3話 和樹
「ミーユー」玄関から大きな声が聞こえてきた。和樹である。美優紀のボーイフレンドだ。
「そんな大きな声で言わなくても、分かるぞ。まだ早いから家に上がれ」
私はこの元気な男の子を朝早くに受け入れ、美優紀と一緒に幼稚園に送るようになっていた。そして夕方に2人を迎えに行き、我が家で遊ばせておく。
私が自営するようになり、時間の自由が出来ると、義理の両親の手を借りずに朝晩の幼稚園の送り迎えは出来るようになった。
そして、いつも幼稚園に朝早くからいて、夜も遅くまでいる和樹を気づいた。
「あの子はいつも遅くまでいるね」気になって娘に訊いた。
「和樹君だよ。いつもおばさんが迎えに来る。家はすぐそこだよ」
どうやら、母親が勤め人らしく、出勤前に彼を幼稚園に預け、仕事が終わると迎えに行っているらしい。
そしてある夕方遅く、近所のコンビニで買い物をしていると和樹とその母親に出合った。
「カズキ!」美優紀が早速駆け寄りに行く。
幼い恋人たちの傍で私は母親に挨拶を交わした。その顔を見て思わず胸がときめいてしまった。彼女があまりの美人で、思わず頬が赤らんでしまった。
「今お帰りですか?」なんとか詰まりながらも言葉を交わした。
「ええ、いつも和樹がお世話になっています」
「いやいや、こちらこそ」そんな会話から始まって、帰り道が同じだったので連れ立って帰ることになった。
道すがら、子育ての難しさなど話題は多く話のタネは尽きない。
それから、私は彼女の帰宅時間に合せて、買い物に出るようにした。勿論美優紀も一緒だ。
娘は妻が出て行ってから、私が家にいなくなるのを極度に怖がるのだ。
絶対に私の傍を離れようとしない。それを不憫と思い、どんな時でも娘と手をつなぐのが習慣にもなっている。私もこの時は都合が良かった。娘を出しに美人とお近づきになれる下心だ。
そして、私の狙い通り、和樹とその母親と出会うことになる。
彼女の名前は佐々木咲。
「サばかりでちょっと嫌なんですよ」自分の名前を言う時恥ずかしそうだった。その顔がまたすごく気に入った。美人を鼻に架けるでもなく、少し控えめな話しぶりに、ますます惹かれてしまった。
私は夕方には時間を見計らい買い物に出かけ、そして帰りには子供のことで相談し合う仲になった。
妻に裏切られたことで、悔しい思いをしていた時、唯一見つけた憩いのひと時でもあった。そして彼女もまた私と会うことを楽しみにしてくれたと思う。
彼女は結婚して、和樹が生まれるとすぐご主人が病気で亡くなられ、それから女手一人で息子を育てている。ある程度ご主人の遺産があったとしても、勤めに出なければ生活できない状況であった。
家の事情が私と同じだった。そんなことで我々は互いに悩みを打ち明けられる仲になっていた。
会社勤めの彼女が朝早く息子を幼稚園に送り、夕方遅くに迎えに行くのは大変なことだ。私も少し前に経験していたからよく分かっている。
そして、娘の幼稚園への送り迎えのついでに和樹君も一緒にしようと申し出た。
「それは、あんまりもご迷惑です」遠慮する彼女だった。
「いや、私にとっては同じですよ。その方が子供たちも嬉しいでしょう」
「うん。ママ、僕はトーリーと一緒がいい」聞き耳を立てていた和樹が真っ先に私の提案に乗ってきた。二人が一緒に通園するのが嬉しいのは見るからに分かる。結局息子に押し出されるようにして咲さんも私の申し出を受け入れた。
彼は幼稚園一の元気者だ。この年代の男の子がそうであるようにわざと乱暴な口を効き、女の子を困らせ泣かせる行動をとる。その先頭に立ったのが、和樹である。乱暴な真似に先生からも注意されるようであったが、その場ではおとなしくなっても、すぐに忘れてしまい一向に薬が効かないようだった。
その和樹にガツンと言ったのが我が娘である。
「カズキ、おとなしくしなさい」この一言が妙に彼に効いた。
女の子をただおとなしいだけの存在と思っていた彼には、娘からの一言にびっくりしたようだった。
その経緯もあってか、元気な彼も娘には一目置くようになり、娘の前では乱暴しなくなった。
2人一緒に遊ぶことも多くなり、私が幼稚園に送り迎えできるようになった頃は、すっかり仲良しになっていた。
そして、冒頭の大声の挨拶が日常のことになった。
彼は美優紀をミーユーと呼び、私をトーリーと呼んだ。
「鳥井さんでしょう。小父さんと言いなさい」いくら咲さんが言っても、直らない。
私も小父さんと呼ばれるならトーリーの方が気に入って、そのままにした。
朝は母親と一緒に家に来て、夕方は迎えに来てもらうのが日課となる。幼稚園側も今まで園の規則よりちょっと早くても、特例として早朝の受け入れを咲さん親子へは待遇していたようで、随分ありがたがられた。
咲さんが遅くなる時は、和樹も家で一緒に晩御飯を食べることもあった。
「いつもすみません」彼女が深々と礼を言いながら、和樹を連れ帰る姿は何故か心にギュッとするものがある。
そんな付き合いをしていき、和樹は我が家に暮らすのが普通のこととなった。
そして、土曜日は咲さんから返礼として、彼女の手料理をふるまってもらえるようになった。
「咲おばさんのカレーはおいしいね」美優紀も嬉しそうに話す。どうも私の作るカレーは辛口で娘の口にはあまり合わなかったようだった。そういう点、咲さんは子供たちの好みを心得ていた。
男一人で幼い娘を育てられたのは、義理の父母や元上司、取引先の支援も大きかった。そのなかでも咲さんとのふれあいが精神的に随分楽にしてもらえた。
妻に出て行かれてから半年間、私は娘を育てようと懸命であった。私一人で何とか乗り切って見せるという気概もあった。だが、あまりに心の余裕がなかったのも事実である。
咲さんと知り合い、苦労しているのは私一人ではない。お互いに出来ることを協力し合えば楽になる。
そんな気持ちにさせてくれた。
勿論彼女への恋心は否定しない。だが、それよりも一人で子供を育てる者同士の共通した思いが強かった。私には世知辛い世間に怏々しく立ち向かう戦友として彼女を見ていたように思う。