マスク
放課後。二人しか居ない教室。そういえば夢ってあるの、と彼女に聞かれた僕は「サッカー選手かな」とつい無意識に答えてしまう。すぐさま弁明しようとしたがすでに遅かった。
「なにそれ? どういう意味?」彼女が眉をひそめながらそう言うと、ため息をつきながらもういいや、と呟き、教室から出ようと歩き出す。僕の「待って」という声は彼女が乱暴に閉める扉の音でかき消されてしまった。
僕は子供のころから将来の夢は何?と聞かれるのが嫌いだった。特に深い理由なんかないけれど、とにかく不快だったのだ。意味のない質問だとバカにしていた。なので僕は夢を聞かれたら「サッカー選手」と答えていた。僕のそんな答えに質問をした人間はさきほどの彼女のような顔をする。つまり不快を表す表情だ。そして「やってもいないのに?」と首を傾げ、バカにされたことに気づく。僕の囁かな反抗。嫌なやつだ。
中学生の終わりまでそんな調子だった僕は、そんな無神経な癖がついていた。つい不用意に彼女を傷付け、嫌われる。嫌な男だ。
自己嫌悪で机の上に突っ伏しながら、追いかけようかもしくは電話をしようかと悩んでいた時、扉が開く音がして僕は顔を上げて音がした方を向く。そこにはマスクをした女子が立っていた。「すげー怒ってたぞ。何したんだよサラダ」と僕を渾名で呼ぶのはミクだ。「何もしてないよ」と僕はすぐばれる嘘をつく。
「嘘つけ」
「やっぱりばれたか」
「隠すつもりもなかったくせに」
ばーかと言いながら、何故か嬉しそうに僕の席の目の前にある教壇の上に座る。
「パンツ見えるぞ」
「穿いてねーよ」
「まじかよ」
「嘘に決まってんだろ」とミクは笑いながら僕の机を蹴った。
僕がミクと初めて会ったのは小学校6年の夏だった。「あたし、ミク。覚えておいて」と駄菓子屋のベンチでアイスを食べていた僕の目の前に現れたときはかなり驚いた。あれほど驚くことはきっともうないだろうと思う。
それから僕たちは夏の間よく遊んだ。公園で駄菓子を食べたり、たまに学校の友だちと出会った時には、二人で笑った。夏が終わると頻繁に会うことはなかったが、それでも時々二人で会っていた。もちろんみんなには内緒で。そしてある日ミクは僕に「渾名を付けたい」と言ってきた。僕はもちろん反対したが、その理由を聞いたら「ばかじゃねーの」と僕は返しつつもその提案を受けた。当時はそれほどは思わなかったが、思い出せば思い出すほど恥ずかしい理由だった。
「あたしだけの呼び名が欲しいから」と言ったミクだったが、その呼び名はいつの間にか他のみんなにも浸透していたため、「あーあ」とミクは少し不貞腐れてた。なので僕は「名付け親はミクだよ」と慰めようとしたが「親なんかになりたんじゃない」とさらに機嫌を悪くした。
中学生になったら途端にミクと会うことは少なくなり、中一の夏からは一度も会うことはなかった。もう二度と会うことはないのかもな一年間だけの青春って感じだな、と僕は勝手に決めつけて思い出の中にしまうことにした。なので高校二年生になりそこでミクと再会したときは驚いた。
「で、何を言ったんだよ」とミクは再び僕の机を蹴る。
「間違ったんだ」
「何をだよ」
「夢」
「夢に間違いとかねーだろ」
「サッカー選手」
「どゆこと?」
「夢を聞かれてそう答えた」
「なにそれ?」
僕はどうしてそんな答え言ってしまったのかを説明、というよりも言い訳をした。それを聞いたミクは「バカじゃん」と一蹴した。サラダもミキもバカだと僕の机をガンガンと蹴る。くだらないことで険悪になってんじゃねーよ、と。
「そもそも付き合ってどんくらいなんだっけ、あんたたち」
「高一の冬に付き合ったから、三か月経たないくらい」
「初々しいねぇ」とミクは足をぶらぶらする。
マスクで表情は見えないけれどおそらくはニヤニヤしているのだろう。
校庭で女子の歓声が響く。たぶんサッカー部が紅白戦をしているのだ。ミクは校庭がある方へ顔を向け「そんなにいいのかねぇ」と呟く。再び歓声。「またか」とミク。「たぶん西本がまた決めたんじゃないかな」と僕は一年生エースの姿を思い浮かべる。「ああ、あれかぁ」とミクは興味なさそうだった。せめてあいつにしろよ、と人扱いされてない西本が可哀想だった。ミクは果たしてサッカーを見たことがあるのだろうか、と僕は思う。見たことがない可能性は十分にあるのだ。つい同情してしまいそうになるが、ミクはそれを嫌がるだろう。
「マスク暑くない?」今日は気温も高いので気になった。
「うーん、まぁ平気。それにルールだし」
「律儀に守ってるんだな」
「うっさいなぁ。そもそもあんたとミキとあたしのためなんだから」とミクはマスクをひっぱり、そして手を離し戻した。
榊原未来は二重人格者だ。ミクの時はマスクをつける。それがミキとの取り決めらしい。理由は簡単で僕がミキとミクを一緒にしないようにとのこと。「そんなことミクが守らなければ意味ないじゃないか」とミキに言ったことがあったが、その時は「大丈夫、信頼しているから」と一言言われただけだった。ミキはミクを信頼している。そうでなければやっていけないのかもしれない。
「なんだかんだミクは優しいな」
「はぁ? なんだよそれ」
「わざわざ会いに来てくれたしな」
「あんたのためじゃないし」
知っている。僕とミキのためだ。いつだって。
「やっぱり優しいよ」
ミクは褒められるのが嫌いだ。嫌いというか恥ずかしいらしい。なので僕はミクを褒めることが多い。普段は色々と口負かされることが多いのでその仕返しとミクが恥ずかしがる姿が見たいのと、前に出て来る時くらいは褒めることが多い方がいいのではないかと僕が勝手に決めたルールのせいだ。
チャイムが鳴る。廊下からは二人組の女子が楽しそうに話している声が聞こえてくる。そこに男子が後ろから加わる。「よお、帰ろーぜ」「いいよー。そんかし帰りにアイスおごって」「またかよ」。そんな会話を聞いていた僕らは顔を見合わせ、二人で笑う。
「ミキはまだ怒っているのかな」
「たぶんね。いくら同居人でも正確にはわからないけど」
ミキは自分たちのことを『同居人』と呼ぶのを好んでいた。
「まぁ今度会ったらちゃんと謝るよ」
「それで許してもらえるとでも?」
「謝って、パンケーキでも食べに行く」
「他には?」
「ミキの行きたがっていた遊園地にも行こう」
「それで?」
「ジェットコースターに乗りながら愛を叫ぶ」
「それは遠慮する」と笑う。
そして「しょうがない。許してあげよう」とマスクを外してニカっと笑った。