出るのだが、オーボエよりもクラリネットパートによく見る子の感じがした。
気にならないといえば嘘になる。
吹けるところは欲しい。我妻のフルートが聞けるのは嬉しいし、ブラバンにいた時よりもぐっと身近に感じる。
──けれども。
自分の部屋で楽器を前にして須美はため息をついた。
自分の楽器を見ると、あの日を、そして同学年の部員とのことを思い出すのだ。
『ああ、うん』
スマホで何かをひとしきり打って、自分には生返事をし、その後またスマホに向かう。無責任なことを言われて困ったこともある。みんな同じパートなんだから仲良くしようと言っていた一方、いつのまにか他の先輩後輩と、そしてまた他に同学年とのLINEグループを作っていたこと。
須美には声もかからなかった。自分が知らずに何かしたのかと思って周囲に何気なくきいてみても捗々しくなく、それで先のできごとである。
もしかしたら自分を嫌っていたのは一人ではなかったのかもしれない。部長もなのは確かだ。
そう思うと音楽系の部の子まで怖くなってきたのだった。
今もブラバンの部員はひそひそしながら須美を避けていく。
正直に言うと、我妻は笑った。
笑い飛ばした、に近い。
音楽準備室に二人きりである。
「あー悪い。いや、決めるのは葉月だけどな、そんなの気にするなって前にも言ったろ」
「そうですけど……」
「欠席裁判やるような奴らのことは忘れな。どうせまだ他にもあるんだろ」
時計を見、時間だから、と我妻が椅子から立ち上がり、音楽室につながる扉を開けた。そして近くにいたバイオリンを持った男子に声をかけた。
「今日は何やるって?」
「ベトじゃなかったですか」
「そう。葉月、ピッコロいける?」
「やったことないです」
「じゃお前二番フルート吹け。俺はそっちに回る」
我妻くん持ち替えじゃないの、とフルートを手にした女生徒が言う。
「そう言うから一番引き受けたのに」
「ピッコロ吹けるなら変わるぞ?」
無理無理、と手をひらひらさせた彼女は須美を見てにこっとした。
「あ」
反射的に会釈を返す。
「よかったら一番吹かない?まだ半分遊びだから気楽に」
話が早すぎてきょとんとしていると、ほら、と我妻が自分の楽器を寄越した。
「え」
「今度こそ楽器持ってこいよな。さっきみたいな心情になってるならなおさらだ、このまま吹けなくなるぞ」
あら、という顔になった女生徒に「まだやることあるからこいつの面倒頼むよ」と言い置いて我妻はまた準備室にとって返した。
「相変わらず面倒見いいこと。葉月さん、こっちこっち」
手招かれて傍に行くと二番フルートの席をどうぞと勧められた。
「でも、ほんとに一番でもいいよ。みんな気にしないから」
「いえ、それは」
須美の返事を聞いて、うふふと笑ってその人は隣の中心に近い方に座った。
「あっ葉月ちゃんだ!熱烈歓迎おいでませー」
教室に入ってきた遥子がぶんぶんと手を振ってからオーボエの席に向かう。須美もちょっと手を挙げて振ると、遥子は嬉しそうに笑った。
「どうだった?」
遥子が笑顔いっぱいで問いかけてくる。
「ハーモニー付けるの上手いねえ、ゾクゾクした」
隣で吹いていた先輩がそんなことを言う。
我妻はすぐ近くを歩いているが、何も言わない。
「音楽で空気っていうか、風を感じるってあるよね」
先輩の言葉に同意した遥子が、須美に向かって言った。
「次もおいでよ。ね?ほら泉も何か言ってよ」
「何で」
「何で、じゃないっ」
遥子が頬を膨らませる。
その向こうで泉が頭をかいた。
「部員勧誘に協力しなさい、次期部長っ」
「俺、弦楽器の確保で頭いっぱいなの。今日だって走り回って……」
練習開始ぎりぎりに現れた泉がついたのは指揮者の位置だった。驚いて、須美はついぽかんと見つめてしまったのだが、泉は一瞬目を逸らしてから再び須美を見、全員に紹介して、それから練習に入ったのだ。
「大変なんだ」
呟くと、泉と遥子が二人でそうそうと頷いた。呼吸ぴったりである。
「ほら、その辺でやめ。茶をしばく組はこっち行くぞ。みんな、お疲れさん、また来週な」
我妻の声で二手に別れ、須美にも我妻がどうするかと視線で問う。遥子がおいでと手を差し招くのに頷き、須美は一歩踏み出した。