第1幕ー9 ブリオネス公爵
――マリア・カレスティア伯爵令嬢は誰とでもベッドを共にする女だ。いずれは国王陛下の側妃になり、側妃アデルミラを蹴落とし権力を得ようとしている――
そんな噂が王都の中で囁かれるようになって約ひと月程が過ぎた。いつの間にか最初に流した話が大きくなり、こんな風に言われるようになった。人から人へ口伝えしていくと勝手に一人歩きしてしまっていた。
当初イバンに言わせた内容は『マリア・カレスティア伯爵令嬢と恋人になったが2股掛けられていた上に捨てられた』だった。
イバンには賭けが始まっているかどうかの確認がてら身の上話として言うように指示を出していた。その先で見た事のある顔を4人程見かけたらしい。4人で集まって酒を飲みながらウダウダしていたそうだ。誰とは言わなかったが、わざわざ報告するくらいなのだから知っている人なのだと思う。
馬車に乗って屋敷の門を出る時、門の傍にイラーナが立っていた。いつ私が王城へ行っているのか分からないからイラーナを1日中外に立たせて見張るという方法に切り替えたらしい。
マリアの侍女として雇われる事になったイラーナだったけれども、向こうではどうやら下働き扱いらしい。
だからといってマリアを連れて行く事は無い。放って置いてもマリアは伯母に言って何としても王城へ行くだろうから。
……そろそろ彼の耳にも噂は届いているだろうし。
王城に着いて馬車から降り、案内役のメイドの後を歩いていると側妃の兄でベラーク国の宰相ブリオネス公爵が歩いてくるのが見えて端によって礼をしたままじっとした。
「これはこれはクレーエ嬢。熱心ですね」
「ごきげんようブリオネス公爵様」
「王室の借金を解消するだけで王都を追放されるというのに熱心な事です。噂ではまたカレスティア嬢が狙っていると聞きましたが、この調子ではまた横取りされて終わるのでは?気を付けないとまた奪われてしまうよ」
フンと鼻で笑いながらブリオネス公爵は私の前で立ち止まって話しかけてきた。誰も従えずに1人で歩いているブリオネス公爵の足元をじっと見つめる。汚れや傷が1つもない良い靴、その片方のつま先を忙しなく動かし今日は特に機嫌が悪そうだ。
思い通りにいかない事でも起きてイライラしているように見えるし、女性物の香水の香りが彼から匂っていた。
前ブリオネス公爵は遠縁の娘を養女として迎え入れ側妃として王室へ送り込んだ。彼は側妃の義理の兄であり、ベラーク国の宰相だ。
父と同じくらいの年の男性で、若い頃は非常に女性にモテていたそうだ。近くで見るまで分からなかったが、確かに若ければ美形の貴公子だったと思う。今でもその優し気な甘いマスクは健在で、黙ってさえいれば私でもうっかりぽーっとしてしまいそう。
中身が分かっている今はそんな考えは綺麗に無くなったが。
ブリオネス公爵は私を嫌っている。別段私が、クレーエ家が何かした訳ではない。アルベルトとの婚約に際し条件にあった王室の莫大な借金を清算してやっただけ。
彼が気に入らないとしたら、その莫大な金額を肩代わりしても尚平気な顔をしている事だろう。ブリオネス公爵家よりも資金力がある事を示しているのだから。
各国をまたいで商売をしている家をなめてもらっては困る。これによってクレーエ家は王家よりもお金があり、無視できない家として貴族達に知れ渡った。商家だと馬鹿にしてきたのに動かれると困るのだ。だからブリオネス公爵は私が気に入らない。
素通りしてくれれば良いものを必ず立ち止まり、嫌味たらしく話しかけてくる。人気の無い場所でこうして私で気を晴らそうとしているのに気づいたのは王城へよく行くようになってからだった。
「……ブリオネス様こそ気を付けた方が宜しいのでは?」
「私が何を気を付けろと?」
「カレスティア伯爵が裏切るかもしれない、という事です。出世欲の強い方ですもの……その地位を狙われていてもおかしくないのでは?」
「女の癖に可愛くないことを……だから今までの婚約者も嫌気が差したのだろうね。カレスティア伯爵が裏切ることなどありえないよ。彼は誠実だからね」
「人の心は必ずしも同じままではありませんよ。彼の娘マリアを見ていれば分かるではありませんか。上手くマリアがアルベルト殿下を篭絡できたら乗り出してくるかもしれませんよ?上に立っている方が下を気にしないなんて不用心ですわ」
「ふざけたことを……」
「カレスティア伯爵を深く信用しているのならば不要な心配でしたわね」
「……気分が悪い。失礼する」
ブリオネス公爵が顔を赤くしたまま去って行ったので、ドロテアと目を合わせ笑みを深めた。オロオロと動揺している案内役のメイドを促して私達はアルベルトの居る場所へまた歩き始めた。
私達が今歩いている廊下は王族が住まう区画へ繋がっている。ここを自由に出入りするのは家族であっても不可能だと別の案内役のメイドから説明を受けていたが、ブリオネス公爵は別らしい。
随分我が物顔で王城内を歩き回っている。王城から出られない妹の為に兄が心を砕くのは当然である。側妃に甘い王ならば許しているのだろう。
色々良くない噂も沢山ある人だ、恨みや嫉妬からきているものと思っている。何代も続けて宰相を担ってきた家である。そういった事も少なくは無い。
私はほんの少し忠告をしてあげただけ。嫌われていると分かっていても私が彼を嫌うとは限らないのだ。