7話 葬式
この話は、ちょっと辛い話ですが後に欠かせないので入れました。
義父は娘が駆け落ちして、何か犯罪者の家族のようにひっそりと暮らすようになっていた。
「義道君には済まないことをした」それが義父の口癖でもあった。
私への不義理を親としていつも負担に思っていたようだった。
私は二人には逆に感謝の言葉しかない。
妻に家を出て行かれ、一番苦しかった時に娘の面倒を見てくれた。
2人がいなかったら、私は美優紀を育てられなかったかもしれない。
少なくとも建築家として一人前になるのは大変苦労したことだろう。
忙しかった時に美優紀を幼稚園に送り迎えしてくれ、時には食事まで用意してくれた。
2人にはどんなに感謝してもしきれるものではない。
その2人の唯一の楽しみが孫の成長であった。
幼稚園の卒園式、小学校の運動会など重要なイベントには必ず顔を見せてくれた。
「美優紀、頑張れ」クラスのリレー選手になった娘のビデオ撮影に夢中だった私の替わりに二人が精一杯応援してくれたものだ。
その帰りは、一緒に父母の家に行き、娘の活躍に話が盛り上がるのだった。
「今日の美優紀は2人も抜いたじゃないか」
「ほんと、ほんと。美優紀ちゃんは足が速いわね」
2人にとって、美優紀の成長は心の支えとなっており、私たち親子は出来る限り顔をだすようにしていた。
両親を早くなくした私は、この二人を本当の父母のように考えており、義理の父母も同じように接してくれた。
美優紀にも小学校に上がると二人の家に寄るようにもさせていた。
「おじいちゃんと、おばあちゃんが喜んでくれた」帰り道、手をつなぎながら歩く娘との会話も楽しい思い出となっている。
それだけに二人から褒められたのが嬉しかったのだ。
この頃が、家族の繋がりを一番持てた時期でもあるように思う。
ただ、娘が6年にあがる年のことだった。義父はめっきり体が弱くなり病院に入った。ある晩、私が一人で見舞いに行った時のことだ。
「真知子の住む所は分かっている。だが私に何か起こった時に、娘には知らせないで欲しい。今もって、真知子は私らにも何の音沙汰なしだ。安否の確認さえして来ようとはしない。あんな娘を葬式には呼んでくれるな」
それは死期を感じ取った父の言葉だった。
「私らのことをいつも思っているのなら、万一の時には、こっちから知らせなくても分かるだろう。親の死に目にも来ないような娘には、葬式に呼ばなくてもいいよ」
私への気遣いもあった言葉も含まれているように思うが、それは実の親にとって、娘への深い悲しみの言葉でもあった。
私は返事したらよいのか分からない、ただ苦しそうな横顔を見ているだけだった。こんな、誠実で昔気質の人から、何であんな非常識で自分勝手な娘が生まれたのかとつくづく思う。
義父がなくなり、義母は気丈にも喪主を務めることになったが、体の弱い人にはそれが限度だ。葬式の手はずを私がほとんど一人で受け持つしかなかった。
父母には親類がいるにはいたが、遠いし、普段から付き合いはなく、来てもらえるだけ有難いと思わなければない。近所の人たちを含めても、参列者はおおくなかった。それでも子供としてやれたことは良かったと思う。
「真知子の住所を教えてもらえないですか?」義父の言葉もあったが、たった一人の娘で肉親でもあった。呼ばないわけにはいかないだろうと相談した。「あんな娘には出てもらいたくありません」義母はきっぱり言った。
「おじいさんの病室に一度も来ないような者は娘ではありません」
おそらく、生前に義父とも話し合ってのことだろう。義母の話しぶりに覆らないと思った。
私は新聞各紙に義父の死亡告知を行い、葬式の日取りを明示していた。県下にいるなら分かるはずだが、それでも妻は姿を見せなかった。
義父に死なれたことで義母も気落ちしたのか、その後を追うように亡くなってしまった。
「美優紀ちゃんの花嫁姿を見たかったわ」それが最後の頃に会った時の言葉となった。義母も死期が近いと悟り、そんな弱音を言い出していた。
それにたいし私には何の慰めの言葉も言えない。
2人に代わって、立派で、盛大な結婚式をあげさせます。それを誓うしかないと思う。
義理の母のときは、私が葬式の喪主を務めた。墓も義父の宗派の寺に頼んで墓地を分けてもらい、永年の供養を頼んでいた。
その後、あの女(妻)も墓参りに来てくれたのかどうかも、分からない。そんなことは今となればどうでもいいことと思うようになっていた。実の両親が健在なのかもあの女にはどうでもよいのだろう。私は娘にはあの女のことはほとんど明かしてない。