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「この絵の中に入りたいんです」
薔薇の模様が入った金縁の中に在るのは、真っ黒の絵。
塗りつぶして削り落として塗りつぶしたような、この世の色という色を混ぜ合わせて煮込んだような、真っ黒の絵。
なんにもない、を体現したかのような絵をじっと眺めて、落葉は瞬きした。
「何言ってんだおっさん」
ゴッ!!!
言った瞬間、強烈な火花が目の前に散って、殴られた、と気が付いた落葉はソファの後ろでうずくまった。痛い。強烈に痛い。
落ち葉を殴ったのは、「絵の中に入りたい」などと世迷い事を言い放った男ではない。
殴り合いには自身がある落ち葉が簡単に膝をつくような拳を、それもゼロ距離で予備動作なく背面で、眉一つ動かさず笑みを浮かべたまま、かつ座して放てるのは世界広しといえどこの相棒くらいだろう、と落葉は思った。短気で暴力的な相棒なのである。
そんな落葉の相棒、鶫は「理由を伺っても?」と涼しい声で言った。
気になるとこソコ? 俺の怪我心配してよ。酷くない?
と思ったが、賢明なる落葉は口をつぐんだ。実際、怪我はしてない。落葉は頑丈なのだ。
さて、真っ黒の絵の中に入りたい理由。
なんだろ、と落葉が顔を上げると、男は空虚な瞳でこちらを見返し、口を開いた。
「え?」
え。
と、一言。その言葉の、なんと空虚な事か。
真っ黒の絵を隣に並べ、ソファに腰かけた男は皺だらけのシャツとスラックスで、無精髭の生えた瘦せこけた顔で、何を当たり前の事を、とばかりに言った。
「彼女を愛しているからです」
「彼女?」
落葉は立ち上がって絵を見た。さらりと、頭の上で二つに括った長い髪が自分の頬を撫でる。
二メートル近い体躯を持つ男の落葉が、紫のメッシュを入れた長い金髪をそうして括っていると、大抵の人間が二度見するし、見てはいけないものを見てしまったような顔でチラチラと見てきたりするのだが、男は落葉の「イカれてる」と評判のトレードマークには目もくれず、絵を見詰めた。
真っ黒い。
矢張り、変わらず絵は真っ黒だ。ただそこに塗りつぶされた常闇が、変わらぬ顔で落ち葉を見ている。
男は、その闇を撫で、「ええ」と頷いた。
「綺麗でしょう、彼女……」
ほう、と恍惚のため息をつく男に落葉が持った感想は一つ。
「……へー」
だった。
へー。
落葉には、何の面白みも無い黒い絵だが、見る人が見ればお洒落だとか味があるとか何それの再来だとか、そういう絵なんだろうな、とは思うが興味は無いし、まあそういう奴もいるよな、と思う。
そもそも、普通の人間は相棒の元を訪れないので仕方が無い。
鶫は、落葉の知る限り、最も普通から遠い人間だ。
「……失礼でなければ、近くで拝見しても?」
落葉の期待を裏切ることなく、少しも動じずに言った鶫の言葉に、男はぴたりと絵を撫でる手を止めた。
「なぜ」
全てが抜け落ちたような、それでいて絵に近づけまいと威嚇するような、不気味な声と顔に、鶫はにこりと笑ってみせた。覗き込んだ顔は、元から細い目が更に細められて、いつも垂れている八の字眉が、上手に「人畜無害ですよー」という顔をつくっている。
顔色が悪いのが惜しいが、それがなけりゃ役者にでもなれるんじゃないのって演技力だ。
「勿論、手は触れません。絵の事を知らなければ、お手伝いできるのかもわかりませんから拝見できませんか? あなたのお力になりたいんです」
なあんて言葉付きである。
よう言うわ、と落葉は笑い転げそうになった。
触れない、って言葉に嘘はないんだろうが、落葉の知る限り最も暴力的な男が、こうもペラペラと親切ぶった言葉を並べるのは、実に愉快である。
こいつホント頭おかしーよなあ。
落葉がそう笑いだしたくなるのは、絵の中に入りたい、なんて今どき小学生でも言わないだろうって事を、平然と、或いは切実に言う男の言葉を、鶫が真に受けている事にではない。
相手を心配する素振りを見せて、その実、金の計算しかしていないだろう相棒の、表情筋と語彙力が面白いのだ。いつもの事ながら、よくも、まあ、平然と言えるものだと。落葉は笑いを嚙み殺す。
落葉の相棒は、根っからの噓つきなのだ。
人を人とも思わぬ暴君。
いや、それは落葉も似たようなもので、だから二人はそろって、こんな商売をしているわけだけど。
男と鶫の間にあるテーブルに置いた名刺の「鶫」の文字。の、上。
化画廊、と印刷された明朝体が、鶫の屋号だ。
つまり二人は、骨董、特に絵を専門に扱う店を構えているわけである。
ただ、二人に絵の知識は無い。
一切、無い。
全くもってこれっぽっちも、無い。無いったら無い。
揺すっても逆さまにしても、なんにも出てこない。
難しいうんちくなんて、落葉は聞いて三秒で寝る自信があるし、それ以上続くなら相手を殴っちゃうかもしれない。
冗談だ。
知識の方じゃない。殴るって方だ。それっくらいで落葉は人を殴らない。多分。しつこいとわからないが、黙れと言って黙ってくれる相手を追いかけるほど、落葉は一途じゃないので。
今だって、絵がどうこうよりも、昼食を何にするかの方が気になっている。
昨日はラーメンだったし、その前はうどんだった。
最近麺が続いてんな。米食いたいかも。
落葉がぼけっと思考を逸らしたところで「どうぞ」と男の声が響いた。
え、まだ考えてたの。
とうに男の事も絵の事もどうでもよくなっていた落葉は瞬きし、次いで、「ちっ」と、小さく鳴った音に目を瞬いた。
「え、おっさん舌打ちした? え、したよね?」
「有難うございます」
落葉の声は、綺麗に重なった鶫の声に無かったことにされた。
「え? うそ俺にしか聞こえてないの? モスキート音なの?」
鶫は立ち上がり、男はまるで恋人を抱き寄せるように絵に手を回した。
まるで落葉なんて、居ないみたいに。
うっそお。
「あれ? 俺の声聞こえてない? 俺モスキート音で喋ってる?」
誰一人、落葉の声を拾ってくれやしない。もしかして自分の声は、人に聞こえない音なのかもしれない、と落葉は声を上げて笑った。
ウケる。
落葉の笑い声も聞こえていなそうな鶫は、真っ黒の絵に近寄り、じっとそれを見下ろした。
落葉も鶫も、絵の知識なんかぜんっぜん無いし、興味も無い。
でも、鶫は、不可思議な絵の、不可思議な現象への経験は、豊富なのだ。
不可思議な物と化した絵を扱う画廊、それが化画廊。
時にはその絵を買うし、時にはその絵を誰かに売り渡すし、時にはその絵のお悩み相談にお付き合いする。それが落葉と相棒のお仕事。
喪服を着た不気味な店主。それが、落葉の相棒だ。
じっと絵を見詰める鶫が、何を視ているのか、何を聴いているのか、何を感じているのか。
落葉にはさっぱりわからない。し、興味も無い。
説明されたってわからんだろうし、鶫も説明する気が無いだろう事は、短くない付き合いでわかっているからだ。
なので、手持ち無沙汰な落葉は部屋を見渡す。
あちこちにある、パンパンに膨らんだゴミ袋。うっすらと埃が積もったダイニングテーブル。潰してたり潰してなかったりの、転がるビールの空き缶。
ゴミ屋敷一歩手前って感じだにゃあ。
くあ、と落葉は欠伸をした。
眠い。腹が減った。
落葉は親指で滲む涙を拭う。鶫が絵を観察している間、これといってする事は無いので、暇なのだ。
落葉の担当は肉体労働なので、例えばこの絵を店に持ち帰る事になった時だとか、鶫一人よりは落葉と二人の方が良いだろうって事態になった時にしか出番が無い。
落葉にとって、これは一日の中で最も暇な時間だ。
くあ、ともう一度落葉が欠伸をしたところで、鶫が口元を覆うようにして、唇を撫でた。
考えるときの鶫の癖だ。
これは今日はもう出番が無いな、と悟った落葉はもう一度欠伸をした。
つまんねーの。
「結構です。有難うございました」
「何かわかった事が?」
絵に背を向けた鶫に男が問うと、案の定、鶫は「いいえ、残念ながら」と笑った。
「今日はこれで失礼します。ご期待に添えることができるか、検討してまたご連絡を差し上げます」
今この部屋で出来る事は、これ以上無いんだろう。
さっさと部屋を出る鶫に続いて部屋を出ながら、落葉はなんとなく振り返った。
ゴミ袋に埋もれたうす暗い部屋から、男がぬぼ、と立ってこちらを見ている。
「……わかりました…………。連絡、待ってます」
一か所だけ、妙に片付いた場所に目を引かれて、落葉は視線を動かす。
そこには、男女の写真が、二枚並んでいた。
一枚は、結婚式だろうか。ウエディングドレスを着た女性とスーツの男性が一緒で、もう一枚は私服で並んでいる写真。
どちらにの写真も、女性の隣の男性に、この男の面影があるが、どちらも別人のように快活な笑みを浮かべている。
自信満々で、几帳面そうな笑顔。
ふうん、と写真を眺めた落葉は、ドアを開けた鶫の背を追いかけた。
外の光が眩しい。
落葉の背後で、パタン、と扉が閉まる音に紛れて、男の温度の無い声が言った。
「待ってますから」
のんびり更新の予定です。
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